室町時代の初め、尾張の守護職・斯波義重が、
守護所の下津城(現稲沢市)の別邸として、清洲城を築いたのが始め。
戦国時代に入り、守護代の織田氏が尾張国の実権を握り、上四郡を岩倉の織田氏、
下四郡を清州の織田氏が掌握。
弘治元年(1555)、那古野城主・織田信長が、
清州織田家の当主・信友を攻め滅ぼして、清州城に入り、尾張の拠点とする。
織田信長が小牧山城へ移転した後も、清州城主は、織田信忠・織田信雄・豊臣秀次。福島正則と続き、江戸幕府が誕生しても、徳川家康の子・松平忠吉と徳川義直が城主になった。
慶長七年(1602)に「美濃路」が誕生した際、清州城下に清須宿が誕生した。
慶長十五年(1610)、徳川家康が清州城の廃城と、住民の名古屋への移転命令を出す。
この命令により、城は壊され、三年後に廃城になった。
六万人もの住民は名古屋に移転し、清州の地は抜け空になった。
当時の臼引歌は、そのありさまを歌っている。
[ 思いがけない名古屋ができて、 花の清州は野になろう。 」
城の石や木材等は、名古屋城に運ばれ、土地や建物は荒れ果てたまま放置された。
尾張藩は、清州城天主台址二百三十三坪の土地だけを保存することにし、
天保四年(1832)、清州代官・朝田藤三郎は、城址の周囲に石垣を設けた。
その他の旧市街地は、清州新田として開発され、田地に変わった。
しかし、慶長十五年(1610)より行われた清洲越しで、
町ごと名古屋城下に移転したことで、清須宿も荒廃。
元和二年(1616)に、桑名町に復活したが、寛文八年(1668)に火災で焼失してしまったので、
神明町に移転した。
明治十九年には、東海道本線が敷地内に敷設されたが、
大正七年に清州町が周囲の土地(5634坪)を買収し、清州公園を設けた。
以上が、清須(清州)の歴史である。
(注) 清洲城は清須城とも書かれるが、清須越し以前は清須町、
江戸時代に入り、美濃路の宿場になった以降は清洲町になったようである。
城跡は、合併して清洲町から清須市になった、清須市朝日屋敷町一番地一にある。
名鉄新清須駅で降り、北に向かい、五条川に沿って進み、五条橋西交叉点に出た。
左折して進むと、三叉路で、左側に清涼寺がある。
美濃路は、ここで右折するが、江戸時代には、この前に札の辻があった、という。
当時の清涼寺付近は、鉤型になっていて、曲がり角に高札が建ち、
津島への分岐を示す指差し道標もあったといわれるが、残っていなかった。
「 清須宿は、本陣が一軒、脇本陣が三軒、旅籠が二十軒程、
宿内人口は二千五百人の規模だった。
清洲宿は、慶長七年(1602)に「美濃路」が誕生した時は、西市場の伝馬町辺りにあった。
しかし、慶長十五年(1610)より行われた清洲越しで、
町ごと名古屋城下に移転したことで荒廃。
元和二年(1616)に、桑名町に復活したが、寛文八年(1668)に火災で焼失してしまったので、
神明町に移転した。 」
ここを右折し、美濃路を歩くと、西市場清州街道が左右にある交叉点の手前右側に
キヨス林医院と書かれたレトロな建物がある。
それに隣接した日本家屋の前に、大きな門が建っている。
ここが、神明町に移転した後の清洲宿の本陣跡である。
門の前には、明治十一年(1878)に、
明治天皇が訪れて小休されたことを記念した石碑が建っている。
「
清須宿本陣は、美濃路のなかでも最も豪壮な建物であったといわれるが、
明治末期の濃尾地震で崩壊、焼失した。
わずかに残ったのが、正面の正門で、それが縮小され復元されたのが現在の門である。 」
美濃路(県道127号)は交叉点を直進し、清州三丁目交差点を越えると、
JR東海道線のガードが現れる。
ガードに沿って右に進むと、清州公園と駐車場がある。
園内の一段高いところに、織田信長の銅像が建っている。
この銅像は二十六歳の永禄六年(1560)の時起きた桶狭間の戦いに出陣した姿を模した銅像で、
桶狭間の方向を見据えている。
(注)現在は、銅像の隣に、千姫像が移設されている(平成24年に移設とのこと)
五條川に架かる橋を渡ると天守閣がある。
「 本能寺の変で斃れた信長の跡目を決める清須会議の後、
信長の次男・信雄が清須城の城主となり、大改修を行った。
清須城は、天守を備え、その規模は東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域で、
その中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市に変貌した。
しかし、徳川家康の命令で城は壊され、住民は名古屋へ移転した。
城の石や材木は名古屋城の建設に使われたので、当時のものは残っていない。 」
現在の天守閣は、清州町の町制100周年記念事業として再建したもので、
正式には「ふれあい郷土館」である。
史実に基づくものではないので、模擬天守である。
三百円を支払って、城の中に入った。
天守閣の前に手入れされた日本庭園がある。
上から見た石庭はきれいだった。
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橋を渡り引き返し、左側に 「清州古城址」 の石柱が建っているので、
入っていくと、 清州古城跡公園がある。
清州古城跡公園の土地は、慶長十五年(1610)の清洲廃城命令後、
尾張藩により清州城跡地として保存され、現在に続くものである。
清州公園の境内には、弘化四〜五年頃建立の 「右大臣織田信長公古城址」 と
文久二年建立の「清州城址碑」のニ基の顕彰碑や信長を祀る小社がある。
そして、昭和十一年に造られた信長の銅像があるだけである。
(注)小生が訪れた時は信長像があったが、清州公園に移転しているか、確認していない。
清州城の探訪で時間をとったが、JRのガードまで戻り、美濃路(県道127号)を歩く。
JRのガードをくぐると、左折し、名二環の高架をくぐると、道の両脇には古い家が何軒か残っていた。
突き当たったところは、右手は県道190号線のある変則三差路だが、ここを左折する。
左角にお堂があったが、石碑を見る限り、御嶽教に関連するものだろう。
すぐに三叉路がある。
その先の三差路は左に行くと、JR清州駅があり、あっという間に、
清須の見学は終わった。
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訪問日 平成二十年(2008)十一 月十一日