名古屋城は、大阪城、熊本城とともに、日本三名城に数えられ、
大天守に上げられた金の鯱は、名古屋城の象徴となり、
伊勢音頭では 「 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ 」 と詠われた。
名古屋城は、徳川家康が大坂城の豊臣秀頼に備えるため、西国大名を動員して築いた天下普請の城である。
尾張徳川家の居城として、明治維新を迎えた後も存続したが、昭和二十年の空襲により、
焼失した。
平成に。本丸御殿が再建された。
日本100名城の第44番に選定されている。
地下鉄名城線市役所駅で下車し、7番出口に出ると、金シャチ横丁(義春ゾーン)がある。
左側に東門跡に入る土橋があり、その両脇の堀は、今は水がなく、草地になっている。
名古屋城の東門跡には両側に立派な石垣が残っている。
東門を入ると二の丸である。
左奥には名古屋市体育館が建っていて、
大相撲名古屋場所はここで開催される。
右手は二の丸東庭園で、ここから先は入城券が必要になる。
説明板「二の丸東庭園」
「 二の丸庭園は文政年間(1818〜1830)に十代藩主斉朝(なりとも)によって、
それまでの姿から大きく改変・整備され、
二の丸御殿に付属する築山や池、茶屋が点在する回遊式庭園となった。
その範囲は「御城御庭絵図」によれば、
二の丸の北部から東部中央にかけての広大なものであった。
ニ之丸は明治以降、昭和二十年(1945)まで陸軍の管理下に置かれ、
ニ之丸御殿は破却されるとともに、ニ之丸庭園はの東部は、
練兵場や兵舎の建設のために築山の削平や池の埋め立てが行われ、その姿を失った。
昭和五十年(1976)の発掘調査により、
北園池・南池・霜傑(そうけつ・茶屋)などの遺構が確認されるとともに、
それらの遺構を中心として整備を行い、
昭和五十三年(1978)から「二の丸東庭園」として開園した。 」
南池は前述の「御城御庭絵図」には、庭園の東南部に大きく描かれており、 池には舟が浮かび、北岸に大きな舟形の一枚岩が張出し、 中央に石を組んだ中島が描かれている。
「
昭和五十一年(1976)に行われた発掘調査により、池の遺構の一部が確認された。
池の石組の石の多くが抜きとられていたが、形状はよく残っており、
大きく深い池であったことがうかがえたという。 」
その先にある築山は三つあり、
右から順に、 栄螺山(さざえやま)、二子山(ふたごやま)、権現山である。
江戸時代、 二子山の南を通る園路は今よりも約一メートル低く、
より起伏に富んだ景観を呈していたという。
江戸時代には、二の丸の北側 、内堀に面したところに、 南蛮練塀があった。
説明板「南蛮たたき鉄砲狭間」
「 二之丸御殿北御庭の北端の石垣の上に東西に長く伸びた練塀の遺構である。
この練塀は「南蛮たたき」で固められた非常に堅固なものであり、
円形の鉄砲狭間が見られる。
名古屋城の遺構としては、非常に珍しいもので貴重な文化財である。 」
その左手にある空堀と石垣の手前に、 「尾藩勤王 埋御門之跡」 と刻まれた石碑が建っている。
説明板「埋門跡」
「 埋門とは城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門をいう。
埋門の跡はニ之丸庭園の西北の位置にあり、城が危急の場合、
城主はここから脱出することが決められていた。
この門をくぐれば、垂直の石段があり、
これを降り壕を渡って対岸の御深井丸の庭から土居下を通り、
大曾根、勝川、定光寺を経て、木曽路に落ちて行くことが極秘の脱出路とされていた。 」
埋門跡の石柱の先を右折し、二の丸広場の横を通ると、正面に本丸の空堀があり、 右折すると左手に高麗門形式の東ニ之門がある。
説明板「重要文化財 旧ニ之丸 東ニ之門」
「 本来は東鉄門というニ之丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。
昭和三十八年(1963)、ニ之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、
昭和四十七年に現在地(本丸東ニ之門跡)に移築された。
平成二十二年から二十四年にかけ解体修理された。 」
徳川家康は、加藤清正ら二十名の西国大名に普請を命じ、
天下普請で名古屋城の築城を開始し、翌十五年(1610)、石垣普請が着工された。
石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っている。
ニ之門をくぐると、枡形になっていて、正面の石垣の中に大きな石があり、 その前に、 「清正石」 の説明板がある。
説明板「清正石」
「 名古屋城で最大の石垣石材。 ここ本丸搦手枡形の石垣は、黒田長政の担当だったが、
巨石であるがゆえ、普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、
清正石と呼ばれてきた。 」
その先の左側に、「東一之門跡」 の説明板がある。
説明板「東一之門跡」
「 本丸搦手の内門で、外門である本丸東ニ之門とともに、枡形を形成していた。
入母屋造・本瓦葺の堅固なニ階建てであったが、
昭和二十年(1945)の空襲により焼失した。 」
焼失前の東一之門の写真と、門の説明があった。
「本丸の搦手(裏門)にあたる東門の内側(南側)には、
東一之門(楼門)が建てられていました。
東一之門は、慶長十七年(1612)頃の建築で、
西側と北側の石垣の上には、多聞櫓が隙間なく建てられていた。
門と櫓で取囲んで、出入口を守る、枡形虎口を形成していました。
多聞櫓は、明治二十四年(1891)の濃尾地震で大破し、取り壊された。
東一之門とニ之門は、昭和二十年の空襲で、焼失しました。
写真は、昭和六年頃に、中日新聞が撮影したものである。 」
両側の立派な石垣を抜けると、本丸である。
「 名古屋城は、慶長十七年(1612)までに、大小の天守や櫓が完成し、 慶長二十年(1615)には、本丸御殿、元和三年(1617)には、二の丸御殿が完成し、 二の丸御庭や御深井御庭なども、整備された。 」
正面の右手奥に、再建された天守がある。
正面の左にあるのは、再建されたばかりの本丸御殿である。
「 本丸御殿は、初代尾張藩主の住宅、政庁として使用するため、
慶長二十年(1615)、徳川家康により、建てられました。
総面積は約3100u、部屋数は30を超える平屋建ての建物である。
昭和五年に国宝に指定され、名建築として知られていたが、
昭和二十年(1945)の空襲により焼失した。
平成二十一年(2009)から復元工事を開始し、平成二十五年(2013)に玄関と表書院、
平成二十八年(2016)六月には対面所と下御膳所を公開。
平成三十年(2018)六月八日に、全体公開となりました。 」
車寄せは、将軍など正規の来客だけが上がる、本丸御殿の正式な入口である。
唐破風をいただく堂々とした外観で、本丸御殿の中でも最も太い柱が用いられている。
表書院は、江戸時代には広間と呼ばれ、
藩主と来客や家臣との公式な謁見に用いられました。
一番奥に位置する上段の間は、華麗な花鳥画や床・清楼棚・付書院・帳台構がある他、
天井は折上げ小組格天井として威厳を示している。
本丸の北側に不明門がある。
説明板「不明門(焼失再建)」
「 土塀の下に設けられた門。
本丸北側と御深井丸をつなぐ門であるが、
厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていた。
左右には槍の穂先を並べた剣塀が続いている。
昭和二十年(1945)に焼失し、昭和五十三年に復元された。 」
その先、本丸搦手馬出し周辺は石垣修復工事で通行止めになっていた。
その先に、 「天守礎石」 の説明板があり、その近くに礎石群があった。
説明板「天守礎石」
「 昭和二十年(1945に焼失した旧国宝天守の礎石。
地階穴蔵の地盤の上に置かれており、巨大な天守を支えていた。
長く焼け跡に残っていたが、天守閣再建にあたり、現在地に移し、
かっての敷設状況を再現した。 」
天守閣の前に、 「天守の石垣」 という説明板がある。
説明板「天守の石垣」
「 天守の石垣は上部が外側にそりだす、いわゆる、扇勾配であり、
石の重みや土の圧力がたくみに分散されるため、はらみにくく、しかも美しい。 」
その先に見えるのは、御深井丸展示館である。
江戸時代には、 御深井焼き という陶器が焼かれたという。
奥に入って行くと、戌亥櫓とも、清須櫓とも、呼ばれる、
白い三階建ての櫓 「西北隅櫓」 があった。
外部北面、西面に千鳥破風が造られ、石落しを備えている。
春、秋には内部の特別公開を行っている。
説明板「重要文化財 西北隅櫓」
「 古名は戌亥櫓。 清州城天守を移築したと伝えられ、清州櫓とも称された。
相和三十九年の解体修理により、
古い建物の材木を一部用いて元和五年(1619)頃に造営されたことが明らかになり、
清州城天守の古材を転用した可能性が高まった。
屋根三層・内部三階で全国でも最大規模の隅櫓である。 」
その南東には乃木倉庫があった。
天守閣の鯱(シャチ)の周囲には、烏が飛んでいた。
「 鯱(シャチ)の雌(南側)は、 高さは約2.58m、重さ1215kgである。
金の板の厚みは、0.15mmで、うろこの枚数126枚、金の重量は43.39kgである。
雄(北側)は、高さ約2.62m、重さ1272kgである。
金の板の厚みは0.15mmで、うろこの枚数112枚、金の重量44.69kgである。
江戸時代に大凧を上げて、鯱のうろこを盗んだ盗賊がいた、という話が残る。 」
昭和二十年(1945)の名古屋空襲により、
名古屋城の天守や本丸御殿など国宝建造物二十四棟が焼失。
焼失を免れた三つの隅櫓と三つの門、
疎開していて無事だった本丸の障壁画が、国の重要文化財に指定されている。
本丸東南にある、東南隅櫓は、焼失を免れた隅櫓の一つで、 表ニ之門とともに、本丸表入口の虎口を形成している。
説明板「重要文化財 東南隅櫓」
「 古名は辰巳櫓。 かっては西側と北側に多聞櫓が続いていた。
昭和二十七年(1952)の解体修理により、木曽の木材が用いられており、
宝永四年(1707)に修理され、
明治になり江戸城の鯱が取り付けられたことなどが明らかになった。 」
焼失を免れた三つの門の一つに、 重要文化財に指定されている、本丸表二之門がある。
説明板「重要文化財 表二之門」
「 古名は南二之門。
本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに枡形を形成していた。
本瓦葺きの高麗門で、軒回りは漆喰塗込めとし、柱や扉に金具を打ちつけている。 」
表ニ之門を出ると、西之丸 である。
左折して進むと、右手の本丸空堀の先に、本丸の西南隅櫓がある。
これも焼失を免れた隅櫓の一つである。
説明板「重要文化財 西南隅櫓」
「 慶長十七年(1612)ころに建てられ、未申(ひつじさる)櫓と呼ばれた。
外観二重、内部三階建てという珍しい形態である。
ニ階の西、南面に張出しがあり、この下に石落しがある。
床に開閉式の穴があり、石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった。
櫓は明治後期から大正期ごろに自然災害で倒壊したが、
大正十二年(1923)、宮内省により、古材を用いて再建された。
鬼瓦に菊紋があるのはそのためである。 」
西南隅櫓の西側の空掘の先には天守が見えた。
更に進むと名古屋城の正門がある。
「
正門は両側の石垣の上に、寄棟造りの建物が乗せられた楼門である。
この建物は、昭和三十四年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観で、再建されたものである。 」
正門を出ると、左に曲がる外枡形になっていた。
その先にバス乗り場があったが、本数が少ないので、地下鉄まで歩くことにした。
その先一帯は、二の丸の跡である。
大きな駐車場があり、加藤清正の銅像がある。
能楽堂の脇を通り、外堀通りに出て、
左折すると、大津通りに出る手前に、土塁が南北に残っている。
この後、地下鉄名城線の市役所駅まで歩き、名古屋城の見学は終了した。
名古屋城は名古屋市営地下鉄名城線「市役所駅」から徒歩5分
JR「名古屋駅」から市バス「光ヶ丘・猪高車庫行き」で約15分「市役所」下車、徒歩約5分
訪問日 令和二年(2020)十一月二十八日