中山道の近江国と美濃国の国境の中央に「江濃国境」の木柱があり、
美濃側に両国屋、近江側にはかめやという旅籠建っていて、二軒が接近していることから、
旅籠の壁から隣の旅籠の客の話す言葉が聞くことができたといわれる。
このことから、この地を寝物語の里と呼ぶようになった、という。
寝物語は、中山道の旧跡として名高く、古歌等にその名がでてきます。
今須交叉点の左側に、「寝物語の里0.3km→」 「中山道→」 の道標がある。
国道を横切り、JRの踏み切りを渡ると、軽い上り坂になる。
少し歩くと、右側に芭蕉の句碑が建っている。
この句碑は平成になって建てられたもので、芭蕉が野ざらし紀行の帰りに
当地で詠んだ句が刻まれている。
「 正月も 美濃と近江や 閏月(うるうづき) 」
貞享元年(1684)十二月、野ざらし紀行の芭蕉が、郷里越年のため熱田よりの帰路、
二十三日頃、この地寝物語の里・今須を過ぐる時に、吟じたものである。
そこから百メートルほど行くと、一尺五寸(約50cm)の細い溝の中央に、
「近江美濃両国境寝物語」と書かれた石標が建っていて、岐阜県側に
「←美濃国」その下に小さな「岐阜県」、 、滋賀県側に 「近江国→」その下に小さな
「滋賀県」の矢印表示が付いている。
古来、この細い溝が、美濃国と近江国の国境で、現在は岐阜県と滋賀県の県境になっている。
また、石標の手前の岐阜側には 「旧蹟寝物語美濃国不破郡今須村」、
滋賀県側には 「 近江美濃両国寝物語 近江国長久寺村」 と刻まれている。
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安藤広重は中山道の「今須宿」として、この國境の景を描いていて、 近江側の茶屋・近江屋と、美濃側の茶屋・両国屋の間に、 「江濃両国境」 と記された傍示杭を描いている。
中央の石柱越えると、岐阜県から滋賀県になる。
滋賀県に入ると、右側の民家脇に、「寝物語の里」の碑と、「寝物語の由来」が描かれた説明の石碑が建っている。
説明板「寝物語の由来」
「 近江と美濃の国境は、この碑の東十メートル余りにある細い溝でした。
この溝を挟んで両国の番人や旅籠があり、壁越しに 「寝ながら他国の人と話し合えた」
ので、寝物語の名が生まれたと言われています。
また、平治の乱(1159)後、源義朝を追ってきた常盤御前が、
「 夜更けに隣の宿の話し声から、家来の江田行義と気付き、
奇遇を喜んだ所 」 とも、「 源義経を追ってきた静御前が江田源造と巡り合った 」
所とも伝えられています。
寝物語は中山道の古蹟として名高く、古歌等にもその名が出ていますし、
広重の浮世絵にもここが描かれています。
「 ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに 太田道灌 」
平成四年一月 滋賀県山東町(米原市) 」
江戸時代、美濃側は両国屋、近江側はかめやという旅籠が並んで建っていて、 旅籠が接近して建てられていたことから、 宿で寝ながらでも、隣の宿の話が聞けること、しかも国境をまたぐことから、 名所になり、広重もここを描いたのだろう 。
更に、三十メートル進むと、左側の長久寺集落の前に、 「ここは中山道寝物語の里」 の標示と、「ここは長久寺です」 の説明板が建っている。
説明板 「ここは長久寺です。」
「 江濃のくにもしたしき柏はらなる岩佐女史に物し侍りぬ
啼よむし 寝もの語りの 契りとも 化月坊 (芭蕉十哲各務支考美濃派十五世)
長久寺村
今昔此の辺りに両国山長久寺という寺ありし故今村の名となれり。
近江美濃の境なり
家数二十五軒あり、五軒は美濃の国地、二十軒は近江の国地なり
壁一重を隔て 近江美濃両国の者寝ながら物語をすという事
畢竟(ひっきょう) 相近きの謂なり、 両国の境には僅かに小溝一つを経(へだ)つ
五軒の家は美濃なまりの詞(ことば)を用い 専ら金を遣うて 銀は通用せず
二十軒は近江詞にて 銀を通用す
享保十九年(1734) 近江国輿地志略 」
ご参考
「 この國境を挟んで、二十五軒の集落があり、美濃側の五軒は美濃訛(なまり)
を話し、使用貨幣は金でした。
それに対して、近江側の二十軒は近江訛で話し、貨幣は銀(関西は銀本位)であったといいます。
寝物語の里碑の奥に、廃寺となった 「永正山妙光寺」の石碑と、 「寺跡」の丸石碑と、鬼瓦があり、広大な境内跡地を残している。
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今須宿 岐阜県関ヶ原町大字今須 JR東海道本線関ヶ原駅からタクシーで10分。
(所要時間)
関ヶ原宿 → (1時間) → 常磐御前の墓 →(40分) →今須宿