名所訪問

「 中山道 今須宿 」  


かうんたぁ。


今須宿は、中山道の江戸から59番目の宿場であった。
東から門前・仲町・西町の三町で構成され、宿長は十町五十五間(約1.2km)。
天保十四年(1843)の宿村内大概帳によると、 家数464軒、宿内人口1784人、 本陣1、脇本陣2、旅籠は13軒であった。  


国道21号を進むと左側に、江戸より百十四里目の今須の一里塚がある。 
昭和三十年に国道工事で取り壊されたが、 平成二年に本来の位置より東側に復元された。
ケヤキが植えられている。  
国道の左側を進み、左に入る道が中山道である。
横断歩道を横断すると、 「これより中山道今須宿」 の標柱が建っていて、 今須宿に到着する。 

「  今須宿は、中山道美濃路西端の宿場で、 天保十四年(1843)の宿村内大概帳によると、家数464軒、宿内人口1784人、 本陣1、脇本陣2、旅籠は13軒とあり、このあたりの宿場では人口が一番多い。 
今須宿は妙応寺の門前町として発展し、旅籠・茶屋・造り酒屋や商店などが軒を連ね、 大いに賑わったという。 
また、近江と伊勢との交易ルート上にあり、琵琶湖から美濃への物資流通で賑わい、 問屋場は一時七つもあり、荷車の使用が認められたのは、垂井宿と共に、 街道で最初である。  」  

雨谷(あまがたに)川を門前橋で渡り、次いで、 中挟(なかばさみ)川を今須橋で渡ると、銅板葺きの常夜燈が建っている。 
今須橋を渡ると、正面に 「中山道今須宿」 左面に「左関ヶ原宿一里」 右面に 「右柏原宿一里」 と書かれた石柱が建っている。 
近くに「本陣跡、脇本陣跡」の説明板も立っている。  

説明板「 中山道今須宿・本陣跡・脇本陣跡 」  
「  当宿は美濃国と近江国との境の宿として栄えた。 
二一五坪の本陣が一軒で、現在の小学校と支所付近一帯に位置していました。 
また、脇本陣は美濃十六の中でも当宿のみ二軒あり、各々、 現在の小学校駐車場付近辺りにあったのです。 
河内家の母屋は寛政年間に現在の米原市伊吹町の杉沢地内、妙応寺末寺、 玉泉寺に移築され、当時の面影を今に伝えています。 
尚、関ヶ原合戦の翌日、佐和山城攻めに際し、家康は本陣伊藤家の庭先で休息した折、 腰掛けたという石は、現在、東照宮権現腰掛石として、青枝神社境内で保存展示されています。  
       関ヶ原町              」  

今須の一里塚      常夜燈      今須宿道標
今須の一里塚
常夜燈
今須宿道標

今須宿は東から門前、仲町、西町の三町で構成され、宿長は十町五十五間(約1.2km) でした。 
今須宿碑向いの大きな駐車場の左側には、 「曹洞宗青坂山妙応寺」・「火滅薪盡道場」 など、石碑がいくつかあり、幸福地蔵が祀られている。 
国道そして東海道線のトンネルをくぐると妙応寺があり、 山門の脇に説明板が建っている。 

説明板「妙応寺」  
「 妙応寺は曹洞宗総持寺の末寺です。 
南北朝時代に、鎌倉から移って来た長江重景が母妙応のためにたてられたものです。
この寺の墓地には長江氏のものもあります。 
また、妙応おばあさんが使った大きな桝と小さい桝が寺の宝として、今も残っています。 
     関ヶ原町           」   

妙応寺は、長江家四代目今須城主・重景が、 正平十五年(1360) 母妙応の菩提を弔うために創建し、菩提寺としたものである。
今須の地名は、重景の母妙応が年貢の取り立てに大枡を用い、 米の貸付には小枡と、異なる異枡(います)を用いたところを由来としている。  

街道に戻る。 
左側の改善センターの駐車場に、「中山道今須宿本陣跡」 の説明板が建っている。 

説明板「中山道今須宿 本陣跡」  
「 本陣は一つあり、学校の駐車場と改善センターの東隣りにありました。 
本陣は身分のたかい人がとまり、(建坪は)二百十五坪ありました。 
昔からさいている紅梅がいつまでも今須小中学校の門の前にのこっています。 」 

妙応寺入口      妙応寺      本陣跡
妙応寺入口
妙応寺
本陣跡

隣に、脇本陣の説明板が建っている。 

説明板「中山道今須宿 脇本陣跡」  
「 今須宿は他の宿とちがって脇本陣が二つありました。 
脇本陣があった場所は農協のあたりと改善センターの辺りにありました。 
脇本陣とは本陣にお客さんがいっぱいになった時の予備の宿のようなもので、 身分の高い人がとまりました。 」  

二つの説明板は、今須小中学校の学童が書いたようで、 一生懸命の雰囲気が出ていた。 
街道の右側、JAにしみの今須支店辺りが、河内脇本陣跡である。 
母屋は、寛政年間(1789〜1801)に、妙応寺末寺の玉泉寺(米原市伊吹町の杉沢地内)に 移築され、当時の面影を今に伝えているという。 
すぐ先の右側に、美濃路で唯一残る、問屋場・木田問屋跡(山崎家)があり、 説明板が建っている。 

説明板 「問屋場」   
「 江戸時代、人や馬の継ぎ立てなどを行った問屋が、当宿では一時七軒もあって 全国的にも珍しいことでした。 
美濃十六宿のうちで、当時のまま現存し、 その偉容を今に伝えているのはここ山崎家のみです。 
縁起物の永楽通宝の軒丸瓦や広い庭と吹き抜けなどから、 当時の繁栄振りがうかがえます。
    関ヶ原町              」 

脇本陣跡      河内脇本陣跡      木田問屋跡(山崎家)
脇本陣跡
河内脇本陣跡
木田問屋跡(山崎家)

山崎家は、江戸時代の問屋場なので、 荷車が入る広い玄関や吹上、苔むした土間などが残っている。 
問屋場の脇を右手に入ると観音寺がある。 
観音寺辺りは、地獄谷 と呼ばれ、長江家の屋敷跡といわれている。 
郵便局の先、左側の民家の板塀の一角に、 「金比羅大権現永代常夜灯」 と呼ばれる常夜灯が建っている。 

説明板「常夜灯」  
「  街道が賑わっていた江戸期は文化五年(1808)のことです。  
京都の問屋河内屋は大名の荷物を運ぶ途中、ここ今須宿付近で、 それを紛失し、途方に暮れてしまいました。 
そこで、金比羅様に願をかけ、一心に祈りました。 
幸いに荷物は出てきて、その礼にと建立したのがこの常夜燈です。 
    関ヶ原町           」    

右側の小畑商店の脇が愛宕神社の参道口で、 明治三十年(1897)建立の山燈籠がある。 
社殿はJR東海道本線を越えた山中に鎮座している。  
仲町から西町に入ると左手に、真宗大谷派大渓山真宗寺がある。 
大正七年(1918)の火災で焼失したが、同十年(1921)に再建されました。
次いで、右側に真宗大谷派金剛山法善寺がある。 
すぐ先の左側に、「村社八幡神社」 の標柱と常夜燈と鳥居があり、 今須八幡神社の参道口である。 
八幡神社の社殿は、名神高速道路を越えた先に鎮座していて、村の鎮守である。 

永代常夜灯      真宗寺      八幡神社の参道口
永代常夜灯
真宗寺
八幡神社の参道口

鳥居の奥は神社への参道になっている。
少し高いところに、山燈籠があるが、これは「今須八幡神社遥拝塔」と、 いわれる石塔である。 

説明板 
「 八幡神社は、暦仁元年(1238)、この先の森の中に勧請鎮座したもので、 慶長七年に再造されたとする棟札がある。 
遥拝塔は、本殿下の橋が氾濫で度々流されたので、ここに設けられた。 」  

十分歩くと、今須交差点手前の左側に土道の上り坂がある。
「車返しの坂」 と呼ばれる旧道の痕跡が残っている。
ここには、「舊蹟車返美濃國不破郡今須むら」 の石碑が建っている。 

説明板 「車返し坂」  
  「 南北朝(1336〜92)の昔、酔狂な人もいたものです。 
不破の関屋が荒れ果て、板庇(ひさし)から漏れる月の光が面白いと聞き、 わざわざ、京都から牛車に乗ってやってきました。 
その御人は公家の二条良基という人。 
ところがこの坂道を登る途中、屋根を直したと聞いて、引き返してしまった、 という伝説から、この名で呼ばれるようになったのです。
   関ヶ原町             」  

摂政の二条良基は、「荒れ果てた不破関屋の板庇から、漏れる月の光が面白い」と聞き、 わざわざ都から牛車に乗ってやってきた。 
ところが、不破の関では、高貴な方が来ると聞き、見苦しい所は見せられないと、 急遽、屋根を修理してしまった。 
良基はこの坂の途中で、この話を聞いて嘆き、
 「 葺きかえて  月こそもらぬ 板庇  とく住みあらせ  不破の関守 」
と詠み、車を引き返した。 
この話は価値観の違いと、上司へのへつらいという意味で、面白い。 
坂を上ると、広場の奥の中央の祠の中に、大きな石仏の車返し地蔵尊が祀られている。 
残念ながらこの先の通り抜けは不可で、戻りましょう。 
国道21号線を今須交差点にて横断する。 
この交差点には、「これより中山道今須宿」 の標柱がある。
ここは、今須宿の京方(西)入口で、今須宿はここで終わる。  

山燈籠      車返し坂      車返し地蔵尊
山燈籠
車返し坂
車返し地蔵尊

今須宿  岐阜県関ヶ原町大字今須  JR東海道本線関ヶ原駅からタクシーで10分。  

(所要時間) 
関ヶ原宿 → (1時間) → 常磐御前の墓 →(40分) →今須宿



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