成田街道(佐倉道) 3 (船橋〜臼井)


大和田宿は成田街道西側の大和田村と東側の萱田町で形成されていたようで、成田街道のほぼ中間に位置した。
このため、成田詣での旅人が江戸を発って最初に泊まる宿場となり、 近江屋や東屋、若竹屋に中村屋といった旅籠があり、大変な賑わいだった。  問屋は大和田村の名主庄右衛門、萱田町の名主惣助が交代で務めたという。 

臼井宿は、臼井城を中心に発展した城下町だったが、江戸時代初期の慶長九年(1604)に廃城となってしまった。
その後、成田山詣でが盛んになると再び宿場町としての賑わいを取り戻した。 
江戸側から片町、上宿、中宿、下宿、新町と続き、 本陣・脇本陣を中心に、太田屋、大津屋、大桜屋、小桜屋、菊屋などの多くの旅篭が軒を並べていたという。 



船橋宿(続き)

平成二十六年五月十七日、船橋から臼井まで歩いた。 

一面の快晴で、日射病が心配される日だったので、無理をせず歩いた。 
現在の成田街道は船橋を起点とする国道296号線の通称である。 

前回、国道296号の成田街道入口交叉点から左折し、庚申塔と道標があるところで終えたので、 今日はそこから出発し、大和田宿へ向う。 

このあたりは前原。 津田沼駅入口の三叉路を右に行くと、JR津田沼駅と新京成新津田沼駅がある。 
駅の北側部分は船橋市前原、その他は習志野市津田沼で、地形は入り組んでいる。  

前原駅入口の交叉点を過ぎると、右側に御嶽神社の鳥居が見える。 
中を入ると左側に出羽三山などの石碑群があり、 うっそうとした森の奥に社殿やその他の社があった。 

「 御嶽神社の創建は、江戸時代の延宝元年(1693)、 開拓村の前原村の守り神として、 大和国から木造蔵王権現三尊立像を移祀したことに始まる。  当時は蔵王権現という名前だったが、明治維新の時、現在の御嶽神社に改めたという。 」

その先右側に長屋門のある屋敷があった。 古くから住んでいる住民の一人だろう。 

「  江戸時代、前原から二宮、薬円台、習志野台、高根台にかけては広大な原野が広がっていた。 
江戸幕府は御用馬の生産地として設けた小金牧の一つで下野牧というところで、 この北方にある高根木戸という地名は牧に柵を作り馬を放牧していたが、 人が行き来する際の木戸を設けたことから地名になったといわれる。 」

御嶽神社
     長屋門
御嶽神社長屋門


道の右手にある船橋市二宮出張所の前庭には、 「旧二宮役場跡」 という大きな石碑が建っている。 

「 明治二十二年(1889)、千葉郡の前原新田村、滝台新田村、 薬園台新田村、三山村、多喜野井村、上飯山満村、下飯山満村の七つの村と合併し、 二宮村になった。 
二宮は、この地の共通の氏神である二宮神社に因み、命名されたものである。 
二宮村役場がここ(滝台新田)に置かれ、昭和三年(1928)、町制を施行して二宮町となった。 
昭和二十八年(1953)の昭和の市町村大合併の時、 周りの町と共に、船橋市に吸収され、二宮町は消滅してしまった。 」

二宮出張所の道の反対側に 「二宮町の道路元標」 が建っている。 
その先の道の左側の滝台地区に降りていく路地角に馬頭観音の石碑が四柱あった。 
馬頭観音は成田街道の馬の供養だと思うが、どうだろうか? 

旧二宮役場跡
     馬頭観音の石碑
旧二宮役場跡碑馬頭観音の石碑


道は右にカーブする三叉路で、左に入ると新京成の薬円台駅がある。 
近くの薬円台公民館前には薬園台の地名由来の説明板があった。

「薬園台の地名由来」
「 享保七年(1722)、享保の改革の一つとして徳川八代将軍吉宗の命令で、 医師の丹羽正伯と薬種商桐山太右衛門により、この地で薬園の開発がすすめられた。  後に薬園は廃止され、薬園台新田(別名 正伯新田)という村になった。  
薬園台は昭和四十八年(1973)の新住居表示で、大部分が薬円台となった。 
そのため、駅名や店の名前には薬園台と薬円台の字が混在している。 」 

駅の先左側にある倶利加羅不動尊の境内には、庚申塔が数基祀られていた。 

街道に戻り進むと、県立薬園台高校入口手前の民家の一角に 「青面金剛王 中村」 と書かれた石碑があり、 その脇に明和二年と寛延三年建立の庚申塔、御大典記念と書かれた、 大きな庚申碑が祀られていた。 

「 江戸時代には青面金剛王は、 道祖神と同じ役割を果たすと考えられていたので、 このあたりが集落の堺になっていたのだろうか? 」

庚申塔
     青面金剛碑
倶利加羅不動尊の庚申塔青面金剛碑と庚申塔


街道を進むと二宮神社入口の三叉路があり、  「成田30km 八千代5km」 の道路標示があった。 
市川から船橋を歩いたときには距離表示は見なかったと思うので、珍しいと思った。 

三叉路を右に二キロ程行ったところにある二宮神社に立ち寄った。 

「 二宮神社は、 近郷二十三ヶ村の総鎮守として広く人々の信仰をあつめてきた神社で、 その創建は、弘仁年間(810〜823)で、嵯峨天皇の御勅創によるものと伝えられる。 
延喜五年(905)に編纂された延喜式神名帳に「千葉郡寒川神社」とあるのが二宮神社に比定されてきた。 
二宮神社と呼ばれるようになった時期は不明だが、乾元二年(1302)の鐘楼には二宮社と刻まれていることから、 鎌倉時代には呼称されていたことは間違いない。 
下総三山の七年祭は五百五十年の歴史があるが、 二宮神社を中心に、船橋市、千葉市、習志野市、 八千代市の九つの神社の神輿が二宮神社に集結するもので、丑年と未年に開催される。 」

街道に戻り少し進むと、左側に船橋市立郷土資料館がある。
駐車場の奥には、明治天皇駐ひつ記念碑が建っていた。 
隣に 「 習志野地名発祥の地 附明治天皇駐ひつ之処の碑 」 という教育委員会が立てた説明板がある。

説明板
「 船橋市習志野台・習志野付近一帯はかって大和田原とか正伯原ともいわれ、 江戸時代には幕府の牧(馬の放牧場)の一部でした。  その後、明治7年(1874)から昭和20年(1945)までは陸軍の演習場でした。 
明治6年(1873)4月29日、明治天皇は徳大寺宮内卿、西郷隆盛、篠原国幹ほか、 多くの供奉者を従え、 薩摩、長州、土佐の兵からなる四個大隊2800人の近衛隊を率いて、 県内に初めて行幸されました。  午後には九日町村に到着し、桜屋で昼食をとられました。  その夜は荒天にかかわず、演習地の幕舎に野営されました。  翌30日は近衛兵の演習をご覧になり、5月1日皇居に還御されました。  同13日天皇より勅諭をもって、この原に習志野ノ原を賜り、その後陸軍の演習場として定められました。  これが現在の習志野の地名の由来です。
この碑は仙台石製で、大正6(1917)年、明治天皇が演習を統監された場所(船橋市習志野台四丁目431の3)に建てられましたが、平成6年6月に現在の場所に移転しました。 
石文には地名を賜った由来が記されている。 」 

二宮神社
     記念碑
二宮神社明治天皇駐ひつ記念碑


資料館に入ってみると、太古から現在までの船橋市の歴史が説明と展示で行われていた。 

「  中心地区の昭和と最近の写真による移り変わりというテーマの特別展示があり、 西船橋駅前の昭和の写真は小生が住んでいた時と同じだったので、なつかしさを覚えた。 
資料館脇にはSLもあるので、子供連れの家族は上って、眺めていた。 」

その先右側には陸上自衛隊習志野駐屯地が続く。
これは上述の陸軍演習場の跡地で、 戦後、陸軍から陸上自衛隊に受け継がれたものである。 

そこを過ぎると、交叉点の左側に習志野車検場がある。 
習志野車検場を過ぎると、八千代市に入った。 
千葉日産を過ぎた交叉点から八千代市大和田新田。 

D51
     八千代市
D51蒸気機関車八千代市入口付近





大和田宿

その先に新木戸の三叉路の交叉点がある。
直進する道はが成田街道、左にいく道は県道57号線で、鎌ヶ谷を経て、木下街道に合流する。 
交叉点を渡ったIDEMITSUのGSの角に、上下をセメントで繋いだ道標が建っている。

説明板「血流地蔵道 道標」
「 これは貞福寺の本尊とされた血流地蔵を案内する道標です。 
江戸深川の人たちによって、享和三年(1803)に建てられ、ここ新木戸の三叉路に建てられました。 
次のような銘文が刻まれています。 
正面に 「 血流地(蔵)道 壱里 」  左面に 「 貞(福寺) 」 、 右面に 「 右江 成田  左江 江(戸)道 」 
裏面に 「 江戸深川大工□者中 ・・・・・ 」  (括弧内の文字は欠落していた。 )
道標の下部部分は道路工事で側溝の下に埋まっていたが、 それを掘り出して、上部をセメントで繋いで復元した。 」

貞福寺はここから左に入り木下街道を四キロ進んだ八千代市吉橋にある。

「 応永元年(1394) 中成和尚により開山された寺院で、 寺のある台地は吉橋城のあったところである。 
吉橋城主の高木氏は、吉橋、麦丸、坪井などを支配していたが、 天文五年(1536)に北条軍により滅ぼされ、落城した。 
落城のとき、城主高木氏が北条軍に切りかけられ落命したが、 死体と思われたものは血を流したお地蔵さまだったという伝説があり、 高木氏の守り本尊地蔵菩薩は血流地蔵と呼ばれるようになった。 
高木氏の遺臣達は土着して、城跡の貞福寺に血流地蔵と呼ばれる地蔵菩薩を祀り、 周囲に十三の寺を置いたといわれる。 」

成田街道はここから臼井までは国道296号線をひたすら行くが、 対向二車線なので、車の渋滞は激しい。 

築地銀だこの先、左側に新木戸の鎮守の八幡神社がある。 
社殿の脇に子育観音の石仏があるが、これは神仏混淆時代のなごりなのだろう。 

「 貞福寺第三十六世住職・存秀法印師が、 文化四年(1807)に四国八十八ヵ所に因んで吉橋霊場を創設した。 
八千代、船橋、習志野、鎌ヶ谷、白井の五市にまたがる札所を春秋二回十日をかけて巡礼するもので、 ここは吉橋霊場第六十七番札所である。 」

道標
     八幡神社
血流地蔵道道標八幡神社


その先のタイヤ館のあるところで、公園都市道と交叉する。 
左は千代緑ヶ丘、右高津団地とある交叉点である。 
交叉点を直進して進むと、左側の道路脇のコンクリート壁の上に石搭群があった。

「 出羽三山(月山、羽黒山、湯殿山)の巡礼講塔が九基、 馬頭観世音塔が九基、二十六夜講塔が八基、 牛魂碑が一基と、古いものから新しいものまであり、この地域の信仰の厚さを覚える。 
出羽三山講(奥州講)は同じ集落の長男で、 出羽三山に登拝した者のみが参加できる講というが、 八千代から佐倉にかけて出羽三山巡拝という信仰が根付いているのか、 この先でも随所で見られた。 」

平成十三年の二十六夜講塔があった。
二十六夜講は女性の信仰の集団だが、今も続くのは珍しいのではないか? 

石搭群
     二十六夜塔
石搭群二十六夜講塔


工業団地入口交叉点の成田街道は行き来する車で、大渋滞になっていた。 
東映団地の三叉路で、右に入る道は新川大橋通である。 
街道は直進して、国道を進む。 

大和田新田のバス停の先の左側の路地角に石塔群があり、 十九夜講、子安講、女人講などの石塔が十一基建っていた。 
八千代市郷土博物館のホームページを見ると、 

「 子安塔は村の子供のいる既婚女性で構成された子安講が作った石塔です。  また、講で集まる日にちを指して、子安講を十六夜講、十九夜講、二十三夜講などと呼ぶ地域もあり、子安塔にその数字を彫っているタイプもあります。 
十六夜や十九夜などという言い方は、月の満ち欠けに合わせた時の表現で、 みなさんも満月の夜を十五夜というのはよくご存知かと思います。 」 

とあったが、どれも女性の講で、 この地区は女性の力が強かったのだろうか?と思った。 

その先は大和田新田交叉点。 
大和田新田の交叉点をこえてすぐに左にはいる道は、 東葉高速鉄道八千代中央駅の西側をとおって城橋で新川をわたり、 米本城下へ通じる道である。 

「  米本城は千葉氏の家臣・村上国綱、綱清父子により、 天文年間に鎌倉時代の城跡に造られた平山城であるが、 寿命は短く、 永禄元年(1558)、里見軍にやぶれて落城し、 城主綱清が自決したと伝わる。 
周囲には上宿、中宿、下宿という地名が残っており、 かって城下に宿場があったことをうかがわせる。 」

このあたりは大和田宿の旧大和田村。

「  大和田宿は大和田村と隣の萱田町(かやだちょう)で構成されていた。 
成田街道のほぼ中間に位置したので、成田詣での旅人が江戸を発って最初に泊まる宿場となり、大変な賑わいだったという。 」

道の左の家は銅板で覆われているが、 かっては茅葺屋根だったのではないか?と思わせる造りだった。 
今の大和田には鄙びた雰囲気はあるが、往時の面影は残っていなかった。 

左奥に稲荷神社が見え、少し進んだ庚塚バス停前に 「道祖神」 と鳥居に書いた神社があり、二体の道祖神が祀られていた。 

市役所入口交叉点を越えると、左側に「さわ田茶寮」という平成十一年開業のそば屋があった。 
この建物は戦後最初の首相・東久邇宮殿下が、 市川に昭和の初期に建てた別邸を昭和三十九年に移築したものである。 

石搭群
     さわ田茶寮
石搭群さわ田茶寮


その先右側に円光院という寺があった。 
円光院は真言宗豊山派に属する寺で、慶長十五年に羅漢寺が移転して創立されたといわれる寺である。 

道の反対、左側に日蓮宗の長妙寺があった。 
ここからは萱田町である。 
長妙寺の墓地には江戸の大火で火あぶりの刑となった八百屋お七の墓がある。 

「  八百屋お七は当地で生まれ、江戸本郷の八百屋徳兵衛の養女になった。 
天和三年(1683)、火あぶりの刑に処された時、実母はこれを悲しんで、 密かにお七の遺髪を受け取り、長妙寺に運び、妙栄信女の戒名を授与されたという。 
お七の墓は、住職と地元の人々によって大切に供養され、 古い墓石の後にお七を供養するために昭和に作られた立派な宝きょう印塔が建っている。 」

隣は大和田小学校。 運動会が行われているようで、スピーカーの声がうるさかった。 

寺を出ると、大和田三叉路バス停手前の 「ひがしん」 手前に、  明治天皇行在之処 」 の石碑が建っていた。 
明治六年四月大和田原に於いて近衛連隊の天覧演習が行われた際、明治天皇が行幸されたのを記念して建てられたものである。

長妙寺
     明治天皇行在之処
長妙寺明治天皇行在之処碑


その先左に入る道角に 「萱田道」または 「権現道」 といわれる道標が建っていた。 

道標の上の二字はへんたい仮名で読めないが、 その下は 「大権現道」 とあり、右面には 「是より十二町 別当長福寺」 とある。 

道標の道を行くと長福寺があり、その北方四百メートル程のところに飯綱神社がある。 

「  飯綱神社は、太田道潅が米本城を攻めたとき、権現山に陣を張って戦い、 守り本尊である十一面観音菩薩に祈願して勝利したので、 文明十一年(1479)に創建した、と伝えられる神社で、 新川を見下ろす萱田台地の突端にある。 」

天保三年(1832)建造の急な石段を登ると大鐘楼が現れ、 さらに進むと飯綱神社の社殿がある。 
神仏混淆時代は寺院だったようだが、明治維新で神社に変わった。 

街道を進むと、右手に薬師寺があり、その先は大和田坂上バス停。 
そこからは大和田坂の下り坂になり、遠方まで見渡せる。 

坂を下って行くと、左側の鬱蒼とした森に、時平神社があった。 

「 祭神の藤原時平(871〜909)は平安前期の公卿で、 時平が左大臣のとき、右大臣菅原道真を失脚させ、道真を大宰府に流した人物である。 
藤原時平はこの地方に広大な荘園を領有していたのであろう。 
なお、時平神社は大和田に二つ、萱田に一つあり、全て藤原時平が鎮座している。  」

当地には 「 治承年間に藤原時平の子孫の藤原師経、師長一族郎党が難船して、 久々田(習志野市菊田)に漂着し、のちに深山(船橋市三山)に移り、二宮神社の神主として定着した。 」  という伝承が残されている。

道標
     時平神社
権現道道標時平神社


谷間を流れる新川に架かる大和橋を渡る。 
橋の下を流れる新川は印旛沼から流れる疎水である。 

「 印旛沼を源流とし、この新川、その後、花見川に名を変えて、最後は東京湾に流れ込んでいく。 
江戸時代の享保、天明、天保の三回、疎水工事を行われたが、完成を見なかった。
水資源開発公団が昭和四十三年に完成させたものである。 」

橋の上流に見えるのは大和田排水機場である。 
大和橋を渡ると、大和橋バス停前に神社があったが、神社名はわからない。 

八千代市郷土博物館のホームページを見ると、 
「 市内の神社には常駐する神職はおらず、 主に村上の山本家が代々市域の神社を守ってきました。 
山本家は江戸時代初期、延宝年間の神職の補任状(任命書)が伝えられている名家です。 」 

とあり、 神職もない神社ばかりとは珍しい地区と思った。 

そこから上り坂になり、カーブの先に下市場交叉点があった。 
成田街道は国道16号と立体交差していて、その下をくぐって横断する。 
なお、国道16号を一キロほど行くと八千代市郷土博物館がある。 
その近くの正覚院はオシドリ伝説が伝わる寺で、新川に近接して土塁、空堀の跡がのこる。 

交叉点をくぐると、左に皇産霊神社(みやむすびじんじゃ)があった。 
その先、白旗神社があり、長屋門がある家があった。 
その先には八坂神社がある。 

「 牛頭天王社とも言われ、入口脇に道祖神、 その奥には吉橋霊場第78番札所があり、 子安観音石塔の奥には天保十一年建立の庚申塔が建っていた。 」

坂道は続き、左側の小高いところには台町稲荷神社があった。 
このあたりから坂はなだらかに、みずほ銀行のあるところに、勝田台入口交叉点があった。 
その先の右手に京成本線と東葉高速鉄道の勝田台駅がある。 

大和田排水機場
     台町稲荷神社
大和田排水機場台町稲荷神社





臼井宿

駅前を過ぎたところで佐倉市になる。
ここから小竹の手繰橋までは新興住宅地を進むことになり、 街道らしい風情は残っていない。 

ファミリーマートの手前の道の左側角に 「庚申塔」の石碑が土に埋まりながら、 建っているのを見付けた。 

井野交差点の手前左側にアメニティハイム21というマンションがある。 
一階には「楽々広場」という店が入っているが、その前に説明板があり、 常夜燈と道標が建っていた。 

佐倉市教育委員会の説明板「成田道道標と常夜燈」
「 これらの石塔群は成田山新勝寺に参拝する旅人のために建てられたものである。
向って右側の道標は歌舞伎の名優七代目市川団十郎が天保二年(1831)に建立し、 ここから北百五十メートルに所在する加賀清水を 「 天はちち 地はかかさまの 清水かな 」  と 詠んだ句と成田山への信心が記されています。 
左側の道標は、江戸の豪商古帳庵夫妻が天保十一年(1840)に大和田原の情景を詠んだ自作の句を刻んで建てられました。 
三基の道標は西側の道路角にあったものを移設しました。 
中央奥の常夜燈は文政十年(1827)に加賀清水の水を汲み、茶を振る舞って繁昌していた林屋の前に建てられ、 今も当時と同じ場所にあります。  林屋は三峰山道中図絵(明治四年)に描かれ、 「 御贔屓の恵も厚きはやしやと人にたてられ石の燈籠 」 と詠まれており、 当時の賑わいが窺えます。 」 

手前の小路を入って突き当たったところに小さな親水公園が設けられていて、厳島神社が祀られている。 

井野交差点では右に行く道は県道155号線である。 
この先右に入って行くと、京成本線の志津駅である。 
更に進むと右側にユーカリが丘駅があり、道脇の建物はスカイプラザである。 
奥を見ると高層マンションが数棟建っていて、都心でもないのになんで!!とびっくりである。 

「  ユーカリが丘は、ディベロッパーの山万が開発した大規模な住宅地で、 ショッピングモール、スーパー、そして、高層マンションが林立しているが、 この住宅地のため、山万は単独でモノレールを走らせているのは驚いた。 」

道標と常夜燈
     スカイプラザ
成田道道標と常夜燈超高層マンション群


志津小学校前を過ぎ、モスバーガーのところで、右に大きくカーブ、 縁結神社の白い鳥居があったが、これはなんじゃ?! 
右の鬱蒼とした森に思えたところが上座総合公園で、 その先から手繰地区でかなり急な下り坂になった。 
下った左側に小公園があり、小さな社の不動堂と石仏群があった。 

坂を下りきると左にスパーマルエイがあり、手繰橋を渡る。 
渡ったところで、国道296号と別れて、左の旧道に入っていく。  
そこからはけっこう急な坂道である。 

「  江戸時代に成田街道で一番の難所といわれたところで、現在の地名は臼井台である。 
一般的な民家が道に沿って建っていた。 」

純住宅地なので、道を間違えたかなと不安を覚えながら、道なりに上っていくと、 三叉路に出た。 
正面に文化三年(1806)に建てられた道標があり、左側面に 「西 さくば道」 、 正面に 「右 成田ミち」 、右側面に 「左 江戸みち」 と刻まれていた。 
ここまで上ってきた道が江戸道で、ここを右折していく道が成田道であることが確認できて、一安心。 

不動堂と石仏群
     成田道道標
不動堂と石仏群成田道道標



近くに 「←実蔵院 雷電の碑→」 の標柱があったので、実蔵院へ行ってみることにした。 

左折して、直進すると中学校に行ってしまうので、 その先、右折して進むと、二百メートルほどのところに実蔵院はあった。 
「 実蔵院は鎌倉時代の創建で、真言宗豊山派の寺院で、 本尊は不動明王で、江戸時代には佐倉藩臼井領の祈願寺でもあった。 」
山門の前に石仏が整理されて、立ち並んでいた。 
山門を入った左側に 「明倫中学校跡」 の石碑があり、
説明板には「 明治三十六年(1903)に住職が地域の青少年の教育のため、 私立中学が開校し、昭和十七年(1942)に閉校した。 」
とあった。 

成田街道(佐倉街道)に手繰橋が架かる以前は、実蔵院の脇の坂道を下り、 印旛沼の支流・手繰川の水神橋のところにあった渡し場に行き、そこから船で対岸の小竹へ渡っていたので、 実蔵院は水陸の接点という交通の要衝に位置していたと思われる。 

案内標柱に従い、脇の坂道を下って臼井城址に向って歩く。 
下って上っていくと、左に星神社があった。 

説明板「星神社」
「 臼井妙見社(星神社)は、 臼井城築城の時、城内の鬼門の地に創建された社の一つである。 
妙見とは、北斗七星を神格化したもので、鎮護国家・除災壽福の菩薩である。 
千葉氏一族にとってはその祖平良文以来の守護神で、 その所領には必ず妙見をまつり、尊崇したという。 
一族の家紋である「 月星 」 「 日月 」 「 九曜 」は、この妙見に由来しており、 当神社の社紋ともなっている。  」

実蔵院
     星神社
実蔵院山門臼井妙見社(星神社)


星神社の鳥居前を右にいくと、太田図書の墓の案内があった。 
ここは臼井城の三の丸の一角で、左手の石段を上っていくと、太田図書の墓があった。 

説明板「太田図書の墓」
「 太田図書助資忠は太田道灌の弟である。 
文明十年(1478)、上杉氏の重臣太田道灌は公方方の千葉孝胤を境根原の戦いで破り、 敗退した孝胤勢は、一族の臼井持胤、俊胤の守る臼井城へ逃げ帰った。  翌文明十一年(1479)正月、道灌の弟、太田図書助資忠と武蔵千葉氏の千葉自胤の軍勢が臼井城を包囲したが、 城の防御があまりにも堅固なため、一旦引き揚げようとしたその時、 城兵がどっと討って出てきて、太田勢と激しい戦となり、ついに落城したが、 図書助外五十三人がこの地で討死したという。 」  

ここから右に行くと、下り坂になった左側に 「臼井城跡」 の石碑が建っていた。

説明板「臼井城」
「 臼井城は臼井氏、原氏そして酒井氏が城主になった城である。  臼井台の上に聳えて堅牢な城だった。 
臼井氏は十二世紀初から十六代、約四百五十年間、当地を支配した。   戦国時代末期、臼井氏は原氏との戦いに敗れ、臼井家は消滅し、原氏が城主となった。  しかし、原氏は天正十八年(1590)の小田原征伐で北条氏の敗北により没落、 徳川家康の部将酒井家次が三万石で入封し、家次の居城となった。   文禄三年(1593)の火事によって城郭は焼失してしまった。  慶長九年(1604)、家次は上野国高崎藩に移封され、臼井藩は廃藩し、城は再興されることはなかった。 」

石碑の先の広場になっているあたりが二の丸、更に進むと土橋や空堀があり、 突き当たった台地の頂上に本丸があったようである。 
下を見ると、土塁の勾配がきつく、堅固な城だったということは分った。 

太田図書の墓
     臼井城跡
太田図書の墓臼井城二の丸跡


印旛沼が遠望できたが、入日の景色が素晴らしいらしいが、時間的に早かった。 
臼井八景 「城嶺夕照」 といい、 
「  いく夕べ 入日を峯に送るらん むかしの遠くなれる古跡 」 
という句があったが、説明では臼井八景はそれより百年程たった元禄時代に 作られたもので、歌を詠んだのは臼井久胤の玄孫で、 夕映えが美しい臼井城跡に立ち、城主だった祖先を偲んだ歌である。 

道標のある三叉路に戻り、雷電の碑を訪ねた。 
道路の右側にすみれ保育園の矢印と 「雷電為右衛門の顕彰碑」  という案内板があったので、坂を下っていった。 

右側に妙覚寺の建物があり、すみれ保育園を経営しているようである。 
道の反対側に 「 天下第一流力士 雷電之碑 」と書かれた下に、 身長二メートルの等身大の雷電為右衛門が立っている像が描かれている石碑があった。 
これが案内にあった雷電の顕彰碑で、隣に雷電の手形の写しがあった。 

「  雷電為右衛門は江戸時代の大関。  当時はまだ横綱という位はなく大関は力士の最高位だった。  生涯記録は幕内二十一年間三十二場所で、二百五十四勝十敗、 というから如何に強いか分る。 
雷電は信州の生れだが、巡業か成田詣での途中でこの宿場に立ち寄ったとき、 甘酒お茶屋の娘おはんを見初めて結婚した。  晩年はしばらくここにも住んだという縁で、建てられたものである。 」

街道に戻り進むと、右側に日蓮宗の妙伝寺がある。 
ここから急坂。 中宿交叉点の場所を聞こうと、 上ってきた中学生と買い物帰りの主婦に聞いたが、しらないといわれた。 
臼井台に住む大部分の人は昭和以降に家を建てた人達なのだろう?! 
坂を降りきると国道296号に合流した。 
帰ってから調べたら、「 ここを左にすすむと中宿の三叉路に出る。 」 ことがわかった。 

中宿の三叉路が分からないし、今日はここで帰ることにした。 
国道を横断し、小路を上り始めると、稲荷神社と雷電公園があった。 
道なりに歩いて行くと三叉路になり、左右に直進する小路はあるが、 駅に行く道は分らない。 
しかたがないので、右折して少し進むと犬を連れた若い夫婦が歩いてきたので道を聞いた。 
「 先程城址公園に居られたでしょう!! 」 と言われたので、 公園を出るとき、離れた場所に犬を連れたカップルがいたが、 その人達だったのかと思った。 
駅に入る道を通り過ぎていたので、戻って教えられた道で臼井駅に行き、 今日の旅を終えた。 


     臼井台展望
臼井八景 「 城嶺夕照 」天下第一流力士 雷電之碑





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かうんたぁ。