平成二十一年(2009)一月十二日、前回終了の起宿の船着き場から再開する。
江戸時代の美濃路は、起宿から木曽川対岸の羽島市新井へまで舟を使って渡ったが、今は渡船はないので、濃尾大橋を歩いて渡ることになる。
歩行者と自転車専用橋があったが、川幅が広く風が強いので、けっこう怖い感じがした。 橋の中央からは岐阜県(旧美濃国)になった。
橋を渡り終えると、右側に木曽川正木本堤の改築碑(左下写真)が建っていて、傍らの説明文には、
「 木曽川正木本堤の改築碑 ー 大浦地区は、かって、くの字に曲がった木曽川の本堤の川の中にあった。
大浦輪中堤が集落を囲んでいたが、木曽川の洪水の際には、決壊し、度々惨事に被っていた。
昭和七年から昭和十三年の大工事により、本堤は大浦地区の外に築かれ、大浦地区の当時の家数四十三軒と耕地七十五町歩は、水害から解放された。
廃堤になった敷地などが加わり、新たに約二十町歩の耕地が生まれた。 」 と、あった。
記念碑のある堤防の道を上流に向かうと、道の左側に起渡船場石灯台の石碑があり、その隣に、起川渡船場と刻まれた常夜燈(中央)があった。
「 起宿からの船が到着する新井側の船着場を示す起渡船場の石灯で、明和七年(1770)に地元出身の力士により建立されたもの。
船渡場には、渡し船が常時二艘の他、旅人が多い時に備えて、置き船一艘が常備されていた。 」 という。
石灯台の手前の堤防から左に下る道があるので、この道を下り、最初の交差点で右折し、狭い道を北上する。
少し進むと、右側の民家門前に、右いせみち 左おこし舟渡 と刻まれた道標がある。 更に少し行くと、県道165号と交わる交差点である。
交差点を斜めに渡った先の左側には石仏が祀られたお堂があった。
細い道を北上すると、正木小学校前に出る。 学校の金網の中には、美濃路の看板があり、少し離れて、一里塚跡の石碑と看板(右)が建っている。
看板には 「 ここは、不破一色一里塚があったところで、道の両脇に縦横九メートル、高さ三メートルの塚があった。 」 、とあった。
学校を過ぎるあたりで、道は三叉路になるが、左の田んぼの中のくねくねした道を歩く。
少し歩くと、正木須賀本村交差点にでるが、このあたりの須賀集落は、昭和三十年の前半までは輪中堤が残り、街道に沿って松並木も見られた、という。
交差点を越えて、狭い道を進むと、左側に金毘羅山大権現と刻まれた及ヶ橋灯籠(左下)があった。
これは文政九年(1779)に建立されたもので、以前は輪中堤防の松並木にあったようである。
正木町小松西交差点も直進すると、名鉄竹鼻線の踏切があり、渡った右手に須賀(すか)駅がある。
その先の松枝排水路は旧足近川で、昔は水量が多い川だったので、江戸幕府は、この先の南宿村に対し、渡し船二艘を与え、水が氾濫したときには、渡船により美濃路を維持させた、と伝えられる。
北上すると、旧南宿村集落(足近町南宿)がある。 江戸時代、このあたりは、起宿と墨俣宿のほぼ中間にあたるので、間の宿として小休所が設けられていたところである。
集落に入った右手に羽島市コミニティーバス元町バス停があり、その奥には、村社白山神社があった。 美濃路はそのまま直進するが、道は車はすれちがえない程の狭い道である。
天満神社や石仏を祀るお堂の脇を歩いていくと、道は少し広くなり、右手に火の見櫓と足近支所がある。
火の見櫓手前の道の角に、西方寺へ道標(中央)がある。
道標は北方にある西方寺へのもので、親鸞聖人御旧跡 寺田山渋谷院西方寺 従是北六丁 と刻まれている。
道の反対にある古い門構えの家は、間の宿と呼ばれる小休所だった加藤家である。 道標が示す通り右に入っていくと、
足近小学校があるが、学校の金網で左折し進むとその先は畑で、ここから先は美濃路がなくなっていた。
少し遠回りになるが、西方寺へ寄り道する。 足近町2交差点に出て、県道1号(岐阜羽島線)を北上し、足近町直道交差点で左折し、右手を見ると、善光寺札所 聖徳太子 建立地 (右)の大きな石柱が建っていた。
道を入っていくと、道標にあった西方寺(左下)があった。
親鸞聖人は、「 都へは もう足近き 直道の国へ 土産は南無阿弥陀仏 」 と、 詠んで、旅立たれた、と伝えられる。
「 西方寺は、推古天皇十年(602)に供奉された善光寺如来を安置したのが始まりで、同二十年(612)、聖徳太子が七堂伽藍を建立し、
自ら刻んだ阿弥陀如来を安置し、三尊院太子寺と号した。 平安時代に入ると、法相宗から天台宗になり、寺名も西方寺となった。
嘉禎元年(1235)、親鸞聖人が、関東より御帰洛のみぎり、当寺に逗留した時、寺僧の佑善が聖人と師弟の契りを結び、浄土真宗に改宗した。 」
入口まで戻り、西に向かって歩くと坂になり、それを上ると右側に境川が流れている。
堤の上の道を歩くと、右側に南無地蔵菩薩の幟のある小さなお堂(中央)があった。 朝からぱらついていた雪が多くなった。
堤に沿って少し歩くと、左側の堤の下に式内 阿遅加神社神社(左)があった。
「 阿遅加神社は、日本武尊を祭神とし、足近十郷(足近輪中内の村々)の惣社である。
農業用水設備が不十分だった第二次世界大戦以前は、境内の雨石に向かって、雨乞いに参拝する人が多かった。 」 、という。
石段を下り四百メートル以上歩くと、両脇に常夜燈が建ち、式内 阿遅加神社と書いた標柱(左下)が建っていた。
その先に神社の鳥居があり、足近町2交差点からきた道と合流する。
小生は西方寺へ寄り道してここまできたが、本来歩く美濃路は、先程通った足近町2交差点の手前で消滅し、
田になってしまっているので、足近町2交差点を左折して、七百メートル歩くと、この鳥居の前にくるのである。
美濃路は、阿遅加神社の鳥居前を過ぎ、二百メートル西の辺りの右側の細い道に入ると復活する。
坂井の集落を道なりに抜けると、境川の堤防に上り、阿遅加神社の先に続く堤防道(鎌倉街道)と合流する。
この地点が、江戸時代の美濃路と室町時代以前の鎌倉街道の合流点である。
堤防に上がるところに、親鸞聖人御旧跡碑(中央)があり、その脇に二体の辻地蔵が祀られている。
親鸞聖人御旧跡碑は、西方寺への道標で、「 従是東五丁 」と刻まれていた。
辻地蔵の脇には、「 右笠松 西方寺道 」「 すぐ 墨俣 大垣 」と刻まれている。
堤防道を西に向かって進む。
その先の東境川橋の手前には、石仏を祀ったお堂があった。
「 境川は天正年間に発生した大洪水までは木曽川の本流であり、美濃国と尾張国の国境を分ける川だった。
常水時の川幅は三十六メートルに過ぎないが、堤と堤の間は四百メートル以上の幅を有し、今でも古の大河の風格を残している。 」
橋は渡らず、堤防の道を直進するが、道には、県道165号の標識が建っていて、道は狭いのに車は多い。
みぞれ交じりになってきたので、傘をさしながら歩いていたので、突然現れる車は怖かった。
少し行くと、道の右側に 旧街道 美濃路と書かれた小さな石柱と美濃路街道案内板(右)があった。
しばらく歩くと、左側にお堂の屋根が見え、その先の竹やぶの前の道の脇に、羽島市指定史跡 一里塚跡の石碑(左下)が建っていた。
この碑は、江戸時代、西小熊の一里塚があったことを示すもので、平成十一年に建てられたものである。
堤防道路を西に進み、小熊・高桑線を越えて直進すると、右側に太神宮と刻む石灯籠と秋葉神社が祀られていた。
秋葉神社の石柱の大きさに比べ、社は小さかった。 このあたりは西小熊集落(?)で堤の道の両側に家が建っている。
しばらく進むと、美濃路は堤防から右へ下る。 その先の三叉路を右折すると、境川橋(中央)があった。
「 境川は、江戸時代には小熊川と呼ばれたようだが、この川には美濃路で二つ目の渡しがあり、小熊の渡しと呼ばれていた。
渡しは、境川橋より五十メートル程下流にあったといわれ、渡し船一艘に船頭七人があたり、大きな大名行列の際には船橋が架けられた。 」 という。
今は船渡りはできないので、境川橋を渡ると、日置江五十石という何か謂れがありそうな交差点に出た。
その先の大江川橋を渡ると、岐阜市茶屋新田になった。 そのまま車道を歩くと長良大橋であるが、右側の狭い道を下り茶屋新田の集落に入る。
集落には古い家は残っていなかった。 長良大橋に通じる道の下のトンネルを抜けて、長良川の堤防の上の道に出た。
何時の間にか、雪はやみ、青空になっていた。 長良川の向側に雪を被った伊吹山と墨俣(すのまた)一夜城(右)が見えた。
長良大橋の二百メートル北に墨俣の渡し跡があると聞いたが、堤防の道にはそれを示す石碑はなかった。
長良川を渡る渡し船は残っていないので、長良大橋を渡ると、大垣市墨俣町(旧安八郡墨俣町)になる。
長良大橋西交差点の右側には、豊臣秀吉出世城墨俣 北へ500mと書かれた大きな看板があり、そちらを向いて大きな地蔵様が建っていた。
墨俣の渡し場跡を探して堤防上の道を北上したが、墨俣一夜城の上流にいっても、渡し場の跡らしいところは見つからなかった。
長良川に平行して流れる犀川は、ここで二つに分かれるが、その三角形の部分に作られたのが墨俣城である、と伝えられてきた。
その跡に立つ墨俣一夜城の建物(下中央写真)は、竹下内閣のふるさと創生資金一億円を使って、旧墨俣町が大垣城を模した天守と金のしゃちほこを造り、墨俣一夜城歴史資料館として公開したものである。
木下藤吉郎が築いた墨俣城は木造の砦で、この模擬天守とはまったく無関係であるが、資料館には木下藤吉郎の一夜城築城の様子をはじめ、墨俣の歴史資料や風土を紹介しているので、資料館として割り切れば許されるだろう。
秀吉の出世の糸口となった砦だけに、村社の摂社として豊国神社が建てられ、天守前に木下藤吉郎の坐像もある(9時から17時、200円、月休)
秀吉の座像のある方の橋を渡り、細い道を南下すると、右側に公衆トイレがあり、その先の鳥居の奥に史跡墨俣宿の石碑があり、道側には、史跡美濃路の標柱が建っていた。
尾張藩士・樋口好古の著した濃州徇行記には、
「 町の長さは七町七間あり。 町の名を河端、中町、本町、西町、横町という、町並は大体よい処なり。 中町、本町の間旅籠多し。
本陣は中町にあり。 ・・・ 」 と、宿場の様子を記している。
道の反対に、大きな自然石が置かれた上に、本陣跡の石碑(左下)があり、碑には、
「 室町末期に上宿から中町、本町、西町へ街道が移り、慶長年間にこの地に墨俣
宿の本陣が置かれ、初代沢井九市郎正賢、二代目以降沢井彦四郎を名乗り、明治まで十三代続いた。 」 、とある。
本陣碑の脇の満福寺熊谷堂の看板を見て、南に向かって細い道を歩く。
安永七年の墨俣宿の絵図には、道の両側が河端町で、その先を左折して行ったところに船場だったと書かれている。
入って行くと、三叉路寺町の案内板には、明台寺の東の方角に船場があったように記されていた。 そのまま進むと、明台寺(中央)があった。
寺町は寺院が多いとあるので、通りを入ってみる。 本正寺の山門(右)は、墨俣宿脇本陣の門を移転したものである。
三叉路の突き当たりに等覚寺、右側に光受寺、等覚寺の脇の道を進むと、満福寺、その奥に墨俣神社があった。
墨俣神社は明台寺の南にあったのが、ここに移転してきたようであるが、その他の寺は江戸時代からほぼ同じ位置というのは驚きである。
寺がこれだけ密集していれば、寺町の名前は納得できる。
本陣跡の碑に戻るが、江戸時代、このあたりが札の辻で高札場があったところ。 本陣碑の脇の狭い道を西に向かうと、中町、本町となる。
更に西へ百メートル程行くと、岐阜屋百貨店の隣に墨俣宿脇本陣 池田屋の暖簾を掲げた家があった。
黒茶色の塀の中央部の門には、脇本陣跡の石碑(左下)が建っていた。
脇本陣は代々安藤家(一時加野家)が務めた。
現在ある建物は、明治二十五年に建てられたものとあるが、江戸時代の脇本陣の門は、明治末に本正寺に移築されたことはすでに述べた通りである。
その先にも、呉服屋や電気店、大垣信用金庫など、商店が建ち並ぶが、活気があるとはいえない。
本町の大垣信金の前には、津島神社 秋葉神社と連名の鳥居(中央)が建っていて、その脇には、文化財 琉球使節通行記念灯籠と書かれた標柱が建っている。
津島神社は天王社と呼ばれていたようで、安永七年の墨俣宿の絵図にも天王橋という表示がある。 鳥居をくぐると、右奥に石灯籠(右)があった。
「 寛政三年正月、琉球使節の一行が通行した際、神社に奉納する石灯籠に刻銘文を願い、儀衛正、毛廷柱が執筆したというもので、石灯籠には両名の名前があった。 」
なお、起宿から墨俣宿までコンビニや喫茶店はあったが、食堂は見当たらない。
この町でも、ひつまぶしの看板を出している店はあったが、その他は見なかった。
三叉路手前の右側に二軒だけ古い家(左下)があったが、それ以外古い家はなかった。
交差点の正面に電気屋があるが、ここを右折するのが美濃路で、ここから西町になる。
「 墨俣宿の亨和弐年(1802)の宿場の人口は千二百十八人、家数は二百六十三軒で、周囲の村からの助郷で宿場は繁盛し、
この地方の中心だったが、明治に入り、鉄道が他地区を通ったことと最近では大垣の商圏が拡大し、生き残るのが大変という状態のようである。 」
少し歩くと、左側のサン薬局の先に八幡神社(中央)があった。
正式には正八幡宮というようで、その由来には、
「 延喜式美濃神名帳には従一位荒方明神とあるが、のちに八幡神社と改められ、応神天皇を祭神とする。
鎌倉街道は少し南に、美濃路は大鳥居の前を通る西国、東国の要衡の地にあったので、ここを通る多くの武将がお参りした。
旧木曽川町出身の山内一豊は特に信心が厚かったようである。 」 と、あった。
神社を出ると、道は犀川の堤防(右)に突き当たると、左にカーブしていく。 堤防の一角に美濃路の石柱が建っていた。
墨俣宿はこのあたりで終わる。
車道には歩道帯が付いていないので、階段で犀川の堤防に上り、堤防道を歩いていく。
堤防へ上がる右側に、史跡 美濃路の石柱(左下)が建っている。 堤防道に上がると視野が広がり、右手に一夜城が見えた。
下には広い駐車場があり、左右に広い面積の土地がある。 近くの長良川 犀川遊水地の看板には、
「 犀川南部地域は、自然堤防地に挟まれた低湿地となっていたため、古くから内水による湛水被害の常襲地であり、
上輪中と下輪中の利害対立に明け暮れた歴史であったといってもよい。 昭和五年から国と県により、犀川、天王川の改修がされ、
昭和五十一年以降排水機の設置により、内水の排除が行われた。 更に、堀削、引堤を行い、遊水地を造ることで、効果を高める。 」
と、あったので、堤防の下の土地(中央)は駐車場を含めてすべて遊水地ということになる。
堤防の道を歩いて行くと、三叉路になったが、美濃路は堤防の道と別れて行くのが正解。
小生はそのまま堤防の道を歩くと、右手に犀川橋が見えてきた。
そして、道の正面にはSuper Center Plant-6の大きな建物と広大な駐車場(左)があった。
実はここから南にかけてのこの広大土地は遊水地や河川改修から出る土砂を積んでできたものである。
犀川の北側は瑞穂市、南側が大垣市墨俣町であるが、堤防脇の整備されている道路には、瑞穂市の標識がある。
改修工事前は犀川が蛇行して流れていたのを整備し、埋め立てた結果、川の南側に瑞穂市の土地が誕生したと推察したが、間違いだろうか?
美濃路に入るため、先程の三叉路に戻り、左の道を行き、立体交差点を越えて、SuperCenter Plant-6よりずーと南の細い道を歩いて行く。
北側の土砂を積んでできた新興地は瑞穂市だが、南側は大垣市墨俣町先入方である。
新興地には住宅地が生まれつつあった。
新興地が終わる辺りから安八町東結である。
堤の上の道を歩くと、左手の下に集落があり、ところどころで下に下りていく小道がある。
東結一里塚跡は下に降りたところにあるので、意識してないと見逃してしまう。 小生も見逃し、地元民に聞いて引き返した。
堤の南側の下に、明治四十三年(1910)に建てられた馬頭観音と美濃路一里塚跡の石碑(下中央)があった。
かっては堤の南北に一里塚があったようである。
上にのぼって、また、堤の道を行く。 入方水防小屋あたりで、道は左右にカーブしているが、右手に紀文フードケミファーの工場が見える。
しばらく行くと、県道171号線に出たが、道の対面に、「 歴史の道 鎌倉街道 美濃路 縁結びの結神社 0.6km 照手姫ゆかりの町屋観音堂 0.5km 」 、の大きな道案内板(左下)があった。
美濃路は町屋観音堂の前を通るので、県道を横切り、車通行禁止になっている堤の道を歩く。
道の右側に倉稲魂神 米の宮之趾の標柱があり、結上村区民一同とあるが、かっては五穀豊穣を願う神様の社があったのだろう。
その先左側には白山神社がある。
少し歩くと、堤の右下に日本庭園のまちあい公園があり、その先の道脇に町屋観音堂(右下)があった。
お堂には照手姫(てるてひめ)ゆかりの十一面観音が祀られているというが、戸が閉まっていて、拝めなかったのは残念である。
町屋観音堂の脇の歴史の道の案内板には、
『 この観音堂は、嘉応年間(1169~1171)に建立された結神社とほぼ同じ時期に参道の東に建立されました。
明治二十四年(1891)の濃尾地震で本堂が倒壊し、また、揖斐川改修(1904)でこの地は河川敷になり、その為、二十九年の間、民家に御本尊は預けられました。
大正八年にこの地に本堂が再建されましたが、傷んだため、平成六年に 現在の建物が建立されました。
御本尊の十一面観世音は、聖徳太子の時代の栴檀の木で彫刻された観世音で、頭上の一寸八分(約6cm)の黄金仏は照手姫の守り本尊であります。
郷土の文学者、岡田垣斎氏の古文書並びに古来よりの伝えによれば、 「
その昔、応永三十年(1424)頃、当地に霊告により、照手姫は小栗判官との再開を願望し、結大明神に七日間の祈願をしました。
明神が姫に告げられるのに、 「 願望叶えさすべし。 然し、守本尊は我に有縁の尊像なれば当社に納めよ!! 」 といわれ、
姫は成就することを喜び、名残惜しくも明神(結神社)に納められた。
その後、明神は、 「 この尊像は当地に有縁の像なれば観音の上に載せ、諸民に拝ませよ 」 と告げられる。
以後、守本尊は、十一面観音の頭上に祭り、結神社と共に縁結び、安産の神として、村民等しく崇拝の的であります。 』 とあった。
照手姫といえば、歌舞伎、浄瑠璃にもなった小栗判官(おぐりはんがん)物語で、藤沢の遊行寺や熊野大社とも関係がある。
小生は中山道と東海道そして熊野古道を歩いたが、照手姫伝説は鎌倉街道だった幾つかの宿場に今も残っていた。
この地も鎌倉街道の間の宿があったところであるが、思わぬところで再開できた感があり、嬉しい。
町屋観音堂を過ぎると道が二手に分かれる。 美濃路はまっすぐに行って揖斐川を渡るが、小生は少し寄り道。
道を右折すると、結大明神ともいわれる結神社があり、鳥居前の案内板(左下)には、
『 神社の創建は、第八十代高倉天皇の嘉応年間(1169)と伝えられる。
祭神は、高御参霊尊(たかむすびとのみこと)、天御中主尊(あめのみなかぬしみこと)、
神御産霊尊(かみのむすびのみこと)の三神で、社名はこの御三神を 「 むすぶ 」 に由来し、
縁結びのほか諸願成就に霊験あらたかと伝えられ、建治三年(1277)、十六夜日記の作家、阿仏尼が京から鎌倉に下る途中、
この社を頼ね、「 守れただ 契りむすぶ神ならば とけぬうらみに われ迷はさで 」 と、詠んでいる。
なお、明治三十六年四月の揖斐川改修工事により、これまでの場所は河川敷となったため、現在地に移転した。 』 、とある。
境内には、江戸時代後期、嘉永六年(1855)に不破郡徳光村の堀小六と嘉七により寄進された彫刻燈明(右下)や
江戸時代中期、寛政五年(1793)に向井大和守と保田加賀守により寄進された彫刻燈明があった。
街道に戻り、直進すると揖斐川の土手に突き当たった。
江戸時代には、この奥あたりに佐渡の渡し(さわたり)があった。
渡しには、常時、渡し船が二艘、予備として鵜飼船が二艘用意されていた、というが、土手には登れないので、右折する (左下写真)
そのまま進んで、堤防道路に上ったが、車の通行が多くて危ない。 土手の向こうは河川敷(中央)で、畑になっている部分もあるが、空き地や雑草が生い茂っている土地も多い。
この河川敷のどこかに結神社も町屋観音堂もあったのだろう。
今は平穏に見えるこれらの土地は、江戸時代には、至るところに小さな川が流れ、その他の大部分の土地も湿地で、常に洪水の心配に晒された。
防衛策として、集落の周囲に堤を作ったのが輪中で、ここの住民はごく最近までそうした暮しをしてきたのである。
木曾三川の被害を防ぐ工事により水の被害はなくなったが、その過程で、結神社や町屋観音堂の移転、そして、米の宮の消滅などがあったのである。
集落で見た雲晴寺の標柱(右)は大きくて立派なのに、奥の朽ち果てたような墓地はそれを象徴したような気がした。
木曾三川の被害を防ぐ工事は今も遊水地工事に続くことを知り、水との戦いは大変だなあ、と思った。
佐渡の渡しは残っていないので、上流にある長さ五百二十メートルの新揖斐川橋の左側、歩道部分(左下)を歩いて渡る。
この橋は比較的新しく、上流側が昭和四十七年、下流側は昭和六十一年に架橋された。
国道21号は対向二車線だが、橋はもう一車線追加できる構造になっているが、現在はちょっと休憩という車が駐車するスペースになっていた。
川がなくなったと思ったところの橋の上に大垣市の標識があり、ここから大垣市和合新町である。
橋を渡ったところに、大垣市東町の矢印があったが、堤防上の道を下流へ向って、三百メートル程歩くと、堤の右下に佐渡常夜燈(中央)が建っていた。
広報おおがきの平成16年版に、
「 市教育委員会は10月28日、東町1丁目地内揖斐川右岸堤上にある佐渡常夜燈を市重要民俗文化財に指定しました。
縦横約2メートル、高さ4メートルを超えるこの常夜燈は、美濃路の佐渡の渡しの航行安全祈願、航路標識および伊勢両宮への献燈のため、
嘉永7年(1854)に建立されました。
改変されることなく現在に残るその姿は、江戸時代の街道交通や民衆の生活を知る上で、非常に価値の高い民俗資料です。 」 とある。
常夜燈の先の道を下りて、西へ向うのが美濃路である。 道を進むと、鉤型に曲がる直前の右手に弘法大師堂があり、曲がった先には、立派な門の家(右)があった。
門には宮脇酒造合資会社の標札があり、磯波という銘柄のお酒を醸造している造り酒屋だった。
コミニティバスの西東町のバス停があるが、渡しのあったところは、江戸時代は沢渡東町だった。
道は右にカーブする右側に美濃路を解説した看板があった。 看板のところで、西に方向を戻し、川に沿った道を歩く。
交差点を越して少し行くと、小野小学校があり、その先の右側の道角に教如上人御旧跡の石碑(左下)が建っている。
ここは専勝寺の入口で、石碑は、東本願寺初代法王となった教如上人が関東より京へ向かう際、それを阻止しようとする陣営からこの寺の住職、了栄が命を惜しまず上人を守り抜いた故事を示すものである。
天然温泉とある小野交差点を直進する。 やがて左手に変わった建物群が見えてくる。 大垣市ソフトピアの建物である。
歩道の右側を歩いて行くと、小さな川を渡る橋の手前の桜の木の下に、美濃路と刻まれた標柱(中央)が建っていた。
標柱の片側には、 鎌倉街道 小野の長橋跡 と刻まれている。
小野の長橋は、平安時代から京都の歌人によく知られた名所だったようで、多くの歌が詠まれている。
このあたりは加賀野という地名であるが、両脇は畑だった。
道が細くなり、左に緩やかにカーブするあたりは今宿というが、鎌倉街道の宿駅が置かれたことから名付けられたという。
美濃路は、その先、高橋接骨院前で直角に左折し、寶光寺(右)の前を通る。
八幡神社の鳥居前、左に石仏を祀ったお堂を通ると、大通りに出た。 このあたりは三塚の集落である。
交差点を右折して、COFFEE HOUSE RANZUを左に折れ、すぐの日電精密社員会館を右に曲がる。
東中学校の校庭横の道を進むと、やがて東小学校(左下)に突き当たって街道は消えてしまった。
しかたなく、大通りの小学校の前に出ると、新規川の手前の道の左側に、三塚の一里塚碑(右下)があった。
三塚一里塚は跡形もなくなくなっているが、かってはここにあったのだろう。
道の右手にはロックシティというジャスコ系のモールがあるが、これは昭和四十年頃は日本の花形産業だった繊維工場の跡地である。
新規川の橋を渡ると藤江町で、江戸時代にはこのあたりから大垣(おおがき)宿だった。
「 大垣宿は、宿場町の東西が二十六町十四間(2.9キロ弱)の距離で、天保十四年の宿村大概帳によると、
家数九百三軒、宿内人口五千百三十六人で、旅籠は十一軒、本陣は一軒、脇本陣二軒、問屋場は一ヶ所だった。 」
伝馬町交差点からは伝馬通(左下)となる。
右側にトミダヤというスーパーがあり、その隣に実相寺という寺と秋葉神社が建っていた。
また、大垣市指定重要文化財 大垣祭山車の松竹山車と恵比寿山車の蔵があった。
道の右側には、順念寺など、幾つかの寺がある。
伝馬西交差点の右手にも、東本願寺別院(中央)があるが、これらは城下町だった大垣宿の防備を兼ねた寺だったのだろうか?
伝馬西交差点を直進すると、右側に金賞受賞紅梅や大垣城などの銘柄を書いた連子格子の家があった。
その先、右側には、火の見櫓が建ち、変則的な交差点があった。
美濃路の名古屋側の入口があったところで、名古屋口御門跡の標柱(右)が建っていて、案内板には、
「 名古屋方面からの入口に当たるので、東総門が建てられていたところである。
東総門は、明け六つに開き、暮れ六つに閉まった。 門の近くには二重の櫓が設けられ、土塀が巡らされた。
ここには中山道の赤坂宿へ向かう門も併設された。 」 とある。
道を挟んだ向かいには稲荷神社があり、案内板の裏側には、水門川が流れ、ちょっとした小公園になっていた。
江戸享保年間の地図を見ると、交差点の東側はお濠で囲まれていたように描かれているが、水門川がお濠の役を果たしていたのだろう。
美濃路はここで左に折れて、南へと向かう。 大垣宿は、戸田氏十万石の城下町だったので、大垣城を避けるように道が曲折していた。
名古屋口門から西の総門の京口門までは、十町五十九間(約1.1キロ)の長さだったが、その間に十の曲がりがあった。
ここが一番目の曲がりである。 一筋目の赤いポストのある交差点を右折するが、これが二番目の曲がり。
少し歩くと、きれいなタイルの敷かれた本町商店街通りに出るが、ここで左折する。 これが三番目の曲がりである。
交差点の右側の元公衆電話ボックスの脇に高札場跡(左下)の案内があり、 「 昭和初期までは掲示板として使用されていた。 」 とあった。
なお、右手の水門川の貴船橋脇には貴船神社が祀られていた。
アーチのある本町通りを歩くと、右側の本町薬局の先に田中屋煎餅総本家がある。
その前の郵便ポストの脇に、美濃路大垣宿脇本陣跡の標柱(中央)が建っていて、傍らの案内板には、
「 本町大手北側にあって、もと関ヶ原の役で、大垣城を守った七騎の一人、松井喜右衛門によって創立された。
その後、戸田家の入封に随従した上田家が勤めるようになった。 この脇本陣は本町本陣と呼ばれ、間口十二間半、奥行き十六間半余で、坪数百二十七坪余もの格式ある建物だった。 」 と、あった。
近くにあったうどん屋で味噌にこみうどん定食で食事をしたが、名古屋と麺の種類が違っていた。 大垣は関西系に入るので、岐阜以東とは味が違う。
その先の交差点を右折すると、右側に小さな祠、そして、水路があり、水路に沿って、大手門趾の小さな標柱と廣峰神社の鳥居(右)があり、左側の案内板には、大手門の説明があった。
「 大垣城の惣郭には、七つの門(大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、龍ノ口、小橋口)が設けられていたが、
その中でも城の正門である大手門は高麗門と櫓門の二重に城門を配した枡型形式の大きな門だった。
明治四年(1871)に大手門が取り壊されたが、その枡型跡に廣峰神社が移築した。
大垣城は三重の濠で囲まれ、大垣宿も外濠の中にあったのである。
右側の水路は当時の内堀だった。 」
大垣城は、水門川を天然の外濠に採り入れた要害堅固な平城で、美濃守護だった土岐氏一族の宮川吉左衛門尉安定により、天文四年(1535)に創建されたと伝えられている。
慶長五年(1600)の関ケ原合戦では、西軍の石田三成の本拠地となり、壮絶な攻防戦がくり広げられた。
もし、石田三成がこの城で篭城していたら、一日で戦は終わらなかったといわれるくらい、堅固な城だったようである。
四層四階の天守閣が昭和十一年(1936)に国宝に指定されたが、昭和二十年(1945)七月の戦災で焼失してしまった。
現在の天守閣(下中央)は、昭和三十四年(1959)四月に再建されたものである。
街道に戻り、南下を続ける。 このあたりは、江戸時代、旅籠や商家が並び賑わっていた所である。
本町2交差点で県道を渡り、直進すると、一筋目の交差点の左向こう角にあるハウジング金物センター前に、「 左江戸道 右京道 」 と書かれた本町道標(左下)がある。
「 この道標は、美濃路と竹鼻街道の分岐点に文政九年(1826)に建立されたものを昭和四十八年に復元再建したものである。
宝暦の治水工事の完成と宝暦十一年の駒塚の渡しの開設により、竹鼻街道は美濃路の短絡道として大いに利用された。 」 とあった。
反対側の呉服屋のショーウインドウには、「 この通りは旧美濃路です 」 と書かれた標札が貼ってあるが、ここで右に曲がる。
これが四番目の曲がり。 交差点に出たら、左折する。 これが五番目の曲がり。
南へ二筋行った右角に、美濃路 大垣宿問屋場跡(中央) の標柱が建っている。
ここが六番目の曲がりで、この家の角を右折する。 傍らの案内板には、
「 大垣宿の問屋場は本町にあったが、寛文の頃にここ竹島町に移った。 問屋場は飯沼家が本陣役と兼帯して勤めていた。 」 と、あった。
右折して西へ向かうと、右側の白い塀を背に、明治天皇行在所跡の石碑(右)があり、案内板が建っていて、
「 大垣宿本陣は、永禄の頃、沼波玄古秀実が竹島町を開き、初めて本陣を創立した、と伝えられる。
以後、本陣役は、宝暦五年(1755)には玉屋岡田藤兵衛が勤め、天保十四年(1843)には飯沼定九郎が問屋を兼ねて勤めた。
明治天皇は、明治十一年(1878)の十月二十二日、東海、北陸御巡幸の帰途、美濃路大垣宿旧本陣だった飯沼武右衛門邸に宿泊されている。 」
と、あり、奥の竹島会館の玄関には、 美濃路 大垣宿 竹島本陣跡 の看板が架かっていた。
ここが江戸時代大垣宿の本陣があったところである。
竹島会館の小さな神社の境内に、芭蕉の伊吹塚(左下)があり、次の句が刻まれていた。
「 其のままよ 月もたのまし 伊吹山 桃青(芭蕉) 」
本陣跡を過ぎると広い通りに出るが、これが県道57号大垣停車場線である。 この道を左折
し南下する。 これが七番目の曲がりである。 この角にある家は、街路樹で妨げられて良く見えないが、大きく立派な町屋
である。
一筋目の信号交差点を右折して、県道を越えて直進する。 これが八番目の曲がりである。 ここからは俵町で、
その先の右側にある白壁の卯建が上がった家は、創業、宝暦五年(1755)、柿羊羹のつちや本店(中央)である。
柿羊羹は、槌屋四代目が天保九年(1838)に考案し、五代目の明治二十九年(1896)から竹の容器が使われるようになった
、という。 槌屋を通り過ぎると、次の道の所から道幅が広く
なった。 広くなった道の左側の歩道を歩くと、史跡 飯沼慾斉邸跡 の石柱があった。 飯沼
慾斉は、美濃国 大垣の医者の飯沼長顕に学び、その後、京都に出て本草学を修めた、という人物である。 石柱を過ぎ
た交差点の右側には、飯沼慾斉先生と書いた銅像が建っていた。 美濃路は交差点を左折し、南へ向う。 これが九番目
の曲がり。
牛尾川に架かる京橋の手前左側に、大垣城西総門跡(美濃路 京口御門跡)の標柱(右)が建っていた。
西総門は、京都方面
からの出入口だったので、京口
門と呼ばれていた。 門の近くには二重の櫓を組み、周りには土塀が巡らせていた。 この門は朝六つから暮六つまで
開かれ、外濠に架かる橋を通じて通行できた。
橋を渡ると、この辺りから船町で、右手にはトイレや観光ボランティアガイドセンターがあり、
左側には、約二メートルもある大きな円柱状の船町道標(左下)があった。
「 文政年間(1818~1830)に京口御門の南の美濃路に建立されたもので、上部には旅行安全を願い、梵字が、その下に、
左江戸道 右京みち と書かれている。 第二次大戦で被害を受けたのを修復した。 」 、とあった。
右側の川は水門川で、江戸時代には大垣城の左側の外濠になっていた。
右手の貝殻橋を渡ると、奥の細道むすびの地記念館(総合福祉会館)があり、その庭には芭蕉の句碑が二つあった。
「 ふらすとも 竹植る日は みのと笠 芭蕉 」
「 さびしさや すまに勝ちたる 浜の秋 はせお 」
街道に戻り、水門川の左岸を下ると、住吉公園碑と飛騨、美濃さくら三十三選の地 奥の細道むすびの地の石柱が建っていた。
川沿いにはいろいろな碑などがある。 細くて背の高い碑が、奥の細道文学碑(中央)で、碑面には奥の細道のむすびの章の一節が刻まれている。
次にあるのが如行の霧塚といわれるもの。 「 霧晴ぬ 暫ク岸に 立給え 如行 」
如行は大垣藩士の近藤源太夫で、この家に人々が集まって、芭蕉の無事の到着を喜びあっている。
赤い手摺と欄干に疑宝珠が乗った木造の橋の住吉橋の手前に、芭蕉ゆかりの句碑の案内碑が設置され、地図と写真入りで詳しく案内されていた。
赤い橋から南を見ると、水門川に一隻の船が繋がれ、その先に木造の高い住吉燈台と神社の社殿が見える(下中央写真)
近づいてみると、その脇に船町港跡と住吉燈台と書いた案内板があった。 それによると、
「 船町港は大垣と桑名を結ぶ水門川の川港で、江戸から明治にかけて交通の要衝として栄えた。
明治十六年には、大垣と桑名を結ぶ蒸気船が運航した。 (中略) 住吉燈台は元禄(1688~1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てたもの。
高さ八メートルの木造、四角の寄棟造りで、最上部四方には油紙障子をはめこんであり、形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。 (大垣市教育委員会) 」 と、あった。
享保年間の大垣城下の地図を見ると、このあたりは濠が南に続き、その西側は土塀が囲んでいる。
この先の高橋の先から川幅が広くなっていて、船入と表示されている。
船町港には、停留されているような船が活躍して、水門川から揖斐川、そして伊勢や桑名へと結び、舟運により大垣は 経済都市として発展した、という。
川燈台の隣の赤い鳥居は住吉神社のもので、住吉神社は海上の守護神を祀る(下中央写真)
住吉神社を過ぎると、高橋交差点で、左右の道は県道31号岐阜垂井線である。 美濃路は、交差点を右折し、右側の高橋を渡り、水門川を越える。
これが最後の十番目の曲がりで、大垣宿はこの先で終わる。
橋を渡った右側に、住吉灯台、船町港跡の馬鹿でっかい観光案内板があるが、
その隣に、 奥の細道むすびの地 、側面に、芭蕉生誕三百六十年記念2004年 と書いた標柱が建っている(下左写真)
「 松尾芭蕉は、元禄弐年(1689) 三月二十七日(太陽暦五月十六日)、深川の庵を出て、東北地方から日本海側に出て、
敦賀に入ったのが、八月十四日(同九月二十六日)であるが、終焉地の大垣にはいっこうに現れなかった。
しびれをきらした門下の一人、路通が敦賀まで迎えに行き、芭蕉が大垣に着いたのは、八月末(同十月上旬)である。
如行を始め、全員で芭蕉の無事を喜んだ。
しばらく逗留してから、九月六日(同十月十八日)、船問屋の木因宅から曽良と共に、伊勢神宮の式年遷宮を見るため、大垣を後にした。
およそ百六十日に及ぶ奥の細道は旅の疲れが抜けぬまま、多くの門人に惜しまれながら、桑名に向かったのである。 」
その様子を描いたのが、芭蕉翁と木因翁と書かれた台座の上の銅像で、伊勢へ旅立つ芭蕉とそれを見送る木因である(下右写真)
像の先には、谷木因が芭蕉の歓迎の意を込めて、建立したと伝わる道標があり、表面には「 南いせ くわなへ十り ざいがうみち 」 と書かれている。
その奥には、四角い石に丸く掘り込んだ中に、奥の細道結びの句が彫られている。
「 蛤の ふたみに別 行秋ぞ 芭蕉 」
住吉公園は、先程歩いた水門川の東側とこちらの西側を含めたもので、中心をなすのは芭蕉と弟子たちの句碑である。
俳句好きの方はゆっくり訪れられることをお勧めする。
美濃路は高橋町交差点から西へ向って、県道31号大垣垂井線を進む。
ここからしばらくの間、古い町屋が多く残っている。
二階が低く格子造りで袖壁を持っていたり、黒い腰壁に覆われた大きな二階建ての蔵があったり、
両側に卯建のある家があったりする (左下写真)
船橋4交差点を越えた左側の黒い漆喰壁の家の先の道路に、 みつめはし の石柱があった。
船橋5交差点と船橋6交差点を越えると、左側の常楽寺があり、旧戸田藩祈願所、弘法大師が四十二歳の時作った毘沙門天王を祀っている、とあった。
その先は船町交番交差点で、地下道をくぐり、対面に出る。
左側の工業高口バス停には、愛宕神社の鳥居(中央)があり、中に入ると玉の井山車と恵比須山車の格納庫があり、小高いところに社殿があった。
神社の隣の正覚寺入口には、 史跡 芭蕉 木因遺跡という大きな石柱が建っている。 中に入ると正覚寺の本堂の先に、いくつかの石碑が建っている。
案内板によると、
「 大垣市指定史蹟 芭蕉 木因遺跡 - 俳聖松尾芭蕉の大垣来遊(4回)は、俳友谷木因が大垣にいたためである。
木因は、名は正保 丸太夫と称し、木因はその号である。 船町の船問屋の家に生まれ、北村季吟の門に入り、俳諧を学んだ。
芭蕉とは同門であったので、壮年から交わりが深く、貞享、元禄年間に大垣俳人の先駆をなし、大垣藩士近藤如行をはじめ多くの門弟を芭蕉門下に入れた。
元禄七年(169)、芭蕉が大阪で病没すると、木因はこれを深く悼み、船町正覚寺に路通筆 芭蕉翁 追悼碑を建てた。
木因の死後、芭蕉と木因の因縁をしのび、木因碑を建てて、芭蕉 木因遺跡 とした。 大垣市教育委員会 。 」 と、あった。
芭蕉翁と書かれた丸い自然石は、芭蕉没後百日目の追善法要として建立された追悼碑で、路通の筆で、芭蕉翁 元禄七戌年十月十二日 と、刻まれていた。
左側の丸い石碑が木因碑だろうか? (右下写真)
その他にも、 「 あかあかと 日はつれなくも 秋の風 芭蕉 」 などの句碑があった。
道路を隔てた向かいには水神神社がある。 大垣はかつて揖斐川、水門川、杭瀬川などの河川を利用した舟運が盛んで水の町と言われたことと関係がある神社なのだろう。
街道を西に向かう。 左側のうだつがあがった家の隣には千石餅の看板の洋和菓子店。
その先の久瀬川町2交差点(中央)で、養老鉄道(旧近鉄養老線)を踏切で渡る。
次いて、久瀬川町3交差点で、右に西小学校、左側に杭瀬川郵便局がある。
久瀬川町4交差点を越えると、雪を被った伊吹山が正面に大きく見えた。
京阪近鉄バスの久瀬川四丁目のバス停には、 「 有難や 雪をかほらす 南谷 芭蕉 」 と書かれていて、大垣は芭蕉一色と思った。
美濃路は、小さな橋が架かる山王用水を渡ったところで左折して進むと、親鸞聖人御旧跡 永寿寺 の石柱が建っていたが、
ここで右折すると古い家並み(中央)が現れた。 ここは左側の道を歩くが、袖壁を持った家など、古い家が残っている。
左に緩くカーブした先の寺院を過ぎると、道の右側は、杭瀬川の土手で高くなっていた。
左側の大きな古い家は商家だったように思えるが、背の高いフェンスに囲われていた。
右側には秋葉神社の大きな標柱があり、奥に石の鳥居と神社があった。
その先で右折し、杭瀬川(くいぜがわ)に架かる旧塩田橋を渡る。
橋の手前には、お地蔵様と思えるお堂(右)があった。
なお、杭瀬川を舞台に、慶長五年(1600)九月十四日、関ヶ原の戦いの前哨戦の杭瀬川の戦いが行われている。
「 慶長五年(1600)九月十五日午前八時過ぎ、霧が晴れた関ヶ原で、天下分け目の関ヶ原の戦いが始まったが、
それに先立つ九月十四日、杭瀬川で東軍と西軍の戦いがあった。 西軍の石田三成は、慶長五年(1600)八月十日、大垣城に入城し、西軍の
本拠地とした。
東軍の徳川家康は、九月一日、江戸城を出発し、十三日に岐阜に到着。 十四日の未明に出発し、赤坂の岡山の本陣に入った。
家康の到着の知らせが、大垣城に届くと、西軍の士卒が動揺し始めたので、島左近勝猛は、三成の許可を得て、蒲生郷舎と共に、杭瀬川に向かった。
島左近は、兵五百人を率い、一隊を伏兵として残し、池尻口から川を渡り、稲刈りをして、敵を誘いだした。 東牧野には、東軍の中村一栄がいた。
挑発にのって、部将、野一色頼母は、兵を率いて西軍を攻撃した。 島左近は、偽って敗れ逃走したので、東軍は川を渡って追撃した。
ところが、南一色付近で、西軍の伏兵が現れ、左近の本隊が引き返してきたので、挟み打ちにあい、中村隊は苦戦に陥り、頼母以下三十余人、雑兵百数十人を討たれた。
三成等は、この戦勝を喜び、大垣城下で首実験を行った。 その夜、石田三成は、なにを思ったのが、雨のぬかるみと暗闇の中、決戦の場になった関ヶ原に向かったのである。
大垣城は三重にお濠で囲まれた水城だったので、ここで守っていたら、結果が変わったかも知れない、という意見もある。
この戦いが、西軍唯一の勝ち戦だった。 」
橋を渡ると静里町で、左側に、塩田の常夜燈(右下)がある。 傍らの案内板には、
「 常夜燈は、高さ約四メートル三十センチの銅板葺き(当初は茅葺き)の木製で、彫刻が施された豪華なもので、
明治十三年(1880)八月に、杭瀬川を往来する船の安全祈願と航路標識と伊勢両宮への献燈として、塩田港の両岸に建立された。
江戸時代の後半になると、中山道の赤坂宿の赤坂港と東海道桑名宿の桑名港との川運が盛んになり、昭和初期まで続いた。
その中継港としての塩田港には、常時二十~三十隻の船が停泊し、船頭相手の銭湯、米屋、雑貨屋等の店が軒を並べ、大変賑やかだった。 」
とあるが、右側には、袖壁を持った二階建ての家が数軒(右下)が建っていて、塩田港時代の名残りを感じた。
道は左にカーブする。 右側の長源教寺の先には静里第一陸閘があった。
陸閘(りくこう)とは、堤防の一部を通行出来るよう途切れさせてあるが、増水した時には両側をゲート等により塞いで、水の浸水を防ぐ施設のことである。
道なりに右に曲がった左側には秋葉神社、その先の左手に法永寺があるが、そのまま歩くと、静里バス停がある県道31号に出た。
道の反対側に美濃路があるのだが、車の通行が多いので、道を横断できない。
その先の静里町交差点(左下)まで進み、交差点を右折して、県道の反対側にでた。
そして、先程の通れなかった道の反対にある車が通れない細い道に入り、百メートル程歩くと三叉路にでた。 ここを左折して進むのが美濃路である。
右側の杭瀬川の土手の上には谷汲山の常夜燈が建っていて、ここにも静星陸閘がある。
街道をしばらく歩くと、左側に久徳(きゅうとく)一里塚(中央)があり、傍らの案内板には、
「 この一里塚は、東海道と中山道を結ぶ美濃路に構築されてもので、南側だけであるが、榎が残るなど、ほぼ原型に近く貴重な史跡である。 」 と、記されていた。
冨田一里塚には、両側の一里塚が残っていたが、ここは南側だけであった。
塚の上の榎は想像していたより大きく、左右、そして、天に向かって伸びていた。 道の反対にあるのは瓊瓊杵(ににぎ)神社(右)である。
「 瓊瓊杵尊は、天照大神の孫で、高天原から地上に降り立ったとされる神で、高天原と地上をつ
なぐ神として、歴代の天皇の祖先神になったとされる。 また、瓊瓊杵尊が高天原からもって来た稲の種が地上での稲作の起源になったともいわれ、穀物の神様として崇められているが、瓊瓊杵神社という神社の名前は珍しい。 」
左側の民家の前には、常夜燈があり、その先には火の見櫓が見える。
火の見櫓の右手に静里小学校がある。 少し歩くと、太平洋工業の工場前(左下)に出た。
美濃路はこの先で、消滅しているので、工場前の道を左折し、県道に出て、しばらく県道を歩く。
中曽根バス停を過ぎると、道の右手の田畑の先に、山が削り取られ変形した風景が見られるが、その麓にあるのが中山道の赤坂宿である。
美濃路は、大垣自動車学校前で右折し、一筋目の道を右折すると、復活する。
その先の右側に社があり、交差点はやや右に曲がっているが、直進すると、左側に白髭神社(中央)がある。
「 白髭神社は、滋賀県高島市鵜川にある神社が有名であるが、祭神は猿田彦命である。
延命長寿白鬚の神として広く信仰を集め、道祖神と共に、交通の安全を司る神でもある。 」
道は、その先の大谷川に突き当たり、県道に合流してしまったので、大谷川に架かる橋を渡る。
橋を渡り終えると、ここは少し高台になっているので、正面に雪を被った伊吹山が大きく見えた(右下写真)
その先の道は、整備途中か、行先がフェンスになっていた。 美濃路は北に行くはずなので右折し、川の土手の道を歩くが、
心配になって土手道を下り、民家の間をくぐり、西側の道に出て北上すると、左側に立源寺があったが、この道が美濃路のようである。
その先の左へ入る道の左側に、二基の道標(左下)があり、手前の小さいのは、「 従是 南宮社 近道 」 と書かれた道標、
後の背の高い道標には、左側の ← の下に、 大垣 岐阜 、右側の → の下に、垂井 京都 とあり、その下に 道 と刻まれていた。
その先右側の新和建設の敷地の一角に、南宮神社の四角の標柱と南宮大社元鳥居址の丸い柱が建っていたので、垂井にある南宮大社にはこの道が近いのだろう。
その先の交差点で左折して進むと、右にカーブし、また、左に曲がる。 左側の奥に寺院があり、
入口の右側に曹洞宗二十九番瑞雲山龍松禅寺、左側に北面延命地蔵尊という石柱が建っていた。
その先は右にカーブ、そして、左にカーブすると、左に敬恩寺がある。 とにかく、道がくねくねと曲がっている。
北へ向かって進むと、左側に大きな大神宮の常夜燈(中央)があり、常夜燈とは関係のない大きな案内板があった。
隣の赤い幟がはためく寺(右)は慈應寺で、この寺に祀られている仏像に関するものだろう。
道の両脇には田圃が拡がっているが、その先の農地には住宅化の波は押し寄せているようで、ところどころに住宅(左下)が建っていた。
その先の国道二十一号のガードの下をくぐると直ぐに左に曲がり、国道の脇の道を西に向かう。 右側の村社八幡神社の石柱の奥には八幡神社の建物が見える。
そのまま歩くと、道は国道21号に合流し、美濃路は消えてしまった。
仕方ないので、国道を歩く。 長松町東交差点で地下道をくぐり、反対側に渡る。
そのまま国道を進むと、左側にジェームスという黄色の看板が見える。
右側に、狸の置物があり、神仏両部 福乃宮とある建物は、新興宗教のものである。
やがて、左からきた県道31号岐阜垂井線と斜めに交差する綾戸口交差点(中央)で、斜め右の県道を行く。
右側に飛行機の形をした看板の喫茶店があった。
その先から、道は左にカーブ。 左側に御嶽教不破神明教会の看板を出している家がある。
その先の右側に菊の御紋章と付いた常夜燈(右)は、鉄柵に囲まれ、伊勢両宮献燈と書かれていた。
美濃路最後の一里塚である綾戸の一里塚の跡は、残念ながら見付けられなかった。
美濃路はなだらかに、左、右にカーブしながら、伊吹山に向かって進んでいく。
その先には、明野山地蔵院光堂寺の案内板もあった。 この集落は、落ち着いた風情だが、街道を走る車の数が多い。
右側に、村社六社神社の石柱と一対の常夜燈と石の鳥居(左下)があり、奥へと参道が続いていた。
。
六社神社を過ぎると、JR東海道本線の踏切を斜めに渡ると、右手に東小学校がある。 道の右側の歩道の電柱に、
これより美濃路松並木の標識があり、その標識に
「 ここは垂井町綾戸、熊坂長範物見の松200m→ 」 と、あったので、右側に入って行く。
その先の三叉路には、細長い道標(中央)があり、傳武内宿祢公墳 長範物見松 ○○北一丁、とある。 ○はよく読めなかった。
そこから百メートル程行くと、右側は東小学校の敷地、左側に小山のようなものが現れたが、これが綾戸古墳(右)である。
「 綾戸古墳は、平地に位置する古墳時代中期以降(五世紀末から六世紀初頭)の比較的大規模な周湟を持った
円墳であることから、この地方を治めていたかなりの豪族の墓と考えられ、竹内宿禰の墳墓という伝承もある。 」
傍らの 謡曲 熊坂 と熊坂長範の案内板には、
「 平安時代の盗賊、熊坂長範は、平泉に下ろうとした金売り金次を襲おうとしたが、義経に殺された、という設定が謡曲 熊坂 であるが、
長範が物見した松は、中仙道と東海道画左右にある中間地にあり、草がぼうぼうの青野ヶ原だったといわれるが、
付近には古墳があり、濠があった、という。 」 と、書かれていた。
古墳上の松から旅人を物色していたことから、物見の松といわれる、とあるが、円墳を一回りすると、数本の松があったが、
これであるという説明はなかった。 あくまでも、伝説上の松のようである。
美濃路に戻ると、美濃街道で唯一の松並木(左下)が現れた。
「 松並木は、右側のユニチカのゴルフ練習場あたりから始まり、ユニチカの工場に沿って、約一キロの間に、数十本の松の木が残っている、という。
右側が多いようだが、左側にもあって、両側が松というところもあった。 」
博愛会病院を過ぎると、最後の一本と思える松の下に、 この道は美濃路 ここは垂井町 の表示があった。
松並木がなくなり、信金やドラッグストアのある交差点を渡ると、右側に垂井郵便局がある。
少し歩くと、右側の美濃路 追分蕎麦というの看板がある建物のの先に、「←中山道 美濃路→」の標柱(中央)が建っていた。
ここは、右側から来た道は中山道と左から来た美濃路が合流するところで、垂井追分と呼ばれていたところで、ここには、自然石の道標と案内板(右)が建っていた。
「 この道標は、宝永六年(1709)、垂井宿問屋、奥山文左衛門が建てたもので、高さ一メートル二十センチ、幅四十センチ、
表面には、 是より 右東海道大垣みち 左木曽街道たにくみみち 、裏面に、宝永六年巳丑十月 願主奥山氏未平 と、刻まれている。
垂井宿は、中山道と東海道を結ぶ美濃路の分岐点にあったので、たいへん賑わった。
宿場の東にある追分道標は、ここを旅した人が迷わぬように建てられたものである。 」
この道標で、宮宿から、七の宿場を経てやってきた十四里二十四丁十五間(約60km)の美濃路は終わりである。
平成十六年に中山道を歩いてここを訪れた時、いつかは美濃路を歩こうと思ったが、その望みを果たすことができた。
日が傾き始めた相川橋を渡ると、垂井宿の案内板に再会 (下写真)
垂井宿は中山道の旅で歩き済みなので、JR垂井駅まで歩いて、今回の旅は終わった。
なお、垂井宿の様子は、 中山道の垂井宿をご覧下さい。