矢橋道(やばせみち)は、東海道の脇往還で、草津宿のはずれの矢橋道標(草津市)を追分として、琵琶湖方面へ三キロほど行った矢橋港までの街道である。
江戸時代、「 瀬田へ回れば三里の回り、ござれ矢橋の舟に乗ろ 」と、歌われたように、大津へは瀬田橋を経由する陸路よりここからの船便の方が早く、歩かないで済むので、利用者が多かった。
八橋からは多くの船が行き来し、その様子は近江八景の矢橋の帰帆として、有名だった。
平成二十年四月二十三日、矢橋道を歩いた。
矢橋道は、東海道の旧矢倉(やぐら)村の姥ヶ餅屋の角が起点で、現在も、寛政十年(1798)に建てられた、「 右やはせ道、これより廿五丁 」 、と刻まれた道標が立っている (右写真)
矢橋道は、この角を右折し、狭い道を歩いていく。
江戸時代、 「 瀬田へ回れば三里の回り、ござれ矢橋の舟に乗ろ 」 と、歌われたように、大津へは、瀬田橋を経由する陸路よりも、
矢橋港からの渡し舟の方が距離が短く(湖上五十町ほど、5.5キロ)、早かったようで、のんびりと旅する人は瀬田橋を渡って京へ向かったが、急いだ旅人はこの矢橋の渡しを利用した、といわれる。
矢橋道は三キロほどの道のりであるが、現在は一部はなくなっている。
少し歩くと、左側にお地蔵様と思える三体の石仏が祀られている社があった (右写真)
ここは三差路になっていたが、直進すると、東海道線で遮断されていた。 近くにいた人に聞き、
三差路まで戻り、左折し、道なりに行くと、車道に出た。
ここを左折し、東海道線のガードをくぐり、反対側にでると、道の左手に若宮八満宮があった (右写真)
神社は、古代の古墳の上に建っている、というが、傍らの石碑には、若宮八満宮は、応神天皇を祀る。
応神天皇が東国巡按の時、この地に兵庫を建て、兵器を蔵したことから、兵庫村と称した、という縁起を伝えているとあり、矢倉村はその後の名前である。
村はもともとはここにあったが、膳所藩主、戸田氏鉄による東海道の草津宿拡張に伴い、村ごと東海道沿いに移転させ
られた。 集落が移転したため、神社のみが残された、とある。
先程教えてくれた人の話では、道は神社の先から残っているという話だが、新興住宅地に変わっていて、どの道なのか分らない。
とりあえず、東海道線に沿って歩き、遮断された道の反対側と思えるところで、右折すると、左側に正北向延命地蔵大菩薩と書かれた社があった (右写真)
その先の変則的の交差点で、直進し、ガードレールに沿って歩くと、右側に農家のような家が
あったので、この道だろうと、確信し、進む。
このあたりは、古い家が一部だが、残っていた。
その先にある屋敷門のような建物の左側に、正光寺の石柱があるのだが、門の先に見えるのは鳥居である。
これはなんだろう、と、中に入る (右写真)
天満宮の石柱があったので、神社であると、確認した。
寺はどこか?と思い、左側の空地の奥を見ると、建物があったので、これが正光寺なのだろう。 屋敷門の左側に、草津歴史街道
矢橋道の案内板があり、ここは大塚というところであることが分った。
その先の右側は、広々とした農地で、左側には、光泉中・高校があった。
橋を渡ると、川の下という地名で、虫篭窓の家も残る矢橋道の旧道は残っていた (右写真)
その先は三差路になり、左にカーブして行くと、焼肉屋の先で、県道42号に出た。
このあたりは老上で、県道を横断歩道を渡り、その先の交差点で右折し、川のへりの細い道
を歩くが、すぐに右側から来る県道と合流してしまった。
県道を歩き、矢橋中央交差点を直進すると、少し先に左に入って行く道がある。
この道に入り、しばらく歩くと、信号のない交差点の右側に、三本の石柱が建っていた (右写真)
一番大きな石柱には、正面に、南無妙法蓮華経、左側に、山田あしうら道とあなむら道と刻まれていた。
案内板がないので、隣の御夫人にお聞きすると、江戸時代に東海道ができ、矢橋道が
通じる前の古道で、この道は、現在も民家の路地を通っている、と教えていただいた。
古くは、琵琶湖湖畔には多くの港があったようで、草津にも志那、山田、矢橋の三港があった、という。
左側のべんがらで塗られた家の先には、鞭崎八幡宮がある (右写真)
白鳳四年(676)、天武天皇の命により、大中臣清麿が創建した神社で、聖母大神、住吉大神、高良大神、応神天皇を祀る。
源頼朝が平家を滅ぼし、鎌倉幕府を開き、建久元年(1190)に、
上洛の際、当地を通過し、馬上から鞭の先を八幡宮に向けて、村人に神名を尋ねたことにより、名が付けられた、と案内にあった。
表門は、明治四年の廃藩置県に際し、膳所城の南大門を移築したもので、国の重要文化財に指定されている (右写真)
江戸時代の重厚な造りの門と感じた。
境内には、明治の神社統合令で集められた多くの神社の社があったが、本殿前に、渡海安全、願主舩仲間、と書かれた、天保九年建立の常夜燈が
建っていた。 隣には、湖臨山善行寺という寺があった。
街道に戻り、歩くと、矢橋交差点の一角に、湖帆の郷の石塔が建っていた。
また、道しるべには、梅川の菩提寺(清浄寺)と梅川終焉の地(旧十王堂)と書かれていた (右写真)
この時は、梅川とは何か気がつかないで、訪問しなかったが、近松門左衛門の冥土の飛脚に登場する、大阪淡路町の三度飛脚亀屋の養子忠兵衛と恋仲になった新町槌屋の遊女梅川のこと
で、三百両の封印切りの大罪を犯した忠兵衛が刑場の露と消えた後、江州矢橋の十王堂で、忠兵衛の菩提を弔いつつ、五十有余年の懺悔の日々をおくり、浄土宗清淨寺に葬られた、と伝えられている。
交差点を過ぎて進むと、両脇は住宅街で、その先には、鞭崎神社御旅所の石柱と小さな社があり、そのまま直進すると、矢橋公園に出た (右写真)
公園の中に、「 菜の花や みな出はらひし 矢走舟 」という、蕪村が詠んだ句碑があった。
蕪村の句は、大津の石場へ渡ろうとして、矢走街道を港まできたが、舟の発着時の騒がしい港も、船が出払った昼時の今は、菜の花の黄色と白帆を浮かべた青さが、もやのかかった背後の山々と調和して、まことにのどかな港の風景である、というの意味 (右写真)
矢橋公園の出口には、矢橋の帰帆と書かれた案内板があった。
その先の車道を越えると、琵琶湖湖畔に出た。
江戸時代には、ここに近江八景・矢橋の帰帆で知られる矢橋港があり、安藤広重の浮世絵や近江名所図会などで紹介されるほど有名だった。
矢橋湊から大津の石場まで湖上50町(約5.5km)の舟便があった。
陸路では、膳所まで約三里のため、旅を急ぐ人はこの舟渡しを利用したようである (右写真)
江戸初期までは、比叡おろしの突風で進まなくなったり、舟が転覆する危険もあったが、後期の旅ブームのころには多くの人に利用されるようになった。
室町時代の連歌師宗長が、
「 武士の(もののふの) やばせの舟は 早くとも 急がばまわれ 瀬田の長橋(唐橋) 」 と、
詠んだのが急がば廻れ の語源といわれる。
現在は、矢橋港沖に矢橋帰帆島が造成されてしまい、琵琶湖は見えず、近江八景の矢橋の帰帆の面影はなくなっていた。
そうした歴史的な背景を知ったか、知らずか、のんびり釣りを楽しむ人と小舟がその先には小舟が結索されていた (右写真)
琵琶湖の美しいの風景を楽しみに歩いてきたので、少しがっかりしたが、江戸時代の道が、
かなりの区間で残っていたのに、満足した。
その後、帰帆島に渡る橋の上からの風景を
のんびり眺めた後、県道を歩いて草津市民病院まで行き、バスに乗って南草津駅に戻った。