佐屋街道、今は県道68号名古屋津島線を歩き続けると、右手に背の高い鉄塔が見えてきた。
その横まで行くと、東海ラジオの送信所の看板があった。
少し小高いところにある川は蟹江川で、川に架かる橋名は下田橋であるが、左側の歩行者専用の橋には、弓掛橋のプレートが付いている。
同じ橋で、自動車用と歩行者用で、橋の名前が違うのは大変珍しい (右写真)
弓掛橋の由来は、橋を渡った辺りに源義経が松に弓を掛けた場所があったということで、近く
の民家の裏庭に石碑があるということだが、確認できなかった。 橋を渡ると、右手に七宝病院がある。
このあたりは自動車販売店が続いている。 津島東という名前を付けているが、七宝町である。
莪原交差点を過ぎると、津島市の表示に変わった。
莪原は、はいばらと読むが、珍しい名前である。 右手にジェームスがある。
津島市ふれあいバス、神守住宅バス停の先から道は右にカーブし、神守町交差点に出る。 この交差点の左右の道は、西尾張中央道である。
神守宿は近い。
神守宿が設けられたのは、正保四年(1647)で、本陣は一軒、脇本陣はなく、問屋が二軒、
旅篭が十二軒、宿場の長さは七町五十一間(約850m)で、そこに家数百八十四軒の家と
八百十二人の人が住んでいた、という。
中央道を過ぎると左側に、 「 ようこそ津島へ、津島神社、天王川公園、まっすぐお進み下さい 」 という看板がある。
その先の右側に大木が見えるのが、神守の一里塚である (右写真)
近づくと大きな石積みの上に玉垣があり、入口に神守の一里塚の標柱が建ち、塚の上に椋(むく)の大木があり、その下に一対の常夜燈が建っていた。
昔は東西7.3m、南北6.7m高さ
1.5mの塚にムクが植えられ、南側にはこれより一回り小さな塚にエノキが植えられていた
が、今は北側だけ残っているが、佐屋街道で唯一残る一里塚である。
道を進むと左側に立派な門を構えた家があったが、逆光だったので、写りは今一つだった (右写真)
次の神守町下町交差点あたりは神守宿の下町だったところで、交差点を右折すると、角に南町と書かれた山車蔵があり、ここから中町になる。
県道から入るので急に静かな道に
変わる。
中町の中程に左へ入る道があり、その奥に見えるのが養源寺で、鐘楼、奥に山門、
六角堂、本堂などがある立派なお寺である。 道の左側に大きな屋根の電気屋があり、左の格子戸のある門とブロック塀の家には、蓬莱院の額が掛かっていた (右写真)
左側の小路の角に、折れた石薬師の道標があった。
左側に、背の高い鉄の櫓の上に半鐘がぶらさがった火の見櫓と神守小学校が見えてきた。
神守診療所の先には、神守村道路元標が道の角にあった。
火の見櫓の下は広場になっており、奥に神守分団と大きく墨書
された消防団の建物、その奥には中町の屋台蔵があった。
小学校の手前の古い町屋は、左に門があり、母屋は切妻二階建て、格子作りで二階には小さな袖壁もあった (右写真)
小学校を過ぎ、少し行くと道は突き当たる。 突き当たったところに、神守の宿場跡の標柱があった。 それには、
『 江戸時代東海道の宮(熱田)の宿場から桑名(三重県)の宿場への 七里の渡し にかわる脇街道として佐屋街道が利用されていた。
万場(名古屋市)の宿と佐屋の宿との間があまりにも長かったため、正保四年(1647年)に 神守の宿 が定められた。
この宿場は古い憶感神社( おかみのじんじゃ ともいわれていた )を中心に宿屋・商家がたちならび近くの村々の手助けによって宿駅の仕事を果たしていた。 』 と書かれていた。
佐屋街道は左折であるが、右に曲がると、正面に憶感神社がある (右写真)
石の鳥居の左右に常夜燈があり、その右側に、 「 郷社 式内 憶感神社 」 の石柱が建っていた。
憶感は、おかみ、おつかんと読むが、延喜式神名帳の海部郡に憶感神社とある式内
社で、文徳実録の仁寿三年(853)に、憶感神の記述があることから、九世紀にはあったことが分かる。
以前は北神守村にあったが、神守宿開設に伴う集落移転により、慶安元年(1648)、ここに移ってきた。
祭神は雨を降らせる神、龍神である。
隣には、秋葉山三尺坊も祀られていた。
また、神社と境内を共有する形で、左側に吉祥寺があった (右写真)
観音堂にある三十三観音は、天明八年(1788)に当寺に祀られ、文政三年(1820)にお堂が建て
られたとあるが、今あるのは最近のものである。
境内に、奉納南無大師遍照金剛の幟がはためき、左の一角に旅姿の弘法大師像が建っている。
それより街道寄りに、二層の屋根を持った立派な六角堂があり、延命地蔵が祀られている。 石碑には 「 延命地蔵は、宝暦八年(1758)
に当寺に祀られ、文政三年(1820)には檀徒及び村人の厚い信仰により六角堂が建立され、ここに祀られた 」 、とあった (右写真)
その右隣には、一寸怖そうな顔をした石の像が祀られていた。
佐屋街道に戻る。 ここからが上町で、神守の宿場跡標柱あったところから先に、本陣や問屋場があったといわれる。
左角の屋敷は大変立派なので、本陣だった家かと思ったが、本陣は道の右側にあったようで、濃尾地震で崩壊してしまった、と聞いた (右写真)
それにしても、問屋か宿場の要職にあったような感じの家だった。
少し歩くと、道の左側に、切妻平入りの背の低い二階の格子造りの家があり、母屋と蔵とが道に面して並んで建って
いた。
道の反対側に、石の鳥居があり、石柱には 村社 穂歳(ほうとし)神社 とあった。
常夜燈、灯明台、狛犬、拝殿、社殿と続いていたが、祭神は天竺ルイビン国龍帝龍王の御子で、
常夜燈には南神守文化八年とあった (右写真)
通りには立派な門がある家や黒板壁の長屋門の家などが残り、宿場時代の面影をわずかながら残していた。
交差点を渡ると、古い家はなくなり、地名は椿守になった。
佐屋宿までは残り一里十九町(約6km)である。
越津町信号交差点で、先程分かれた県道と合流する。 下切のバス停を過ぎると、前方が小高くなった橋が見えてくる。
日光川に架かる日光橋であるが、以前の橋はこれほど高くなかった。
数年前に架け替えられたが、以前の橋は橋脚が低いため、増水時には橋で水が堰き止められ、洪水の原因になった、という。
それで、新しい橋になったのである (右写真)
以前よりかなり高くなった感じがした。 橋から下りになり、左側を歩いて行くと、日光交差点の手前に、小さな地蔵堂がある。
その先には日光寺だと思うのだが、今は廃寺になっている
ような建物がある。
交差点を越えて歩いて行くと、古川町交差点手前の十字路の右側に、式内 諸鍬(もろくわ)神社の石柱とその右脇に、
「 獅子舞開祖 市川柳助碑 」 と書かれた石碑が建っていた (右写真)
古川町交差点から道は左にカーブし、左手にスパーヨシズヤがある。
古川町のバス停からしばらくの間、右手に落ち着いた街道筋を思わせる家並みが残っていた。
佐屋街道は、この先の二股で、左前方に入るが、道は残っていないのか、県道に並行する道を探しながら歩く
と、右側に、石の鳥居と常夜灯がある神社前に出た。
鳥居の脇の背丈を超える大きな石碑は、明治天皇御小休所跡碑とあった (右写真)
中に入って行くと、明治天皇お手植えの椿と書かれた表示があったが、当時の椿は枯れて残っていなかった。
奥の石積みの上に、小さな社(やしろ)があった。
明治天皇が休憩されたころは神社だったと思えないので、茶屋か民家だったのだろう。
その跡が神明社として残され
てきたのだろう。 街道に戻り進むと、左側に、右つしま天王道と書かれた道標が建ち、その先に左右の常夜燈が見えた。
正面の東面に 「 右 つしま天王みち 」 、道路側北面に 「 左 さやみち 」 、反対の南面に 「 東 あつた なごや道 」 、
と書かれた道標は、佐屋街道と津島神社に向かうつしま天王道(下街道と呼ばれた)の追分に建てられたものである (右写真)
左折すると佐屋街道のはずであるが、道は途切れて残っていなかった。
その先の両側に、石柱が折れたようなものがあるが、これは津島神社の一の鳥居の跡である。
道の右側の赤味がかった、とんがった石碑には、旧東海道追分 津島神社一ノ鳥居趾 とある。
石碑の後に、津島街道埋田追分の標柱があり、説明文が書かれていた (右写真)
『 埋田町のここは、津島神社(天王様)の一の鳥居(昭和三十四年の伊勢湾台風で倒れて台石のみ)と常夜灯(夜どおしあかりをともすとうろう)一対、
追分(別れ道)をあらわす道標がのこっている。
江戸時代、ここから右は津島神社への道、左は佐屋の渡しへの佐屋街道と分かれる所で、
江戸時代の終わりごろには茶店などもあって通る人々でにぎわい、大正時代ごろまでは松並木が続いていた。
また、熱田から津島までの道を下街道と呼んでいたが、
いまは耕地整理や新しい街づくりで道すじもかわり、ほとんどがすたれてしまっている。 ・・・ 』 と、あった。
この後、上部が折れてなくなった津島神社の一の鳥居の柱石を振り返って写した (右写真)
佐屋街道は残っていないので、道を右折し、とりあえず、県道に出た。
埋田町の交差点を越えると、右手奥に津島市役所があるが、佐屋街道は幸楽苑の脇の狭い道に入り、次の左に入る小路を歩き、善太川を渡り、バス道に出るか、
その先の東柳原交差点まで行って、ここを
左折するか、この区間は自由に津島市民病院の方向を目指すことになる。
津島は、室町時代までは伊勢湾と繋がる水路があり、河運で栄えていた、というが、江戸時代に入ると、川床は干上がり通行不能になり、代わって佐屋からの通行になった。
天王川公園が湊の跡だというので、立ち寄ることにし、そのまま歩き、今市場4交差点を渡る (右写真)
今歩いている道が下街道と呼ばれるのに対し、清須市の西堀江で、美濃路と分かれ、甚目
寺、木田、勝幡(しょうはた)を経て、巡見橋で南下してくる巡見道と合流する道を上街道といった。
名鉄津島線のガードをくぐる。 右手に津島駅がある。 少し歩くと、十王堂があり、その前に、小さな神社が祀られている。
昔は、町の東西南北の入口にあたる所に、十王堂が建てられたものだという。 ここにある仏像と仏画は市の文化財になっている (右写真)
その先には、興禅寺。 この寺はかなり大きい。 その先に、貞寿寺、反対側に救津坊、そし
て、今市場町2交差点を越えると、蓮慶寺、延命禅寺、妙延寺とある。 道は右にカーブするが、右側に大玉社があった。
道は狭くなるが、この先三方に道がのびていた。 区画整理の予告があり、道路拡張の計画を予定があるようである。
右の道を進むが、自動車が一台分通れるだけのスペースしかない。 左側の古い家は長珍酒造である (右写真)
道はその先で三叉路になるが、道案内がある。 道の右側に坂口神社という小さな社があっ
た。 少し先の左に入る三叉路の角に、右津島神社参宮道と書かれた石柱がある (右写真)
少し離れた所に、橋詰三叉路の道標と書かれた木柱があり、
『 上街道と下街道が交わったところで、天王様まいりの人々で賑わう橋詰町の入口だったので、大きな道しるべが建てられた。
当時は、自然堤防の上に発達した曲がりくねった道であった。 』 と、あった。
左折すれば津島神社に行けることは分かったが、上街道を少し進むと、左側に堤下(とうげ)神社があった。
案内板には、『 かっては、現在津島神社に収納されている鉄燈篭があり、金燈篭
社と称していた。 天明五年(1785)の天王川の築留までは、川を隔てて、津島神社の遥拝所だった、と伝えられる。
江戸時代には、旧暦八月一日に提灯や造り物を飾って、堤下、鉄燈篭の両町が祭った。 』 と、あった (右写真)
その先の交差点の左右の道は天王通り。
交差点を越えると、右に入った所に成信坊があるが、そのまま進むと左に入る路地の先が上河原町で清正公社がある。
加藤清正が、叔父の
家にいた幼少期の頃、押し入った賊を鬼の面をかぶって追い払った、という伝説が残るところである。
道を引き返すと、堤下神社のあたりに、格子の入った古い家が残っていた。
格子の入った家並みは数百年前の面影を残しているとある案内は、納得できた (右写真)
橋詰三叉路まで戻り、そこを左折すると、橋詰町商店街に入った。 加藤薬局の建物などは古そうに思えた。
右側に秋葉神社があったが、入ってみると新しかった。
そのまま進むと、天王川公園の北側に出た。
天王川公園は、江戸時代まで当時の町の中央を流れていた天王川が、市の西部に丸池として残り、一体が公園として整備され、
五月には尾張津島藤まつり
が行われ、七月には尾張津島天王まつりの舞台となるところである。
鳥居があるところに、天王川お旅所の標柱があったが、津島天王まつりの際、津島神社から天王様が神輿でお出ましになるところである。
池に降りる石段前に、神裏神事斎場の石柱が建っていた (右写真)
池の南東には、車河戸という天王祭の船支度をするところがある。
また、近くの浄光寺には明治天皇が三度利用された佐屋行在所の一部が一部移築されているとあるが、時間の関係から先を急ぐ。
道の右側に塀で囲まれ、門が閉ざされた屋敷があると思ったら、案内板に、
『 重要文化財に指定されている堀田家住宅である。
堀田理右衛門家の旧宅で、江戸中期、正徳年間(1711〜1716)の創建で、
主屋、東蔵、西蔵、小蔵の四棟からなる桁行七間半、梁間七間の切妻造、重層桟、瓦葺の町屋建築である。
現在は市の所有で、土日祝日のみの公開で、大人300円 』 とあった (右写真)
少し歩くと、右側に赤い鳥居が見えてきた。 鳥居の前に、常夜燈と津島神社の石柱が建っている。 鳥居をくぐると、右手に
観光センター、少し歩くと左側に居森社という小さな神社が
あった。 案内には、社伝によると、 『 欽明天皇元年(540)に、大神がこの地に始めて来臨され、神船を高津の湊の森に寄せて奉ると、蘇民将来の末裔と云う老女が、霊鳩の詫によって森の中に居え奉った事により 居森社 と云われる。 』
と書かれていた (右写真)
延喜式神名帳に尾張国 海部郡 国玉神社とあるのはこの神社とされ、国玉神社(弥五郎殿)の旧地であるとされている。
祭神は須佐之男命幸御魂で、天正十九年(1591)、豊臣秀吉の母、大政所の寄進にて再建され、本殿は宝暦九年(1759)建てられたものである。
その先にある菅原神社(天神社)の境内には、三つ石があるが、これが居森社の磐座ではないかと見られているようである。
少し歩くと、津島神社の南門があり、その先には藩塀(ばんぺい)が見えた。
南門は慶長三年(1598)、豊臣秀頼が豊臣秀吉の病気平癒を願って寄進されたもので、門と社殿を仕切る藩塀は、尾張地方の神社だけにある独特のものである (右写真)
津島神社は、欽明天皇元年(1540)の鎮座と伝えられ、古くは津島牛頭天王社と呼ばれ、
全国に約三千の摂社、末社がある神社で、
祭神は、建速須佐之男命、相殿には大穴牟遅命(大国主命)が祀られている。
牛頭天王は、祇園精舎の守護神で薬師如来の化身であり、すさのうのみことに垂迹したといわれ、除疫神として信仰されてきた。
津島神社は、正面に拝殿、その奥に回廊が横に広がり、その奥に祭文殿、本殿がある配置になっている (右写真)
織田、豊臣、徳川から崇敬を受け、江戸時代には、お伊勢参りの折に津島神社を参拝しない
と片参りといわれた。
神仏混淆だったが、明治元年の神仏分離令により、鐘楼はこわされ、本殿の奥に、宝寿院を残すのみである。
三間社流造の本殿は、慶長十年(1605)、清須城主、松平忠吉(徳川家康の四男)の妻、政子が夫の病気回復を祈って、寄進したもので、国の重要文化財。
楼門は、天正十九年(1591)、豊臣秀吉が寄進したもので、国の重要文化財である (右写真)
津島神社は、天明三年(1785)に、水害防止のため、天王川が締めきられるまで、町と神社は
川で隔てられていた。
天王川に幅三間、長さ七十二間の橋が架けられ、参拝者は橋を渡ってお参りをしたのである。
従って、南門から南は天明三年(1785)に埋め立てられて出来た土地である。
境内には多くの神が祀られているが、その中に、弥五郎殿社がある (右写真)
摂社弥五郎殿社は、津島神社の社家、紀家の祖神、武内宿禰命を祀る。
南北朝時代、南朝の忠臣、楠正行と共に、正平三年(1348)、四条畷の戦いで、戦死した社家、堀田一族の堀
田弥五郎正泰が、生前、当社を造替し、大原真守作の佩刀を寄進したことから、弥五郎殿社と呼ばれるようになった。
社殿は、寛文十三年(1673)の建立であるが、佩刀は津島神社の社宝で、国の重要文化財である。
楼門の先の鳥居をくぐって、天王通りにでると、創業天明元年(1781)の角政という店があり、あかだとくつわという当時のお菓子を売っていた。
少し歩くと、左側に津島神社のお旅所の大銀杏と呼ばれる樹齢四百年の大銀杏があった (右写真)
天王通りを歩いて行くと、左側に千体地蔵堂がある。 傍らの看板には、円空仏が安置されて
いるというので、お堂を覗きこむと、ガラスに自分の姿が反射して、ほとんど見えなかったが、右側に大きな木像とその下に小さな木片のような木像が多くあるように思えた (右写真)
その先左側に、常楽禅寺、少し先の右側の小高いところには、白山社が祀られていた。
そのまま歩くと、名鉄津島駅に出た。
佐屋街道に出るため、右折し、先程の道に出て、東柳原交差点を右折し、津島市民病院を目指す。
津島市民病院を見ながら南下すると、愛宕町に入った。
佐屋街道は、埋田の追分で姿を消したが、愛宕神社(愛宕町5丁目)あたりから、再び、姿をあらわす。
愛宕町4丁目のバス停を過ぎると、右側にパチンコ屋があり、その先の右に入る狭い道を進むと、左側に愛宕追分と書かれた木柱が建っている。
愛宕追分は、旧蟹江街道の分岐点で、以前は明治初年に建てられた標石があった、という (右写真)
左手に新しい民家が立ち並んでいたが、道脇の畑は蓮畑だったので、このあたりは湿地帯
だったのが、埋められたのだろう。 埋田からここまでの道も、埋め立てと区画整理で消えてしまったのだろう。
その先の商店のところで、左折し百メートル程行くと右側に、十王堂と愛宕神社の鳥居がある。
十王堂には閻魔大王様と思うが、祀られていた (右写真)
鳥居をくぐった先に、林があり、石柱に囲まれた中に、愛宕神社の白い拝殿があり、建物は新しいが、
京都の愛宕神社を勧請した神社で、天照皇大神宮と愛宕大権現の二柱を祭神と
し、延喜式の式内社で、この地区では津島神社に次ぐ古い神社である (右写真)
佐屋街道は、この後、細い道を進むと、県道114号(津島蟹江線)に出る。
右手に西愛宕町交差点があるが、それを横目に見ながら、斜めに横断し、県道114号と交差する県道105号(富島津島線)を斜めに横断する。
ここから愛西市日置(へき)町である。
日置は古代から中世にかけて日置庄が置かれ、この地の中心的な村であった。
そのまま道なりに進むと、右手
に、名鉄尾西線の日比野駅が見えてくる。
この辺りからまた街道は消滅してしまう。
日比野駅の先で、名鉄の線路を渡り、信号交差点で左折すると、由乃伎神社がある (右写真)
このあたりは柚木であるが、かっては由乃伎と書いたのだろうか? 神社前の道を西に向かうと、火の見櫓が見えてくる。
その左奥には、明教寺がある。
明教寺の手前の右側の細道には、長い塀の続く家があり、古い家が残っていた。
この道を歩いて行くと、広い道に出た。
県道458号(一宮弥富線)で、ここは左折して南に向かう。
この道は、かっての巡見街道で、津島を縦断してくる道である。
少し歩くと内佐屋交差点で、左手に内佐屋変電所が見えるが、交差点を越えて歩くと、
道の左側を少し入った田圃のあぜ道に、佐屋海道址と刻まれている背の高い茶色の石碑が建っている (右写真)
碑を見たら、県道を横断し街道の右手一筋目を右に入ると、右側に信力寺がある。 立派な
門構で、最近造られたと思われる建物の左手に古い墓があり、その前に一対の燈篭がある。
この燈篭が切支丹灯篭といわれるようであるが、詳しいことは判らない。
街道に戻り、歩いて行くと、右側の門の前には、芙蓉山浄法寺の石柱が建っている (右写真)
このあたりは、既に佐屋路最後の宿場町、佐屋宿の中である。
佐屋は江戸時代以前は小さな村に過ぎなかったが、徳川家康が大坂夏の陣の際、船で佐屋から桑名に渡ったことや、
尾張徳川家初代藩主、徳川義直が鷹狩をした際の休息所、(後に三代将軍家光の上洛時に改修され佐屋御殿)が設けられたことから、
佐屋路が整備される以前から、由緒ある地とされていた、といわれる。
浄法寺に並んで建っているのが天神社である (右写真)
佐屋宿には、本陣が二軒、脇本陣が一軒、そして、脇本陣格が一軒あり、旅籠は、最盛期には三十一軒も建ち並んでいた、という。
佐屋宿は、佐屋路の中でも最大規模の宿場町だっ
た訳である。
少し歩くと、須依(すえ)の交差点で、ここを右折すると、佐屋宿の中心部と三里の渡しへと続くが、
交差点を曲がらず、直進すると右側に地蔵堂がある。
その先、一筋目のカーブミラーの所に、 芭蕉翁 くいな塚 100m の道標があるので、細い路地を入っていくと、左側に八幡社がある (右写真)
八幡社に入ると、小学生が野球をして遊んでいた。 その先の左側に、俳聖、松尾芭蕉ゆかり
の水鶏(くいな)塚があり、入口に、旧佐屋町教育委員会が建てた由来記があった (右写真)
『 元禄七年五月芭蕉翁が江戸から故郷の伊賀の国へ帰る途中、佐屋御殿番役の山田庄左衛門氏の亭で泊まられた。
そのあたりは非常に閑静な幽地で昼さえ薮のほとりで木の間がくれに水鶏が鳴いた。
翁がこられたと聞いて遠方からも俳人集り千載不易の高吟が続いた。
そのときうたわれた初の句が、翁の 「 水鶏鳴と 人の云えばや 佐屋泊 はせを 」 という
句である。 』 とあった。
くいな塚と刻まれた石碑の先に、塚があり、長方形の石柱と右手に離れて、変形の碑が建っていた (右写真)
句碑は、享保二十年五月十二日、芭蕉が亡くなって四十余年後、先に坐を共にした人達により、芭蕉が詠んだこの地に建てられたもので、
句の意味は、 「 水郷の佐屋は古くから水鶏の名所であったことから、水鶏の鳴き声が聞かれるという風流に惹かれて、この地に泊めてもらうこ
とになったのだよ!! 」、 といった意味である。 小路を道なりに進むと、佐屋街道へ
出た。 街道を西に進む。
佐屋宿の長さは、三町三十間というから、三百五十メートル程、そこに二百九十軒の家があり、千二百六十人の人が住んでいたというから、今より賑わっていたのだろう。
左側に、立派な構えの門と庭木の植わった家がある。
その先に、格子造りの町屋があり、火の見櫓が見えてきた (右写真)
右側に本陣や問屋場が、左側に脇本陣があったとされるが、どこにあったのか、確認できな
かった。 夕方だからか、宿場時代を偲ばせる風景に思えた。
下った先に交差点が見えてきたが、手前の左側に、四方が囲われた道標が建っている (右写真)
それには、「 左 さや舟場道 」 とあるが、字が消えかけた木製の解説板には、
『 東海道佐屋路はこの佐屋宿より舟にて桑名へ渡った。 寛永十一年佐屋宿創設より明治五年に至る長い年月であった。
この道標は舟場への道を示すものである。
大字佐屋の山田秀信氏の屋敷内にあったものを同氏の好意により寄附を受け此処に建てた。 』 とある。
また、
その先の植え込み中にある白い解説板には、尾張名所図会の佐屋駅の図のきこくの生垣ときこくの説明が書かれている。
右の写真は尾張名所図会の佐屋駅の図だが、上の写真の道標の左手にある高い屋敷のあたりに、旅籠の近江屋があった、との説明がある。
また、ブロック塀上に見える生け垣は、きこくの生け垣で、天保十二年(1841)発行の 尾張名所図会 に描かれている。
きこくは、カラタチの別名、とあり、中国原産のミカン科の植物で、揚子江沿岸地域に自生しており、わが国への渡来は今からおよそ千年前といわれる。
現在栽培されている柑橘類の多くは、このカラタチを台木として接木されたものとあり、我が国の
柑橘類の母ともいえる存在なのかも知れない。 道の反対側、交差点の右手前の角に、植え込みに囲まれた広場があり、その中に、佐屋代官
所址の石碑立派な黒い石に刻まれた佐屋代官所の解説がある (右写真)
上記図会には、代官所の他、佐屋御殿、舟番所、舟会所などが並んでいたように描かれて
いた。 佐屋代官所の解説碑(右写真)には、 「 わが佐屋は其の昔慶長二十年四月家康が大坂夏の陣に此処から船出
し大勝した徳川方吉祥の地。 藩祖義直もこの事を嘉し寛永十一年佐屋街道佐屋宿佐屋湊佐屋御殿を設け、更に承応二年船番所を
置くに及んで佐屋は天下に知られるに至った。 其のため元禄八年奉行所が、次で天明元年所付代官制実施の時にも最初の代官所
となり、海東海西郡中の百九ヶ村七万四千石余の主邑として民政と治安の大任を司どりつつ、明治廃駅迄寛永文久と二度の将軍
の上洛と明治帝の東幸還幸再幸の三度
の大任をも果たした。 其後駅路の変革と母なる佐屋川を失った佐屋には盛時を語る物も其
れを知る人もない。 われわれは今その代官所址に在りし日の栄光を偲びつつ其の事を石に刻し、永く後世に伝え語り継ぐことの
資とする。 」 とあった。 交差点の先の左側にある空地のような公園の一角に、佐屋三里之渡跡碑が寂しげに建っていた (右写真)
ここが佐屋街道の終着点で、江戸時代には木曽川に通じる佐屋川が流れていた。 川幅は、
通常でも百二十メートル以上、出水時になると五百メートルに広がった、といわれるから、かなり大きな川である。
ここ(佐屋湊)から漕ぎ出す船は、木曽川、加路戸川、鰻江川、揖斐川を経て、桑名までの三里を運行した。
三代将軍家光や十四代将軍家茂も利用した由緒ある佐屋の渡しだが、平成の今日、川の跡はもちろん、土手の跡さえ見ることができない (右写真)
佐屋川は、江戸末期になると、上流からの土砂で川幅が狭まり、水も浅くなってしまったため、
湊としての機能が果たせなくなってきた。 土砂を掬ったり、下流に仮の湊を設けてみたりしたが、うまくゆかず、
また、佐屋街道も、明治五年(1872)に新しく開かれた道にその地位を譲ることになり、佐屋街道の使命は終わった。
水害対策を兼ねた佐屋川の木曽川から取水中止による締切と埋め立てにより、佐屋湊はその機能を完全に奪われた。
川は全然ないのか確認するため、西に歩いて行くと、百五十メートル先に、海部幹線水路を見つけた (右写真)
木曽川の馬飼橋から取水する生活用水で、このあたりは川幅三十メートルで、水を満々とたたえて流れていた。
佐屋交差点まで引き返すと、佐屋代官所址の裏側に、加藤高明揮ごうの懐恩碑と加藤高明総理大臣の碑が建っていた。
懐恩碑は、加藤高明が郷里を懐かしむ思いと郷里にお世話になったことを感謝する趣旨で書かれた、とある (右写真)
加藤高明は、佐屋の代官手代、服部重文の次男として、代官手代屋敷に生まれた。 その
後、加藤家の養子となり、加藤高明となった。
東大卒業後、日本郵船に入り、岩崎弥太郎の娘と結婚、外交官などを経て、総理大臣になったという人物である。
以上で、佐屋街道の旅は終わりである。 江戸時代の人は一日で佐屋宿まで歩いたのだろう。
名鉄佐屋駅に向かって歩くと、右側に松花堂という和菓子屋があり、くいな最中の看板があった (右写真)
佐屋駅西交差点を左折すると駅方面だが、そのまま進むと、左側に星大明社がある。
眼の神様として有名であるが、由来書によると、
『 祭神は饒速日命。 当社は、本国帳に従二位赤星明神とあり、通称星の宮と申し、桑名郡長嶋七社の一社で、本社の左に鎮座されるは日の宮(祭神天照大神)、右にましますのは春日の宮である。 』
とあり、拝殿の壁面には、彫刻が施されていた (右写真)
戦国時代には長嶋は伊勢ではなく尾張国海西郡に属していたようである。
なお、今回の旅は、妻に借りたカメラのバッテリーが切れたため、平成二十年九月二十八日は大治町で終了となり、
十月七日に地下鉄岩塚駅から残りの区間を歩き、佐屋駅で佐屋街道の終了となった。