『 東海道を歩く  ー 淀 宿  』


東海道五十七次の内、伏見から大阪高麗橋までの道は京街道や大坂街道とも呼ばれる。 この道は 豊臣秀吉が、文禄五年(1596)に大阪城と伏見城とを結ぶ道として、毛利、小早川、吉川氏に命じて 淀川左岸に築かせた、文禄堤が起源である。 参勤交代の制が交付されると、江戸幕府は 五街道の一つである東海道の延長として、道中奉行の管轄下に置き、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の四 宿場が設けられた。 




伏見宿から淀宿

三栖神社 平成二十二年一月十八日、前日京都で同窓会があったのでそのまま泊まり、朝起きて京阪四条祇園駅から中書島駅へ行き、そこから歩き始めた。 
歩いて行くと、道の左側に三栖神社の鳥居があった (右写真)
鳥居の前にある石柱には、祭神 天武天皇とあるが、 神社には、 「 大海人皇子、後の天武天皇が近江朝廷との決戦に際して、三栖の村人が、かがり火を焚いて夜道を照らした。 」 という言い伝えが残るようである。  境内に入っていったが、駐車場になっている
肥後橋 のか、あちらこちらに車が停まっていて、社殿はそれ程古くないように思えた。 江戸時代の伏見宿は三栖神社あたりがはずれだったのではないだろうか。 
街道に戻り、宇治川に注ぐ濠川に架かる肥後橋を渡る (右写真)
橋を渡るとすぐ左折して、川に沿って歩いて行く。  今朝は大変寒いこともあり、道端の草には霜が降り、朝日できらきら光っている。  また、濠川の水面の三分の一が凍っていた。 
伏見港公園 道の右側には民家が連なっていたが、何軒かの家の軒先に祠が祀られているところを見ると、昔からの住人が多いのではないか、と思った。  道の左側に石段があるので、川側に降りていくと、川の両脇は公園になっていた (右写真)
屋根付きの休憩施設は、伏見港から浪速へ下った三十石船をイメージしたものである。  濠川に橋が架かる橋を渡って、対岸に行ってみると、宇治川派流 一級河川 伏見港と書かれた地図があり、 江戸時代には京橋の近くには寺田屋のような船宿が多かったこと、
三十石船 伏見港から三十石船、過書船、伏見船などで、淀川を下る旅人が多かった等が分かったが、この奥のテニスコートや室内体育館も伏見港跡とあったので、伏見港は予想した以上に大きなものだったと思った。 また、祝平成6年伏見港開港400年記念の看板が金網にかかっていて、その奥に復元された船が繋がれていた (右写真)
旧伏見港の跡地から堤防道に戻り、淀宿に向かう。 伏見宿から淀宿までは一里十四町
(5.4km)の距離である。  堤防上の濠川沿いの道を進み、京阪電車を横断し、高架道路
三栖閘門 のガードをくぐって行くと、正面には国土交通省淀川河川事務所伏見出張所の看板があり、建物がある。  ここでは、右にいく道もあったが、門の手前の左側の濠川に沿ってある歩道に入り、宇治川に向かって歩くと、三栖閘門があった (右写真)
三栖閘門は、昭和四年(1929)、宇治川の改修を行った際に伏見港と宇治川を結ぶ施設として造られた。  三栖閘門の二つのゲートで閘室内の水位を調節して、水位の違う濠川と宇治川を連結させて、船を通す施設で、 昔はたくさんの船がこの閘門を通って、伏見と大阪
堤防道 の間を行き来していた、とある。 現在は産業遺産として保存され、近くに資料館もある。 
その先の三叉路で、道は突き当たるので、右折して進むと、河川事務所の裏側になり、右からの舗装道と合流するので左折して、堤防道を左に宇治川を見ながら歩く (右写真)
道は右にカーブしながら、右側にユータウンするように進むと、左側に宇治川に注ぐ新高瀬川が現れた。  高瀬川は慶長十六年(1611)に、門倉了以が京都の中心部と伏見を結ぶために資材運搬用に開削した運河である。  川底が浅いため、底が平らな箱型運搬船を
小さな橋 使用したが、この舟を高瀬船と呼んだので、川の名が高瀬川となった。 大正九年(1920)までの約三百年間、京都と伏見の間の水運として利用された。  新高瀬川の上流へ向かって数十メートル歩くと、左側に鉄製の小さな橋が見えてきた (右写真)
高瀬川はその後の鴨川の改修などともあいまって、鴨川で京都側と伏見側が分断され、上流部分を高瀬川、下流部分を東高瀬川、新高瀬川と呼んでいる。 
府道124号線 川に架かる小さな橋を渡ると、対岸の堤防道を左折して、新高瀬川の下流に向かって歩く。  堤防上の道は府道124号線になっているので、車の通行がある。  しかし、道幅は二車線分もないようなので、狭くて怖かった。  少し歩くと、右にカーブするところにあるのが阪神高速道路京都線(第二京阪道)の京都南大橋である (右写真)
なお、手前の右側の堤防の下には、京都大学防災研究所の建物が建ち並んでいた。 
京阪国道宇治川大橋北詰 京都南大橋の下をくぐると、右手には京阪本線の電車が走っている。  
電車を見ながら歩いていくと、京阪国道(1号線)の宇治川大橋が見えてきた (右写真)
宇治川大橋の袂にある交差点まできたが、この交差点には信号もなく、車も左折だけの一方通行の標識だけである。  従って、車が多く走る京阪国道を横断することは不可能である。  しかたがないので、右折したところにあった階段で下の道に出て、京阪国道の陸橋の反対側に出た。  道の左側には京阪電車の線路が道に沿って続いているが、そちらから
京禅庵のあるところ 上る道はなさそうである。  仕方がないので、京阪国道の側道を京都方面へ歩きながら、国道に出る道を探す。  二百メートル以上歩くと、左側に油揚げ・豆腐を造る京禅庵の工場があり、国道と側道が交差するところで、やっと京阪国道に入ることができた (右写真)
その後、京阪国道の歩道をとぼとぼ大阪方面に歩いて先程の交差点まで戻り、時間をだいぶロスしながら、堤防道の反対側に出られた。  こちらの府道は二車線で、歩道も併設されているので、安心して歩ける。  道の右下には京阪電車が頻繁に通っていく。 道の左側
宇治川 には宇治川と書かれた看板があった。 琵琶湖を源流とする宇治川は、江戸時代以前は東方にあった巨椋池 (おぐらいけ)に流れ込んでいた、という。 巨椋池は、周囲十六キロという巨大なもので、 遊水地を形成していて、河運には良かったが、治水や陸路としてはいろいろ問題があったようである。  宇治川は穏やかな表情で、整然と流れていた(右写真)
豊臣秀吉は、伏見城の築城をすすめた際、大規模な河川改修を行い、伏見から納所にかけて、宇治川の右岸に淀堤(文禄堤とも呼ばれる)堤防を築いて、 宇治川の流れを固定
京阪踏切 した。 この堤の上の道が伏見と淀城を結ぶ道として、京街道の一部になったのである。  京阪国道から府道に入って千二百b程進むと三叉路で、左は川に沿ったほそい道。  右にカーブするのが府道で、その先に京阪電車の踏切が見える (右写真)
この後、踏切を横断して、その先の三叉路を左折して、京阪本線沿いに進んでいく。  京街道はここで宇治川から離れていくが、この道が昔の文禄堤の跡のはずで、その後の干拓工事で宇治川の流れが変えられたということだろう。  巨椋池の話に戻ると、その後も改修と干拓事業が続けられて、昭和四十年頃には巨椋池は姿を消した、といわれる。 

淀 宿

松林住宅街 京阪電車の線路に沿って住宅街が続くが、既に江戸時代の淀宿に入っている (右写真)
淀宿は、淀城の城下町であり、伏見宿からわずか一里十四町というの近いところにあった。  江戸時代の淀城は、豊臣秀吉が築城して淀君を住まわせた淀城ではない。 秀吉は伏見城造営の際に淀城を取り壊したが、 徳川家康は伏見城を廃城にして、桂川、宇治川、木津川が合流する三角州に新に淀城を築したのである。  淀宿は、この新しい淀城の領域に
戊辰役激戦之址 ある三つの町と淀小橋でつながった城外の三町で出来ていたが、このあたりは城外の町だったところである。  左手前方に京都競馬場があり、正面に競馬場への横断橋がある。  
横断橋の下の道の右側に慶応四年正月 史蹟戊辰役東軍西軍激戦之址の白柱と戦死者慰霊石碑があり、花が供えられていた (右写真)
 「 戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦は、数の上では勝っていた幕府軍が政府軍の錦の御旗の前に 多数の死傷者を出して淀まで敗退し、この辺一帯で最後の激戦が行われ、新撰組も先頭にたって戦い多くの戦死
京都競馬場の建物と時計塔 者を出した。 敗退した幕府軍は、幕府側の淀城に入ろうとしたが、淀藩主の稲葉正邦は寝返り、幕府軍に門を閉ざして開けなかったので、仕方なく橋本まで後退し、以降幕府軍の弱体化と敗北へと傾いていった。 」
 
左手に京都競馬場の建物と時計塔がある (右写真)
淀宿は元和五年に設置されたが、江戸幕府は元和九年に伏見藩に代わり、淀藩を設置し、同年に淀城が造られた。  ここを過ぎると、京街道は競馬場や京阪電車と離れていく。 
淀小橋旧址碑 少し歩くと、道はカーブし、右側にある民家は車道と離れて、坂の上に続く歩道にある。 
そのまま歩いていくと、下り坂になったが、交差点手前の右側の建物の外壁の下に、淀小橋旧址と書かれた石碑が建っていた (右写真)
江戸時代の宇治川は今と違い、このあたりを流れていたようである。 淀小橋は、淀城と城外の町をつなぐ橋であったが、 幕府軍が撤退するとき、薩長連合軍が追撃できないように焼き落とした、という。 
納所交差点 江戸時代の京街道は、淀小橋を渡ると南に向うが、ここは宿場特有の鉤型になっていて、その先の道に出ていたが、今はその道は残っていない。  歩いている道を直進すると、変則六差路の納所(のうそ)交差点である(右写真)
納所の地名は、淀川を行き来する船の港として物産を納める倉庫が連なっていたことからきているといわれるが、 淀は水陸交通の要衝として、問屋場、伝馬所が設けられ、五百隻もの淀船の母港だったのである。 ここ交差点は左折して、東南東へ進む道に入る。 
淀本町商店街入口 前方には京阪電車の踏切が見えるが、踏切までは行かずに道の右側にあるモスグリーンの建物の脇、 淀本町 商店街と書かれてポールのところを入っていく (右写真)
淀宿には本陣、脇本陣はなく、旅籠が十六軒の小さな宿場だったようである。 淀本町商店街は、全長数百メートルしかない短い商店街で、淀では唯一の商店街である。  近くに伏見や枚方があるので、生き延びるのは大変と思ったが、どうやらJRA中央競馬の開催があるので、やっていけるような気がした。  そのまま歩くと三叉路で、京街道は左折するが、
興杼神社の鳥居 右手奥には京阪本線上り線(京都方面)の淀駅があった。  京阪電車は、上りの駅と下りの駅とは違うところにある。  駅の西側には淀城公園があり、中に入ってみると式内興杼(よど)神社の標柱と鳥居が建っていた (右写真)
「 興杼神社は、豊玉姫命、高皇産霊神、速秋津姫命を祀る。 古くは淀姫社又は水垂社とも呼ばれた。  社伝によれば、応和年間(961-964)僧の千観内供が肥前国河上村の
興止日女大神(よどひめおおかみ)を勧請したことに始まると伝えられる。  当初は水垂町に
興杼神社拝殿 祀られていたが、明治三十三年、桂川改修工事のため、ここに移された。 」 
と、神社の由来にあった。 
慶長十二年(1627)に建立された拝殿は、国の重要文化財に指定されている (右写真)
その隣にある稲葉神社は、稲葉正成(いなば まさなり)を祭神とする神社である。  稲葉正成は、戦国時代から江戸初期にかけての武将で、美濃の稲葉重通の婿となったが、妻に先立たれた後、結婚したのが重通の姪である福(後の春日局)である。 
稲葉神社 彼は秀吉、小早川秀秋、徳川家康に仕えた。  家康に仕えたからは美濃国十七条藩主、越後国糸魚川藩主、下野国真岡藩初代藩主となったが、 その末裔の稲葉正知が享保八年(1723)に佐倉藩から淀藩に移封され、その後、稲葉家が明治まで淀藩主を務めたことから、この神社が誕生したのだろう (右写真)
稲葉神社の先には、城の石垣があり、その前に、淀城の案内板が建っていて、
淀城址 「 二代将軍徳川秀忠の元和五年(1619)の伏見城廃城に伴い、桂川、宇治川、木津川の三川が合流する水陸の要所の淀の地に松平越中守守綱に命じて築城させた城で、 元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。 翌寛永三年、秀忠、家光父子が上洛の途次には、この城を宿所としている。 」 とあった (右写真)
淀城は、宝暦六年(1756)の雷火で炎上するまでは、白亜五層の天守閣があった。  また、周囲を二重、三重の濠をめぐらせて、濠の中には城内に水を引くための水車があったが、
淀川瀬水車旧趾碑 江戸時代の名所図会を見ると、淀城の左手に二連の水車が描かれている。  この水車は城の西南と北に取り付けられていて、直径が八メートルもあったといい、「 淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると・・ 」 という歌で有名になった、とある。 
淀川瀬水車旧趾の石碑は、城の石垣が残る濠の北側の府道13号線の道端にあったが、江戸時代には水車は毎日城内に水を送っていたのだろう (右写真)
先程の淀駅の手前の三叉路まで戻る。 
踏切 右手に踏み切りがあるが、そちらには行かず、線路に沿って北に向かい先程ちらと見えた踏切に出た (右写真)
江戸時代の京街道は先程の三叉路のところで、京阪の線路で切断されているので、左折して京阪の線路沿いに歩き、踏切に出る訳である。  なお、現在、京阪電車と京都市は淀駅周辺の立体交差の工事を推進中である。 
古い家が三軒 踏切を渡ると、左側に高架になった京阪本線淀駅があり、そのまま進むと京都競馬場敷地西側にある府道125号線に出るので、 ここを右折して、住宅街の狭い道を歩く。 
このあたりは淀下津町で、左側には古い家が三軒続いていた (右写真)
道なりに進むと、左側につくだ病院があるが、その先で道が二つに分かれるので、右へカーブする道を進むと、コンビニのローソンがあった。  ローソンで買物をして先に進むと、左手に浄土真宗本願寺派の文相寺があった。 
淀緑地 その先の左側の家には、運輸省免許 競走馬輸送竹内運送株式会社の大きな看板があり、天満宮もあった。  さらに歩くと橋の上に淀新町のバス停があるところへ出た (右写真)
両側の橋の下を見ると、コンクリートで縁取られた川が見える。 この先には一方通行の三叉路があるが、直進し坂を上ると、府道15号の信号交差点に出る。  江戸時代の淀宿の終りは淀大橋だが、交差点の左方に宇治川に架かる淀大橋がある。  江戸時代の拾遺郡名所図会には、新町と美豆の間に木津川が流れていて、淀大橋はそこに架けられている。 
宇治川、木津川、桂川の流れが江戸時代と今では大きく変わっているので、想像することは難しい。 
以上で淀宿は終わる。   


平成22年(2010)   1月


東海道五十七次(枚方宿)へ                                           表紙に戻る







かうんたぁ。