『 東海道の終着点 ー 京三条(続き)  』




 

三条大橋で旅は終わる

旧東海道の入口 京都三条大橋までは、山科から六キロ程の距離で、これを歩くと、東海道の五百キロに及ぶ旅は終わってしまう。 早く終えた いような、もっと旅を続けたいような複雑な気持である。 道を右にとり、道なりに進むと、県道に合流する。 すぐに鉄道の ガードをくぐる。 左側に散歩道があるが、そのまま歩き、左側の細い道に入る (右写真)
これが旧東海道であるが、ここは間違いやすいところなので、要注意である。 
御陵岡町の住宅地 なお、御陵町の地名は、県道を進み、右に入った森にある天智天皇陵によるもの。 
それはともかく、東海道はその先、左右の道と数回交差する。 左右からの道の方が広いが気にせず、まっすぐ行く。それにして も、この狭い道幅は江戸時代のものか? 
左側に畑が一部残るところを過ぎると、御陵岡町の住宅地に入った (右写真)
その先は、日の岡地区で、大乗寺の案内がある先の交差点を越えると、かなりの上り坂
亀水不動 になった。 日ノ岡峠への道で、今は自動車も通れるが、石ころや窪みのある道で、牛車や荷車の難所だった。 木食上人は、こ の峠の改修に心血を注ぎ、 元文三年(1738)、三年がかりで道を完成させた。 坂を登りきった左側に亀水不動がある (右写 真)
峠の途中に、道路管理と休息を兼ねた木食寺梅香庵を結び、井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、牛馬の渇きを癒すと共に 旅人に湯茶を接待したというのが、ここである。 
北花山山田町 その先の北花山山田町の敷地の一角に、二条講中が建てた妙見道道標の隣に、右かざんいなり(花山稲荷)道の道標が、並んで建っ ていた。 左の小さなお堂には、何が祀られているのか分らないが、その脇には石仏群が並んでいた (右写真)
都会と隣接しながら、一部古い家が残り、落ち着いた暮らしの雰囲気があるのだが、周りの住宅地開拓がどんどん進んで変貌しつ つ感じも受けた。 一台しか通れない狭い道なのに、
九条口 走る車は多かった。 しばらく歩くと、県道に合流してしまった。 歩道は右側にしかないので、道を横切り、反対側に出て、 坂を上る。 九条山交差点を過ぎると、前方に見えるのは東山ドライブウェイの橋で、標識には九条口とあった (右写真)
その橋をくぐり、少し歩くと、頂上である。 振り返ると、右は京都市蹴上浄水場、左は将軍塚の標識がある。 将軍塚への道 は、左側の坂を上り、県道を橋で渡る東山ドライブ
九条口 ウェイである。 将軍塚は、桓武天皇が平安京の造営時、王城鎮護のため、八尺の征夷大将軍、坂上田村麻呂の土像を作り、 都(西方)に向けて埋めたと伝えられるところである。  坂を下り始めると、左側に京都蹴上浄水場が見える (右写真)
山科区から東山区に変った。 道の右側に、式内日向大神宮の石柱がある。 日向大神宮とは、顕宗天皇の時代に、筑紫日向の高 千穂の峯の神蹟を移したのが始まりとされ、
疎水 天智天皇がこの山を日御山と名づけ、清和天皇が天照大神を勧請した、といわれる神社で、延喜式にも記名がある。 鳥居をくぐ り登っていくと、疎水が流れていて、疎水に架かる太神宮橋から眺めると、大津方面からのトンネルが見えた (右写真)
橋の脇には安政六年(1859)三月建立の常夜燈が建っていた。 大神宮へは、橋を渡った先の石段を上っていくが、時間がないの でやめた。 反対側には、疎水を利用して、人や荷物を
インクライン 運んだインクラインの跡がある。 明治に入ると、大津港から南禅寺溜まりまで、船に人や荷物を載せたまま運ぶ輸送が行われた が、高低差の多いこの区間は水路が使えないので、土砂で傾斜を付けて、レールを敷き、船を載せた台車をロープで引き上げる 方法(インクライン)がとられた。 使用した台車が展示されていた (右写真)
街道に戻ると、道の右下に煉瓦造りの蹴上発電所の建物が見える。 蹴上発電所は、
蹴上発電所 日本で最初の商用発電所で、琵琶湖疏水の水を利用して水力発電を行った。 明治二十三年(1890)一月に、工事を着工し、明治二 十四年(1891)の八月に運転開始したが、明治四十五年(1912)二月に、第二期に工事が完成すると、最初の建物は壊されたといい、 右写真の煉瓦造りの建物は、第二期のものである。 坂を下ると、右側に地下鉄蹴上駅があり、右折すると、南禅寺や銀閣寺に行 ける。 ここから銀閣寺までは哲学の道といわれ、学生時代を京都で
都ホテル 過ごした小生にとっては思い出の道でもある。 三叉路で、右に行くと、平安神宮。 真っ直ぐ進むと、左側に都ホテルがある  (右写真)
坂を下りきったあたりが粟田口で、正一位合槌稲荷明神参道の道標が建っている。 このあたりは、刀匠三條小鍛冶宗近の家があ ったところで、三條宗近は、稲荷大明神の神助を得て、名刀、小狐丸を打った、 と伝えられる。 合槌稲荷明神のお稲荷さん は、その狐を祭った
白川橋 ものだろうか??  道の反対側に、粟田神社があった。  四差路に出ると、右に平安神宮の大きな鳥居が見え、左折して行くと知恩院へ出る。  その先の白川橋脇に、東面に、是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みちとあり、南面に、延宝六戊午三月吉日 京都為無案 内旅人立之 施主 為二世安楽という道標が建っていた (右写真)
少し歩くと、左右は東大路通りで、東山三条の交差点である。 学生時代には、市電が
東山三条 走っていたので、京都駅から東大路通に走り、百万遍から烏丸通りに出て、京都駅に戻るEの表示のある電車を利用して、ここは しばしば通った (右写真)
線路だったところは、自動車がひしめいていた。 交差点を越えると、銘酢 千鳥という看板が 目に入った。 銘酒の間違いかとよく見たが、やはり酢である。 こんな町内に酢をつくるところがあるのか? 建物もなかなか 粋である。 
村山造酢 聞いてみると、村山造酢という会社で、創業以来二百八十年の老舗で、質のいい江州米と酒を使って、食酢をつくり続けているの だ、という。 江戸時代の醸造蔵を近代建築で囲い、京都市都市景観賞にも選ばれた、とある (右写真)
茶懐石 辻留 出張専門 という看板を掲げている家があるが、裏千家お出入りの仕出し屋である。 京都の料亭は板前を持たず、 一流職人を抱える仕出し屋から料理を届けさせる。 
京阪三条駅 明治三十五年創業の辻留は、料亭だけではなく、駅などで弁当を販売しているが、五千円以上とお高い。 左側に、京阪三条駅が ある。 出町柳まで延伸した時、駅は地下に潜ったので、上の土地は、しゃれた喫茶店とモダンな庭園になっていた (右写真)
右側に、浄土宗 だん王の石碑が建つお寺があった。 だん王は壇王で、正式には、朝陽山栴檀王院無上法林寺(ちょう ようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)という寺である。 
高山彦九郎の像 地元では、だんのうさんとして、親しまれているようだが、見るべきものはなかった。 
その先にひれ伏す武士像は、皇居を遙拝している高山彦九郎像である (右写真)
高山彦九郎は延享四年(1747)、上野国新田郡細谷村(群馬県太田市細谷町)の生まれで、天皇を崇拝した勤王思想家である。 松 平定信などの幕府の警戒から、常に監視下に置かれ、寛政五年(1793)、筑後国久留米の友人宅で、四十六歳で自刃した。 
三条大橋 林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われた人物であるが、その後の幕末の勤王の志士達に大きな影響を与えたといわれる。 
目の前は加茂川で、三条大橋が架かっている。 日本橋からここまで、百二十六里余(約492km)を歩いてきたが、東海道の 旅もこの橋で上りである (右写真)
東海道は中山道より短く、交通手段も運行頻度も多く計画が立て易かったし、中山道を
加茂川 歩いたという経験もあった。 しかし、七十歳へもう一歩と歳も取り、脚力は以前よりかなり落ちた。 これだけの距離を歩くの はこれが最期かなあ!! 
そうした思いを胸に秘めながら、川を渡った (右写真)
橋は昭和二十五年に建設されたものだが、擬宝珠の中には豊臣秀吉が作らせたものもあり、また、西より二つ目の擬宝珠には、 池田屋騒動時につけられたとされる刀傷が残る。
弥次喜多像 なお、池田屋は、高瀬川に架かる三条子小橋の西側にあった。 中山道の時は、家族で出迎えてくれたが、今回は、橋の向こうに ある弥次喜多像だけだった (右写真)
その前にたむろしていた修学旅行の子供に質問を受け、東京から歩いてきた、といったら、目を丸くした。 連続して歩いてきた と、勘違いしたのかもしれないが、それにしても、交通機関の発達した今日に生きる、平成生まれには、東京から京都まで歩くな んで、考えられないことだろう。 そのような時代の移り変わりの中で、加茂川は淡々と流れていた。


(ご 参 考)  インクライン

明治に入ると、大津港から堀川に通じる南禅寺溜まりまで、船に人や荷物を載せたまま運ぶ輸送が行われた。 高低差の多い蹴上 区間は水路が使えないため、トンネルを掘ったとき出た土砂で傾斜を付けて、そこにレールを敷き、船を載せた台車をロープで 引き上げるようにしたのである。 引き上げはケーブルカーと同じ原理で行い、巻き取り機でロープを引き上げるようにしていたが、 動力には蹴上発電所で起こした電気を利用した。 これがインクラインである。 こうした画期的なやりかたも鉄道の登場で消えて いった。
それにしても、蹴上発電所を作ったり、人や荷物を載せたままの船を引き上げることは当時の日本人には考えられないことで、 欧米との科学技術の差を当時の人は痛感したことだろう。

(追加)東海道五十三次を歩き終えてしばらくして、東海道五十七次と呼ばれる街道があることを知り、遅ればせであるが、歩くことにした。  これは京三条からではなく、前述の大津宿から逢坂山を越えたところにある山科追分が出発地である。 江戸幕府はこの先、伏見、淀、 枚方、守口の四つの宿場を設け、終点は摂津国の高麗橋がゴールである。 

(旅と文)    平成20年(2008)4月
(追加)    平成22年(2010)4月




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かうんたぁ。