『 東海道を歩く  ー 大津宿(続き)  』




 

石山から 大津宿まで

今井兼平の墓の道案内 京阪電車の線路を越えると、左手にJR石山駅が見える。 道は、JRのガードをくぐると、左側のNECの工場を一回りするよ うに続く。 一キロほど歩くと、左側に朝日将軍、木曾義仲と乳兄弟であった今井兼平(いまいかねひら)の墓 の道案内があった (右写真)
兼平の正式名は、中原兼平(なかはらのかねひら)、父は中原兼遠兼平、兄弟に樋口兼光、巴御前がいる。 墓はここ以外に長野市川中島にあり、彼を祀る今井神社は同所と松本市にある。 
膳所城勢多口総門跡 このあたりは御前浜という地名だが、江戸時代以前には粟津野といったようで、古戦場である。  近江八景の一つ、粟津の晴嵐もこのあたりだが、湖が埋め立てられて、水面を望むという風情は残っていない。  街道は狭くなり、左にカーブする道脇の新築の民家の前に、膳所城勢多口総門跡と書かれた石柱があった (右写真)
その先にあるのは道祖神だろうか? このあたりは、城下町特有の鉤形になっていて、
格子の家 道は右、左、右というようにかなり曲がっている。 左側にあった格子の家には、珍しいばったん床几が付いていた。 前に倒す と、縁台になるものである (右写真)
このあたりには、少ないが古い家が残っていた。  京阪電車の踏み切りを渡ると、右手に若宮八幡神社がある。 神社の創建は、白鳳四年(675)、天武天皇がこの地に社を建てるこ とを決断し、四年後に完成したとあり、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さ、という。 
若宮八幡宮表門 当初は粟津の森八幡宮といっていたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になった。 表門は、明治三年に廃城になった膳 所城の犬走り門を移築したもの (右写真)
切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、軒丸瓦には本多氏の立葵紋が見られ る。 社殿は、幾多の戦火により焼失したので、それほど古くないが、江戸時代の東海道名所図会に、 粟杜膳所の城にならざる 已前、膳所明神の杜をいうなるべし、 とあるのは、この神社のこと
篠津神社 だろうか? 道が鉤形になっていて、また、京阪の瓦ヶ浜駅前の踏切を渡る。 古い家がかなり残っていて、それを大事にしなが ら生活しているような気がした。 左側のマンションの隣に、篠津神社の鳥居があったので、奥に入る。 神社の表門は、膳所城 の北大手門を、廃城時に移設したものである (右写真)
祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、古くは、牛頭天王と称し、膳所中庄の土産神で
膳所神社表門 あった。 創建時期は明らかではないが、康正二年の棟札から室町時代にはあった、と考えられ、宮家の御尊崇高く、膳所城主の 庇護を受けた、 と案内板にあった。 狭い道が続き、左にカーブして進むと、本丸町に入る。 膳所神社の表門は、明治三年 (1870)に廃城になった膳所城から、二の丸から本丸へ入る城門を移築した薬医門で、国の重要文化財に指定されている (右写真)

膳所神社社殿 膳所神社は、天武天皇六年に、大和国より豊受比売命(とようけひめのみこと)を奉遷して、大膳職の御厨神と された、と伝えられる神社で、中世には諸武将の崇敬が篤く、豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が 残る、とあった。 本殿、中門と拝殿の配置は、直線上東正面の琵琶湖に向かって立っている (右写真)
境内には、式内社膳所倭神所と書かれた石碑もあった。 少し歩くと、広い道と交差した。 
膳所城址 右折すると湖岸で、膳所城址がある。 瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は、琵琶湖の中に石垣を築き、本の丸、二の丸 を配置し、本の丸には四層四階の天守が建てられた城だったが、破壊が著しく、北側に石垣が、わずかに残っているだけで、城址 公園として、本丸の天守閣跡に石碑が建っていた (右写真)
街道に戻り、大津宿を目指す。 街道の左側にある梅香山縁心寺は、膳所城主、本多家の
和田神社 菩提寺である。 その先の和田神社は、白鳳四年(675)に、祭神の高竈神を勧請し創建された神社で、古来から八大龍王社とか、 正霊天王社とも称されたが、明治に和田神社となった。 透かし塀に囲まれた本殿は、一間社流造(いっけんしゃながれ づくり)、軒唐破風(のきからはふ)をつけるのが特徴で、国の重要文化財である (右写真)
桧皮葺きの屋根は、安土桃山期に改築されたものだが、側面の蟇股は、鎌倉時代の
いちょうの木 遺構と伝えられる。 門は、膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものである。 
境内のいちょうの木は、樹齢六百五十年といわれ、市の保護樹木で、関が原合戦に敗れた石田三成が、京都へ搬送されるとき、縛 られていた、という話が残る (右写真)
二百メートル先で右折し、寺の周りを回って、道なりに行くと、西の庄に入る。 小さな橋を渡ると、すぐあるのが、石坐 (いわい)神社である。 祭神に、海津見神(わたぬみのかみ)を主神、
石坐神社 天智天皇、弘文天皇などを祀っている。 八大龍王社とか、高木宮と称したこともあったようだが、延喜式にも、近江国滋賀郡 八社の一つと、記されている古い神社で、本殿は文永三年(1366)とあるので、鎌倉期のものらしい (右写真)
法応寺を過ぎると、膳所城北総門跡の石碑が建っている。 このあたりが、膳所城の北のはずれでなので、膳所藩と大津陣屋領と の境である。  

(ご 参 考)  膳 所 城
 
膳所城は、徳川家康が大津城に代え、慶長六年(1601)、瀬田の唐橋に近いこの地に、藤堂高虎に縄張りを命じて、新たな城を築 いた城で、琵琶湖に浮かぶ水城として有名だった。 京都への重要拠点だったので、譜代大名を城主に任命した。 初代は戸田 氏、その後、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、慶安四年(1651)、再び、本多氏となり、そのまま幕末まで続いた。 

大津(おおつ)宿 

徳川家康は、慶長七年(1602)、大津城を廃城にして、その資材で膳所城を作らせ、大津を直轄地にして、大津奉行(時期に よって大津代官と呼ばれた)が支配する大津陣屋が置いた。 これ以降、大津の町は宿場町として、また、近江商人の町として 発展を遂げることになるのである。 大津宿は、南北一里十九町(4km強) 、東西十六町半(200m)の広さで、本陣が二、脇本 陣一、旅籠は七十一軒を数えた。 また、近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など、近江商人が 商う店が増え、天保年間頃には、人口が一万四千人を超え、家数は三千六百五十軒と 、東海道最大の宿場町になった。 

義仲寺 大津宿の江戸側の入口が、どこなのか表示がないので分らないが、膳所城北総門を過ぎると、大津陣屋の所管なので、ここからは 大津宿なのだろう? 
馬場1丁目に入ると、国の指定史跡の義仲寺(ぎちゅうじ)がある (右写真)
名所記に、 番場村、小川二つあり。 西の方の川を、もろこ川といふ。 川のまへ、左の家三間めのうらに、木曾殿の塚あり。  しるしに、柿の木あり と、記されているところである。 寺の由来書によると、寿永三年(1184)、源義仲は、源範頼、義経の 軍勢と戦い、討ち死したが、
朝日堂 しばらくして、側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲の供養した。 尼の没後、庵は無名庵(むみょ うあん)、あるいは、巴寺といわれ、木曾塚、 木曾寺、また、義仲寺とも呼ばれたと、鎌倉時代の文書にある (右写真 ー 朝日堂)
戦国時代に入ると、寺は荒廃したが、室町時代末、近江守護、佐々木氏の庇護により、寺は再建され、寺領を進めた。 その後、 安政の火災、明治二十九年の琵琶湖洪水などに遭ったが、
木曾塚 改修された。 第二次大戦により、寺内の全建造物が崩壊したので、現在の建物はその後のものである、と寺の案内にあった。  左奥の土壇の上に宝きょう印塔を据えたものは、木曽義仲の供養塔で、木曾塚ともいわれる (右写真)
武勇に優れ美女であった側室の巴御前は、尼になり、ここで庵を結び、義仲の供養に明け暮れていたが、ある日突如として旅に出 たと、説明されていたので、ここで亡くなった訳では
巴塚 ないが、その隣に、巴塚があった (右写真)
なお、山門の右にあるお堂は、巴地蔵堂で、巴御前を追福する、石彫地蔵尊が祀っていて、昔から遠近の人の信仰が深い。  巴塚の近くに、JR大津駅前にあった山吹姫の山吹塚も移設されていた。 この寺が有名になったのは、芭蕉とのかかわりである。
芭蕉が最初に訪れたのは、貞享弐年(1685)で、その後、四回滞在している。 
芭蕉の墓 元禄七年(1694)十月十二日、大阪で亡くなると、芭蕉の遺言により、去来、其角ら門人の手で、、この寺に運ばれ、木曾塚の隣 に、埋葬された。 今も当時のままで、墓が立っている (右写真)

墓の右側には、芭蕉の辞世の句 を刻んだ句碑
     『    旅に病で    夢は枯野を     かけ廻る    』
が建っていた。
芭蕉句碑 その他にも、巴塚の近くに
    『   古池や     蛙飛びこむ      水の音     』
また、真筆を刻んだとされる句碑も朝日堂に近いところにあった (右写真)
    『   行春を     あふミの人と     おしみける   』  (芭蕉桃青)

電車の踏切を越えたところが、打出浜で、石場というところ。 江戸時代には、湖を舟で渡ってきた旅人が利用する港があったの で、大変賑わい、立場茶屋が並んでいた、という。 
平野神社入口 港には、弘安弐年(1845)、船仲間の寄進で建てられた、高さ八メートル四十センチの花崗岩製の大きな常夜燈が立っていて、船 の安全を守る灯台の役目も担っていた、というが、現在は、よそに移されてしまった。 道を左にとると、平野神社の石碑が見え た。 神社は左の坂の上にあるのだが、蹴鞠の祖神という精大明神が祭神である (右写真)
古くから、芸能の神として信仰を集めていた。 平野集落を過ぎると、大津宿に入る。 
大津宿 石山からここまでは、古い建物が多く残っていたのに、大津宿の中心部に入ると、古い町並や建物がほとんど残っていない (右写真ー東海道は左へ)
推測になるが、第二次大戦で空襲に遭い、大津市中心部はほぼ全壊したことと、昭和四十年後半から大津市の人口が急増し、市域 が五倍に拡大し、市中心部の高層化が進んだことによるのだろう。 東海道が通るのは、京町通りといい、京都への道筋にあった ので名付けられ
京町通り た、という通りである。 スーパーやデパートのある湖畔べりの道からそれほど離れていないし、県庁などの官庁が近くにあるの にかかわらず、喧騒を忘れたような静けさである(右写真) 
道脇に、天保十二年造と書いた、北向地蔵尊を祀った小さな社があった。 寺院もけっこう多いのだが、寺なのか貸し駐車場なの か分からないような寺もあるのは時代を反映している
滋賀県庁 のだろう。 左折して、通り一つ行くと、滋賀県庁である (右写真)
このあたりは、江戸時代には、四宮といわれたところである。 東海道名所図会に、 四宮大明神社 − 大津四宮町にあり 祭神 彦火火出見尊 、とあるが、この神社が町名になった。 四宮大明神とか、天孫第四宮などとも呼ばれたが、明治に入り、天孫神 社に名に変え、現在に至っている。 天孫神社は、延暦年間(782)に創建され、平安時代の大同三年(806)、近江に
天孫神社 行幸された平城天皇が、当社を仮の御所として禊祓いをされた、という古い神社で、大津地方裁判所の近くにあった (右写真)
四宮の由緒には幾つかの説がある。 祭神が彦火火出見尊、国常立尊、大己貴尊、帯中津日子尊の四神であることからというも の、近江国には神徳の厚い社が多くあり、昔の人々は、一宮〜四宮と称した。 一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大 社、四宮が天孫神社
大津別院 である。 天孫神社はこの説を採っているように感じた。 十月上旬に行われる大津祭の曳山巡幸は、豪華華麗で有名であるが、 大津祭曳山展示館で見ることができる。 京町三丁目交差点を越えると、大津別院がある (右写真)
本堂と書院は、国の重要文化財で、山門前には、明治天皇大津別院行在所の石柱が建っていた。 また、天孫神社の近くにある 華階寺の門前には、俵藤太 矢板地蔵 月見
御饅頭處 石の石柱が建っている。  京町通りは、江戸時代と違い、住宅が多くなったが、それでも仏壇屋や料理屋などの商店があった。 すだれ老舗の看板を掲げた 店があるので、中を覗くと、装飾を施したものなど、室内インテリアとなるモダンなものが飾られていた。 御饅頭處 と書かれ たお菓子屋で買ったかしわ餅は素朴な味がした (右写真)
道の右側に、旅籠だったかなあ、と思える古い家があった。  
大津事件石碑 その対面の徳永洋品店の脇に、比付近露国皇太子遭難之地、と書かれた石柱が建っている。 歴史の教科書に、大津事件として 掲載されている歴史的な事件で、明治十三年(1880)五月、日露親善のため来日したロシアの皇太子が、この場所で警備中の巡査 に切りつけられた 、という事件である (右写真)
街道をそのまま進むと、国道161号が通る大通りに出た。 
札の辻 ここは札の辻といい、高札場が置かれたことから、名付けられたところである。
交差点を越えた先に、大津宿の人馬会所があったという説明板があり、大津市道路元標の石碑が立っていた (右写真の左上の 建物前)
道路の右上には、旧東海道の標識があり、国道161号を歩くように表示されている。 国道161号は、この先の国道1号と交わる逢 坂1交差点が起点で、この交差点を越えて進み(直進し)、
長等神社 坂本や堅田など、琵琶湖西岸を通り、敦賀へ抜ける道で、江戸時代には、北国西街道と呼ばれた。  寄り道になるが、北国街道を行くと、街道に赤い鳥居があり、入って行くと、長等(ながら)神社があった (右写真)
天智天皇が大津宮の鎮護のため、長等山岩倉に、須佐之男神を祭ったのが起源。  天安弐年(858)、比叡山の僧、円珍が、大山咋 命を合祀し、新たに建立。 天喜弐年(1054)、庶民
京阪電車 参詣のため、山の上から現在地に移った。 現在の建物は、寛文四年と慶安二 年にそれぞれ
増改築されたもの、と案内板にあった。 三井寺もあるが、 またにして、京町1丁目の交差点に戻る。 東海道はこの交差 点を左折する。 少し歩くと、京阪電車が道路上に出てきて、車道を走る光景に出逢った (右写真)
江戸時代には、札の辻一帯には旅籠が多くあった、というが、古い家は一軒も残っていなか
京阪電車 った。 上りになっている道を少し歩いて行くと、電車は道路から別れて右に入っていった。 
左側に郵便局があり、その先の労働基準局の前に、本陣があったことを示す石碑が建っていた。 ここが、大塚嘉右衛門本陣 跡のようだった (右写真)
この先、国道1号線にぶつかると、大津 宿は終わりである。 


(ご 参 考)  大津の歴史
 
大津の名前が歴史の舞台に登場するのは、天智天皇の大津京遷都(667年)であるが、大津京は壬申の乱を経てわずか五年で滅 びてしまった。 しかし、平安遷都後、都の玄関口として、人や物資が集まる重要拠点に成長していった。 戦国の武将もそうし た大津を重要拠点として重視した。 織田信長の坂本城、豊臣秀吉の大津城はまさにそうであった。 しかし、徳川家康は、慶長 七年(1602)、大津城を廃城にして、大津代官が支配する大津陣屋が置いた。 これ以降、大津の町は宿場町として、また、近江 商人の町として発展を遂げることになるのである。 明治維新により、滋賀県が誕生し、大津に県庁が置かれ、また、大津市が誕 生、その後、周囲の町、村を吸収し、拡大を続けている。
 


平成20年(2008)  4月


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かうんたぁ。