関宿には、平成十五年八月七日、平成十九年三月十八日、四月十一日と三回訪訪れている。
本編は最初に訪れた平成十五年の原稿を基にしているが、それから三年半以上経過したこともあり、町の雰囲気や家並みが変わっている。 これらについては、追記した。
橋を渡ったところに、関町の信号交差点があるが、そこから少し行ったところに、右に入る細い道があり、
ここに関宿と書いたの大きな看板が立っている (右写真)
江戸時代の関宿の江戸側の入口は、もう少し先であったが・・・
左側に、関の小萬のもたれ松の説明板があり、最近植えたと思われる松がある。
関の小萬は、父の仇討を遂げた女性である。
久留米藩士、牧藤左衛門の妻は、良人の仇を討とうと志し、旅を続けて、関宿の山田屋に逗留、一女の小萬を産んだ後、病没した。 成長した小萬は、三年程、亀山で修業し、天明三年(1783)、母の遺言通り、仇敵の軍太夫を討つことができた。
この場所には、亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるため、姿を隠したと伝えられる松があったと、伝えられる (右写真)
右側には、宿場を見学する人のための無料駐車場があった。
ここから四百〜五百メートル位歩くと、左側に大きな鳥居が見えてきた (右写真)
ここが関宿の東の入口(江戸口)でで、宿場は、ここから西の追分まで、東西に千八百メートルの帯状に伸びていた。 また、東海道と伊勢別街道との追分(分岐点)でもあった。
大鳥居は、伊勢神宮に立ち寄ることができない旅人が、神宮に向かって遙拝するためのもので、
伊勢神宮の二十年に一度の式年遷宮の際、伊勢神宮(内宮宇治橋南詰)の古い鳥居をここに移築するのがならわしになっている。 鳥居の左側の小高いところに、伊勢別街道との追分を示す道標や常夜燈が建っている (右写真)
道標には、是よりいせみち。 その他の二つの道標には、右さんくうみち、これより外宮十五り、とある。
(注) 後日、伊勢別街道を
歩いたので、ご覧下さい。
この小高い丘は関一里塚の跡で、右側奥にそれを示す小さな石碑が建っている。
これ等は宿場町、関の歴史を端的に示す貴重な文化財である。
鳥居の前の石垣の上に建っている家の連子格子が素晴らしいと覗きこむと、岩間家住宅とあり、建物は二百年以上経っていて、むくり屋根が特徴と書かれていた (右写真)
岩間家は、当時の屋号を白木屋といい、東追分で稼ぐ人足や人力車登場後は車夫の常宿だった。
(注)むくり屋根とは、どういうものかの説明がなかったので、ホームページで調べてみた。 屋根の曲面形状は、そり (反り)とむくり (起り)に分類される。 そりは、下方に凸となったもの、むくりは上方に凸となったものである。 むくりは使われることが少ないが、数奇屋建築にはむくり屋根が好んで使われ、桂離宮などはその好例である、とあった。
これから先は、道幅が狭くなり、車が1台だけ通れるだけの巾である。
天保十四年の東海道宿村大概帳によると、戸数が六百三十二戸、人口は約二千人、とあり、本陣が二軒、脇本陣二軒、旅籠が四十二軒と、かなり大きな宿場である。 この宿場には、古い家が残り、約三百八十軒の建物が軒を並べている様は壮観である (右写真)
最も古い建物は十八世紀中期のもので、江戸から明治のものが全体の約四十五パーセントも占める。
更に、昭和戦前までのものを加えると、実に、約七割を占める、という。
これらの貴重な建物は、昭和五十九年に、旧東海道の宿場町の町並みを留める地区
として、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
宿場は、木崎町、中町、新所町の、三つの町で構成されている。
鳥居から近い木崎町から歩き始める。
木崎町の建物の特徴としては、平屋や中二階の比較的建ちの低い建物が多いことである。
二階の壁面も真壁が普通で、中町に比べると、やや簡素である (右写真)
町のパンフレットで、関宿の町屋の特徴と、説明されているのを紹介すると、
@ 出格子と幕板
庇(ひさし)の下に取り付けられた幕板(まくいた)は、風雪から店先を守るもの。
出窓格子は、明治時代以降に取り付けられた。
A ばったり(揚げ店、店棚)
店の前に取り付けられた、上げ下げできる棚で、商品を並べたり、通りを通る人が座ったりした。
写真の右側にある縁台のようなものがそれである。
B 馬繋ぎの環金具
玄関の柱に打ち付けられたもので、馬をつなぐのに使われたもの。 低い位置にあるのは、牛をつないだものである。
C 虫籠窓(むしこまど)
町屋の正面二階にある、漆喰(しっくい)で塗りこんだ堅格子窓のこと。
いろいろな形の虫籠窓が関宿には残されている。
岩間家の先にある浅原家は、屋号を江戸屋といい、米屋や材木商などを営んでいた。
家の正面に、塗籠の中二階、連子格子で、二階の窓の部分が上述した虫籠窓になっている (右写真)
明治以降につけたばったり(店棚)、馬つなぎの環などもあるが、全体的に、江戸時代の面影を良く残している建物で、万延年間以前の建物らしい。
夏の盛りなのと盆地のような地形のせいか、蒸し暑いのには、閉口する。 少し歩くと、
御馳走場 と書かれたところにでた。 ここは、宿役人が、関宿に出入りする大名や
高僧、公家などを出迎えたり、見送ったりしたところで、大名行列ではここから本陣まで
行列を組んで進んだ、という。 御馳走場のまえには、開雲楼と松鶴楼という、関を代表
する芸妓置屋の建物が残されている。
また、ここは関神社の参道入口でもある。
関神社は、関氏の始祖が紀伊国の熊野坐神社の分霊を勧請し、江戸時代には、熊野三所権現と呼ばれていたが、明治時代に、笛吹大神社や大井神社などの小祠にあった神々を合祀して、関神社と名を改めた (右写真)
境内のナギの木は熊野に縁があるといわれている。
中町は、宿の中心で、宿場の中枢的施設が集中した地区である。
中町には、比較的建ちが高く、塗篭、虫篭窓を基調とした特色ある町屋が遺されている。
関まちなみ資料館は、江戸時代末期に建築された町家を公開したものである。
鶴屋脇本陣(波多野家)は、西尾吉兵衛を名乗っていたので、西尾脇本陣ともいった。
二階避面の千鳥破風がその格式を示している (右写真)
川北本陣があった場所には石碑が立っているだけで、今はなにも残っていない。
隣には、問屋場があったことを示す石碑があり、奥は山車倉になっていた (右写真)
山車が曳き出される夏祭りは、関の名を有名にした。
関の山、という言葉は、互いに華美を誇り、狭い宿内を練ったことから生まれたのである。
最盛期には、十六台の山車があったらしいが、現在でも、四台が残り、四ヶ所に山車倉がある。
この宿のもう一つ本陣は、伊藤本陣で、現在は、松井家が住んでおられる。
本陣の間口は十一間、建坪は六十九坪だったといい、西隣の表門は唐破風造りの檜皮葺きである。
現在残っている建物は、家族の居住に供された部分と大名宿泊時に道具置き場になっていたスペースである (右写真)
旧旅篭・玉屋の建物に入ってみる。
関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か と、いわれた玉屋である。
旅籠の建物が一体になって残っているのは珍しく、江戸時代の様子を今に残す貴重な遺構として、関町が持ち主の村山家から有償で譲受け、旅籠玉屋として修復したもので、旅籠玉屋資料館として公開されている (右写真)
玉屋は、いつ創業したかは分からないようだが、寛政十二年(1800)には、宿場絵図に記されているので、その頃には、現在地で営業していた、といえる。
道に面した主屋は、慶應元年(1865)建築の木造二階建てで、外観は、漆喰で塗籠る形式であるが、江戸時代の建物としては軒が高く、宝珠を形取った虫籠窓(むしこまど)が印象的である。
玉屋の間取り図は、右写真の通りだが、家に入ると、土間(とおりどま)があり、左側に、板の間の店の間と帳場がある。 右側の現在受付兼事務室になっている二室は、こみせで、右側の二階部分が家族や奉公人の部屋だった。 たたきには、竈などが置かれ、客に出す炊事が行われた。 主屋に続く離れは主屋より少し古いと考えられ、整然とした室が六部屋が並び、部屋には、玉屋十二代主人作という
欄間彫刻や池田雲樵による襖絵があり、もっとも上等な間であった。
左側の二階の部屋は、客室として使われ、旅籠で使われた道具が展示されていた (右写真)
欄間の彫刻や通りに面した窓からの造形に印象深いものがあった。
土蔵は、元文四年(1739)の建物で、広重の浮世絵などが展示されていた。
関宿には、大きな旅籠が十軒もあったというが、こうした大旅籠では、多いときには二百名近い旅人を泊めたと思われ、玉屋に残っている宿帳に百名近い団体客の記録が残っている、とあった。
当時は、一室に数組の客が泊まる相宿(あいやど)が普通だったのだが、客が多い日には、一室に
十名近く泊めた計算になる。
吉沢家は、屋号を岩木屋といい、明治から大正にかけて、酒造業と味噌醤油醸造業を営んでいたが、現在の建物は、明治十七年の建築である (右写真)
中町の建物は、二階壁面も塗篭めて、虫篭窓を明けるものが多い (右写真)
二階壁面を真壁とした新所や木崎の町屋に比べ、意匠的により華やかである。 また、間口が大きく、主屋の横には庭を設けて高塀を廻すのがみられるが、その主屋や高塀群は意匠的にも質の
高いものだと、専門家は見ている。 また、町屋の細部意匠としては、漆喰細工や屋根瓦
に見るべきものが多い。
漆喰彫刻の、鯉の滝の昇り、虎、龍、
亀、鶴など、縁起を担ぐ
ものが多く、細工瓦には、その他、職業に使う道具を意匠にしたものもあった。
その先の関の戸の看板がある深川屋は、代々菓子司で、寛永年間に、初代によって考案された餅菓子、関の戸は、関宿を代表する名菓として名高く、京都御所から陸奥大掾の名を賜った (右写真)
看板は、庵看板という、瓦屋根の付いた立派なもので、看板の関の戸の文字は、京側が
漢字、江戸側がひらがなになっていた。 関の戸をお土産にしたが、好評だった。
関宿のほぼ中心にある郵便局の前には、道路元標がある。
関郵便局は、天正二十年(1592)、徳川家康が休息したので、御茶屋御殿と呼ばれ、江戸幕府初期には、代官陣屋があったところで、亀山藩になってからは、藩役人の詰所が置かれた (右写真)
古い建物群の中で、営業している百五銀行や郵便局は、周りに調和した建物になっていた。
その先、右に入ったところにある福蔵寺は、正式名は清浄山福蔵寺といい、織田信孝の
菩提寺として、天正十一年に創建された寺で、境内に、織田信孝の墓がある。 また、前述した仇討ち烈女といわれた小萬の墓もある (右写真)
地蔵院は、景観的にも歴史的にも関の町並みを特色づけるものとして、重要な要素であるが、道路に面したところには、歴史の道という大きな石碑が建ち、大正三年に建てられた
停車場道の道標がある。 また、常夜燈は、享保十六年(1731)に建てられたもので、せきのちそう、と刻まれている。
地蔵院は、 関の地蔵に振り袖着せて 奈良の大仏むこ取ろう 、という俗謡で名高い、関地蔵が祀られている寺である (右写真)
天平十三年(741)、行基が当時流行った天然痘から人々を救うため、この地に地蔵をきざんで安置したのが始まりで、地蔵院本堂に安置される地蔵菩薩は、我国最古のものといわれる。
本堂(右写真)は、四代目で、元禄十三年(1700)、将軍の綱吉が、母、桂昌院のため建立したものである。
隣の愛染堂は、室町初期の建立で、享徳元年(1452)、愛染堂の大修理の際、開眼法要したのが一休禅師である。 本堂、愛染堂ともに、国の重要文化財に指定されている。 境内には、一休禅師の石像があった。
鐘楼の鐘は、知行付の鐘と呼ばれ、寛文十一年(1671)に建立された。 鐘楼の近くには、明治天皇御行在
所の石碑が建っていた。
地蔵院の前に、江戸時代、鶴屋、玉屋とともに、関宿の有数の旅籠だった会津屋(森元家)がある。 鈴鹿馬子唄に、 関の小万が亀山通ひ 月に雪駄が二十五足 と、謡われた、仇討ちの烈女、小萬は、明和から天明にかけて、この旅籠、山田屋(後の会津屋)で育った、といわれる (右写真)
現在は、街道そばなどの食事処になっていて、昼飯にざるそばを食べたが、なかなか
おいしかった。
(追記)平成19年3月、三年半ぶりに訪れたが、関の戸を過ぎたあたりから以前と何か変ったという感じがした。 喫茶店や小物を売る店が出現したことかなあ、と思っていたが、会津屋を過ぎたところで、千葉から来た観光客に説明している地元の人の話で分った。
このあたりの建物が建替えられていたのである。 会津屋も休業して修復したのだという。 上の写真が前回訪問したときのもので、右の写真が建替後のものである。
東海道は、地蔵院のところで、ゆるくカーブしている。
地蔵院の東側が中町で、西側が新所町である。
新所町の大半の建物が、仕舞屋ふうの平屋であるため、全体としてやや地味ではあるが、落着きのある等質性の高い町並みとなっている (右写真)
また、新所の家々には、格子や庇の幕板などの伝統的な細部意匠が、比較的よく残されていた。 右側にある、説明板の付いた家は、松葉屋という屋号で、火縄屋を営んで
いた田中家である。 江戸時代の関宿の名物、特産品に、火縄(ひなわ)があったが、田中家は松葉屋という屋号で火縄屋を営んでいた家で、今でも、播州林田御用火縄所、という看板が残っている 、と説明板にあった (右写真)
火縄は火奴ともいい、鉄砲に用いたため、大名の御用があったが、道中の旅人が煙草などに使うためにも購入された、という。
(追記)この住宅も建替えられていた。 右上写真が建替え前のもので、右写真は方角が逆だが、建替え後のものである。
先程の地元紳士の話では、新所地区では年数軒の建替えが行われているという。
建替えに当っては、町並保存という目的で、政府から千万円〜千三百万円の補助が出るとのことだった。 以前は二千万円も出た時期があったというからすごい。
(注) 補助の条件は、表に面した部分は以前と同じ外観を有することと使用できる部材は使用するということの
二点に、瓦屋根を使用すること、という。 これが以外に難しく、現在の耐震瓦は使用できないし、古いかわらを
一部使用するので、新しいものとの調和が求められる。
室内をどのような変えてもよいので、ほとんどの家は
現代風になっているというが、この部分は補助対象ではないので、トータルでみると、新築した場合と余り変ら
ない出費であると、いっていた。
その先に、間口十五間半の総格子の表構えの家を見つけた。
大正初期に建てられた田中屋の住宅で、代々庄太夫を名乗り、醤油醸造業を営んでいた家である (右写真)
三十尺の黷フ通し柱の母屋や煉瓦作りの麹部屋や煙突など、七年がかりで建設されたという、関町でも最も広荘な町屋のひとつである。 連子格子は凄いと思った。
その先にある観音院は、古くは関西山福聚寺といい、城山の西方にあった。
嵯峨天皇(830)
の開創といわれ、関氏の祈願寺として栄えたが、戦国末期の兵災で焼失し、寛文年間に現在地に移転し、お堂を建て、関西山観音院 と号すようになったという寺で、東海道の関宿の守り佛として、後には西国三十三ヶ所の霊場となった (右写真)
寺の奥の方にある観音山は、景勝地として知られていたといい、東海道に面したところに、大正十五年に建てられたという、観音山公園道と刻まれた道標があった。
手前の井口家は、南禅寺の屋号で、豆腐料理を名物にする料亭だったといい、連子格子、塗りごめの中二階がある建物で、文久年間(1861〜1865)の頃に建てられた、といわれる。
(追記)平成19年4月には、井口家の建物も建て直しの最中で、見る影もない状態の中、多くの職人が働いていた。
観音院から西の追分までは百五十メートル。
江戸時代には、民家や見附土居や御馳走場松並木が続いていて、西の追分にも常夜燈が置かれていたが、現在も民家は続いているが、常夜燈と見附土居は残っていない。
当時の面影を残すのは、法悦供養塔道標といわれる高さ二メートル九十センチの石の道標のみである (右写真)
元禄十四年(1691)に、谷口長右衛門が、旅人の道中安全を祈願して建立したもので、
道標には、南妙法蓮華経の下に、ひたりはいかやまとみち と、ひげ文字で、刻まれている。
ここは、加太(かぶと)峠を越えて、伊賀上野、奈良に至る大和街道の追分であり、また、関宿の
京側の入口でもあった。 現在は、西追分と書かれた案内板があるが、国道25号と国道1号の分かれ道になっている。
江戸時代には、関宿はここで終わり、その先は険しい鈴鹿の山越えが待っていたのである (右写真-平成19年4月撮影)
(注)平成19年4月に再訪すると、西追分の案内板の近くに、平成十八年に設置された、従是関宿の石柱が建っていた。
同行したokanが別のページでペーソスも交えて旅の感想を書いています。
ぜひ、 『東海道は関の宿』 もご覧ください。
(亀山宿〜関宿) 平成19年(2007) 3 月
( 関 宿 ) 平成15年(2003) 8 月
( 同 上 再訪問) 平成19年(2007) 3 月
( 同 上 ) 平成19年(2007) 4 月