白鳥こ線橋東で名鉄の線路を越え、国府(こう)の町に入る (右写真)
国府は、古くからひらけた所で、穂の国(ほのくに)の中心であったが、奈良時代には、三河国府が置かれ、国分寺、国分尼寺が建てられ、総社も造られたところである。
(注)古代には、東三河は穂国、西三河は三河国と分かれていたが、大化の改新後の律令制の確立時に、二つの国が統合され、三河国になった
。
小生は、ここで三河国国分寺跡と船山古墳などの旧蹟を訪れるため、白鳥こ線橋東交差点で、右折したが、御油宿へ直行する場合は、国道をそのまま歩き、久保町向田交差点の先の国府町藪下交差点で、左側の道に入るのが東海道である (右写真)
(注)史跡めぐりに興味のない方は、この章を飛ばして、次章・国府から御油宿へにお進みください。
白鳥こ線橋東交差点の東側のカーブになっている道を下っていくと、筋違橋交差点に出る。 左右の広い道は、御油から見附宿に向かう本坂越で、江戸時代には姫街道と呼ばれた道。 交差点を渡り、次の竹下交差点で左折し、五百メートル弱歩くと、左側に三河国国分寺跡の案内があり、赤い幟ははためく先に国分寺があった (右写真)
国分寺は、天平十三年(741)、
聖武天皇の詔勅によって建てられた寺である。 三河国分寺
の寺域は約百八十メートル四方で、南大門、中門、金堂、講堂を一直線に並べ、鐘楼、七重塔などを左右に配した大伽藍だった。 しかし、平安時代の末には、国分寺は荒廃してしまった。 現在の寺は、永正三年(1506)に再興されたもの。 寺の左手にある公民館の右奥に、三河国分寺塔跡と書かれた石柱があった (右写真)
その中には、塔の礎石と○○神と彫られた、小さな石碑があるだけだった。 三河国分寺は、
現在の寺の北方に講堂があり、寺の南部に金堂や回廊があり、入ってき道より南までが寺域で、公民館も寺域だった。 先程の車道に戻り、その先の三差路を越えた右側の細い道を入ると、三百メートルほどで三河国分尼寺跡に着いた (右写真)
保存整備事業で、中門や回廊が設けられた他、発掘された状態の上に六十センチの土を盛り、その上に、同種類の柱石などで、基壇などを復元し、歴史公園になっていた。
昭和四十二年の発掘調査により、金堂基壇や複廊の回廊跡が発見され、注目を浴びた。 その後の調査から、敷地は約百五十メートル四方であることが判明し、南大門、中門、金堂、講堂、尼房が、南北一直線上に並び、回廊が中門から講堂につながり、回廊内に鐘楼や経蔵を配する伽藍配置であることが確認された (右写真-金堂基壇の発掘調査-東から写す)
また、金堂の基壇は乱石積で、中央に須弥壇を配し、セン積の階段を設けていたことも
分った、という。 近くに駐車場がある他、三河天平の里資料館(無料、9.00〜17.00、火休)があり、出土品の瓦などが展示されていた (右写真)
国分寺の先の公民館まで戻り、その先の道に出ると、古い石垣に囲まれた大きな神社があった。
県社八幡宮と書かれた石柱があったので、入って行った。 県社八幡宮は、七世紀
半ば、白鳳年中(672〜685)に、豊前国宇佐八幡宮から勧請され、三河国神明帳に、八幡三所大明神とある神社で、三河国分寺が造営されると、その鎮護の神として、人々の尊崇を受けた。 本殿は、文明九年(1477)の建立で、当時の特色が良く出ている建物として、国の重要文化財に指定された (右写真ー 詳細は巻末参照)
敷地が雄大で、境内にはいろいろな神様が合祀されていた。また、なんとか流と書いた
額が沢山奉納された弓場もあった。
姫街道に出て、西に少し歩き、佃交差点の細い道を入って行くと、白鳥の集落である。 三河国府は、総社の右側一帯にあったようであるが、右側の森が残る中に、県社総社の石柱と常夜燈と鳥居が建っている (右写真)
総社(そうじゃ)は、国司が、赴任地のすべての神社に参拝するのはたいへんなので、国府の近くに国内の神社を一つにまとめた社を造ったものである (巻末参照)
この神社は、三河総社で、三河国司が、毎月参拝したものであるが、神社の創建は永和四年(1378)以前のように思われる。
国府跡は、総社の東側にある曹源寺を中心に発掘調査が行われ、かなりのことが分ってきたようである。 道を進むと、名鉄国府駅に出るが、その北側の上宿にある船山古墳に行く。
信用金庫の駐車場の一角に、発見された埴輪棺が展示されていた (右写真)
説明板には、 船山古墳は五世紀頃造られた前方後円墳で、二基の埴輪棺が発見された。
その北側には賠塚と考えられる一辺十九メートル五十センチの方墳がある 、と書かれていた。 古墳は、道を挟んだ向こう側のこんもり盛り上がった丘で、入口には鳥居があり、上宿神社と書かれていた。 上って行くと、石垣で造られた窪みに石仏が祀られていたが、この地に勢力を張った穂の国造の墳墓だ、という説がある (右写真)
神社の説明はなかったが、古墳の上に神社を祀ってきた事例を中山道で幾つか見てきたので、上宿神社も地の氏神としてかなり古き時代からあったのではないだろうか??
以上で、国府の探勝を終えた。
(注)三河国の国府、国分寺、国分尼寺について、もっと詳しくお知りになりたい方は、
友人のページ「国府物語」を紹介しますので、ご覧ください。
(ご参考) 県社八幡宮
社伝には、 「 天武天皇時代、白鳳年中(672〜685)に、豊前国宇佐八幡宮より勧請した神社で、三河国内神名帳に、八幡三所大明神とある八幡宮である。 往古は、朝廷より神戸を授けられ、源頼朝は、社領千町余を寄進し、今川義元の天文二十三年(1554)の寄進状あり、慶長七年(1602)六月、先規の例により、徳川幕府百五十石を朱印寄進、明治に至る。 奥にある本殿は、文明九年、室町時代の建物で、三間社流れ造り、檜皮葺き、蟇股の彫刻など、室町期の神社建築の特徴をよく表現しており、明治四十年に国の重要文化財に指定されている。 第一殿は応神天皇、第二殿は三女神、第三殿は神功皇后。 」、とある
(ご参考) 三河総社
奈良時代、中央から地方に派遣された国司は、赴任すると最初の仕事は、赴任地のすべての神社に参拝することだった。 また、毎月、月初に神社を巡拝するのが国司の任務の一つだった。 といっても、神社のすべてを参拝するのはたいへんなことなので、国内の神社を一つにまとめた社を国府の近くに造ったのが総社(そうじゃ)である。
三河国の総社には、五十八の神社が祀られているようである。 ただし、三河一の宮で延喜式内社の砥鹿神社(とがじんじゃ)は含まれていない。 この神社は、十キロほど東の豊川市一の宮町にあり、直接参拝するのに、不都合がない距離だったからだろう。
三河総社が造られたのははっきりしないが、多武峯要記に、醍醐天皇の延書四年(904)総社を造るとあることから、この時代に創建されたと推定されていた。 また、境内からは奈良時代の古瓦が発見されている、とある。 但し、最も古い棟札は永和四年(1378)という。 どちらにしても、古い神社である。
国府町藪下交差点から東海道の道を歩き始めると、これまでの国道1号線の喧噪とはうって変わり、静寂になり、
古い家も多く残っている。 少し歩くと、道の傍らに、半増坊大権現と書かれた石柱の上に、注連縄を付けた小さな社が
祀られていた (右写真)
半僧坊大権現は、浜松市引佐にある奥山半僧坊のことだろう。 半僧坊は、方広寺の守り神
で、明治十四年の山火事で、本堂などの建物が焼けたが、半僧坊仮堂と開山円明大師
の墓地が焼け残ったことから、火除けの神として、全国に広がった、とあるので、この石柱もその頃、建てられたのでは
ないか?
その先には、高さ二メートル五センチもする大きな秋葉常夜燈が建っていた (右写真)
こちらは、江戸時代に火除けの神として信仰を集めた秋葉山の常夜燈で、寛政十二庚申(1800)に、国府村民達で建立したものである。 道はこの先、右へそして左にカーブ。
また、右へそして左にカーブと、たいしたカーブではないが、進んで行くうち、何時の間にか国府町は終わっていた。
江戸時代には、このあたりに立場茶屋があったようである。 今でも、古い家がちらほら残っていた (右写真)
その先に、白い土塀と石垣、そして、大きな樹木が見える。
近づくと、境内も広く、大きな樹木が繁茂している、立派な神社で、大社神社という。 百メートルに及ぶ石垣と白い土塀は、
寛政六年(1794)、近くにあった田沼陣屋(老中 田沼意次の所領)の石垣を移したもので、石垣は音羽川の上流から運んだ石で築いた、とされるものである (右写真)
大社神社の社伝には、 天元、永観(978〜985)の頃、三河国国司、大江定基が、出雲大社より大国主命を勧請し、社殿が造営されたが、それ以前に、何らか堂宇が存在した、と思われる。 江戸時代には、国府大明神といわれ、明治五年(1872)、国府村の総氏神となった、
と、ある。 夏には、手筒花火の奉納が行われるようである。
道の右側の信用金庫の駐車場の一角に、御油一里塚跡の標柱が建っていた (右写真)
その先の交差点は、姫街道の始点追分である。 万葉集に高市黒人が 「 妹もわれも 一つなれかも 三河なる 二見の道ゆ 別れかねつ
る 」 とよんだ二見の道がここだ、という。
姫街道は、東海道の脇往還で、本阪道とも呼ばれ、ここ御油から、豊川、本坂、三ケ日、気賀を
経て、天竜川の手前の萱場で、東海道に合する遠州見附宿(磐田市)に至る約六十キロの行程
だった。 新居関を避ける女性たちが通ったこと
から、姫街道の異名がある。 交差点を渡った先の右側に中日新聞販売所があり、隣に、大きな常夜燈と二つの道標が建っているが、以前は
道の反対の東側にあったもので、右側の道標には、 國幣小社砥鹿神社道 是ヨリ汎二里卅町 (明治十三年建立)とあるが、
砥鹿神社とは三河国一の宮の砥鹿神社のことである (右写真)
左側の道標には、秋葉山三尺坊大権現道 と、刻まれていて、遠州にある秋葉山への道標で、明治十六年の建立である。 秋葉山三尺坊は、
三尺坊大権現(さんしゃくぼうだいごんげん)を
祀る秋葉社と、観世音菩薩を本尊とする秋葉寺(あきはでら、しゅうようじ)とが同じ境内にある神仏混淆(しんふつこんこう)の寺院で、人々には秋葉大権現(あきはだいごんげん)や秋葉山などと呼ばれた。
道標の脇にあるのは、御油の人達が建てた秋葉山永代常夜燈で、右○○、左ほうらいじと、書かれている (右写真)
秋葉三尺坊は、剣難、火難、水難に効くという信仰で、江戸中期に大流行し、 一に大神宮、
二に秋葉、三に春日大社 と、言われ、江戸中期から明治初期までに、各地で秋葉神社の勧請や常夜燈が造られた。 やがて、音羽川に架かる御油橋(旧五井橋)が見えてきた。 小さな橋を渡ると、御油宿である (右写真)
御油宿には、平成十六年十月に歩いているので、今日の歩きはここで終了である。
平成16年10月17日、妻と娘がラグーナ蒲郡で、海水を使った美容を行うタラリテラピーを体験するというので、運転手として行ったが、待ち時間を利用して、御油宿から赤坂宿まで歩いた。
御油宿に入ったところは茶屋町で、左側に、若宮八幡社の石柱があるが、小さな社と1対の狛犬そして桜の木があるだけである (右写真)
古い家は少しあるが、以前より少なくなっている感じで、この付近は現在建築ラッシュ
だった。 その先の左側に古い家があり、その先は三叉路になっていた (右写真)
その家の向かいの空き地に、ベルツ博士花夫人のゆかり地跡とある。 ベルツ博士は、日本の医術の進歩に貢献したドイツ人で、草津温泉の効能を理解し、草津の温泉療法を世に広めたことで有名である。
花夫人は、ベルツ博士と結婚し、日本とドイツに暮らした。 ここは、花夫人の父、熊吉の生家で、江戸時代には戸田屋という旅籠を営んでいた、という。
三叉路を直進すると、御油保育園があり、手前の広場に、高札場跡の表示板があった。 三叉路は、江戸時代には、宿場特有の鉤型(曲手)なっていたようで、そこを右折すると、当時は横町で、右側の空地は問屋があったところである (右写真)
御油宿は、徳川幕府が慶長六年(1601)に開設した東海道と同時に誕生した宿場である。
空地になっているところに、安藤広重の御油宿絵のレリーフがあった。
広重の浮世絵は、太った招き女が小柄な男を強引に宿に引っ込もうとしている場面である。
天保十四年(1843)に編纂された、東海道宿村大概帳 によると、九町三十二間
(1298m)
の長さに、三百十六軒の家があり、旅篭が六十二軒と、旅籠の占める割合が高い。
旅籠が多かったので、旅籠の客引きが盛んで、このような光景がよく見られたのであろう。 突き当たったところは、宿場の中心の仲町で、江戸時代には、本陣や定飛脚所などがあった。
味噌屋の看板があるが、今は営業をしていない (右写真)
歩いて行くと、イチビキ という、味噌とたまり醤油の製造会社の駐車場の前に、本陣跡碑と表示看板が建っていた 御油宿にあった四軒の本陣の一つである (右写真)
なお、御油宿には脇本陣はなかった。 また、残りの三つ本陣跡は確認できなかった。
道の右側に、第1工場があり、漆喰壁の倉の脇に、旅籠大津屋の表示がある。
昔、大津屋という名で、飯盛り女を多く抱え、右側の駐車場のあたりで、旅籠を経営して
いた。 ある時、飯盛り女五人が集団自殺してしまったことがあり、主人はすっかり家業が嫌になり、味噌屋さんに転業した、という話が伝えられている。 味噌屋の創業は安永元年(1772)とあるが、当時の味噌作りは原始的なものだったようで、明治時代
に、子孫の東大出が技術的な改革をしたのが今日に生きている、とある。
なるほど!! なるほど!! 更に歩くと、中上町。 左に入ったところにある寺は東林寺で、ここに前述の5人の遊女の墓が残っている (右写真)
明治維新で、参勤交代が廃止、伝馬制や助郷制も、明治五年(1872)に廃止されると、御油宿は急速に寂れていった。 それに拍車をかけたのが、東海道線の敷設に反対し、忌避したことである。
東海道の御油、赤坂、藤川、岡崎、知立の旧五宿が、こぞって反対したため、
やむをえず、鉄道は海岸に沿って、蒲郡を通る経路に変更された。 東海道線から取り残されて後は、宿場町は壊滅し、その結果、今日の古い家が残る街並みになった。
連子格子のある家が多く、残っていた (右写真ーその一軒)
反対の理由は、汽車が通ると客が素通りしてしまう、機関車から火の粉が飛んで火事になる、鶏がおびえて卵を産まなくなる等々と言われているが、真の理由は、当時盛んに
なりつつ
あった養蚕の桑の葉が煙や灰でいたんでだめになるということにあったようである。
これで、御油宿は終わる。
(ご参考) 御油宿の誕生
豊川市教育委員会の資料によると、『 慶長六年(1601)に、徳川家康が、駅制を定めるにあたり、東海道宿駅に一宿一枚ずつ伝馬朱印状を下した。 この朱印状は、現存しているので、御油宿の成立は、1601年と、確認できる。 ところが、朱印状には、赤坂、五位(御油)と、二宿が併記されているのである。 伝馬朱印状に、このような例は他はにないのである。 五井(御油)と赤坂が併記されている書状には、慶長五年、伊備前(伊奈備前守忠次のこと)が下した伝馬割当文書があり、これによれば、 「 (前略)一宿ヘ五拾疋ツツニ相定、(中略)赤坂ヘ廿五疋、五井へ廿五疋、両宿ヘ可申付(後略) 」 とあるから、当初は、御油と赤坂で、一宿とされたことが推定できる。 また、慶長六年の伝馬継立之定には、 「 (前略)くたり伝馬は藤川の馬を五井迄通し、五井の馬にて吉田迄届可申候。のほり伝馬は吉田の馬を赤坂迄通し、赤坂の馬にて藤川迄届可申候(後略) 」とある。 これらのことから、当初は、御油と赤坂両宿で、一宿の機能を果たしていたが、程なくそれぞれが独立した宿場になったと考えられる。 』
とある。
(吉田宿〜御油宿) 平成19年(2007) 2 月
(国 府) 平成19年(2007) 2 月
(御油宿) 平成16年(2004) 10 月