『 東海道を歩く ー 藤 枝 宿  』


藤枝宿は東海道の江戸から数えて二十二番目の宿場で、歴代の城主が江戸幕府の要職を
勤めた田中城の城下町として、また塩の産地であった 相良に至る追分でもあった。




岡部宿から藤枝宿

東海道横内入口 平成19年5月21日(月)丸子宿を出発し、宇津ヶ谷峠を越えて岡部宿を訪れ、その足で藤枝宿に向かう。  岡部宿のはずれを過ぎると、藤枝バイパスと国道1号線とに交わる交差点があり、藤枝バイパスの下をくぐると、右側に、東海道横内という表示があるが、ここから先は藤枝市である (右写真)
その指示に従い、右斜めに入った道は旧東海道で、このあたりは、江戸時代は横内村だった。 
従是岩村領の傍示杭 文禄三年(1594)、豊臣家臣の池田孫次郎輝利が、村民を指導して、河川改修を行い、白髭神社を祀ったのが村の始まりで、江戸初期は、天領(岡部領)だったが、宝永年間に田中藩領になり、享保二十年(1735)には、岩村藩領に変った。  道の右側に、従是岩村領横内と書かれた傍示杭(ほうじくい)がある (右写真)
岩村藩は、美濃国岩村城を居城として、松平能登守が、三万石の領地を有したが、五千石が
古い家 駿河に数箇所ある飛び地だった。 傍示杭は、岩村藩領時代のものを復元したもの。 慶長四年(1600)の開創という、慈眼寺を左手に見たが、寄らずに歩いた。  この集落は、町興しの一環として、民家の前に当時の屋号を書いている (右写真)
仲町には、右に入ったところに年貢米を保管した郷倉があった、とある。  その先の橋場町の右に入ったあたりに、岩村藩の横内陣屋があった。  享保二十年(1735)、岩村 藩の松平乗賢が、幕府の老中に出世したため、駿河に五千石の領地を受け、駿河領十五ヶ村を治める役所と
横内案内板 して、陣屋を設けたものである。  百三十五年間、十四代の代官が支配したが、年貢率が他藩より低く、温情ある治世を行った、とある。  橋の手前に横内地区の案内板があり、横内あげんだいと、表示されたかがり火入れのようなものがあった (右写真)
  なにに使われるのか?? 朝比奈川に架かる横内橋は、江戸時代には、長さ三十二間、幅三間の板橋で、幕府が掛替えを行った、という。 橋を渡ると、川除地蔵を祀った小さな祠があった。  その先の道は 狭い道であるが、県道81号線で、そのまま進むと、松並木が見えてきた。 
田中領傍示石 国道1号線に合流すると、目の前が仮宿交差点で、横断歩道橋を使って、左斜め前方の道に入った。  階段で、広幡小学校の生徒とすれちがうが、挨拶がきちんとしていて、気持がよかった。 左側の松の木の先にある大きな石柱は、田中領の傍示石である。 従是西田中領と刻まれていて、ここが、岩村藩領との境目だったようである (右写真)
駿河田中藩は、藤枝宿東方の田中城を居城にしていたが、藩主は、譜代大名で幕閣に近い
国道1号線へ合流 ため、幕府が出来た前半は、大坂城代、駿府城代などの交代の度に頻繁に替わった。 
その後、上野国沼田から入った本多正矩が藩主になってからは、本多家のまま、明治維新を迎えている。 この先は鬼島集落で、 二、三分も歩くと、国道1号線へ合流してしまった (右写真)
左側に中古車を展示している店があり、その前の道路標識には、藤枝市八幡と、表示されて
いたが、その先で、国道を別れ、左の道へ入る。 
八幡橋 少し歩くと、右側の民家の前に松並木が現れ、その先の左側の木立の下には、お地蔵様が祀られていた。 道は、その先で、右にカーブしていく。 十五時四十二分、黄梨川にかかる八幡橋を渡るが、岡部宿の境を出たのが十五時だから四十分以上経過したことになる (右写真)
右の川沿いの道が東海道で、真っ直ぐの道は、元和弐年(1616)、徳川家康が狩りの
帰路、立ち寄って食べたてんぷらがもとで亡くなった、という話が残る田中城への道で、
御成街道と呼ばれていた道である。 川のほとりにお地蔵様が祀られていた。
建場茶屋 両側の家をきょろきょろ見ながら歩くと、左手のアパートのような建物の脇に、一里塚跡の標柱があった。 鬼島一里塚は江戸から四十九里目である。  左側の家の庭に、東海道鬼島の建場と書かれた石碑が建っていたが、鬼島は、岡部宿と藤枝宿の中間にあたるので、立場茶屋があったのだろう (右写真)
その先に鳥居と常夜燈があるが、横目で見ながら通り過ぎると、前方の右側に、鬱蒼とした
須賀神社の楠 森のようなものが見えてきたのは、須賀神社で、森のように思えたのは1本の楠(クスの木)だった (右写真)
根回りは15.2m、樹高は23.7mの堂々たる大木で、県の天然記念物に指定されている。 その先は区画整理をしているのか、少し地形が変わっていた。 
松並木 正面にはカーマホームセンターと静鉄ストアが見える。  右側に松並木が見えるので、そちらに向かうと、蛇柳如意輪観世音菩薩の石柱があり、史跡鐙ヶ淵と観音堂の説明板があったが、時間がないので、そのまま進む (右写真) 
水守の交差点はやや複雑だが、左側の道を歩くと国道1号線に合流した。 
東海道は、その先で、国道1号線と別れて、左側に入る道を行く。  ここは横断歩道が
旧東海道 ないため、車を警戒しながら、道路を渡ることになる (右写真)
水守交差点を越えて、二百メートルほど歩くと、右側に松並木が現れる。 
藤枝宿には、もう少しである。
  

藤枝(ふじえだ) 宿

成田山 その先の右側に、成田山新護寺があるが、このあたりが、江戸時代の藤枝宿の江戸側の入口、東の木戸があったところである (右写真)
やっと藤枝宿に着いた。 時計を見ると、既に十六時十分。 藤枝宿は問題ないが、当初の予定の島田まで歩くというのは無理となり、藤枝駅か六郷駅で、終了せざるをえないだろう。 
さわやか通り 藤枝宿は、多くの街道が分岐する交通の要衝として栄えたといい、家数は千六十一軒、宿内人口は四千四百人以上いたというから、かなり大きな町だった。 
島田信金を過ぎると、商店の数も、飛躍的に増えてきた。 頭上には、サッカーのまち ふじえだと書かれ、サッカーボールの形をした街燈が並んで立っていた (右写真)
江戸時代の宿場は、さわやか通りという、ネーミングをつけた商店街に、姿を変えていた。 
本町三丁目 成田山から十分ほど歩くと、本町三丁目の信号交差点に到着 (右写真) 
江戸時代には、交差点の左側に、大手木戸があり、その先に、田中城があった。 
なお、田中城址に行くには、交差点を左折し、国道を越えて行くと、小学校と中学校があるが、ここが田中城があった所で、小学校の前に、本丸跡の碑が立っている。 
バス停に、藤枝大手の表示があるのは、ここから左側の地名が大手だからだろう。 
さわやか通り 交差点を越えた右側に、本町交番があり、隣に下伝馬会館がある (右写真)
境内には、大きな藤枝市の観光案内板と江戸時代後期に造られた、大きな秋葉常夜塔がある。 また、公民館の 奥には、大黒天が祀られている社(やしろ)があった。 
道の反対側には、養命寺があり、延命地蔵菩薩が祀られている地蔵堂があった。 
江戸時代の町の名前は伝馬町で、寺の付近に、伝馬を扱う問屋場があったが、その跡は
小学校の絵 確認できなかった。  次の商店街は、白子名店街で、藤の里 ふじえだ がキャッチフレーズになっている。  店のシャーターには地元小学校の生徒のサッカーの絵が描かれていた (右写真)
徳川家康ゆかりの町 天正十四年(1586)八月十六日 白子町誕生 と表示されていた。 
伊勢国(三重県)白子出身の孫三という人が興した町ということで、白子町という名が付いている
白子名店街 が、町の誕生には本能寺の変が係わっている (右写真ー白子名店街) 
本能寺の変で、信長が暗殺されたとき、徳川家康も上方に行っていた。 信長が殺されたという情報を得た家康は、ただちにその地を離れて、鈴鹿を越えて、伊勢国白子の浜にたどり着いた。 舟を出し、家康を知多に送り、静岡まで送っていったのが、孫三である。  孫三は、白子に帰ることが出来ず、そのままこの地に土着したが、家康は、助けられ た恩に応え、彼が住む町
蓮生寺 は宿場に課せられた荷役は免除する旨の朱印状を下賜したので、白子町は、御朱印のおかげで、荷役を負担しないで、明治を迎えたというから家康の威光は凄かったのである。  信号交差点を越えると、長楽寺商店街である。 ここにある長楽寺が町名になった。  やがて、右側にある熊谷山蓮生寺の前に出る (右写真)
蓮生寺は、熊谷直実が出家した後の蓮生法師からの命名で、出家後の直実が、ここに
夢舞台東海道の道標 あった屋敷に立ち寄ったのが起源、という。 山門は、文化八年(1811)、田中藩主の本多正意が寄進したものである。 寺の脇には、火防安全と書かれた階段付きの大きな秋葉山常夜燈が建ち、その前に、夢舞台東海道 長楽寺町の道標があり、島田宿境まで二里九町(8.8km)と、あった (右写真)
時計を見ると、十六時四十五分、これでは明るいうちに島田宿へ行けそうにない。 
蓮生寺 その先は、ちとせ通りと、名前が変わった。 民家の一角に、秋葉山常夜燈が建っていたが、江戸時代の町名は吹屋町なので、吹屋町の常夜燈だろうか??  (右写真)
次は、上伝馬町商店街である。 これまで色々なところを訪れたが、二キロほどの距離に、これだけ多くの商店街があったという記憶はない。  左手の路地に松が見え、右側の
大慶寺久遠の松 家の壁に、大慶寺・久遠の松とある。 大慶寺は、田中藩藩主の祈願寺で、この寺にある二十五メートルの松は、久遠の松と呼ばれ、今から七百年前、日蓮上人が自ら植えた、と伝えられるものである  (右写真)
上伝馬町には、隣の川原町との境に近いところに、下本陣と上本陣と呼ばれる二つの本陣があった。 しかし、脇本陣はなくてすんだということは、親藩の田中藩の城下町ということで、参勤交代
浮世絵の藤枝宿 の大名達が、藤枝宿に泊まることを敬遠した、ということだろうか?? 
本陣の隣あたりに、下の問屋場があったようである。 藤枝宿の浮世絵に問屋場が描かれているが、店のシャッターに再現されていた (右写真)
しかし、本陣も問屋場も表示がないので、どのあたりにあったのかは分らなかった。 
正定寺は、江戸時代の川原町(現在は藤枝二丁目)にある。 本堂の前のクロマツは、
本願の松 本願の松と呼ばれ、享保十一年(1730)、藩主の本多頼稔が、大阪城代になったのを記念して寄進したものである。  樹高六メートル三十センチ、枝張り東西十一メートル五十センチ、南北十四メートルもある、姿が美しい松だった  (右写真)
この先は、藤枝宿の西の木戸があったところで、瀬戸川にかかる勝草橋を渡ると、藤枝宿は終わりになる。
 


平成19年(2007)   5 月



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かうんたぁ。