蒲原宿と由比宿とは、江戸時代に、つながっていたようで、
現在も、古い家が一部ではあるが、残っていた。
現在の由比は、さくらえびと広重の浮世絵を前面に出して、観光の目玉にしているが、江戸時代には鄙びた
漁村だったのだろう。
平成19年4月29日、東蒲原駅から蒲原宿、由比宿などを経て、清水駅まで歩く予定である (右写真ー東蒲原駅前のさくらえび漁船)
蒲原宿の京側の入口である、西の木戸の隣には、江戸時代、浦高札場というのがあった。
蒲原は、蒲原の津(港)を経由する海上交通がさかんだったので、浦高札場に、海船や川舟など船舶一般の取締りのお触れ書きを掲示したのである。
道の反対側の古屋敷跡の石柱は、
元禄以前の蒲原宿だったところを示している。
西の木戸の隣に、若宮神社の鳥居があるが、奉納柱には和歌宮神社、燈籠には若宮浅間御廣前と刻まれていて、名前が皆違う。
それはともかく、県道396号(旧国道1号)に入り、西に向かって出発した。
しばらく歩くと、小さな橋を渡るが、橋のイラストはさくらえび、また、歩道のタイルにも富士山と波に中のさくらえびが描かれている (右写真)
橋を渡ると、左側に南国情緒を感じさせるやしの木(?)が見えた。
奥の建物は、静岡市
蒲原文化センターと、表示されているが、合併前は、蒲原町役場だったのである。
合併により、地名も静岡市清水区蒲原○○に変ったのである。
蒲原宿と由比宿の間は、江戸時代でも町続きだった、といわれる。
今でも古い家が多く残っているが、その中から、蔀戸と立派な連子格子のある家を見つけた (右写真)
連子格子が一階だけでなく、二階にあり特にきめが細かいようで、すばらしい。
蔀戸の家は先程の蒲原宿で紹介されていたが、蔀戸(しとみど)とは、右写真にある障子が入った2つの戸のことである。 一見すると、一枚の戸のように見えるが、小さな戸を横向きにして入れ、その上に重ねて次の戸を入れるものである (右写真)
従って、写真の蔀戸は、上二枚が障子戸、下一枚が板戸で構成されていることになる。
両脇に立てられた通柱(とおりはしら)には、戸を通す溝が掘られていて、戸を横にして上から入れる
ようになっている。 我々の家の戸は縦に並べて使うので、発想が違う。 昼間は、戸を入れず、開け放しにして、店先にしたり、障子戸を入れて明るくなるようにした。 夜はぶっそうだから、板戸に替えて使用する。
使用しない戸は天井に跳ね上げるなどの格納の工夫もあった。
街道は、国道を避けて走る車が徐々に増えてきた (右写真)
左側に大聖不動明王の幟があるのは神原不動尊 一乗院 。 役行者より伝わる千三百年の
歴史をもつ修験道の真言宗醍醐派のお寺である。
信号のある三叉路には、左へ0.9km国道1号の表示があった。
少し先の左手には、蒲原駅があった (右写真)
ここから由比宿までは2.1qの距離である。
駅を過ぎると、古い家は少しづつ減り、残っている家も、蒲原宿やその周辺の方が手入れがよい。
その代わり、蒲原名物と書いた桜えびを売る店が多くなった (右写真)
しばらくの間、淡々と歩く。
道路には車が増え、ハイカーの数も徐々に増えてきた。
三十分ほど歩くと、東名高速道路が見えてきた。
高速道路の下には川が流れていて、道はそれに沿ってあるので、高速道路をくぐって歩いて行く。 百メートル程歩くと、三叉路に出る。 道の真中に大きな道標があり、由比本陣公園、広重美術館は右と大きく表示されているが、
これは車両用で、その下によく見ないと分らない小さな字で、由比宿は左の矢印があるので、旧東海道は、県道(旧国道1号線)と別れて、左側の道に入る (右写真)
二百メートルほど歩くと、神沢川橋という小さな橋がある。
ここまでが旧蒲原町(正確には静岡市清水区)。
橋を渡ると、町村合併をしなかった由比町である。
神沢川橋の上から見えた大きな煙突には、清酒正雪神沢川酒造場と書かれていたが、富士山の伏流水を使った地酒であろう。 橋を渡ると左側に、夢舞台東海道・由比の道標があり、由比宿まで三町とあったので、あと三百三十メートルほど歩けば由比宿に到着である。 思ったより早く着いたと思った (右写真)
道標に蒲原宿境まで廿六町(約2.8km)と標示されていたので、小生の思い違いか?
一キロメートル程少なかったのである。
神沢川酒造場の先から、道は右へ曲がり、次いて、左へ曲がる (右写真)
江戸時代の宿場に共通したもので、その先には枡形もあった。
曲がった道の左側に水神の石碑があった。
更に、十メートルくらい先の右側には小さな社があり、小さな二体の石仏が祀られていた。
由比も、蒲原と同様、天災が多かったのであろうか。
右側の民家の一角の目立たないところに、由比一里塚跡の石柱がある (右写真)
また、左側の民家の少し奥まったところに、由比一里塚の案内板があり、
「 由比新町一里塚は、江戸から三十九番目の一里塚で、松が植えられていたが、 寛文年間(1661〜1671)に、山側の松が枯れたので、清心という僧侶がここに十王堂を 建てて、延命寺の境外寺とした。 十王堂は、明治の廃仏毀釈で廃寺になったが、
祀られていた閻魔像は延命寺に移されて、お堂に安置されている。 」 と、書かれていた。
なお、延命寺は、由比本陣公園の先を右側に入ってところにある。
五十メートルほど歩くと、右側の家と左側の家の並びがおかしく、道が左側にずれている。
江戸時代には、参勤交代の大名などが泊まる宿場を外部からの侵入を防ぐため、真っ直ぐ入れないように鉤型の通路を造ったところである (右写真)
この曲がった道を鉤型とか、枡形と呼ぶが、遠州や尾張では、曲尺手と呼んでいた。
枡形を通り抜けると江戸側の出入口になっていた東木戸があり、そこからは由比宿である。
枡形の左側にある連子格子の家は志田家で、江戸時代には、こめやという屋号で、商売を営んでいた家である (右写真)
「すいません!!」という声がしたので振り返ると自転車の青年が脇を通りぬけていった。 折りたたみの自転車で東海道や中山道を旅する人が増えた。 その一人である。
少し歩くと、右側に真っ黒な大変存在感のある大きな木造の倉庫が現れた。
何をしている家なのか、中に何が入っているのだろう、と思いながら、隣の白塀を見ると、黒い大理石に、 「 この新緑に囲まれた家は紀州藩の七里役所跡である。 」 と、書かれていた。
七里役所とは紀州藩が設けていた大名飛脚の中継所のことで、この家に、紀州徳川家の飛脚が詰めていたのである ( 紀州藩の七里役所については巻末参照 )
由比(油比とも書く)宿は、天保十二年(1841)の東海道宿村大概帳によると、家数百六十軒、人口は七百十三人、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠が三十二軒と、東海道五十三次の中で、規模の小さな宿場の一つだったが、さった峠をひかえた宿場なので、賑わっていた、という。
少し歩くと、右側に由比本陣公園があった (右写真)
小生が訪れたのはゴールデンウイークということもあり、大変な混雑だった。
さった峠を越える人はもちろん、桜えびの季節でもあり、ドライブの人の立ち寄る姿を
多く見た。
混む前に、見られるだけ見ようと、本陣公園の向かいの正雪紺屋に入った。 江戸時代初期から四百年近く続く染物屋で、帳場や藍瓶等が残っていた。 家の左側にある案内によると、 「この家が由井正雪の生家といわれ、そのため、正雪紺屋という名が付いた。 」 と、あった (右写真)
由井正雪は、由比(駿府宮ヶ崎町という説もある)の紺屋に生まれ、江戸に出て、楠木流の
軍学を学び、神田連雀町に軍学塾を開き、多くの門下生を集めた。 慶安四年
(1651)、三代将軍家光没後の混乱につけこんで叛乱を起こそうとしたが失敗し、駿河城下で捕り物に囲まれて自害した。
紺屋の右隣の民家の塀に、脇本陣 温飩屋(うんどんや)の表示があり、江戸後期から幕末まで脇本陣を務めたとある (右写真)
東海道宿村大概帳に、 「 脇本陣一軒、凡そ建坪九拾坪、門構え、玄関付き 」 とあるのは、ここだろうとあった。
隣の黒塀に覆われた洋館の家は、明治時代に建てられた郵便局舎
で、現在は、局長の子孫(平野氏)の自宅になっている。
まだ十一時半だが、早いうちに食事をとった方がよいだろうと思い、その先にあった由比宿おもしろ宿場の二階、レストラン海の庭で、昼食をとることにし、この地でないと食べられないものと、生さくらえび、さくらえびのかき揚げ、さくらえびの吸い物など、さくらえびばかりの桜えび御膳(1680円)を注文 (右写真)
混んでいたこともあり、だいぶ待たされた後、食事開始となったが、まさに、その名の通り、
さくらえびオンパレードで満足。
また、駿河湾を一望できる展望になっていたので、これから向かうさった峠の地形も分った (右写真)
時計を見ると、一時間近く経過していたが、結果的にはこの後への十分な休息となった。
由比本陣公園へ戻る。
江戸時代の本陣の門を復元したと思われる表門の脇には、明治天皇由比御小休所などの石碑や常夜燈が建っている (右写真)
門を入ると、昔の本陣の敷地千三百坪をそのまま利用していて、右側に休憩施設、正面の芝生の先には、東海道広重美術館と明治天皇が小休止した離れを忠実に復元した御幸亭が並ぶ。 また、左側の隅には、物見櫓が建っていた。
幸亭への入場料は、抹茶付きで五百円だったが、同料金の広重美術館に入った (右写真)
東海道広重美術館は、浮世絵師、歌川(安藤)広重の作品を中心に収集、展示している美術館である。 東海道五十三次の全宿の絵が見られ、更に貴重な隷書東海道と呼ばれる浮世絵も数枚見ることができた。 隷書東海道は丸清という版元から、嘉永年間(1848〜53)に刊行された五十五枚の揃物で、外題の書体からその名があるということだった。
はがきくらいの小さなものだったが、画面がいきいきしていて、今刷られたばかりという出来栄えだった。
本陣公園を出て西に向かうと、右側の民家の塀に、脇本陣 羽根ノ屋の表示があった。
由比の脇本陣は一軒だけだが、途中で代わっている。 最初営んでいた徳田屋が江戸後期寛政年間ごろ、この羽根ノ屋に代わった (右写真)
羽根ノ屋は、江尻宿の羽根ノ屋の分家で、寛政五年(1793)に幕府に願い出たことが資料に
残っている、という。 その後、前述の温飩屋に代わり、明治を迎えている。
その先のお店の脇に、加宿問屋場跡の標札があった (右写真)
幕府は東海道の各宿場に問屋場を置き、駄馬壱百匹、人足壱百人の常備させたが、由比宿は宿場の規模が小さいため負担しきれず、周りの十一の村(北田、町屋原、今宿など)に、加宿問屋を結成させて、一月交代で負担させたのである。
それに似たものに、助郷制度が
あるが、これは、臨時に人馬が足りなくなったとき、周囲の村から調達するものである。
本陣公園から二百メートルくらいで、二又にでる (右写真)
江戸時代にはまっすぐな道はなく、枡形に曲がっていて、由比宿の西木戸があったとあるが、その位置が分らないので、とりあえず左側の道を行くと、すぐに由比川に出た。
左側の入上地蔵堂には、多くの石仏が祀られていたが、水難者を祀った川手地蔵で
ある。 また、矢箭(さき)八幡宮もあった。 川の近くに西木戸があり、高札場があったというが、このあたり
だろうか??
西木戸を出ると、川原に下り、仮の板橋を渡っていったのであるが、その時の様子が描かれている、広重の浮世絵イラストが橋の欄干にあった (右写真)
橋が出来たのは明治八年で、仮橋のところに木橋が架かった。 その後、昭和八年に、現在の場所にコンクリートの橋が架かり、使命を終えた。
由比宿には、古い家が多く残っていると、期待したが、思った程ではなかった。 ここで、全長五町半(約600m)と短い、由比宿は終わる。
(ご 参 考) 紀州藩・七里役所
前述の屋敷の塀に張られたプレートには「御七里役所之趾」と「静岡民俗の会」のプレートがあり、下記のような内容が書かれていた。
「 江戸時代、西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった。 此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である。 同家では江戸・和歌山間−五八四キロ−に約七里−二八キロ−毎の宿場に中継ぎ役所を置き、五人一組の飛脚を配置した。 主役をお七里役、飛脚をお七里衆といった。 これには剣道、弁舌にすぐれたお中間が選ばれ、昇り竜・下り竜の模様の伊達半天を着て「七里飛脚」の看板を持ち、腰に刀と十手を差し、御三家の威光を示しながら往来した。 普通便は毎月三回、江戸は五の日、和歌山は十の日に出発、道中八日を要した。 特急便は四日足らずで到着した。 幕末の古文書に中村久太夫役所、中村八太夫役所などとあるのは、油比駅における紀州家お七里役所のことである。 この裏手に大正末年までお七里役衆の長屋があった。
昭和四十六年春 静岡・民俗の会 』
少し注釈を加えると、江戸時代、各大名は自分の領地にある藩庁と江戸での住まいの江戸藩邸との連絡には幕府が設置した飛脚便、即ち、宿場に置かれた問屋を利用したのであるが、一部の大名は自らお抱えの飛脚を置いたのである。 それを大名飛脚という。
この場合、各地に中継基地が必要になるが、中継地は七里ごとに置かれたので、七里役所と呼んだのだろう。 この中継基地は借家であったようで、飛脚は転勤があったようである。
なお、七里飛脚を有した藩としては、名古屋藩(尾張徳川家)、和歌山藩(紀州徳川家)、福井藩(越前松平家)、姫路藩(譜代・酒井家)、松江藩(越前松平家)、津山藩(越前松平家)、高松藩(松平家・水戸徳川家)、川越藩(譜代・酒井家、後松平家)、西条藩(松平家・紀州徳川家)が知られている。
平成19年(2007) 4 月