沼津宿を出ると、馬門八幡交差点の右側に、八幡宮と呼ばれる神社があり、沼津藩の西の
境を示す榜示石が建っている。
原宿は、東海道が開設された当時は、ここより海側にあったのだが、慶長十年の高潮の被害
を受け、現在地に移されたのである。
平成19年6月3日(日)14時10分、沼津宿の西の見附から原宿に向かって出発。
そのまま1kmほど進むと、右から御成橋通りが合流してくる西高入口交差点にでた。
五差路の交差点だが、正面の道が東海道なので、このまままっすぐ進む (右写真)
東間門の交差点を過ぎ、左側の妙伝寺を見ながら進むと、間門橋(まかどばし)に出た。
少し歩き、横断歩道橋が現れたところが、西間門交差点である。
歩いてきた道は、右側からきた道と斜めに交差しているので、歩道橋を渡り、対面の道に出た (右写真ー右側の道で、白陰正宗の看板がある)
この道は、上下2車線あるがやや狭い感じがする道で、旧東海道の表示があり、東海道は、ここから原を経て、富士市の東柏原(東田子の浦)まで残っている。
少し歩くと、馬門八幡交差点の右側に神社がある。
八幡宮と呼ばれているが、村社 八幡神社 神明神社 金山彦神社 と、連記された石柱が建っていた (右写真)
境内には、文政と寛保の銘のある石仏や石塔があるが、かなり傷んでいた。
神社の前にある 「 従是東 」 と彫られた石碑は、沼津藩の西境を示す榜示石である。
安永六年(1777)、水野出羽守忠友は大名として沼津に二万石の領地を与えられ、
翌安永七年、韮山代官、江川太郎左衛門から城地を引き継ぎ、沼津藩を創立と同時に、領地の境界に榜示杭を埋めたのである。 なお、下石田には、 従是西沼津領 と、刻まれた二メートル十センチの榜示杭があるが、明治末期に折られたとあり、下半分は紛失していた (右写真)
その先、すぐ小諏訪になり、諏訪神社がある。 この辺りの左手には千本松原がある
はずなのだが、全く見えないので、東海道を離れて、千本松原に行ってみた。
海岸寄りに国道が走っていて、それの向こう側は松原である (右写真)
国道を横切り松林に入る。 海までどれだけあるのか分らないが、歩き続けると海側に出た。 海岸の堤防に上り、振り返ると松林の向こうに人家が並んでいるが、その先に愛鷹山がある。 その向こうに富士山が見えるはずなのだが、曇っているため、なにも
見えなかった。 そういえば、朝から富士山の姿を拝んでいない。 時期が悪かったのだろうか??
海側に視点を移すと、海岸線が弓形に湾曲していて、左側は、若山牧水の墓のある乗運寺の方角で、その先の小高い山が箱根連山だろう (右写真)
正面には、伊豆半島が入りこんできていて、右側に目を転ずると、吉原まで松林が続いていた。
日曜日ということもあるだろうが、家族などのグループが海岸に座っていた。
堤防を降りて松林に入ったが、そのまま街道には戻らず、少しの間林を歩くことにした。 途中ですれちがった自転車の人に、千本松公園から吉原まで道は続いているよ、と教えられた。
びっしり生えた松は、一本として同じ形はなく、自己主張するように、いろいろな方向に曲がっていた (右写真)
1kmほど歩き、松の本数は千本どころではなく、とても多いことを知り、びっくりしなが
ら、大諏訪天神前で、また、街道に戻った。 その結果、街道のこの区間にあった、
前方後円墳の神明塚古墳や松長一里塚跡碑は確認できなかった。
松長集落に入り、右側の蓮窓寺を過ぎると松長公民館があり、旧東海道の表示板があった (右写真)
松長は最初は幕府領だったが、その後、相模国萩野山中藩大久保氏の飛び地に
なり、陣屋が置かれた。
その先、右側に入って行くと、JR東海道本線片浜駅があるが、JRが誕生したころ出来た無人駅で、駅の近くになんとか家はあるが、駐車場もほとんどなく、また、店は一軒もない寂しいところだった (右写真)
街道に戻り歩いて行くと、今沢集落で、ここには祥雲寺と三島神社があった。
その先に東三本松のバス停があったが、地名から松の木があったと思えるが、松は
なく、バスから降りたお婆さんが杖を突いて歩き、右側の路地に消えて
いったのを見送ったのでした。
その先、大塚集落で、東海道本線の踏切を渡る (右写真)
沼津市内からここまでの道の両脇には家が続いていたが、古いものは残っていなった。
また、静岡県は温暖なので農業が盛んであろうと思っていたが、このあたりは田畑もなく、漁業もないみたいで、住民はなんで生計を立てているのかと思った。
踏切を渡った先に神明社があった。 先程の東三本松のバス停あたりが江戸時代今沢村の境で、このあたりは、大塚本田といわれたところのようである。 神明社の鳥居を過ぎたところの右側の民家前に、東木戸跡の石碑があった (右写真)
原宿は、大塚本田と隣の東町、西町の三つの町村からなっていたが、天保十四年編纂の東海道宿村大概帳によると、原宿の東見附は、今沢村境の大塚神明神社とあるので、
原宿に入ったわけである。
大塚新田(大塚本田でないのは何故か?)バス停の先に高木神社があり、その先の左に入ったところに、清梵寺、長興寺とお寺が続いていた。
長興寺の境内には馬頭観音などの石仏が祀られていた (右写真)
小諏訪からここまでの距離は3kmもないのだが、その間幾つお寺があっただろう。
住民の数に比べお寺が多いのは、江戸時代に天災が多かったからだろうか??
東町に入ると、道の左側に大本山松陰寺と書かれた大きな石柱があり、松の木と山門が見えたので、入って行くと、山門の脇に白隠禅師墓という石碑があった (右写真)
松陰寺は、臨済宗のお寺で、「 駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠 」 と、言われた高僧白隠が住職をつとめた寺である。 白隠禅師(1685〜1768)は
原の生まれで、諸国で修行を積んで、京都の妙心寺の住職となるが、その後、原に戻り、松陰寺に住み、ここで亡くなった。
白隠の名前は、全国的に有名だったようで、参勤交代の大名は、競ってこの寺に立ち寄った、という (右写真ー本堂)
その一人が、備前岡山藩三代目の藩主、池田継政で、継政が寺に立ち寄った際、炊事番が大擂鉢(すりばち)を壊してしまった。 継政は帰国後、備前焼の大擂鉢を数個
作らせて届けさせたが、白隠は、これを台風で折れた松の傷口に雨よけに載せてやり、松はすり鉢を載せたまま、大きくなった。
山門の左側に見える高い松の木が、その擂鉢松である (右写真)
白隠の墓は、本堂の左側の建物脇から墓地に入ると、石柵で囲まれた数基の一番左の墓である。 なお、小生持参の本には、原本陣の玄関と茶室が移されたとあるが、それ
がどれなのか確認できなかった。 街道に戻り、少し歩くと左側に、白隠禅師生誕地と書いた大きな石碑があった (右写真)
原宿の生い立ちについて触れると、原宿は浮島ヶ原の東の駿河湾砂丘の上に出来た宿場で、江戸時代以前はここより南の甲州道或いは千本道といわれた、現在の県道富士清水線(旧国道1号線)沿いにあったのである。
鎌倉時代の十六夜日記に、原中宿
と書かれているが、浮島原の中にある宿駅という意味で、これが原という地名の由来である。
慶長年間に起きた高潮の被害により、宿場はここに移転したといわれる。
少し先の原交番東交差点の左右の道は、興国寺城通りと命名されていたが、興国寺城は伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の旗揚げの城として名高い (右写真)
興国寺城は、根古屋と青野の境の篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれた山城
で、後北条氏の祖である北条早雲が最初に城を与えられ、旗揚げした城として名高い。 城の南部には、原宿のある東海道に通じていて交通の便は
よいが、途中に広大な浮島ヶ原湿原があったため、難攻不落の城だったようである。
交差点を越えると西町になり、交差点の先に原浅間神社があった (右写真)
その前には、原宿と浮島マップという絵看板があり、それを見ると愛鷹山の山麓に多く
の寺院が集まり、原宿周辺には神社が多いことが分った。 太古から原宿の北西には
富士の湧き水が溜まる浮島ヶ原湿原が広がり、これが地元民の生活に支障をきたしていたようである。 墓地は安全な高台に、生活の場には安全祈願の浅間神社を祀ったということだろう。
ここには、夢舞台東海道 原宿の道標があり、吉原宿まで二里三十二町(11.3km)と表示されていたが、
全長が二十四町四十二間(約2.7km)もある東海道の中でも、長い宿場町だった (右写真)
その先の門構えの家の前に、「東海道原宿本陣跡」の標石があった (右写真)
本陣は、源頼朝の弟の阿野全成の末裔という渡辺家が、代々平左衛門を名乗り、幕末まで務めた。 建物は、間口が十五間〜十七間、建坪二百五十五坪で、明治元年の明治天皇の東征の際には、ここで小休止されている。 また、その後の巡幸の時も御昼を
とられた、という記録も残っている、という。 原宿の問屋場は、それより東、数十メートルのキタムラ手芸店付近に
あったらしい。
時計を見ると16時25分、吉原宿までは十一キロ、東田子の浦駅までも四キロ以上あるで、ここで終了することにした。
原駅で電車に乗り、車を置いた三島に戻り、宿泊地の富士市に向かう国道1号線の原東小近くで、夕ばりがおりる中、雲間に富士山を見ることができた (右写真)
本日は三島宿から原宿まで歩いたが、その間見ることができなかった富士山の勇姿だった。
前日に引き続き原宿を歩く。 昨夜は富士市に泊まったので、駐車場のある富士川駅に車を停めて、電車で原に向かったが、朝少しのんびりしたこともあり、原駅に着いたのは九時少し前だった。 駅前に五台ほどのタクシーが止まっていたので、そんなに利用者があるのか?と見ていたら、駅を降りたサラリーマンが乗っていった (右写真)
原駅を出て、原駅前交差点で左折し、昨日歩いてところを見ながら吉原宿に向かう。 原宿の天保十四年の宿内人口は千九百三十九人、家数三百九十八軒で、本陣一軒、旅籠二十五軒
で、東海道ではもっとも規模は小さく、沼津宿の1/3にもならなかった。
本陣跡を過ぎると六軒町で、左側に沼津の地酒、白隠禅師の里、白隠正宗の看板を掲げている蔵元の高橋酒造(株)があり、
ガラス戸の先には白隠正宗の壜が並んでいた。 また、バイオの製品も手がけているようだった (右写真)
なお、脇本陣はあったのだが、天保九年に焼失したので、上記時期にはなくなっている。
江戸時代にはここから田子の浦にかけて富士の展望がよいことで知られ、浮世絵にしばしば登場しているように、東海道五十三次のなかで富士山が一番近く見えるところであり、浮島ヶ原越しに見える富士山は絶景だが、現在の東海道では右側の家の屋根が邪魔で中々見ることができない。
右写真は、右側の空地を見つけ、望遠で写したものだが、富士山の手前には家があるので、浮世絵のようなのは無理だった。
今歩いている旧東海道の道は、この先、東田子の浦(富士市の東柏原)までと、元吉原(同市大野新田)から旧吉原市街地を通り、
柚木までの間が、断続的であるが、残っている。
このあたりには、古そうな家が残っていた (右写真)
なお、原宿は幕府領(天領)で、伊豆韮山代官、江川太郎左衛門の管轄だった。
左の民家の一角にある、東海道原宿 一里塚跡と、書かれた石碑は、平成十六年に 建てられ
たものだが、江戸から三十二里目の一里塚跡である (右写真)
慶長六年の東海道の開設時に築かれた一里塚は、ここから南300mほどの千本街道沿いの松林(山神社付近)に築かれたが、慶長十年(1611)の高潮により、原宿が移転され東海道も今歩いている道になった時に、一里塚も、ここに移されたのだろう。
右側の塚跡には、道祖神が祀られている。 沼川放水路というのがあるが、右側には、
石川島輸送機工場があり、その先にも沼津自動車検査登録場などがあり、その先の道の沿線に図書印刷や小さな工場がある。
原駅に止まっていたタクシーはこれらに出張する客が目当てだったのだ、と思った。
このあたりは原新田で、古い家の中に新しい家やアパートが混在している (右写真)
そのままどんどん歩いて行くと、右側に大きな木が見えてきた。 近づいていくと、一本松
バス停があり、大きな木の下には、村社三社宮と書かれた石柱と鳥居があり、一本松の鎮守の浅間神社があった。
浅間神社は、三つの祭神を祀ることから三社宮と呼ばれてきたが、
創建は慶安三年(1650)と古く、鳥居前の石灯籠には文化十一申戌の銘がある (右写真)
ここは、原宿の西の見附なので、原宿はここで終わりとなる。
平成19年(2007) 6 月