中村川(地図では押切川)を押切橋で越える。 橋の上から眺めると、左手に相模湾があるのだが、西湘バイパスの橋に視界がさえぎられてしまうのは残念である (右写真)
橋を渡ると、ゆるやかだが、長い上り坂になる。 車坂である。
なお、橋を越えたところの押切橋交差点は、二宮町山西だが、その先は、江戸時代の羽根尾村で、小田原市である。 ところが次の川匂は江戸時代の川匂村で、二宮町に所属する。 次の前川は、
江戸時代の前川村で、ここから先は小田原市である。 このように、行政区画が複雑な地区である。 坂の途中の左手に、西湘バイパス橘ICの入口があり、海がわずかに見えた。 浅間神社入口の信号の先に町屋バス停があり、それを越すと、坂の頂上になった。 下り坂となると、ほんの一時であるが、左手に相模湾が開けた (右写真)
昔は、今のように住宅が無かったので、常に海を眺めながら歩けたのだろう。
坂をほぼ下り終える右側に歌碑があった。
鳴神の 声もしきりに 車坂 とどろかしふる ゆう立の空 大田 道潅
浜辺なる 前川瀬を 逝く水の 早くも今の 暮れにけるかも 源 実朝
浦路行く こころぼそさを 浪間より 出でて知らする 有明の月 阿仏尼
相模国風土記によると、前川村は、東西十四町余、民戸百六十三、東海道が村の南を貫いていた、とある。 その先の右側の果物屋の角に、右に入る小路があり、天保五年建立の大山道標が建っていたが、風土記に記載のある、海道中小名向原にて北に入、一路あり、大山道なり、幅六尺、とあるのがこれだろう (右写真)
その奥に、秋葉山常夜燈と石祠があったが、散歩中の犬が自分の縄張りだといわん
ばかりに吠えられたので、退散した。 坂を下りると、道は右にカーブ。 小さな川の手前の民家の塀の前に、坂下道祖神碑と双体道祖神像が祀られていた (右写真)
その先の右側に、今戸神社の石標が建っていた。 その先の中宿公民館の前には、道祖神と思えるものが祀られていた。 昔の家と思える建物もあった。 常念寺入口の信号を越えると、左側には民家はなく、海岸になった。 すると、突風で手に持っていた
メモが飛ばされて国道に散らばった。 あわてて拾おうとしたが、風でどんどん先にいく。 バスがきたので、あきらめようとしたら、バスが止まって拾うまで待ってくれた。 海岸までは無風だったのに、ここから小田原までは強風で、しかも、曇り空に変った。 場所により気象の変化はあるが、このように短い距離での変化には驚いた (右写真)
右側が崖のようになっていて、松の木が聳えているところまで来ると、坂は終り、
JR国府津駅前に出た。 国府津駅は小高いところにあり、御殿場線も発着する駅だが、眼下に真っ青な相模湾を見ることができると聞いていたが、前にマンションなどが建ち、景観はよくない。 街道をそのまま進むと、横浜銀行の先に、親鸞聖人七ヶ年御旧蹟 真楽寺の石柱があるので、入っていった (右写真)
真楽寺は、相模国風土記に、 「 聖徳太子の開にして天台宗の古刹なり、安貞のころ
親鸞、当国化盆ありし時、現在性順、師資の約をなし、一堂を建て是に移り親鸞をして 当寺住せしむる事七年、夫より親鸞、寺務を上足顕知に譲りて帰治ありし 」 、 とある浄土真宗のお寺である。 境内には、親鸞が指先で名号を書いた、といわれる二メートル程の石が安置されたお堂があり、帰命堂と呼ばれる (右写真)
脇には、市天然記念物の菩提樹があった。 傍らの案内板によると、山門の国道を
挟んだ南側の袖ヶ浦の海岸に、勧堂がある。 親鸞は、七年間このお堂に住まい、民衆を教化されたと伝えられる、とあった。 真楽寺を出て、さがみ信用金庫の岡入口信号交差点を右に入り、JRのガードを越えたところに、道祖神があった。 その先の三差路に、地元の菅原道真を祀った天神社の菅原神社がある (右写真)
境内には、 わらべ歌 とうりゃ んせ の発祥の地の石碑と、曽我兄弟が、父の敵
(かたき)の工藤祐経が鎌倉に向う行列を見つけるも、多勢に無勢のため、 石の陰に隠れて見送った、 という言い伝えのある曽我兄弟の隠れ石の石碑があった (右写真)
隣には、安楽院というお寺があった。 街道に戻り、少し歩くと、親木橋で、左側に横断歩道橋が見えたが、近づくと右側は交差点をそのまま渡れた。 このあたりから、左側に松並木が見られた。 このあたりから先は、江戸時代の小八幡村で、相模国風土記によると、家数九十六軒、東海道が村の東南を貫いていた。 山西村梅沢の立場から一里
の距離で、路の左右に松の並木があり、ここも立場になっていたようである。
少し行くと一里塚というバス停があるが、この先あたりに江戸から十九番目の小八幡一里塚があったようである。 相模国風土記には、 「 一里塚は東海道の東に
あり、左右相対せり、高二間、舗(つらなり)六七間塚上に松樹あり 」 、とある (右写真)
宮前のバス停の先に、八幡神社の石柱があったが、覗いてみても、神社の姿が見え
ないので、寄らずに進む。 その先に、弘法大師利剣名号安置の碑があり、その奥に見える寺は東海道分間絵図にある三宝寺であろう。 その先に、小八幡境のバス停があり、小八幡村も終わった。 漁場前のバス停を過ぎると、両側の松並木は太く高くたくましいのが続いた。 このあたりは江戸時代の酒匂村である (右写真)
酒匂郵便局を過ぎると、松並木もなくなってしまった。 少し行くと、右側に、
おだわら観光 いかの塩辛冨士 の看板があり、観光土産物店のようである。 その先の右側に、大見寺の石柱があり、小田原市指定文化財 小島家宝しょう印塔と五輪塔の標柱があった。 隣の黒塀の立派な門構えの旧家は、社会福祉法人ゆりかご園(児童養護施設)であるが、江戸時代は川辺本陣だった (右写真)
東海道分間絵図には、東海道の左側に描かれているが、そこには酒匂不動尊が祀られ
ていた。 その先の小路に歩いていく青年がいて、奥に妙蓮寺が見えた。 道の角に、道祖神が祀られていた。 法善寺の石柱があり、その先の小路にも道祖神碑があった。 右側の大きな白いビルの手前が連歌橋交差点で、その先の小さな橋が連歌橋である。 その先の小さな川の桜は満開で、きれいだった (右写真)
東海道分間絵図には、傳ヶ橋の手前に、川高札場があり、高札場の向いに間口七間、
奥行四間の川会所があったように描かれている。 相模国風土記には、「 菊川が村の西方を流れ、村南にて海に入、幅四五間、十間余に至る 」 とあり、 「 東海道の通ずる所に土橋を架す 長さ十二間、幅二間半余、傳ヶ橋と呼ぶ 」とあるのが、連歌橋だろうか? 小さな橋を渡ると、酒匂橋東側交差点で、その先には酒匂川が流れている (右写真)
酒匂川は船渡しだったが、後に徒歩(かち)渡しとなり、冬(十月五日から明年三月五日)
の間は土橋の仮橋がかけられた。 相模国風土記に、川渡場の記載があり、 「 酒匂村、網一色村、山王村の三村にて歩行人夫を出し、其役を勤む、人夫は三十九 人を定額とし 」 、とある。 江戸時代の渡し場は酒匂橋の袂にあり、仮橋は酒匂橋より百メートル上流の中州にかけられたようである。 小生は国道1号の酒匂橋を渡る (右写真)
正面に箱根から伊豆半島の峰々が見え、川の下流には西湘バイパスの橋があった。
三百八十一メートルの橋を渡ると、左側の桜が咲く先に城東高校の校庭が見えた。 対岸のこちらは江戸時代の網一色村で、当時の民家は五十三戸で、漁業を生業にしていた。 東海道は、酒匂橋の百メートル上流の八幡神社のあたりで、 川を上ると、神社の前を通り、国道1号線を横断し、城東高校の先の道を右折し 再び、国道1号線と合流するルートだった (右写真-城東高校前交差点)
城東高校の付近に新田義貞の首塚があるが、民家の路地を入った所で判りにくい。
城東高校前交差点を左折し、二つ目の道を右折し、突き当った丁字路を右折し、その奥の金網に、新田義貞の首塚の説明板があり、民家の奥に入るとあった (右写真)
案内板には、福井県藤島にて討死した新田義貞の首は足利尊氏によって晒(さらし)首となっていたのを家臣、宇都宮泰藤(後の小田原城主大久保氏の祖先)が奪い返して、義貞の本国
(群馬県)に埋葬するため東海道を下った。 しかし、酒匂川のほとりの網一色村で病に倒れ、止む無くこの地に 首を埋葬し、自らも亡くなった、とある。 国道の手前の道が東海道で、常剱寺入口交差点で、国道に合流した。 その先の右左に、呑海寺、弘経寺、昌福禅院、心光寺などお寺が多い。 山王橋交差点を渡ると、山王川があり、短い橋を渡ると、右側に山王神社があった (右写真)
神社の由緒によると、明応四年(1495)、北条早雲が、当時の小田原城主の大森藤頼
を破り、城を手中に納めた頃は、この神社は海辺にあった。 しかし高波で崩壊したため、慶長十八年(1613)に、ここに移された。 神社が海辺にあったとき、星月夜ノ井戸があり、星月夜の社と呼ばれていた。 その後、井戸もここに移された。 江戸時代の朱子学者、林羅山は、寛永元年(1624)、神社の境内で、星月夜の詩を詠んだ と、あるが、現在ある井戸は最近つくられたものである (右写真ー星月夜詩碑)
隣に宗福寺があり、山王橋バス停を越えると、歩道に、行灯風の下に東海道小田原宿と書いた道標があった。 その先の歩道橋の右手に、小田原城址江戸口見附跡の標柱と小田原城などの案内板があり、中には石組みに松の木が植えられている (右写真)
江戸時代、浜町が小田原城の総構えの最東端で、小田原の城下町入口であると同時に宿場町の入口だった。 大磯駅を十時に出発したが、途中で花見をしたりしたので、十六時をとうに過ぎていた。
江戸口見附跡の国道の反対側に、江戸より二十里の小田原山王原一里塚跡の案内があったようであるが、気が付かなかった。 相模国風土記には、江戸口の外南側にあり、高六尺五寸、幅五間ばかり、 塚上榎樹ありしが、中古槁れ、今は松の小樹を植ゆ、古は双こうなりしに、 今隻こうとなれり、とある (右写真ー浜町交差点)
小田原は後北条氏時代、関東を掌握する大大名として君臨して、居城のある小田原は
城下町として発展した。 江戸時代に入っても、東海道の江戸防衛の要として大久保氏が配置され、十一万三千石の城下町となった。 また、箱根越えと箱根関所を控えていたため、参勤交代の大名も宿泊を強いられ、本陣が四軒、脇本陣も四軒と東海道の宿場で一番多かった。 浜町交差点を過ぎると、新宿交差点に出る (右写真)
歩道にある新宿(しんしく)町の道標には、江戸時代の前期、城の大手口の変更に
よって、東海道が北寄りに付け替えられた時に出来た町で、藩主が帰城のときの出迎場であった他、郷宿や茶屋があり、小田原提灯づくりの家などもあった、とある。
東海道はこの先、鉤型(曲手)になっていた。 東海道は、その先の新宿交差点で、左折し、国道1号と分かれ、蹴上(けあげ)坂を上る。 左側に鍋町の道標があった (右写真)
蹴上坂は、坂といえない程の坂である。 このまま歩けば、暗くなるころには、小田原宿を歩き終えそうであるが、小田原に宿を手配してあったので、今日はここで終えた。
平成20年4月5日、栄町のビジネスホテルを出て、新宿交差点まで戻った。 今日は小田原宿の残り数キロを歩くので、時間的にゆとりがあり、交差点の左側の道に入り、誓願寺に寄ったが、特筆するものはなかった。 新宿交差点に戻り、蹴上坂を百メートル程歩いて、右折すると、万町の石標があり、この通りには蒲鉾屋が多い (右写真)
江戸時代には、紀州藩の飛脚継立所があったところで、この町には旅籠が五軒
あった。 万町とその先の高梨町の間の右側の小路を北に行くと、江戸時代には唐人(とうしん)町があった。 後北条氏が、難破して小田原に漂着した中国人をこの地に住まわせ、対明貿易を行っていた、といわれ、最初は唐人村と呼ばれていたらしい。 現在は唐人町交差点とバス停と唐人町の道標にのみにその名が残る (右写真)
街道に戻ると、左側に高梨町の石標があるが、ここは甲州街道の起点であり、問屋場
でもあった。 その先に青物町交差点がある。 江戸時代には青物を扱っていた商人の町がこの北側にあった。
青物町交差点を越えると、左側に、古清水旅館があるが、江戸時代には小清水という名で旅籠を営んでいた (右写真)
宮前町石標には、町の中央に、藩主専用の入口、浜手門口が設けられていた。 本陣が一軒、脇本陣一軒、旅籠が二十三軒あり、高札場もあった。 本町と共に、宿場の
中心だった、とある。 旅館の先に明治天皇聖趾の石柱がある。 清水金左衛門本陣があったところで、入った右側には明治天皇行在所の碑が建っていた (右写真)
傍らの案内板には、明治天皇宮ノ前行在所跡とあり、清水金左衛門本陣は、四軒あった本陣のうちの筆頭で、町年寄も勤め、宿場町全体の掌握を行なっていた。 本陣の規模はおよそ二百四十坪で、明治天皇の宿泊は、明治元年(1868)十月八日の御東行の
際を初め、五回を数える、と書かれていた。 その先の右の小路を入って行くと、突き当たりに松原神社がある。 北条氏綱の時、海中より出現した金剛十一面観音像を祀ったのが始まりとされ、北条氏の庇護も厚かった神社である (右写真)
四月に行われる祭礼は、小田原市内で最も盛大のものである。
街道に戻り、道を直進すると、国道が直角に右折してくる左側に、なりわい交流館という建物がある。
江戸時代の旅籠住吉屋吉衛門の家で、大正時代にはブリ漁などに使われる魚網の問屋として栄えていた。 この建物は、大正十二年の関東大震災で被害を受けた建物を、昭和七年に再建したもので、小田原の典型的な商家の造りである出桁(だしげた)造りで、建てられている。 二階正面は出格子窓で、昔の旅籠の雰囲気を醸し出している、などの説明があった (右写真)
交流館の脇の小路に入ると、右側に古い家があり、かなりお年をめしたご主人がいた
ので、建物について伺うと、関東大震災後、すぐに建てたので、なりわい交流館より古いよ、といわれた。 路地を進むと、市場横町の石標があり、本町と宮前町と千度小路の境を抜けられる横町で、魚座(魚商人の同業組合)の魚商が多く住み、魚市場が開かれていた、と説明にある。 交差点を越えた右側に徳常院という寺がある (右写真)
右側のお堂には、総身五メートルの青銅製の地蔵尊が祀られている。 もとは元箱根の
賽の河原に安置されていたもので、明治の廃仏稀釈で東京の古物商に売り渡され運搬途中、この地の有志がその商人から買取り当寺に安置したもの (右写真)
また境内には古い石仏群がある。 街道にもどると、東海道小田原宿本町、とある。 小田原宿の中心地で、本陣が二軒、脇本陣が二軒、旅籠が二十六軒あった、とされ、かっては、古い家が軒を並べていたのだろうが、店もビルになり、マンションが建って、昔の
面影はない。 左側のレーアージュ小田原本町というマンションの駐車場の脇に、明治天皇本町行在所跡の案内板があり、大きな石碑が建っている (右写真)
片岡本陣があった場所で、以前は映画館だったが、いつの間にかマンションに変り、道路に本陣跡の表示がないので、見つけるのに苦労した。 明治天皇が、明治十一年十一月七日、東海北陸御巡幸の際、宿泊された、と案内にあった。
御幸の浜交差点のあたりに、久保田本陣があったはずだが、その跡は確認できなかった。 東海道分間絵図から推定すると、は間中病院あたりか? その先の小西薬局の前に、中宿町の石標があり、小西家は藩の御用商人だった、脇本陣と西の問屋、旅籠が十一軒あった、とある。 調剤薬舗の看板を掲げた小西薬局は、寛永十年の創業だが、建物は関東大震災後に建てたものである (右写真)
その先の向かい側に、お城のような建物がある。 歌舞伎の外郎(ういろう)売りで有名な外郎を売る店、ういろう本舗は、五百年の歴史を誇る日本最古の薬屋である再興した元から亡命した陳廷祐の中国での官名が礼部員外郎(ういろう)だったことから、ういろうと名乗り、薬を製造販売したのが始まりという。 建物は大永三年(1523)に建設されたが、現在の建物は平成十年に復元されたもの。 箱根口交差点あたりが、江戸時代の
欄干橋町で、欄干橋の石標には、本陣が一軒、旅籠が十軒あった、とある。 清水彦十郎本陣は、ういろう本舗の道を隔てた反対にあったというが、その跡は確認できなかった。 その先に、筋違橋町の石標があった。 この辺から、板橋見附までは八百メートル程である。 古そうな家がぽつりぽつりと残っていた (右写真)
諸白小路交差点の左側の小路を入ると、ヨハネ玩具商会の前に、三好達治旧居跡の
標柱があった。 この先に、山角町の石標があり、江戸時代にはかわら職人が多かったところ、とある。 山角町は、小田原北條氏の家臣、山角定吉の屋敷があったところから名付けられた、といわれる。 この先の信号交差点を右折すると、交差点の向こうに、菅原道真を祭神とする地域の鎮守社の山角天神社がある (右写真)
御神体は、高さ三十二センチの木像である。 江戸時代には、再興した三光寺を別当寺
としていたが、明治に廃寺になった。 別当寺の什宝だった菅原道真画像は、北条氏康の奉納によるもので、現在は神社が保管している。 境内にある芭蕉句碑は、文政三年(1820)に建立されたもので、 有米家可耳(うめがかに) 乃都登(のっと) 日能伝(ひので)る 山路閑難(やまじかな) という、梅の花を詠んだ句である (右写真)
その他、とおりゃんせの歌碑と紀軽人の狂歌碑があった。 紀軽人は、地元の筋違橋の
呉服商の主人で、江戸に出て太田蜀山人などと親交して、一流の狂歌師になった
人である。 街道に戻り歩くと、早川口バス停の先の左側に、御厩小路があるが、覗きこんでも、普通の路地だった。 JR、箱根登山鉄道のガードの手前にある早川口交差点を左折し、二百メートル程行くと、小田原城早川口の遺構がある (右写真)
傍らの案内板によると、早川口遺構は、北条氏が秀吉の小田原攻めに備えて城下町すべてを取り囲んで構築した、小田原城大外郭の西側平地の代表的な遺構である。
土塁が二条平行し、その間の堀を道とする独特の虎口で、昭和五十三年に国の史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されている、とあった。 街道に戻り、ガードをくぐると、直ぐ左側にあるのが大久寺である。 徳川家康軍の猛将だった大久保忠世が小田原藩主になり、建てた寺で、彼を初め、大久保氏の代々の墓があった (右写真)
大久寺を出ると、昔の赤い郵便ポ
ストの前に、御組長屋(おくみながや)の石標があった。
道を挟んで反対側にあるのが居神(いがみ)神社である。
居神神社は、戦国初期の永正十三年(1516)、伊勢長氏(後の北条早雲)に討たれた三浦道寸の嫡子・義意(よしおき)の霊と木花咲耶姫命、火之加真土神を祀る神社である (右写真)
義意は、七十五人力といわれた豪傑であったが、このとき、樫に鋲を打ち込んだ棍棒を振り回して奮戦し、多くの将兵を殺傷した後、自ら腹を切り首を刎ねて死んだ。 その首
は恨みを含んで、伊勢氏の本拠地である小田原まで飛んできて松の枝にかかり、三年間、目を見開いて通行人を睨み殺した。 そこで、久野総世寺の忠室和尚がやって来て、これに諭したところ、義意の首は枝から落ち、瞬く間に白骨と化したという。 和尚がこれを弔い、祠を建てて、義意を祀ったのがこの神社の始まりである (右写真)
旧山角町と板橋村の鎮守で、神輿の巡業は大永元年(1521)から始まり、その行列は十万石
の格式であった、と伝えられている。 鎌倉末期の念仏供養碑の古碑群や庚申塔などが祀られていた。
石段を下り、街道に戻ると、左隣に大きな銀杏の木が生えている光円寺がある。
寺の角が小田原宿の上方見附があったところだが、そこには東海道の案内板や上方見附跡の表示があった (右写真)
これで小田原宿は終わる。
(ご 参 考) 小 田 原 城
歴史を遡ること、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族、小早川遠平(小早川氏の祖)が居館にしたのが始まりで、室町時代の応永二十三年(1416)、上杉禅秀の乱後、大森氏が奪ったが、明応四年(1495)、伊豆国を支配する伊勢盛時(後の北条早雲)が大森藤頼から奪って以来、北条氏政、北条氏直父子の時代まで、後北条氏の五代にわたる居城として、南関東の政治的中心地となった。 天正十八年(1590)、豊臣秀吉による小田原合戦で、三ヶ月の篭城戦の末、北条氏はほとんど無血で開城した。
ここに五代、約百年の間、繁栄を誇った後北条氏は滅亡する。 徳川家康の関東移封後、家康は城代に大久保氏を据え、江戸幕府の開設により、大久保氏が、小田原藩を開設し、小田原城を居城とした。 慶長十九年(1614)の大久保長安の事件に連座し、大久保忠隣が失脚すると、小田原城は家康の命によって破却され、三の丸以内に規模が縮小された。 以後、阿部氏、稲葉氏らが城主となったが、貞享三年(1686)に忠隣の子孫である大久保忠朝が藩主となり、以後は明治維新まで大久保氏の居城になった。
城は何度かの大地震に遭ったが、天守は宝永三年(1706)に再建されたが、明治三年(1870)に解体されてしまった。 現在のは、昭和三十五年に再興されたもので、高さは三十八メ-トル七十センチのコンクリート製である。
城址は、小田原城址公園になっていて、公園内に、小さな遊園地とゾウと猿くらいしかいない動物園がある。 また、常磐木門や、銅門などの城門も再建され、小田原の観光名所となっている。
これまでも何回か訪れているが、古城という感じがしないのは町の中にあるせいか?
今回は花見時期なので、訪問したが、城内のソメイヨシノは満開だった。
平成20年(2008) 4月