平成19年8月17日、高校の同窓会の帰りに、東海道を歩くことにして、前日は日本橋から品川宿まで歩いたが、都会の余りの暑さに驚き、海が近い湘南の方が歩きやすいのではと思い、藤沢宿を歩くことにし、7時42分、藤沢駅に到着した (右写真)
藤沢は想像していたより都会で湘南が発展中というのも頷けた。
とりあえず藤沢宿の江戸側の入口である遊行寺を目指す。
駅の北口に出ると、右にビックカメラ、左にサンパール藤沢のビルがあるが、その間の公園のようなスペースを抜けて、車道を横断する
歩道橋を渡り、右側に降りた。
その先のみずほ銀行の交差点を左折し、遊行寺通り4丁目と表示された道に入った。
左側にレディオ湘南というミニFM局があり、少し歩くと右側に庚申堂、路地側には石仏や石碑群があったが、入口が閉まっていたので、中には入れなかった (右写真)
その先の左側に、鼻赤稲荷大明神の鳥居の社があり、右側から国道467号が合流
してきた。 これは江の島街道で、江の島弁財天道標が近くになるはずだが、気が付かずに通り
過ぎた。 国道少し歩くと、藤沢橋交差点で右折し、藤沢橋を渡る (右写真)
藤沢は、鎌倉時代の正中弐年(1325)に、遊行四代呑海上人が遊行寺を開いて以来、その門前町として栄えた。
慶長五年(1600)、街道整備を目的とした伝馬掟朱印状が発せられ、藤沢宿が誕生。
藤沢御殿と呼ばれる将軍専用の宿泊所がつくられ、これまでの遊行寺の門前町に、
大久保町、坂戸町を加えて、宿場が形成した、とある。
坂を上って行き、遊行寺の入口を越えたところに見附跡の標柱があった (右写真)
江戸時代にはここから南が藤沢宿だったのである。
道の反対側に、鳥居と石段が見えたので、車に気をつけながら道を横断し、石段を上る。 この神社は、藤沢宿の大鋸町と大久保町の鎮守の諏訪神社である。 遊行四代呑海上人が、信濃でお札配りの道中に
現れた諏訪明神を勧請したもので、以来、藤沢山の守護神として、元旦には、遊行上人(遊行寺の住職)が神社に参拝し、参詣者にお札を配っている、という。 石段を上ると、又、鳥居があって、その奥に、諏訪神社の社殿があった (右写真)
見附の標柱を数メートル戻り、時宗総本山遊行寺と書かれた看板に導かれて中に入った。
遊行寺は藤沢宿の東の端に寺門を構えた時宗の総本山で、藤沢山清浄光寺
(とうたくさんしょうじょうこうじ)というのが正式名である。
東門横の左側に国指定名勝・敵御(味)方供養塔の説明板があり、その奥に古く小さな石塔があった (右写真)
応永二十三年(1416)、上杉氏憲(禅秀)が足利持氏に対し反乱を起こしたが、幕府が持氏を援助したため、氏憲は敗れさった。 このとき藤沢周辺も激戦地となったが、
遊行十五世尊恵(そんね)上人は負傷者を敵味方の区別無く治療し、死者を葬り、その翌年、
死者を弔うための供養塔を建てた、とある。 遊行寺の名を全国的に有名にしたのは、平等の精神で建てられたこの供養塔と言ってよい。 振り向くと、正面に巨大なイチョウの木があった。 樹齢六百六十年といわれる古木である (右写真)
幹周り六メートル八十三センチ、樹高は三十一メートルあったが、昭和五十七年の台風で上部が折損し、半分になり、横に広がった樹形となった。 現在は十六メートルの高さ
となったが、堂々たるものであった。
遊行寺は時宗の総本山であるが、高野山や延暦寺、東西本願寺に比べると、建物の数も少なく、質素であるが、本堂は大きく立派だった。
父母が眠る寺の本山なので、一度は訪問したいと思っていたので、訪問できてよかった (右写真)
遊行寺の境内に、照手姫の創建と伝えられる寺がある。
東門を入った右側に、
小栗判官墓所と書かれた石柱があるので、入っていく (右写真)
小栗判官は常陸国の人だが、敵にあざむかれて毒殺されたのを救ったのが照手姫という説話があり、その中に遊行寺が登場する。
これは説経浄瑠璃に発した古い説話であるが、説経浄瑠璃は室町後期に始まり、江戸時代には浄瑠璃などに分化していく。
小栗判官と照手姫の話は各地に残るが、その内容は微妙に違う。
下記のものは、中山道(当時は東山道)の青墓宿に残る話である。
『 敵にあざむかれて毒殺された小栗判官は閻魔大王のはからいで蘇生し、遊行寺の
上人にあずけられる。 蘇生はしたものの、小栗は餓鬼阿弥の変りはてた姿になって
いた。 胸には、この者を熊野本宮のお湯に入れたら治るという閻魔大王の書付がある。
遊行上人は、そこで、小栗を土車の乗せて曳き出させ、かつ、その胸札に、 「 この者を
ひと曳き曳いたは千僧供養、ひた曳き曳いたは万僧供養 」 と書き添えた。 土車を
ひと曳き曳くたびに千人の僧を供養した功徳となるという意味なので、人々は代わる
代わる車を曳き、土車は美濃国の青墓に至る。 小栗の妻の照手姫も苦難にあい、流浪
のすえ、青墓の長者の屋敷で働いていた。 土車にうづくまる異形のものを夫と知らず、
これも死んだ夫の供養になろうかと車を曳いて熊野にたどり着く。
湯を浴びた小栗は元通りの姿になって、敵を討ち、所領をとり戻し、照手姫と喜びの再開を遂げる。 』
という話である (右写真は照手姫の墓)
この話は時宗比丘尼や熊野比丘尼が各地を回り、信仰を教化宣伝し拡がっていったものであるが、時宗開祖の一遍上人が熊野本宮で悟りを開いたことと関係があるのだろう (遊行寺の伝説は巻末参照)
案内板に従って進み、石段を上ると左側に長生院小栗堂があった (右写真)
寺の裏に回ると、照手姫建立厄除地蔵尊と照手姫の墓、そして判官の愛馬鬼鹿毛の墓
があった。 その右側には、(伝)小栗十四代城主小栗孫五郎平満重と家臣の墳墓についてという説明板があり、 小栗判官と家臣達の墓があった (右写真)
説明によると、「 桓武天皇の曽孫高望王から7代目の子孫平重家が常陸国真壁郡の小栗(茨城県真壁郡協和町)に館を構え、その地名から小栗氏を称し、その十四代目が小栗孫五郎平満重である。 応永十三年(1423)関東公方との戦いに敗れ、小栗城
は落城し、満重はその子助重と十名の家臣と共に、一族がいる愛知県に落ちのびる途
中、相模国藤沢辺の横山大
膳の館で毒をもられ、家臣十名は上野ヶ原(藤沢市)に捨てられたのを遊行寺の上人により境内に埋葬された。 小栗助重は照手姫の看護で回復し、父の死後十余年を経た嘉吉元年(1441)の結城合戦で幕府軍の将として活躍し、小栗の旧領を回復することができた。 」 と、あった (右写真は愛馬鬼鹿毛の墓)
いろは道を下ると、右に時宗真浄院、左に赤門真徳寺があり、その先には黒門がある。
安藤広重の東海道五十三次・藤沢の浮世絵(右写真)は、境川に架かる遊行寺橋のあたりを描いている。 後ろに遊行寺、その下の家々、そして手前の鳥居は江の島弁財天の鳥居と思われる。 ここは江ノ島弁財天への道の追分(分岐点)であり、また橋の手前には鎌倉への道があった。 現在は藤沢橋の手前から左に入ると左側に三島大明神があるが、その道がそれなのだろうか? 黒門近くにあった説明板には、
江戸時代にはこの一帯は広小路になっていて、上野広小路、
名古屋広小路と共に藤沢広小路は日本の三大広小路といわれたとあるが、その面影はなかった。
その先の遊行寺橋は、当時は大鋸板橋といわれた板橋だった (右写真)
橋を渡った右手には高札場が、左手には江ノ島弁財天の大鳥居とその傍らには江の島道標石があった、という。 藤沢宿は、この先で大山、伊勢原街道が分かれていた
ので、東海道を江戸と京都、大阪、伊勢を往来する人々の他に、江ノ島、鎌倉や大山
参りの人で賑わっていた。 江戸時代の資料によると、藤沢宿は、家数九百二十軒、
宿内人口四千百三人で、東海道では神奈川宿、小田原宿に次いで大きい。
橋を渡ると十字路があるので右折し、国道467号に入る。 道はかなり広く、古い建物は何も残っていないが、道筋としては昔の街道そのままである (右写真)
江戸時代、この先は、旅籠町、仲久保町、栄町と続き、その先は東坂戸町、西坂戸町
となっていた。 旅籠町は宿場創設前から遊行寺の門前町だったと推定されるが、
仲久保町から坂戸町にかけては宿場誕生により生まれた町だろう。
右側にあった紙屋と書かれた家は、古い蔵作りの建物だった (右写真)
街道の左側に問屋場があったようだが、その跡は確認できなかった。
本町郵便局の先の信号交差点を右に入ると、藤沢公民館がある (右写真)
江戸時代の始め、藤沢宿には本陣が無く、慶長元年頃、藤沢公民館と藤沢市民病院の間に、約六千坪の土地に藤沢御殿が建てられた。 家康、秀忠、家光と三代にわたり三十回近く利用されたが、本陣の設置により、元和弐年(1682)に廃止された。
藤沢御殿廃止後は、藤沢宿を治める藤沢代官の陣屋になっていたようである。
藤沢宿の本陣は、延享弐年(1745)まで、大久保町堀内家が勤めたが、数次にわたる宿場の火災で、再建を諦め、その後は、坂戸町の蒔田源右衛門家が勤めた、とされる。
蒔田本陣跡は、藤沢公民館入口交差点のあたりとされるが、それを示す木柱は見つからなかった (右写真)
その先の右側にある南無阿弥陀仏の石柱を入ると、日蓮宗長藤山妙善寺があった。
蒔田家は、明治維新後、当地を去ったが、この寺に蒔田家の墓が残っている。
その先の左側にあるJAの脇を入って行くと、浄土宗常光寺があり、山門を入ると左側に万治弐年(1659)と寛文九年(1668)建立の庚申供養塔があった (右写真)
山門の前には、藤沢警察創設100年碑があり、墓地には、洋文学者野口米次郎の墓があった。
藤沢宿に旅籠が四十五軒あったが、飯盛旅籠が多かったので、享楽地としても賑わったのだが、それを支えたのは、飯盛女の存在である。 旧道から左の路地に少し入った本町4丁目の永勝寺に飯盛女の墓がある (右写真)
山門を入ったすぐ左側に、飯盛旅籠を営んでいた小松屋源蔵の墓があり、その前に、源蔵が建てた四十数基の飯盛女の墓がある。 街道に戻ると、その先の右側に交番がある
が、その手前に、義経首洗い井戸の標柱がある。
マンション脇の路地を入っていくと、本町公園の一角に首洗い井戸はあった (右写真)
湘南海岸に捨てられた義経の首が、境川をさかのぼって、この地まで流れ着き、人々がこの井戸で洗い清めた、と伝えられる井戸である。
再び街道に戻り、西に歩いて行くと、白旗交差点があり、そこを右折して少し行くと、
白旗神社が見えてくる。
白旗神社の創立年代は不詳だが、古くは、相模の国一の宮の寒川神社の寒川比古命を分祀し、寒川神社と呼ばれていたが、宝治三年(1249)九月、義経を祭神として祀り、白旗明神、のちに白旗神社と呼ばれるようになった、とある神社で、鳥居の脇の大御神燈は、慶応元年(1865)に建立されたものである (右写真)
その先に石段の左側に三笠山大神、御嶽大神、八海山大神などの石碑群があった。
その中には、寛文五年の庚申供養塔がある他、江の島弁財天道標があった。
江の島弁財天道標は、杉山検校が参拝者が道に迷わぬように建てたものである。
最初は四十八基あったと伝えられるが、現在は十基残っていて、三面には 「 一切衆生 」 、
「 ゑのしま道 」 「 二世安楽 」 と刻まれている (右写真)
石段を上ると、文政十一年(1828)から天保六年(1835)まで、七年の歳月をかけて造営
された社殿があり、本殿、幣殿、拝殿が連なった典型的な流権現造りで、昭和の大修理をえているが、江戸時代のみごとな彫刻が残っている (右写真)
社殿前の御神燈は、天保十年(1839)に建立されたもので、社殿の左側に、弁慶の力石があった。
伝承によると、弁慶の首も、義経の首と同時に鎌倉におくられ、首実検が行なわれ、夜の間に二つの首は此の神社に飛んできた、という。
義経はこの神社の祭神となったが、弁慶の首は八王子社として祀られたとあり、弁慶塚の石碑は常楽寺の裏側にあるという。 街道を戻り、白旗交差点を西に向かう。
ゆるやかな上り坂となり、坂を登りきると小田急をまたぐ伊勢山橋がある (右写真)
橋を渡った伊勢山橋交差点を右折すると、小田急江の島線藤沢本町駅である。
伊勢山橋の先は下り坂となるが、その途中に京方見附のあったようで、ここで、藤沢宿は終りである。
(ご参考) 長生院の小栗判官・照手姫の伝説
昔、常陸国(現在の茨城県)真壁郡の小栗に、小栗満重という大名が住んでいた。
応永の頃、関東管領として関東を治めていた足利持氏に謀反の疑いをかけられ、鎌倉より討手を向けられついに攻め落とされた。 満重は、わずかに十人の家来を連れ、三河国(現愛知県)へ落ちのびていった。 その途中で相模国の郷士横山大膳の家人に誘われ、しばらく大膳の館にとどまった。 とどまるうちに、満重は妓女の照手姫と親しくなり、夫婦になる約束を交わした。 照手姫の父は、北面の武士であったが、姫は早くから父母に死に別れ、あって大膳に仕えていた。 大膳は、実は旅人を殺し金品を奪う盗賊だった。 満重たちが何も知らずに立ち寄ったので、いい獲物がかかったと喜んだが、十人の強そうな家来が一緒では手が出せなかった。 その頃、横山の家には人から盗んだ人食い馬と言われる荒馬の鬼鹿毛(おにかげ)が飼われていた。 大膳は満重をこの馬に乗せ噛み殺させようとたくらんだ。 しかし、満重は馬術の達人だったので、この荒馬をなんなく乗りこなし、難しい馬術をやってのけた。 この計画に失敗した大膳は酒盛りを開き、毒入りの酒を勧めた。 これを知らずに飲んだ満重主従は悪だくみにかかり、命を落とした。 大膳は、満重の財宝を奪い取り、手下に言いつけて十一人の屍(を上野原に捨てさせた。 その夜、藤沢の遊行寺では、大空(たいくう)上人の夢枕に閻魔大王が現われ、「上野原に十一人の屍が捨てられていて、満重のみ蘇生させられるので、熊野の湯に入れてもとの体に治すように力を貸せ」というふしぎな夢を見た。 夢のお告げに従って上人が上野原に行ってみると、十一人の屍があった。 お告げのとおり十人の家来は息たえていたが、満重だけはかすかに息があつた。 上人は、家来達を葬り、満重を寺に連れ帰った。 上人は、夢のお告げに従い、満重を熊野に送り温泉で体を治させることにした。 上人は満重を車に乗せると胸に「この者は、熊野の湯に送る病人である。一歩でも車を引いてやるものは、千僧供養に勝る功徳を得よう」と書いた札を下げた。 藤沢から紀州の熊野まで、大勢の人々が車を引いて送ってくれたお蔭で、満重は熊野に着き、熊野権現の霊験と温泉の効き目で元の体にもどった。
照手姫は、満重が毒を盛られた後、世をはかなんで密かに横山の屋敷を抜け出したが、追手につかまり川に投げ込まれたが、日頃信心している観音菩薩のご利益で、おぼれることなく金沢六浦の漁師に救われた。 しかし、漁師の女房は照手姫が美しいのねたみ、松の木にしばりつけて松葉でいぶしていじめ、最後は人買いに売りとばした。
体が元に戻った満重は、一族の住む三河に行き、力を借りて京都の幕府に訴えた。 満重が生死の境からよみがえったのは稀有の仏徳であるとして、常陸の領地を与えられ、判官の位をさずけられた。 常陸に帰った満重は、兵をひきいて横山大膳を討つと、遊行寺に詣り、上人にお礼するとともに、亡くなった家来達の菩提をとむらった。
照手姫は、美濃の青墓(現岐阜県大垣市)で下女として働いている時、満重に救い出され、二人はようやく夫婦になれた。 満重が亡くなると弟の助重が領地を継ぎ、鎌倉に着た折に、遊行寺に参り、満重と家来の墓を建てた。 照手姫も仏門にはいり、遊行寺内に草庵を営んだが、永享元年(1429)長生院を建てた。』
以上が長生院につたわる伝説である。
(戸塚宿〜藤沢宿) 平成19年(2007) 10 月
( 藤 沢 宿 ) 同 年 8 月