東海道分間延絵図には、東子安村に一里塚と遍照院の表示がある。 武蔵国風土記にも、子安一里塚は左右とも東子安村地内にあり、
右は榎、左は松を植ゆ、 江戸より六里とあるのだが、その場所は確認できなかった。
もう一つの遍照院は、子安通り交差点の先を右に入り、京浜急行の踏み切りを渡ったところにあった (右写真)
入口から本堂にかけて、工事が進められていたが、境内には庚申塔が残されている。
中央の石碑には、奉納庚申供養と刻まれていて、右側の庚申塔は、左側に安永三年・・・とあり、
正面には、帝釈天が天邪鬼を踏んでいる図があり、その下には三猿が描かれていた。 左側の庚申塔にも、三猿が描かれている (右写真)
入江橋を渡り、京急子安駅を過ぎると、浦島町である。 浦島町交差点の右側に京急
神奈川新町駅があるが、その手前の路地を入って行くと、神奈川通東公園がある。
江戸時代には、土居があり、神奈川宿の江戸見附があったところである (右写真)
また、長延寺があり、開港時にはオランダ領事館になった。 公園の中央付近にそれを示す石柱が建っていた。
ここから神奈川宿であるが、旧東海道の足取りを辿ることは出来ないので、第一京浜に戻ると、
創業百三十年の表示された石屋があった。
その先の右側に、良泉寺というお寺があった (右写真)
江戸時代には新町といわれたところだが、開港当時、外国の領事館に充てられることを快しとしない、
この寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるという理由を口実にして、幕府の命令を断った、と伝えられる寺である。
良泉寺の角に、笠脱稲荷神社の石柱が立っている (右写真)
良泉寺の奥にある稲荷で、天慶年間(938〜947年)に創祀、元寇の際には北条時宗より神宝を奉納されたという由緒ある神社で、
社前を通行する人の笠が、自然に脱げ落ちたことから、笠脱稲荷大明神と称された、とある。 当時は稲荷山の麓にあった。
信号交差点を越えて次の路地に入る。 このあたりは、江戸時代の荒宿町であるが、
その先に神明宮、そして、能満寺がある。 海運山能満寺という寺で、
正安元年(1299)に、この地の漁師が海中より霊像を拾い上げ祀ったのがこの寺の始まりで、
本尊は高さ五寸の木造虚空蔵菩薩坐像である。 案内板に描かれた絵には、薬師堂、不動堂、その奥に本堂、左側に神明宮があり、
この寺は神明宮の別当寺であった、と書かれていた。
前述の笠脱稲荷は、その奥の京浜急行のガードをくぐった右手にある。
神明宮の角を右折すると、神奈川小学校の脇にでた。 この場所は小学校の校庭の端で、壁面の一部に、タイルで、
東海道分間延絵図が描かれていた (右写真)
標題に絵図で見る神奈川宿とあるが、子供達にこのモニュメントがどのように映っているか、気になるところである。
この絵図によると、現在の第一京浜は勿論、京急の駅
も大部分が海の中で、東海道は京急の線路より北にあったという感じである。
小学校の校庭脇の道を歩いて行くと、東光寺があった。 大田道灌の守護仏を平尾内膳が賜り、この寺を草創した、といわれるが、
山門は閉ざされているので、中の様子は分らなかった (右写真)
一旦、第一京浜に戻り、神奈川二丁目交差点を渡り、東神奈川郵便局の角を右折する
と、金蔵院がある。 平安末期に勝覚僧主により創られた古刹で、徳川家康より、十石の朱印地を許された、という寺で、。 立派な山門があり、境内には、徳川家康の御手折梅があるはずであるが、この寺も、閉じられていて、中には入れなかった (右写真)
道の反対側にある熊野神社は、神仏分離令で、金蔵院から分離された神社であるが、
江戸時代には祭礼で大いに賑わった、という。
境内の大きな石の獅子(狛犬)は、嘉永年間(1848〜1854)に、鶴見村の飯島吉六という石工が造ったものであるが、感情表現が豊かである (右写真)
京急仲木戸駅からの道は、歴史散歩道となっているが、その道を進むと、左側に神奈川地区センター、
その前に、復元された高札場がある。 江戸時代の高札場は、現神奈川警察署の西側にあり、間口五メートル、
高さ三メートル七十センチ、奥行1メートル
五十センチの大きなものだった、という。 成仏寺の門前の左側には、史跡外国人宣教師宿舎跡の石柱がある。 成仏寺は、
鎌倉時代の創建の古刹で、三代将軍徳川家光の上洛に際し、宿泊所となる神奈川御殿を造営するため、現在地に移った (右写真)
安政六年(1859)の開港当初のアメリカ宣教師の宿舎に使われ、ヘボン式ローマ字で知られ、和英辞典を最初に作った、ヘボンは本堂に、讃美歌の翻訳を手がけたブラウン
は庫裏に住んだ、と傍らの説明石にあった。 成仏寺から西に向かうと、滝の川に突き
当たる。 そこを右折し、京急のガードをくぐると、慶運寺という白い看板があるが、幕末の開港時にフランス領事館が置かれたところである。 亀の上の石柱に、浦島観世音浦島寺と刻まれていたが、浦島伝説にまつわる遺物を多数伝えているので、浦島寺とも呼ばれていたようである (右写真)
慶運寺は、室町時代に芝増上寺の音誉聖観によって、創建された寺だが、江戸時代の
名所図会にも、浦島寺とあるので、すでに浦島伝説のある寺になっていたのであろう。
浦島太郎は、兵庫県の日本海側に戻ってきたが、当時の面影がないので、故郷の神奈川に戻り、ここで亡くなった、とある。 境内には、浦島父子墓と書かれた石碑があった。 そういえば、中山道を歩き、寝覚の床にも浦島伝説があり、宝物館があった。 お宝は拝見できなかったが、両者のお宝が対決するときがあれば、参加したいと思った。
川を下ってくると、第一京浜の滝の橋交差点にでる。 滝の川に橋が架かっているが、上には高速道路が通り、景観を壊している。
江戸後期の金川砂子には、滝の橋という小さな橋がかかっていて、その手前に高札場と神奈川本陣が描かれている。 橋の手前の右側の茶色と白い家がそれにあたるのだろう (右写真ー川の反対から写す)
このあたりが神奈川宿の中心で、橋の東は神奈川町、西は青木町と呼ばれ、橋の
東側に神奈川本陣、西に青木本陣が置れた。 橋を渡ったところに青木本陣があったはずだが、あった場所は確認できなかった。 橋の右側に川に沿って道があったので、そこに入り、その先で左折すると、宗興禅寺という曹洞宗の寺があった (右写真)
建物は最近建て替えられたと思える寺らしくないものだが、幕末の開港時に、ローマ字
の創設者ヘボン博士が診療所を開いた寺なのである。 ヘボン博士がキリスト教の宣教師で来日していることは既に述べたが、実は医者であったのである。 寺に診療所を開いたとは妙な話であるが、境内にはヘボン博士の碑があった (右写真)
川沿いの道を上って行くと土橋に出る。 そのまま、直進すると、浄滝寺(じょうりゅう)
に出る。 文応元年(1260)、日蓮聖人に出会った妙湖尼が自らの庵を法華経の道場
としたことに始まるという寺で、東海道沿いにあったが、徳川家康の江戸入府の際し、現在地に移った。 門前には、史跡イギリス領事館跡の石柱が建っていた (右写真)
第一京浜国道に戻り、旅を再開する。 左側に神奈川公園が続く。 神奈川宿の旅籠は五十八軒と多くはなかったが、家数は千三百四十一軒、人口も五千七百九十三人と
大きな町だったことが分る。 橋を渡った右側が権現山から流れる滝に因んで、滝之町、道の左側は久保町、そして宮之町と呼ばれた。 神奈川公園になっているあたりだろうか?
第一京浜を百メートル程歩くと、東海道は右側の神奈川駅に通じる狭い道に入る。 そこには、宮前商店街の看板が立っていた (右写真)
宮前商店街の中央右手に、源頼朝が勧請したと伝えられる州崎大神がある。 建久
弐年(1191)、安房国一之宮の安房神社の霊を移して祀ったというもので、江戸名所図会にも、州崎明神として紹介されている。 神社前から現在の第一京浜への参道(現在の宮前商店街)の先に船着場があり、横浜が開港してからは、横浜と神奈川宿を結ぶ渡船場として賑わった所、と傍らの案内板にあった (右写真)
その先の普門寺は、州崎大神の別当寺だった。 江戸後期には、本堂、客殿、不動堂
を持ち、開港時にはイギリス士官の宿舎に充てられた。 甚行寺の門前には、史跡フランス公使館跡の石柱が建っていた。 甚行寺を過ぎると、宮前商店街も終わり、京急神奈川駅に出るが、東海道は、京浜急行とJRの線路に阻まれるので、その上にかかる陸橋の青木橋を渡らなければならない (右写真)
橋を渡ったところの右側の高台にある本覚寺は、臨済宗の開祖、栄西によって、鎌倉
時代に開創された寺だが、戦国時代の権現山の合戦により、荒廃し、天文元年(1532)に陽広和尚が再興し、曹洞宗に改められた。 開港当時、ハリスがこの高台は渡船場に近く、横浜が眼下に望めたので、アメリカ領事館に決めたという。 山門はこの地区に唯一残る江戸時代の建築であると、案内板にあった (右写真)
坂道を下り、青木橋交差点まで戻り、国道1号を少し進み、やまざき歯科の角を右折、
これが東海道である。 少し歩くと、右側の空地の先にトンネルがみえるが、これは東急線の名残で、今は地下をくぐっている。 その先の右側に、大綱大神、金刀比羅宮鎮座と刻まれた石柱と赤い鳥居があった。 この神社は、平安時代の創建で、もとは飯綱社といわれたが、その後、琴平社と合祀され、大綱金刀比羅神社となった (右写真)
神社前の道の両側に、江戸から七番目の一里塚があったのだが、すでにない。
幟がはためく石段を上って行くと、こじんまりした社殿があり、右脇に天狗の石碑(?)があった。 案内板に、「かって、眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説もある。」、とあるのと関係があるか? (右写真)
その右側には、お稲荷さまが祀られていた。 江戸後期の金川砂子には、金刀比羅神社の右側に三宝寺が描かれている。 ごく最近まであったはずなのに今回訪問すると
その場所にないので、地元の人に訊ねると、高いビルの上部を指差した。 その部分は寺院と思える形にはなっていたが、敷地の大部分は貸しビルに充てられて、三宝寺は母屋を取られてしまった形だった (右写真)
このあたりから道は上り坂になった。 ここ台町のあたりは、かって、神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす、袖ヶ浦と呼ばれる景勝地だった。 江戸時代には、道の左側
は、海に面して茶屋が並び、海を見ながら休憩ができた、という。
高度成長の時代までは、茶屋だったところが料亭などになり、繁昌していたようだが、今は数軒の料亭が残っているだけで、その内の一軒が田中屋である (右写真)
十返舎一九は、東海道膝栗毛にその当時の姿を、「 この片側に茶屋軒を並べ、いずれも座敷二階建、欄干付きの廊下、桟などわたして、浪うちぎわの景色いたってよし 」
と、書き、弥次、喜多の二人は、 「 おやすみなさいやァせ 」 という茶屋女の声に引かれ、
ぶらりと立ち寄り、鯵(あじ)をさかなに一杯引っ掛けている。 このように、色香ただようところだったが、バブルがはじけてからは、住宅化が一気に進み、道の両側に、マンションが並んで建てられて、残った料亭が何時まであるかは予想しずらい(右写真)
坂を登っていくと右側に、神奈川台場関門跡、袖ヶ浦見晴所と刻まれた石碑があった。
幕末の横浜開港後、攘夷過激派による外国人の殺傷事件が相次いたので、幕府が警備のために、各所に関門を設けた一つである (右写真)
なお、関門は明治四年に廃止された。 道は右にカーブすると、坂の頂上だった。
そこからは、短いけど、坂を一気に下る。 下ったところに、道路にかかる陸橋があった。 上台橋と名付けられた陸橋を渡ると、神奈川宿の京側の入口である。
ここで、神奈川宿は終わりとなる。
平成19年(2007) 10月