浮世絵・川崎宿には、六郷の渡しで、川崎宿に入る姿が描かれている(右写真)
川崎宿は、元和九年(1623)に設けられた新宿だが、六郷の渡しを控えていることや厄除けで知られる川崎大師があることから、旅人だけでなく多くの参拝客で賑わいを見せた。 東海道宿村大概帳によると、天保十四年の宿内人口は二千四百三十三人、家数は五百四十一軒、本陣は二軒、旅籠は七十二軒となっている
本陣が二軒のみで脇
本陣がないのは、川留めなどの緊急事態がなければ、大名は江戸に入ってしまうので、需要がなかったのからだろう。
また、男子千八十人に対し、女子が千三百五十三人だったことは、この宿が遊楽の比重が高かったことを示している。
六郷橋を渡り終えると、道から左に少し入ったところに、赤茶色の記念碑があった (右写真)
明治元年(1868)十月十二日、明治天皇が東征の折、六郷渡しを渡御された記念碑
で、それに埋め込まれた 「 武州六郷船渡図 」 のレリーフには、二十三艘でつくられた舟橋の上を、官軍が威風堂々と歩いて渡っていく姿が描かれていた (右写真)
両川岸から船を縄でつなぎ合わせ、船の上には砂か土を盛り、その上を多くの兵が長々と続く姿は絵になっただろうとし、これだけでも明治天皇の存在を高める効果があったように思われる。
当時の川崎は、砂浜の低地であったため、多摩川が増水すると
冠水する地域だった。
東海道を開設するに当り、土地の中でも高いところを選んで造られたが、宿場を造る際には、盛土を行なって、進められたようである。
この碑のある下手の土手下に、当時の渡しがあったと推定されるが、その痕跡は、見当たらない。 係留されたボートに、往時を連想するのみである (右写真)
明治天皇東征記念碑の先には、川崎大師の献灯があった。 多摩川土手の左側に
は、京急大師線があり、赤い電車が走っていた。 川崎大師は、江戸時代に大変人気があり。多くの参拝者を集めていた。
船着場から土手をあがった旅人は、現在の国道を横切って、宿場内へ入ることとなる。 小生は、第一京浜(国道15号)の下をくぐって、国道の右手にある道に入ると、道の左側に旧東海道の石柱があった (右写真)
その先にはマンションのような建物が多く立ち、昔の雰囲気を感じられそうもない。
道は心持ち下っている感じだが、右側に見える褐色のビルの手前の緑灰色のビルの前に、旅籠兼茶屋の万年屋跡の案内板があった (右写真)
幕末のはやり唄に、 「 川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・ 」 なかでも、万年屋と奈良茶飯が有名だった、とある。 奈良茶飯とは、
大豆、小豆、粟、栗などをお茶の煎じ汁で炊き込んだ飯で、これに多摩川でとれたシジミの味噌汁がついていた。
奈良茶飯の茶店を営む万年屋の盛況振りは、案内板の絵で確認できるが、先日訪問した丸子宿の丁子屋を思い出した (右写真)
旅の疲れを回復する滋養のある食べものとして、全国に名を馳せた奈良茶飯だが、渡しの消滅と共に、万年屋は消滅し、奈良茶飯を食べさせる店は現在一軒も残っていない。 なお、新田屋はハゼ料理で有名な家だった。
その先少し行くと、本町交差点で、国道409号(大師通り)と交差するが、その右手前に
ある小路との間に、旧東海道と稲荷横丁の石柱が建っていて、傍らの案内板には、このあたりは、新宿と呼ばれた、とあり、新宿は、川崎宿が遅れて出来たことを意味するのか、新たに町並ができた部分を新宿と呼んだのか、分らないと、あった (右写真)
東海道のこのあたりには、馬の水飲み場があったようである。 道の反対に、弘法大師への道 の道標が立っているが、江戸時代には真福寺の参道から大師道へと続いて
いた、という。
手前の小路を左折して、少し行くと、道の左側に、八代将軍、徳川吉宗が、紀州から江戸城入りの際、ここで休息した、と伝わる川崎稲荷社がある (右写真)
この前の道は稲荷横丁と呼ばれ、この先に大師用水に架かる石橋があり、府中道に合流していた。 街道に戻り、本町交差点を越えて、直進する。
本町一丁目交差点を越えた右側にも、旧東海道の石柱があった。 その先の右側にある深瀬小児科医院が、
二軒あった本陣の一軒、田中本陣があったところである (右写真)
田中本陣は宿内最古の本陣で、江戸側にあったので、下の本陣ともいわれた。 明治元年(1868)、明治天皇が東幸の際、田中本陣で昼食(ちゅうじき)を召され、休息をとられた、という記録がある。 宝永元年(
1704)に本陣(名主)職を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府と交渉し、六郷の渡しの請負に成功し、伝馬役で疲弊していた川崎宿の財政を
建て直した。 また、当時の農政を論じた、民間省要を著し、享保改革を進める吉宗にも認め
られ、幕府の勘定格代官にまでなった人物である。
その先、幾つかの交差点を越えると、右手奥に、宗三寺という寺がある (右写真)
宗三寺は、鎌倉時代の初期に僧玄統が開いた古刹で、後に、宇治川の先陣で名高い
佐々木高綱がこの辺を領した時の菩提寺でもあったという。 江戸名所図会には、
ここの
「 本尊釈迦如来は1尺ばかりの唐仏なり 」 と紹介されている。
宝暦十一年(1761)の大火で、小土呂から六郷渡しまでの町並が、ほぼ全焼し、
宗三寺も近くにある一行寺も焼けたとあり、川崎にはそれ以前の文献は残っていない。 墓地の一番奥には、川崎宿貸座敷組合が建てた遊女の供養塔が建っていた (右写真)
街道に戻ると、すぐに砂子一丁目の交差点にでる。
その手前右側に、旧東海道の石柱と川崎宿の大きな案内板があった (右写真)
この案内板の場所が、幕末以前に廃業になった、中の本陣と呼ばれた惣兵衛本陣の跡である。 本陣の前には、高札場があり、道路の反対側にあるセブンイレブンあたりに、問屋場があった、とされる。
その先の砂子交差点は、左右に道幅が広い市役所通りが通り、右折すると、JR川崎駅
である。 道を横断した先には、大きなビルが並んでいた。
左側の川崎信金本店の一角には、詩人、佐藤惣之助の石碑がある (右写真)
佐藤惣之助(そうのすけ)は、江戸時代に上の本陣といわれた佐藤本陣の後裔である。 本陣があった場所は、道の向かい側の三菱UFJ信託銀行が入っているビル辺りだろう。
その先の広い通りは、新川通りで、そこを横断すると、道の右手に、小土呂橋の
擬宝珠(ぎぼうし)があった。 小土呂橋は、東海道と幅五メートル程の新川掘が交差する地点にあった石橋である。 川が暗渠となったため、橋が撤去され、残った二基の擬宝珠を地元の自治会が記念にとここに設置したものである (右写真)
新川通りを越えると、小川町に入る。 キングスホテルの先の交差点を右折すると、教安寺(きょうあんじ)がある。 当日は敷石の工事をしていて、足の踏み場がない状態で
あった。 境内には、江戸時代に鋳造された梵鐘や、当時熱狂的に信者の信仰を集めた徳本上人の六字名号碑があった (右写真)
門前の左側に石燈籠が建っていたが、その先にあった上手土居(かみてどい)から移転したものである。 富士山に彌勒の浄土を求めた庶民信仰の富士講は、幕末の不安な風潮を背景として、関東一円で爆発的な流行をみたが、この石燈籠は、富士講のなかのタテカワ講によって、建立されたものである。 街道に戻り、二百メートル歩くと、市電
通りと交わる
交差点で、これを越えて100メートル歩くと、右側に、馬嶋病院が経営する
老人ホームがあるが、 このあたりが、川崎宿のはずれで、京側の入口である土居が築かれていたところと思われる。 少し歩くと、左側に大きなビルの馬嶋病院があり、土居にあったとされる芭蕉句碑がここにあったようなことが書かれていて、芭蕉と別れた弟子達の句が表示されていた (右写真)
土居の位置は旧馬嶋病院なのか、新馬嶋病院のところなのか、確認できなかったが、どちらにしても、川崎宿はこのあたりまでだったのだろう。 時計を見ると、まだ15時前
で
あるが、夜の会合に備え、そのまま、京浜急行八丁畷駅まで歩き、東京に戻った。
平成19年(2007) 10月