平成19年8月16日(木)14時48分、右側に北品川駅のホームを見ながら、京急の踏み切りを越えると、左側に
品川宿八ッ山口と、刻まれた石柱を見つけた (右写真)
品川宿は、慶長六年(1601)、東海道の開設と同時につくられた宿場町だが、石柱の先は北品川商店街に代わっていた。
宿場町を意識した町作りを行っていて、品川宿を題
材にした浮世絵を店のシャッターに描いている店もあった。 京急北品川駅を過ぎた左側の菊すし総本店の角に、問答河岸
跡と刻まれた石碑が建っていた (右写真)
三代将軍、徳川家光が、品川の東海寺を訪れた帰路、海辺の船着場のそばまで来たとき、住職の沢庵和尚に、 「 海近く
して、如何が是れ東(遠)海寺 」 と、戯れを言った。
沢庵和尚は、 「 大軍を指揮しても将軍(小軍)というが如し 」 と、答えた、と伝えられるところ
である。 少し歩いた左側の ROYALGARDEN SHINAGAWA というマンション
の前に、 歩行新宿 土蔵相模跡 と、書かれた石柱が建っていた (右写真)
このあたりは、江戸時代、歩行(かち)新宿と呼ばれていたところで、ここには相模屋という旅籠があった。 品川宿は、
当初、北品川宿と南品川宿の二つの町で宿場業務を分担していたが、享保七年(1722)、北品川宿の北側に、茶屋町として
発達した地区を
歩行新宿として加えて、
三つの町で品川宿を構成したのである。 相模屋は、海鼠壁の土蔵のような家だったようで、土蔵相模と呼ばれた。 文久弐年(1862)十二月十二日、高杉晋作や
久坂玄瑞らは品川御殿山に建設中の英国公使館を焼き討ちしたが、その計画を密議したのがここである (右写真)
江戸時代、日本橋を早立ち(四時〜六時)すると、昼飯時は川崎あたりである。 また、江戸に入る者も寄らずに江戸に向か
ってしまうので、品川宿に宿泊する客は少なかったので、宿場として
成り立たないように思われるのだが、天保十四年に
編纂された東海道宿村大概帳によると、宿内家数は千五百六十一軒、人口は六千八百九十人を数え、本陣が一軒、脇本陣二軒、そして旅篭が九十三軒あり、殷賑を
極めた、とある。 繁栄のもとは、宿場の旅籠に置かれた飯盛り女の存在。 特に、歩行新宿は、茶屋から発展したことも
あり、凄かったようである (右写真)
江戸には、吉原などの幕府公認の遊郭があったが、各街道の旅籠に置かれた飯盛り女の存在
を黙認していたので、江戸から大山詣でや伊勢参拝の友を送りにきたなどの名目で、
ここに来て遊ぶものが多かったようである。 その後も、昭和の売春禁止法施行時まで続いていた、という。 右側の小路角に、大横町という標板があった。
道の反対側の店のシャーターに御殿山の桜が描かれていた (右写真)
その先この小路を進むと、国道の先に御殿山がある。 御殿山の地名は、家康の御殿が建て
られたことから名付けられた。 その後、八代将軍徳川吉宗により、桜が植えられ、飛鳥山などと共に江戸の花見の名所に
なったが、現在は国道建設などで見る影もない姿に変ってしまっている。 道の右側の善福寺の山門をくぐると、本堂があ
った (右写真)
今にも朽ち果てそうな本堂を見ると、江戸時代には門前町もあったという寺は想像できないが、本堂正面上部に描かれて
いる龍は、幕末から明治初期に活躍した名左官、伊豆長八による
漆喰壁に施された鏝絵であることを考えると、納得できた。
色彩は褪せていてもみごとな鏝絵だが 、 このまま朽ちていくと思うと残念な気がする。
道の反対側に、北品川本通り商店会の建物がある (右写真)
江戸時代にはこのあたりに脇本陣があったのだが、場所は確認できなかった。
この先の四差路を左折し、海側に向かうと、左側に交番があるので、 「 利田(かがた)神社はどこにありますか? 」
と、聞くと、応対した中年の警官は首をかしげた。 「 鯨塚があるのだが? 」 と、いうと、
にこっと笑って、道の向こうを指さした。
指さした先を見ると、社が見えたので、お礼を述べ、交番を出た。
車道を横断して利田神社へ向かい、社殿前で御参りを済ました (右写真)
利田神社は、沢庵和尚が、寛永三年(1626)に旧目黒川の河口の洲崎に弁才天を祀ったことに始まる、と伝えられる神社
で、洲崎弁天ともいわれ、浮世絵師安藤広重の名所江戸百景にも描かれている。 明治の神社統合により、社名が利田
神社となり、祭神も弁才天から市杆島
姫命にかわったようである。
寛政十年(1798)五月一日、品川沖に迷い込んだ大鯨を捕らえたという噂が江戸中に拡がり、将軍家斉までが上覧するほどの騒ぎになったという。
この鯨の骨を埋めたのが鯨塚で、富士山のような形をした自然石の碑が建っていた (右写真)
当時の俳人、谷素外が鯨捕獲の経過と自らが詠んだ句が篆書で書かれ、刻まれている。
『 江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨 』
時計を見ると、15時12分、川崎宿まで行こうと出てきたが、余りにもスローペースである。
数十メートルも歩かないのに全身から汗が吹き出し、水分補給に追われた。
利田神社の手前は鯨の置物が置かれた小公園になっていたので、また、小休止である (右写真)
熱中症にかからぬように頻繁に休みをとったので、予定の半分しか歩いていなかった。
後で分ったのだが、当日は35℃を越える猛暑だったのである。
街道に戻り、北品川商店街を川崎に向って歩き、国道367号と交差する交差点手前の交差点で右折して、その先の第一京浜
国道を渡ると、品川神社があった (右写真)
江戸時代の北品川宿の守り神(産土社)で、鎌倉時代から品川の鎮守として知られた由緒ある神社である。
鳥居の左側に、大黒天が祀られているが、東海七福神の一つである。
鳥居はなぜか、二つあり、右側の鳥居をくぐった先の坂は緩やかな坂で女坂と呼ばれ、左側の
鳥居をくぐると急な石段である。 石段下の石鳥居に、昇り竜が彫刻されているが、鳥居は堀田正盛が慶安元年(1648)に寄進したものである (右写真)
石段を上って行くと、途中の左側に鳥居があるが、これは冨士講のもので、ここから何合目と表示があり、頂上を富士山と
見立てたものである。 この道を上って行くと、冨士浅間神社の
社殿があり、江戸時代にはここから冨士山が拝めたようであるが、今や首都東京から富士山を見るのは至難の業である。
その先には品川神社があった (右写真)
品川神社は、後鳥羽天皇の御世の文治三年(1187)、源頼朝が海上交通安全と祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神
の天比理乃命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、創建した神社で、江戸時代には品川大明神と
称し、明治に入って品川神社と名を改めた。
境内には網袋をかぶせた備前焼狛犬と子連れの狛犬もいた。
神社の裏側に、明治時代自由民権運動に活躍した板垣退助の墓がある。
右の石灯籠の隣が板垣退助、奥は夫人の墓である (右写真)
ここには、久留米二十一万石の四代藩主、有馬頼元が開基で、京都の大徳寺法主を退いた越前浅井氏の子孫を招いて開祖
とした、高源院という寺があったのだが、明治二十一年、無住
となり、寺は昭和十一年に世田谷区烏山寺町に移転している。
この墓だけが、何故、置いてけぼりになったのだろうか??
墓の奥の大きな自然石に、 「 板垣死すとも、自由は死せず 」 と、刻まれた石碑があるが、自由民主党総裁佐藤栄作書とあるので、昭和四十年代に建立されたものだろう (右写真)
品川神社に戻り、石段を下りたところで右折し、第一京浜国道を少し歩く。
道の左側に、京急新馬場駅が見えるが、その先の北品川2丁目交差点で、右折する。
山手通り(環状6号)を歩いて行くと、左側に東海禅寺の石柱が建っていた (右写真)
東海禅寺(東海寺)は、臨済宗京都紫野大徳寺の末寺で、寛永十四年(1637)、三代将軍家光の命により、沢庵和尚のために創建された寺である。 家光が、沢庵和尚を江戸に定住するために
与えた土地で、広さが四万七千六百坪余りもあり、生前は沢庵屋敷になっていたが、沢庵没後の正保弐年(1645)に東海寺になった、という歴史がある。
幕府の手で、塔頭や山門や本堂など大伽藍が建てられ、寺領五百石が与えられ、上野
寛永寺、芝増上寺と並ぶ大寺だったが、明治維新で、寺領と将軍家や大名家の支援で維持されてきた寺はその財政基盤が失い、またたく間に衰退した、といい、現在は仏堂、鐘楼と方丈などの建物を残すのみである (右写真は仏堂)
現在の東海寺は、旧塔頭の玄性院が寺号を引継いだもので、境内も旧玄性院の境内のみで
ある。 仏殿は昭和五年(1930)に造られたもの、とあった。 東海寺を出ると左折し、右に小中学校を見て、カーブを下り、JRのガードをくぐったところで、線路沿いに右折し少し行くと、東海寺大山墓地がある。 この間、200m位か?
墓地の入口の細い道を上って行くと、自然石を重ねただけの質素な沢庵和尚の墓があった (右写真)
江戸時代には、品川神社の南方一帯が全て東海寺の敷地で、東海寺からこの墓地へ直接
いけたのだが、大山墓地は、東海道線と山手線との分岐点の三角状にかろうじて残っている、という状態である。 鉄道線路に沿って品川駅方面に歩くと、鳥居があった。
鳥居の先には、江戸時代の著名な国学者、加茂真淵の墓があった (右写真)
山手通りを戻り、北品川二丁目交差点の先で新馬場駅の高架をくぐると、品川図書館があるが、その手前の右側の路地を
入ると、稼穡(かしょく)稲荷社がある。 ご神木のイチョウは、
幹周り4.1m、高さ23mの巨木で、五百年〜六百年の樹齢とあった。 目黒川沿いに歩いて行くと、樹木が茂るところに出た。
駐車場になっている先には、社殿が見えたので、ぐるーと周り、正面に出ると、荏原神社の石柱と鳥居があり、その奥に
社殿があった (右写真)
ここは北品川二丁目だが、荏原神社は南品川宿の鎮守(産土社)なのである。
神社は、大正以前には目黒川の南にあったのだが、昭和の目黒川河川改修により、南品川の鎮守である荏原神社が川の北側になってしまった、という訳である。
神社の少し前には、なぜか恵比寿様が祀られていた (右写真)
神社から街道に出て、右折し少し行くと、街道は、国道357号線(環六)と交差する。
このあたりは、北品川商店街というか、江戸時代の北品川宿の南端であるが、
交差点を左折して、東品川方面に向うと、左側に聖蹟公園がある (右写真)
江戸時代の本陣跡なのだが、明治元年(1868)、明治天皇が行幸の際休憩されたことから、公園の名前になった。 本陣と
脇本陣は、北品川と南品川に一軒づつあったが、南の本陣は、かなり早い時期に経営不振で無くなり、その後はここだけに
なった。
江戸時代の絵図には、本陣の斜め前方に、問屋場が置かれ、また、目黒川の手前の
右側には、高札場があったように描かれ
ているが、それらがどの場所か、確認できなかった。
脇本陣は、歩行新宿の善福寺付近と、この先、目黒川を越えた左側に百足屋があったが、これらも残っていない。
公園を出て、海側に向う。
交差点を越え、右側二つ目の細道を入り、百メートル程歩くと、寄木神社という小さな社があった (右写真)
日本武尊と弟橘媛の乗っていた船がこの沖で難破した時、その船材と媛の持物の一部がここに流れ着いたので、弟橘媛を
祀って建てたのが創めと伝わる神社である。
本殿正面奥の二枚扉の内面にある絵は、幕末から明治にかけて活躍した左官の名工、
伊豆の
長八(本名入江長八)の手による天孫降臨をテーマにした漆喰こて絵で、向って左扉の上方に天照大神、下方に天鈿女命を描いている (右写真)
なお、右扉は猿田彦命である。
境内が薄暗く、内部には入れないので、ガラス戸越しに見たわけだが、乱反射して、良く見えなかったのは残念だった。
正徳元年(1711)に海難防止に出された添浦高札も保存されている。
街道まで戻り、目黒川に架かる品川橋のほとりに立つ (右写真)
江戸時代には、板橋が架けられていて、南品川宿との境だった。
品川橋を渡ると、南品川商店街の街路灯が連なり、品川宿の文字も見える。
東海道名所図会には、 「 品川の駅は東都の喉口(のどぐち)にして、常に賑わしく、旅舎
軒端をつらね、酒旗(さかや)、肉肆(さかなや)、海荘(はまざしき)をしつらえ、客を止め、
賓を迎えて、糸竹(しちく)の音、今様の歌艶(なまめか)しく、渚には漁家多く、肴わかつ声々、沖にはあごと唱うる海士の呼び声おとずれて、風景足らずということなし。
ここは東海道五十三次の館駅の首たるところなるべし。 」 と、あるが、東京大空襲で、
十万人の罹災者を出した品川にそうした風情を求めるのは酷だろう (右写真)
南品川郵便局の先にある信号交差点を左折し、京急のガードをくぐったところの右側に
丸橋忠弥の墓がある妙蓮寺の山門を見つけた (右写真)
丸橋忠弥は、慶安事件と呼ばれる由井正雪が幕府転覆を図ったという事件の片棒を担
いた人物で、河竹黙阿弥の歌舞伎慶安太平記には長宗我部盛親の側室の子として登場するが、出自ははっきりしない。 鈴ヶ森刑場で処刑された丸橋忠弥の首が妙蓮寺の門前に転がっていたので、憐れんで供養塔を建てたという話が残る。
山門を入ると、コンクリートのモダンな本堂があった (右写真)
区が建てた案内板には、寺所有の古文書の説明はあったが、丸橋忠弥に関するものは一切なく、墓地らしいものもなかったので、探すのをやめ、山門を出た。
後日、地図を見ると、左側の第一京浜のガードの先に、空地(?)があるようで、それが
墓地かも知れない。 寺を出て右折し、南品川4丁目の交差点で、第一京浜国道を越えると、入口左側
に、時宗海蔵寺の石柱、反対側には江戸時代無縁塚首塚、関東大震災横死供養塔と、書かれた石碑が建っているのが、海蔵寺である (右写真)
品川宿で亡くなった娼妓の死体が投げ入れられたので、投込寺と呼ばれたようである。
品川溜牢(牢屋)で亡くなった人の遺骨を集めて、宝永五年(1708)に築かれた塚に、天保の大飢饉の死者塚、品川宿娼妓の大位牌や鈴が森刑場処刑者の首が葬られ、首塚
と名付けられた。 明治以降も関東大震災などで亡くなった無縁者を葬ってきた。
途中、しばり地蔵の願行寺や心海寺を横目に見て、街道に戻った (右写真)
街道を進むと、右側に常行寺があるが、その手前の左側に、江戸時代には南品川宿の問屋があったようだが、場所は確認できなかった。
その先の右側に長徳寺があり、その裏に城南小学校がある。
その前には御料所傍示杭が立っていたようで、ここが南品川宿の境だった (右写真)
時計を見ると、17時15分、この時間では川崎まで行くのはとても無理である。
マンションや、店舗付きアパートといった建物が増えてきた。
江戸時代には、その先の天妙国寺からは品川宿門前町だった。
天妙国寺には江戸初期の剣客で、一刀流の開祖・伊藤一刀斎の墓があるのだが、時間が遅いためか、門は閉められていた (右写真)
いつの間にか、青物横丁商店街になっていた。
その先、右手に諏方(諏訪)神社があるのを見ながら歩くと、信号交差点に出た。
東海道は直進であるが、右折すると京浜急行青物横丁駅なので、今日はここで終えることにした。
それにしても、熱い八月の東京で、熱中症にかからなくてよかった。
平成19年(2007)8月