日本書記によると、「
出雲国は、古代の大和政権とは戦わず、平和に国譲りが行われ、
出雲大社が建立された。 」 とある。
その結果、出雲国造家が、 今日まで残り、今も出雲大社の宮司として務めておられ、
出雲大社は全国の神社の頂点にたつ。
出雲大社は、 古くは、 杵築大社(きずきたいしゃ、 きずきのおおやしろ)
と呼ばれたが、 明治四年(1871)、「出雲大社」 に改称。
正式名称は、 「いずもおおやしろ」 だが、一般的には 「いずもたいしゃ」 と呼ばれ、
祭神は、 大国主大神 (おおくにぬしのおおかみ) である。
神無月 (出雲では神有月) に、 出雲に神々が集まり会議を行い、運勢占いをする。
全国の神が集まって縁結びの相談をするという信仰が、 江戸時代になり広がり、
江戸中期以降の伊勢参りや、善光寺参りのブームにものって、 出雲講が各地に造られ、
出雲の縁結びの神様として、全国的な信仰をあつめるようになった。
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平成二十八年(2016)十月二十六日、出雲大社へお参りをした。
駐車場を出ると正面に、大きな 神楽殿(かぐらでん) がある。
「
神楽殿は、 明治十二年の出雲大社教創始の際に、
本殿とは別に、大国主大神を祀ったことに由来する。
正面破風下に張られた大注連縄は日本一で、 長さは十三・五メートル、
周囲九メートル、 重さは四・四トンである。
神楽殿では、婚礼なども執り行われている。 」
右折して小川を渡ると、 大国主大神と因幡の白兎の銅像があり、
右手には社務所がある。
鳥居の右手に、 むずびの神像と、「幸魂奇魂( さきみたまくしみたま) 」 の説明板が、
建っている。
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銅鳥居は、正面入口からは四番目の鳥居である。
寛文六年(1666)六月に。 毛利輝元の孫 ・ 毛利綱広の寄進になるものである。
鳥居から四方に樹木で囲まれ、その中が出雲大社の境内である。
鳥居をくぐると、 左に神馬神牛、右手に神示右殿、左手に仮拝殿と庁舎があり、
正面に、 出雲大社独特のしめ縄を付けた細長い拝殿がある。
「 拝殿は、室町時代に尼子経久が造営されたものは
昭和二十八年(1953)の火災で燃失。
現在の拝殿は、昭和三十四年(1959)に建てられたもので、
大社造と切妻造を折衷した造りで、屋根は銅製である。 」
拝殿での拝礼は、 出雲大社独特の二拝四拍手一拝の作法でする。
拝殿の先には八足門があり、 右側は観祭楼と東廻廊、 左側は西廻廊、
四方は瑞垣で囲まれている。
「 八足門は、 木彫りの彫刻が施されていて、 蛙股の「瑞獣」や、 流麗な「流水文」などの彫刻は、 左甚五郎の作と伝えられる。 」
門の前右側には、天皇陛下御下賜金、皇族の神餞料の木札があった。
また、東廻廊と西廻廊には、 門神社(もんじんのやしろ)があり、
本殿を守護する宇治神(東)、久多美神(西)を祀っている。
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八足門からは、楼門があるのがわずかに見える程度である。
八足門から左手に廻り込み、 左側から瑞垣の先を見ると本殿、 きざはし (階段) 、
楼門が見えた。
「
本殿は、 楼門からぐるりと四方に玉垣で囲まれた中にあり、
楼門から 十五段の きざはし(階段) を上ると、
千木がついた高い建物の本殿に至る、 という配置になっている。
本殿は、 大社造り と呼ばれる様式で、 屋根は檜皮葺きで、 高さは八丈(二十四メートル)、 太古はその倍の高さだったといわれる。
現在の建物は、 延享元年(1744)に建てられたもので、
その後、七十年〜八十年毎に大修理が行われてきた。
柱はすべて円柱で、 現在は礎石の上に立っているが、
近世までは、根元を地下に埋めた掘立様式だった。
屋根の横柱には、 千木と勝男木 (かつおぎ) が三本乗せられている。
本殿の北西には、 御客座があり、
五神 (天之御中主神 ・ 高御産巣日神 ・ 神産巣日神 ・ 宇摩志阿斯訶備比古遅神 ・
天之常立神) が祀られている。
大国主大神の御神座は、 本殿の北東にあり、正面の南ではなく、西を向いている。
本殿の構造が、古代の高床式住居とほぼ同じになっているため、
高床式住居の入口と、最上席の配置と向きの関係から
、御神座は西側を向くことになったと考えられる。 」
瑞垣の外に遙拝所があり、「 御参りは八足門の正面からではなく、
左手の氏社側から瑞垣越しで行うように 」 との案内板があった。
拝殿参拝者以外の一般の人はここから参拝することを知った。
瑞垣の内に本殿の手前に千木をのせた社殿があった。
これは神魂御子神社本殿(かみむすびみこのかみやしろ)である。
「 別名筑紫社といい、 大国主の妻で福岡の宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀っている。 」
本殿に向い逢うように瑞垣外にあるのは、氏社(うじのやしろ)である。
「
奥の社は出雲国造家祖神の天穂日命、
手前の社は十七代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌を祀っている。
御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようになっている。 」
廻廊の左右にある長細い社殿は東十九社、西十九社で、 これは八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。
「
旧暦十月に全国の神々が大国主大神の許に集まり、
人々の幸福、生成発展のため神議される神在祭が斉行される。
そのため、神無月は出雲では神在月といわれ、
旧暦十月十一日〜 十七日まで神在祭が斉行される。
十九社はその際の神々の宿舎となる。
また、平素は全国八百万神の御遙拝所になる。
なお、出雲へ行かず村や家に留まる田の神や家の神などの留守神(荒神様など)
もいるので、すべての神が出雲に出向くわけではない。 」
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本殿瑞垣の真後ろに廻ると、 小さな兎の置物が沢山あって、 瑞垣の先には本殿、 左側に、 二つの千木の付いた社殿が見える。
「
これは、本殿の玉垣の外にある、 御向社(大神大后神社) と、 天前社 (伊能知比賣神社) である。
御向社(みむかいのやしろ)には、 大国主の正后 ・ 須勢理毘賣命が、
天前社 (あまさきのやしろ) には、 大国主が亡くなったときに蘇生を行った、蚶貝比賣命・
蛤貝比賣命を祀られている。 」
振り返ると新しい社殿が八雲山を背にしてある。
出雲神社という神社で、
素鵞社(そがのやしろ) と呼ばれ、
大国主命の父(または祖先) の 素戔嗚尊 を祀る社である。
その先(東側)に廻ると、瑞垣の外に、釜社(かまのやしろ) があり、
素戔嗚尊の子 ・ 宇迦之魂神が祀られている。
また、その先には東十九社があった。 これで一周したことになる。
拝殿まで戻り、娘はお札授与所で、
友達に頼まれた良縁祈願のお守りを大量に手に入れた。
これが一番のお土産になるといった。
大社を出て、昼飯を食べるため、出雲そばの店に入る。
「 出雲そばは、小さな器に堅めのめんが乗せられ、 数段に重ねられた器と甘辛いだしが入った器が盆にのせられ運ばれてくる。 小さな器の面にだしをそのままかけて食べるというものである。 二十年以上も前に、五段のそばを食べた時は、麺がもっと堅く、 しるをかけても、麺が歯にあたるという印象があり、変わった食べ物と思った。 今回訪れた店では、麺がそれほど堅くなく、汁もマイルドだった。 時代の経過で変わったのか、店により造り方が違うのかは分からないが、 大変 うまかった。 」
以上で、出雲大社の御参りは終了。
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(ご参考) 出雲大社の誕生とその歴史について
「
狩猟や採取が生活の糧だった縄文時代から、
稲作が伝来した弥生時代から古墳時代にかけて、
各地に集落が誕生し、それが統合されて、
北九州・出雲・岡山・大和などの各地に、小王朝が誕生し、
統一国家の国家が誕生する。
邪馬台国から飛鳥に大和政権が誕生する過程で、
岡山の王朝は、大和との戦いに負け、滅びた。
その話が桃太郎である。
一方、早くから、中国・朝鮮との交流や、稲作の導入、はがねの生産など、
近代化の進んだ出雲王朝は、何故だか戦わず、和平の道を選んだ。
それが国譲りの話であり、出雲大社の誕生でもある。
出雲大社の創建について、日本神話などに、その伝承が語られている。
古事記には。
「 この国を統治していた大国主神は、息子に戦うか、和平するかを相談したところ、
戦うと主張する子は諏訪に移り、諏訪大明神になった。
大国主神は、国譲りに応じる条件として、
「 我が住処を皇孫の住処の様に太く深い柱で、
千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、
そこに隠れておりましょう。 」
と述べ、 これに従って、出雲の 多芸志(たぎし)の浜 に、
天之御舎(あめのみあらか) を造った。 」
と、ある。 また、日本書紀には
「 高皇産霊尊は、国譲りに応じた大己貴神に、
「 汝の住処となる天日隅宮(あめのひすみのみや) を 千尋もある縄を使い、
柱を高く太く、 板を厚く広くして造り、 天穂日命に祀らせよう。 」 と述べた。
崇神天皇六十年七月、天皇が 「 武日照命(天穂日命の子)が
天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい。 」
と言って献上を命じ、 武諸隅(タケモロスミ) を遣わしたところ、
飯入根が当主で、 兄の出雲振根に無断で、 出雲の神宝を献上した。 」とあり、
また、 「 斉明天皇五年(659)には、出雲国造に命じて 「神之宮」を修造させた。 』 とある。
伝承の内容は様々であるが、共通なのは、 天津神(または天皇) の命により
国津神の大国主神の宮が建てられた ということで、
国家的な事業として行われたものということ。
また、出雲王朝は、国政には関わらず、
国神として、また、 出雲国造 として生きる道を選んだ点である。
それ以降、出雲大社は 天照大神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)
を祖とする、出雲国造家が祭祀を担ってきた。
第十二代鵜濡淳命より、 祭祀以外に、出雲国の政治も兼ねることになる。
第十三代襲髄命(野見宿禰)は、相撲の祖と称えられる。
第十七代宮向国造の時に、出雲臣姓を賜る。
第二十五代廣嶋国造は、 出雲国風土記を編纂。
第三十一代千国国造の時代から、地方政治の面から退き、祭祀のみ携わることになった。
その末裔は、平成十四年(2002)、宮司に就任した第八十四代国造の千家尊祐であり、
出雲大社は、
現在も皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。 」
出雲大社の長い歴史の中では色々なことがあり、 祭神が大国主神から素戔嗚尊になっていたこともあった。
「 鎌倉時代から盛んになった神仏習合の影響により、
天台宗の鰐淵寺が杵築大社(出雲大社)の神宮寺を兼ねた。
鰐淵寺は、今はぱっとしない寺だが、
当時は隆盛を極めた寺で、弁慶も修業をしたといわれる。
中世出雲神話 (鰐淵寺を中心とした縁起) では、
出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としたことから、
鎌倉時代から祭神が素戔嗚尊に変えられ、 境内には仏堂や仏塔が立ち並び、
神事がおろそかになっていった。
危機感を感じた出雲国造家が、 江戸時代の寛文年間の遷宮時に、
神仏分離 ・ 廃仏毀釈を主張し、それが寺社奉行に認められ、
寛文四年から寛文五年にかけて、 仏堂や仏塔は移築、撤去され、経蔵は破却され、
祭神も素戔嗚尊から大国主大神に復したと、いわれる。 」