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目の前の銅鳥居は正面入口からは四番目の鳥居である。
寛文六年(1666)六月に毛利輝元の孫・毛利綱広の寄進になるものである。
鳥居から四方に樹木で囲まれ、その中が出雲大社の境内である。
鳥居をくぐると左に神馬神牛、右手に神示右殿、左手に仮拝殿と庁舎があり、
正面に出雲大社独特のしめ縄を付けた細長い拝殿がある。
「 室町時代に尼子経久が造営した拝殿は、昭和二十八年(1953)の火災で燃失、 現在の建物は、昭和三十四年(1959)に建てられたもので、 大社造と切妻造を折衷した造りで、屋根は銅製である。 」
拝殿での拝礼は出雲大社独特の二拝四拍手一拝の作法でする。
拝殿の先には八足門があり、右側は観祭楼と東廻廊、左側は西廻廊、
四方は瑞垣で囲まれている。
「 八足門は木彫りの彫刻が施されていて、 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は左甚五郎の作と伝えられる。 」
門の前右側には天皇陛下御下賜金、皇族の神餞料の木札があった。
また、東廻廊と西廻廊には門神社(もんじんのやしろ)があり、
本殿を守護する宇治神(東)、久多美神(西)を祀っている。
八足門からは、楼門があるのがわずかに見える程度だった。
八足門から左手に廻り込み、左側から瑞垣の先を見ると本殿、きざはし(階段)、
楼門が見えた。
「
本殿は楼門からぐるりと四方に玉垣で囲まれた中にあり、
楼門から十五段のきざはし(階段)を上ると、
千木がついた高い建物の本殿に至る、という配置になっている。
本殿は大社造りと呼ばれる様式で、屋根は檜皮葺きで、高さは八丈(二十四メートル)、
太古はその倍の高さだったといわれる。
現在の建物は、延享元年(1744)に建てられたもので、
その後、七十年〜八十年毎に大修理が行われてきた。
柱はすべて円柱で、現在は礎石の上に立っているが、
近世までは根元を地下に埋めた掘立様式だった。
屋根の横柱には千木と勝男木(かつおぎ)が三本乗せられている。
本殿の北西には御客座があり、
五神 (天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇摩志阿斯訶備比古遅神・
天之常立神) が祀られている。
大国主大神の御神座は、本殿の北東にあり、正面の南ではなく西を向いている。
本殿の構造が古代の高床式住居とほぼ同じになっているため、
高床式住居の入口と最上席の配置と向きの関係から
、御神座は西側を向くことになったと考えられる。 」
瑞垣の外に遙拝所があり、「 御参りは八足門の正面からではなく、
左手の氏社側から瑞垣越しで行うように 」 との案内板があった。
拝殿参拝者以外の一般の人はここから参拝することを知った。
瑞垣の内に本殿の手前に千木をのせた社殿があった。
これは神魂御子神社本殿(かみむすびみこのかみやしろ)である。
「 別名筑紫社といい、 大国主の妻で福岡の宗像三女神の一人、多紀理毘賣命を祀っている。 」
本殿に向い逢うように瑞垣外にあるのは、氏社(うじのやしろ)である。
「
奥の社は出雲国造家祖神の天穂日命、
手前の社は十七代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌を祀っている。
御神座は本殿のある東を向いて、西を向いた主祭神に対面するようになっている。 」
廻廊の左右にある長細い社殿は東十九社、西十九社で、 これは八百萬神(やおよろずのかみ)を祀る。
「
旧暦十月に全国の神々が大国主大神の許に集まり、
人々の幸福、生成発展のため神議される神在祭が斉行される。
そのため、神無月は出雲では神在月といわれ、
旧暦十月十一日〜 十七日まで神在祭が斉行される。
十九社はその際の神々の宿舎となる。
また、平素は全国八百万神の御遙拝所になる。
なお、出雲へ行かず村や家に留まる田の神や家の神などの留守神(荒神様など)
もいるので、すべての神が出雲に出向くわけではない。 」
本殿瑞垣の真後ろに廻ると、小さな兎の置物が沢山あって、瑞垣の先には本殿、 左側に二つの千木の付いた社殿が見えた。
「
これは本殿の玉垣の外にある御向社(大神大后神社)と天前社(伊能知比賣神社)である。
御向社(みむかいのやしろ)には、大国主の正后・須勢理毘賣命が、
天前社(あまさきのやしろ)には、大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命、
蛤貝比賣命を祀られている。 」
振り返ると新しい社殿が八雲山を背にしてあるが、
出雲神社という神社である。
素鵞社(そがのやしろ)と呼ばれ、
大国主命の父(または祖先)の素戔嗚尊を祀る社である。
その先(東側)に廻ると、瑞垣の外に釜社(かまのやしろ)があり、
素戔嗚尊の子の宇迦之魂神が祀られていた。
また、その先には東十九社があった。 これで一周したことになる。
拝殿まで戻り、娘はお札授与所で、
友達に頼まれた良縁祈願のお守りを大量に手に入れた。
これが一番のお土産になるといった。
大社を出て、昼飯を食べるため、出雲そばの店にいった。
「 出雲そばは小さな器に堅めのめんが乗せられ、 数段に重ねられた器と甘辛いだしが入った器が盆にのせられ運ばれてくる。 小さな器の面にだしをそのままかけて食べるというものである。 二十年以上も前に五段のそばを食べた時は麺がもっと堅く、 しるをかけても麺が歯にあったという印象があり、変わった食べ物と思った。 今回訪れた店では麺がそれほど堅くなく、汁もマイルドだった。 時代の経過で変わったのか、店により造り方が違うのかは分からないが、 とにかくうまかった。 」
ご参考 出雲大社の誕生とその歴史について
「
狩猟や採取が生活の糧だった縄文時代から、
稲作が伝来した弥生時代から古墳時代にかけて、
各地に集落が誕生し、それが統合されて、
北九州、出雲、岡山、大和などの各地に、王朝が誕生し、
統一国家の国家が誕生する。 それらが古事記や日本書紀になっているのである。
邪馬台国から飛鳥に大和政権が誕生する過程で、
岡山の王朝は大和との戦いに負け滅びた。
その話が桃太郎である。
一方、早くから中国、朝鮮との交流や稲作の導入、はがねの生産など、
近代化の進んだ出雲王朝は何故だか戦わず、和平の道を選んだ。
それが国譲りの話であり、出雲大社の誕生でもある。
出雲大社の創建について、日本神話などに、その伝承が語られている。
『 この国を統治していた大国主神は息子に戦うか、和平するかを相談したところ、
戦うと主張する子は諏訪に移り、諏訪大明神になった。
大国主神は、国譲りに応じる条件として、
「 我が住処を皇孫の住処の様に太く深い柱で、
千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、
そこに隠れておりましょう。 」 と述べ、
これに従って、出雲の 「多芸志(たぎし)の浜」 に、
「天之御舎(あめのみあらか)」を造った、と、古事記にある。
また、日本書紀には 「 高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に、
「 汝の住処となる天日隅宮(あめのひすみのみや)を 千尋もある縄を使い、
柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう。 」 と述べた、
とあり、崇神天皇六十年七月、天皇が 「 武日照命(天穂日命の子)が
天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい。 」
と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、
飯入根が当主で、兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上した。 」とあり、
また、 「 斉明天皇五年(659)には、出雲国造に命じて 「神之宮」を修造させた。 』 とある。
伝承の内容は様々であるが、共通なのは天津神(または天皇)の命により
国津神の大国主神の宮が建てられたということで、
国家的な事業として行われたものということ。
また、出雲王朝は国政には関わらず、
国神としてまた出雲国造として生きる道を選んだ訳である。
それ以降、出雲大社は 天照大神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)
を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。
第十二代鵜濡淳命より祭祀以外に出雲国の政治も兼ねることになる。
第十三代襲髄命(野見宿禰)は相撲の祖と称えられる。
第十七代宮向国造の時に出雲臣姓を賜る。
第二十五代廣嶋国造は出雲国風土記を編纂。
第三十一代千国国造の時代から地方政治の面から退き、祭祀のみ携わることになった。
その末裔は平成十四年(2002)、宮司に就任した第八十四代国造の千家尊祐であり、
出雲大社は、
現在も皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。 」
出雲大社の長い歴史の中では色々なことがあり、 祭神が大国主神から素戔嗚尊になっていたこともあった。
「 鎌倉時代から盛んになった神仏習合の影響により、
天台宗の鰐淵寺が杵築大社(出雲大社)の神宮寺を兼ねた。
鰐淵寺は今はぱっとしない寺だが、
当時は隆盛を極めた寺で、弁慶も修業をしたといわれる。
中世出雲神話 (鰐淵寺を中心とした縁起) では、
出雲の国引き、国作りの神を素戔嗚尊としたことから
鎌倉時代から祭神が素戔嗚尊に変えられ、境内には仏堂や仏塔が立ち並び、
神事がおろそかになっていった。
危機感を感じた出雲国造家が、江戸時代の寛文年間の遷宮時に、
神仏分離・廃仏毀釈を主張し、それが寺社奉行に認められ、
寛文四年から寛文五年にかけて仏堂や仏塔は移築、撤去され、経蔵は破却され、
祭神も素戔嗚尊から大国主大神に復したといわれる。 」
出雲の神社めぐり
「
日本人と結婚し、小泉八雲と名を変えた英国人、ラッカデイヨハーンは
明治二十四年四月五日、西田千太郎と行楽と取材を兼ね、
人力車で松江郊外の神社めぐりを行っている。
八重垣神社では鏡の池にとくに興味を示したという。
八重垣神社のお札類をイギリスオックスフォード大學の博物館に贈り、今も残っている。 」
◎ 縁結びの神社・八重垣神社(やえがきじんじゃ)
「 八重垣神社は松江市佐草町に鎮座する神社で、意宇六社の一つで、 縁結びの神社として有名である。 」
大鳥居の道の反対には大きな夫婦椿蓮理玉椿があり、
鳥居をくぐると立派な随神門がある。
その間の右側に 「八重垣神社由来」 という立派な説明板がある。
説明板「八重垣神社由来」
「 八重垣神社は八岐大蛇退治ゆかりの神社です。
縁結びで名高いこの神社の鏡の池は、
稲田姫が飲料水を得また姿を写されたところと云われています。
早く出雲八重垣に縁を結が 願いたいという歌は出雲において最も古い民謡で、
御祭神も八岐大蛇を退治し、
高天原第一の英雄素戔鳴尊と、
国の乙女の花とうたわれた稲田姫の御夫婦がおまつりしてあります。
素戔鳴尊が八岐大蛇を御退治になる際、
斐の川上から七里を離れた佐久佐女の森(奥の院)が
安全な場所であるとしてえらび、
大杉を中心に八重垣を造って姫をお隠しなさいました。
そして大蛇を退治して、
「 八重立つ出雲八重垣妻込みに八重垣渡るその八重垣を 」 という喜びの歌い、
両親の許しを得て、
「 いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に 」
という出雲神楽にもある通り
この佐草の地に宮造りをして御夫婦の宮居とされ、縁結びの道をひらき、
掠奪結婚から正式結婚の範を示し、
出雲の縁結びの大神として、又家庭和合、子孫繁栄、安産災難除、和歌の祖神として、
古来朝廷、国司、藩主の崇敬が厚く、御神徳高い神国出雲の古社であり、
名社であります。 」
上記の説明板は八重垣神社を分りやすく説明しているが、社伝によると、 今日に至るまでにいくつかの変遷がある。
社伝によると、「 八重垣神社は素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神とし、
大己貴命、および、出雲国風土記の意宇郡大草郷条で
須佐乎命の子として記載される、青幡佐久佐日古命(あおはたさくさひこのみこと)
を配祀する神社である。
素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した後、
八岐大蛇への生贄となった櫛稲田姫命と須賀の宮にて結ばれた。
後、佐草里八雲床に宮を構えて、須賀の宮からお移りになり、
「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」 とお歌いになった。 」 とあり、
「 神社の創建時期は不詳だが、
須賀(現在の雲南市大東町須賀) の地(須我神社)に創建され、
後に、青幡佐久佐日古命が祀られる佐久佐神社の境内に遷座した。 」 としている。
当地は、意宇郡大草郷の西端に位置し、近世までは佐草村と呼ばれていた。
出雲国風土記には、素盞鳴尊の御子・青幡佐久佐日古命が坐した地 とあり、
延喜式神名帳に、式内社・佐久佐神社という名前は記載されているが、
当社の他、同市大草町の六所神社も論社となっている。
社伝によると 「 佐久佐神社は、仁寿元年(851)に従五位、
貞観七年(865)に従五位上、
貞観十三年に正五位下、元慶二年(878)に正五位上の神階を授かった。
佐草氏が神職として奉仕し、近世には八重垣大明神と称された。
明治五年(1872)、本社と末社を入れ替え、社号を佐久佐神社とし、
主祭神も青幡佐久佐日古命とし、郷社に列せられた。
明治九年(1876)に県社に昇格したが、八重垣の社号を捨て切れず、
明治十一年(1878)に八重垣神社に改称。
昭和五十六年(1981)、神社本庁の別表神社に加列された。 」
とある。
随神門をくぐると一対の狛犬があるが、たてがみに特徴があり、
日本の神社に狛犬が登場した初期ごろのものではないかといわれる。
右手に社務所があり、正面に拝殿が見えてきた。
「八重立つ出雲八重垣妻込みに八重垣渡るその八重垣を」 と刻まれた石碑は、
本殿の左手の境内にあった。
八重垣神社の本殿は江戸中期、拝殿は1964年に再建されたものである。
本殿にあった国重要文化財指定の板壁画・板絵著色神像は宝物殿に納められている。
「 神社の障壁画としては日本最古のものといわれ、落箔が甚だしいが、戦後造営のさい、 本殿から取り外して樹脂注入などで、保存措置が講じられた。 全部で3面あるが、稲田姫を描いたとされる、 もと正面にあった壁画が最も保存がよく、 匂うような肌と髪、鮮やかな紅の唇など、とても数百年を経たとは思えないほど。 ヤリガンナで仕上げたスギ板の上に直接描かれているが、 絵具などは現代すでに求め難い優秀なものが使われているという。 」
本殿の右手に荒神・伊勢宮・脚摩乳社、左手に社白社・山神社・貴布也祢社・
手摩乳社の小さな社が並ぶ。
面白いと思ったのは、夫婦椿乙女椿の隣にある山神社で、
大山祇命と石長姫命が祭神であるが、
祠の前にあるのは男性のシンボルを石で作ったものだった。
伊勢宮は天照大神と書かれた石碑である。 その先は出口で、右側は玉垣。
出口から宮橋を渡ると、夫婦杉があり、
ここは奥の院といわれる小さな佐久佐女の森である。
「
この森は、佐久佐女(さくさめ)の森といい、小さいながら老杉などが生い茂り、
地表にあらわになった木々の根が異様である。
神社がまだ社殿を持たないころ、
人々が巨石や老木に神々が宿ると信仰した磐座(いわくら)、
神籬(ひもろぎ)の跡と思われるところである。 」
その中にある鏡の池には若い男女が集まっていた。
「 鏡の池は、稲田姫が化粧の時の鏡がわりに使ったという伝承があり、 また、大蛇退治の時、 稲田姫が身を隠されたという故事に由来する、 五月三日の身隠(みかくし)神事の舞台もここで行われる。 」
最近若い女性に人気なのは「縁占い」である。
「 池に硬貨を乗せた用紙を浮かべ、 その沈み具合いで縁の遅速を占うという占いである。 社務所で売られている薄い半紙の中央に、小銭を乗せて池に浮かべると、 お告げの文字が浮かぶ。 紙が遠くの方へ流れていけば、遠くの人と縁があり、 早く沈めば、早く縁づくといわれる。 このため、軽い1円玉を使うのを避け、10円もしくは100円で占いを行う。 また、紙の上をイモリが横切って泳いでいくと、大変な吉縁に恵まれるという。 」
◎ 神魂神社(かもすじんじゃ)
「 松江に住み日本に帰化した小泉八雲は、明治二十四年四月五日に西田千太郎と訪れて、 杵築の国造へ火鑽を授ける習慣、天穂日命が臨降時に使用したという鉄の大釜、 伊弉諾尊・伊弉冉尊の神鳥とされるセキレイの伝承について記している。 」
平成二十八年(2016)十月二十八日、私は娘と参詣した。
神魂神社は小高い丘にあった。
駐車場を出て、鳥居をくぐると鬱蒼とした樹木の中を歩く。
すると、右手に急な石段があり、
これが男坂、直進すればなだらかな道で女道である。
「 ここは意宇(おう)平野の一角である。 意宇平野は、古代から栄えていた所で、 近くに出雲国庁跡や国分寺、出雲国山代郡正倉跡があり、八雲風土記の丘がある。 また、県下最大の規模を持つ山代二子塚をはじめ、 代表的な古墳はこの付近に集中している。 」
急な石段を上りきると現れるのは神魂神社の拝殿である。
「 神魂神社は、伊弉冉尊(イザナミノミコト)を主祭神、 伊弉諾尊(イザサキノミコト)を副祭神とする神社で、 近くの熊野大社、八重垣神社、六所神社などとともに意宇六社の一つに数えられ、 大庭(おおば)の大宮さん と親しまれている。 」
神社の案内によると、
「 当社は、出雲国造の大祖・天穂日命(あめのほひのみこと)が、 この地に天降られ、出雲の守護神として創建以来、 天穂日命の子孫が出雲国造として二十五代まで奉仕され、 大社移住後も神火相続式、古伝新嘗祭奉仕のため、参向されている。 」 とあるが、 何故か延喜式に記載されておらず、出雲国風土記にも出てこない。 出雲国造家とゆかりが深く、古くは国造家の私斎場的性格だったためかとも思われる。 」
巨大な自然石を積み上げた石段といい、
古代出雲の神々の里らしいたたずまいを見せる神社で、霊気が漂う気がした。
本殿は室町時代初期正平元年(1346)の建立の大社造の建物である。
「
その大きさは三間四方、高さ四丈あり、出雲大社本殿とは規模を異にするが、
床が高く、木太く、特に、前面と後方の中央にある宇豆柱(うずばしら)
と呼ばれる柱が壁から著しく張り出していることは、
大社造の古式に則っているとされ、最古の大社造として、
昭和二十七年三月国宝に指定されている。
一見白木造りのようだが、往古は彩色されていたといわれ、
屋根裏あたりにかすかに痕跡を留める。
本殿内陣は、狩野山楽、土佐光起の筆と伝えられる極彩色の壁画九面にて囲まれ、
天床は九つの瑞雲が五色に彩られている。
なお、本殿の屋根の前後を飾る千木(ちぎ)の先端が水平に切ってあるのは、
内そぎ と呼ばれるが、
これは祭神が女神であることを示すものである。
これに対し、出雲大社や佐太神社など男神を主祭神とする神社では、
千木の先端が垂直に切ってある 外そぎである。 」
拝殿の右手に社務所、その先には多くの末社が小さな社を並べている。
「
本殿の左手には二つの大きな社(やしろ)があるが、
右側の社には貴布祢(きふね)神社と稲荷神社が一緒に祀られている。
この社殿は桃山時代の建築様式を伝える二間社流れづくりで、
国の重要文化財に指定されている。
流れづくりそのものも出雲地方では珍しいが、
一般的な流れづくりは前側の柱間が一間か三間の奇数であるのに対し、
この社殿は二社を同時に収容するためか、二間に仕切っている。 」
古い鉄釜は、出雲国造の祖神である天穂日命が高天原から降臨された時、 乗って来られたと伝えられ、十二月十三日に御釜神事(おかましんじ)が行われる。 古代このあたりが鉄の産地であったことを示す遺物の一つである。
◎須佐神社(すさじんじゃ)
「
出雲市には神社が多く、パワースポットとしても有名な神社がある。
出雲市佐田町宮内にある須佐神社はその一つで、旧社格は国幣小社である。
山あいの田園風景の中に立つ小さな神社だが、境内の中は不思議なパワーに満ち、
日本一のパワースポットとテレビや雑誌で紹介され、
最近注目を集めている神社である。 」
須佐神社は島根県中部を南北に流れる神戸川の支流の須佐川のほとりにある。
「
最初は神社の北方の宮尾山にあったとされるが、
中世までには現在地に移ってきたと考えられている。
須佐神社は、ヤマタノオロチ退治に登場する須佐之男命を主祭神とし、
妻の稲田比売命(いなたひめのみこと)、
妻の両親の足摩槌命(あしなづちのみこと)と手摩槌命(てなづちのみこと) の四神が祀られている。
この地は、日本神話に登場するヤマタノオロチを退治した、
須佐之男命(すさのおのみこと)と関わりが深く、
出雲国風土記 の 須佐郷の条 には、須佐之男命が当地に来て最後の開拓をし、
「 この国は小さい国だがよい処である。
それで自分の名は岩木にはつけない、土地につけると、
大神が仰せられて大須佐田、小須佐田を定められ、
自分の御魂を自ら鎮められた。 」 と記されている。
即ち、須佐之男命の終焉の地として、御魂鎮の霊地、又御名代としての霊跡地であり、
大神の本宮として、大神奉祀の神社中で特に深いえにしを有している。
須佐之男命の御本宮として、出雲国風土記では須佐社、
延喜式神名帳には須佐神社と記載され、小社に列している。
中世には十三所大明神、大宮大明神、近世では須佐大宮と称したが、
明治四年(1871)に延喜式に記載された須佐神社に改称し、
明治五年(1872)に郷社に列格し、
明治六年(1873)県社に、明治三十三年(1900)、国幣小社に昇格した。 」
神社に訪問すると、鳥居の右手に 「須佐大宮」 の標石が建っていたが、
この標石は江戸時代以前のもの(?)である。
鳥居をくぐると常夜燈のある参道で、その先に随神門がある。
随神門に祀られているのは豊磐間戸神と櫛磐間戸神である。
須佐神社の宮司は、手摩槌命を祖神として七十八代目という。
「
稲田姫命の両親・足摩槌命と手摩槌命が、
須佐の宮地を守る稲田の首(いなたのおびと)に任じられ、
須佐宮司家は国土開拓に功ありし国つ神の末裔として、古き世には国造に命ぜられ、
今日まで脈々続いてきたという。
自分の祖先が分かるのは驚く。 」
随神門をくぐると左右に古代の正倉のような建物がある。、
これは、東末社と西末社である。
「 東西末社には天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、 熊野樟日命、市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命が祀られている。 」
右手のその先には塩井があり、隣は神楽殿である。
塩井(しおのい)は須佐神社の七不思議の一つである。
説明板「塩井(しおのい)」
「 須佐之神がこの潮を汲み、この地を清められたという。
この塩井は大社の稲佐の浜に続いており、
湧出に間濁があるのは潮の干満と関係があるという。
満潮の時は付近の地面に潮の花がふく。 わずかに塩味を感じる。 」
その先にあるのは須佐神社の拝殿、幣殿、本殿である。
「 須佐神社は、出雲の大宮と称えられ、 朝廷をはじめ国守、藩主、武将、世人の尊敬は厚く、 社殿の造営は武将や藩主によって行なわれてきた。 」
現在の本殿は、天文二十三年(1554)建築の大社造りで、 尼子晴久の造営とされ、県の文化財に指定されている。
「
本殿の高さは七間(12m)あり、真中の柱から右の片方だけ二間になっている。
屋根は切妻とち葺きで、厚さ一センチ〜三センチの板を使用し、
全体に段がついている。
大社造りとは四方の柱の間に一本ずつの柱がある。
即ち方二間で中央に真株がある。
中央と右中間の柱の間を壁でとじ、その奥を神座とする。
向って右方一間を出入口とし、階(きざはし)をつくる。
入口が右に偏っているのは他に例がなく、
神社と住居が分離しない原始の建築方法を伝えている。
屋根は切妻とち葺きで、妻の方に入口がある。 」
社殿の後ろは鬱蒼とした森で、入っていくと、 左側にしめなわで巻かれている大杉の巨木がある。
説明板「大杉」
「 昔、加賀藩から帆柱にと金八百両で所望されたが、
須佐国造がこれをことわったと伝えられる。
幹間二十尺(約六米)、根余り三十尺(約九米)、樹高百尺だったが、
風雪の被害にあい、今は七十尺(約二十一米)となっている。
樹齢は約千三百年といわれている。 」
大杉は神社の御神木で、この地を守るかのように立っていて、 幹から大地へと這う見事な根には生命の源のような力強さを感じる。
「
千三百年もの長い間、ここに立ち、栄枯盛衰の歴史を見てきた大杉!!
天を仰ぐように見上げると、大杉の威厳に満ちた佇まいに圧倒されるとともに
悠久の時の重みが伝わってくるようである。
その下に小さな祠があり、大杉さんの 木精(こだま) 600円を売っていた。
神々の国出雲でも指折りのパワースポットの一つとされ、
大杉の皮がはがされるという被害が続き、大杉の周囲には柵が設けられた。
その代わりとして登場したものだろう。 」
その先に「相生の松」 の表示板があった。
「 須佐神社の七不思議の一つで、一本で男松と女松の両肌を持つ松の木だったが、 今は枯れて跡だけが残っているだけである。 」
緑に囲まれた荘厳な雰囲気の境内には境内社が佇み、 悠久の時の重みを感じることができた。
「 三穂社は下の御前さんとも呼ばれ、祭神は三穂津比売命と事代主命である。 また、稲荷社の祭神は稲倉魂命である。 神社の前の道路を挟んで向かい側には、上の御前さんと呼ばれる、 天照大神を祀る天照社があり、中世には伊勢宮と呼ばれた。 」
◎ 日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)
「
日御碕神社は島根半島の両端の出雲市日御碕に鎮座する神社である。
日御碕神社が所在する日御碕の浦は、出雲風土記に、
「 御前浜(みさきのはま) 広さ百二十歩あり。 百姓(おおみたから)の家あり。 」 と記載のある御前浜にあたる、と思われる。
百姓の日御碕の 海子(あま) が採集する鮑は、名品だったという。
風土記には、日御碕神社の祖形とされる美佐伎社、御前社、百枝槐社が
記載されている。
美佐伎社が素盞嗚尊を祭る上の社(神の宮)で、
元は経島(ふみしま)にあったと思われる。
百枝槐社は天照大神を祭神とする下の社(日沈宮)とされる。
御前社は不明である。
伊勢神宮は日の本の昼を守り、
日御碕大神宮は日の本の夜を守るという伝承がある。
日御碕大神宮には、夜を治める神・月夜見命(つきよみのみこと)が鎮座している。 、
」
駐車場の脇には祖霊社があり、その先を進むと大きな鳥居があった。
「 楼門が見るところに、御影石製の鳥居がある。 寛永十六年(1639)に、三代将軍・徳川家光による寄進である。 参道入口の宇龍にあったものを、昭和十年(1935)に現在地に遷された。 」
参道を進むと目を見張るほど赤い大きな楼門と廻廊があった。
「 徳川第三代将軍・徳川家光の命令により、 幕府直轄で工事が行われ、完成したもので、国の重要文化財に指定されている。 」
楼門の中には大きな狛犬が左右に分れて安置されているが、 木製はめずらしいと思った。
「日御碕神社の由来」 と書かれた説明板がある。
説明板「日御碕神社の由来」
「 古来、両本社を総称して、 日御碕大神宮 と称する。
日沈の宮(ひしずみのみや) は、神代の昔、
素盞嗚尊の御子神・天葦根命又(天冬衣命と申す宮司家の遠祖)
現在地に程近い経島(ふみしま)に、
天照大御神の御神託を受け祀り給うと伝えられる。
また、日出る所伊勢国五十鈴川の川上に伊勢大神宮を鎮め祀り、日の本の昼を守り、
出雲国日御碕の清江の浜に 日沈の宮を建て、日御碕大神宮と称して、
日の本の夜を護らむ。
天平七年乙亥の勅に輝く日の大神の御霊顕が仰がれる如く、古来、
日御碕は夕日に餞け鎮める霊域とされ、
また、素盞嗚尊は出雲の国土開発の始めとされた大神と称えられ、
日御碕の隠ヶ丘は素尊の神の神魂の鎮めた霊地と崇められた。
神の宮は素尊の神魂鎮まる霊地と崇められた。
神の宮は素尊の神の神魂の鎮める日本総本宮として日沈の宮と共に
出雲の国の大霊験所として皇室を始め普く天下の尊崇を受け、現在に至っている。 」
楼門をくぐると、右手に回廊があるので、上っていくと、 上の宮(神の宮)の拝殿があった。
「
上の宮(神の宮)の祭神は素盞嗚尊で、
今から二千五百年以前の安寧天皇十三年に勅令により、現在地に移された。
社殿は徳川第三代将軍・徳川家光により寄進された総権現造である。 」
下に降りると、楼門の先に、 日沈の宮(ひしずみのみや) の拝殿と本殿があった。
「 下の宮の日沈の宮の祭神は天照大御神で、
下の宮は今から千百年前の天暦二年(948)に村上天皇の勅令により、
現在地に移された。
下の宮も上述の上の宮も、社殿は徳川第三代将軍・徳川家光による寄進で、
西日本に例を見ない総権現造の豪華な建物である。
徳川家光の命令により、幕府直轄で工事が行われ、寛永十一年から工事を始め、
十年の歳月をかけ、寛永二十一年に竣工したものである。
内陣の壁面装飾は極彩色で華麗にして荘厳である。
また、柱や欄間の彫刻は見事というほかはない。 」
楼門に入り、社殿の左右にあるのは門客人社(かどまろうどしゃ)である。
「 右側(南)の社には豊磐間戸神、 左の社には 櫛磐間戸神が祀られている。 両社とも、一間社入母屋造、向拝一間、檜皮葺である。 」
日御碕神社の建物や鳥居等は、ほぼ全て国の重要文化財に指定されている。
「
日沈の宮(下の宮)の本殿 幣殿、拝殿(合1棟)、玉垣、禊所、廻廊、楼門、門客人社、
そして、上の宮(神の宮)の本殿幣殿・拝殿(合1棟)、玉垣、宝庫、鳥居(2基)
その他、国宝の 白糸威鎧(しろいとおどしよろい)兜・
大袖付 - 鎌倉時代(塩冶高貞寄進)や
重要文化財の藍韋威腹巻(あいかわおどしはらまき) - 南北朝時代(名和長年寄進)が所蔵されている。 」
日御碕神社社家の小野家は、戦前は出雲大社の千家・北島両家や、 石見一ノ宮の物部神社社家の「金子家」と並び、 全国十四社家の社家華族(男爵) の一つに列する格式を有していたという。
◎ 稲佐の浜
「 稲佐の浜は、出雲大社の西の方へ一キロ程行ったところにある海岸で、 国譲り・国引きの神話の舞台となったといわれるところでる。 また、旧暦十月の神在月に全国の八百万の神々をお迎えする浜でもある。 夏夏には稲佐の浜海水浴場として海水浴が楽しめる。 」
稲佐の浜にある丸い島は、地元で 「べんてんさん」 と呼ばれて親しまれている弁天島である。
「
かつては稲佐湾のはるか沖にあったため、沖ノ御前、沖ノ島と呼ばれていて、
昭和六十年頃までは島の前まで波が打ち寄せていたが、
近年急に砂浜が広がり、現在では島の後まで歩いて行けるようになった。
明治以前の神仏習合の頃には弁財天が祀られていたが、
現在祀られているのは豊玉豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)である。
稲佐の浜の南には、国引きのとき、島を結ぶ綱になったという、
長浜海岸(薗の長浜)が続いていて、サイクリングロードになっている。
また、五十メートル程入った山手の民家の庭先に、
屏風を立てた様な岩・屏風岩がある。
高天原からの使者として派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)が 、
この岩陰で大国主大神(オオクニヌシノカミ)とが国譲りの話合いをされたと伝えられるところである。 」
出雲大社と稲佐の浜との中間地点に、
阿国の墓の表示を見付けたので、立ち寄る。
入口に「歌舞伎の始祖阿国)<と書かれた常夜燈があり、
山根の太鼓原の石段を上ると、出雲市が建てた「出雲阿国の墓」の説明板がある。
「 日本を代表する芸能歌舞伎の始祖として知られる出雲阿国は、 大社町の鍛冶職中村三右衛門の子で、 出雲大社の巫女であったと伝えられる。 天正の頃、出雲大社本殿の修復勧進のため、京都に入り、 世にいう歌舞伎踊りを創始した。 豊臣秀吉、徳川家康の御前でも、この歌舞伎踊りを披露するほどに名を上げ、 世に「天下一阿国」として知られた。 また、阿国と名護屋山三との熱愛ぶりも今の世にも語り継がれている。 」
平成三年に建立された 「ABCミュージカル阿国公演成功記念」と、
「をどり座阿国公演記念の碑」 の石碑が並ん建っている。
出雲阿国の墓は、出雲阿国の生家である中村家の墓の隣にあった。
「 名護屋山三は、安土桃山時代の武士で、蒲生氏、森氏の家臣。 類稀な美貌の持ち主で、蒲生氏郷が少女と勘違いした程。 出家して宗圓を名乗ったが、 細川幽斉は 「かしこくも身をかへてける薄衣にしきにまさる墨染めのそで」 と歌に詠み、 粗末な薄衣ですら、宗圓が身につければ、錦にも勝る墨染めのそでに見粉うようである、と賞賛したという。 」
◎ 黄泉比良坂(よもつひらさか)
黄泉比良坂は、松江市東出雲町揖屋にある。
「 揖屋は、古くから中海の漁獲物を原料とした、 直径7〜8cm、長さは70cmもある、豪快な 「野焼きかまぼこ」 が知られて、 昭和三十年頃まではここで出来た野焼きかまぼこを毎日百人程の人が、 岡山や広島まで売り歩いたといわれる。 」
国道9号線平賀交叉点には、「 黄泉比良坂右折700m 」 の標識がある。
古事記に、黄泉比良坂(よもつひらさか)の記載がある。
「 伊邪那岐命が黄泉国から還ろうとした時、
追って来る悪霊邪鬼を桃子(もものみ)で撃退した坂で、
現世と黄泉の国の境とされ、古来、亡くなった人との再会を求めて、
人が来るなど、最近の人気スポットである。
また、大穴牟遅神(おおあなむじのかみ)、後の大国主神が黄泉の国で、
須佐之男神の課す様々な試練を克服し、
妻の須勢理昆売(すせりひめ)と共に還ろうとしたとき、
須佐之男神が追い至って、大国主神の名を与え、
国造りを許したのもこの坂である。
その場所については、 「 故(かれ)其のいわいる黄泉良比坂は、
今の出雲国の伊賦夜坂と謂うなり 」 と記している。 」
標識の指示通り進み、鉄道踏切を越えると、うっそうとした森の入口に駐車場がある。
「 黄泉良比坂 伊賦夜坂 今、出雲国伊賦夜坂と謂う故に其の謂はゆる黄泉良比坂は 」 という看板がある。
看板の文字
「
女優北川景子さんが主演を務めた映画「瞬」(またたき)」のロケ地である。
亡くなった恋人にもう一度会いたいと訪れる場所、生と死の境とされるこの坂で、
映画のラストシーンを飾る大事なシーンが撮影されました。
「 神代の時代、伊邪那岐命(イザサキノミコト)は、
先立たれた最愛の妻・伊邪那美命(イザナミノミコト)にもう一度逢いたいと、
黄泉の国へと旅立ちます。
古事記ではこの黄泉の国(あの世)と現世(この世)との境が黄泉良比坂であり、
現在の松江市東出雲町にあるこの場所、伊賦夜坂(いふやさか)である、とされています。
昼間もひんやりとした冷気に包まれるこの神秘的なスポットとして、
「 逢いたい人にもう一度逢える場所 」 として
、ひっそり佇んでいます。 」
森の入口に昭和に建てられた石碑があり、その西方の山道が、
伊賦夜坂といわれている。
坂を上ると、塞(さえ)の神が祀られている。
その先に岩石があり、ここがあの世との境界とされる。
「 塞(さえ)の神は、日本書紀に、伊弉諾尊が伊賦夜坂で、 「 ここから入って来てはならぬ 」 と言って投げた杖から出現した神であると、記されている。 」
「黄泉良比坂 伊賦夜坂」看板 | 伊賦夜坂 | 塞の神付近 |
◎ 揖夜神社(いやじんじゃ)
国道9号線と交叉する旧道(県道191号)を行くと、
JR揖屋駅の手前に、揖夜神社(いやじんじゃ)の石柱と鳥居がある。
また、「 出雲街道 」の説明板が建っている。
説明板 「出雲街道」
「 鳥居の前は出雲大社から姫路に至る約二百三十五キロの出雲街道が通り、
江戸時代には、東出雲の行商人が中海でとれた海の幸、
豊かな山の幸を天秤でかついて、この街道を行き来していた。 」
揖夜神社は八重垣神社、熊野大社などと共に意宇六社の一つに数えられる神社で、 祭神が伊弉諾尊(イザサキノミコト) とともに、 国造りをした伊弉冉尊(イザナミノミコト) という女神であることから、 働く女性のパワースポットといわれる。
「 出雲国風土記には、伊布夜(いふや)社 と記される古社で、
日本書記の斉明天皇五年(659)の条に、
「 言屋(いふや)社 」 として、出雲大社の創建にかかわった社として記され、
古事記では、黄泉国の入口、黄泉良比坂は伊布夜坂と表現され、
黄泉の世界と関係の深い神社として、中央でも重視された神社であった。
平安時代末から南北朝時代まで、荘官として派遣されていた大宅氏が、
「別火」 と呼ばれた神職に就き、当社を支配。
室町時代以降は、出雲国造の命を受けて、
神魂神社の神職の秋上氏が神主を兼任していた。
江戸時代には井上氏が別火となり現在に至る。
現在も、造営にあたっては出雲国造家から奉幣を受けるという。
武将の崇敬が篤く、大内義隆が太刀と神馬を寄進、尼子晴久が百貫の土地を寄進、
天正十一年(1583) 、毛利元秋が社殿を造営、堀尾吉晴は元和元年(1615) 社殿を再建、
京極忠高は、寛永十四年(1637) 社殿の修復を行っている。
松平氏になってからは、社殿の営繕は松江藩作事方が行ったという。 」
鳥居の先には神門(随神門)があり、その先には狛犬や背の高い常夜燈があった。
その先の左側に社務所があり、その先の右手に天満宮と恵比須社、
その奥に荒神社がある。
揖夜神社の拝殿と本殿は左側にあり、本殿の右側には大きな社殿の三穂津姫神社、
左側には小さな祠の韓国伊太氏神社が配祀されていた。
拝殿と本殿は大社造りであるが、神座は出雲大社とは反対で、
左から右に向かっているのが特徴である。
神門(随神門) | 揖夜神社拝殿 | 韓国伊太氏神社、 (奥)揖夜神社本殿 |