東大寺転害門から西にまっすぐ延びた道が昔の一条大路で、今の佐紀路。
沿線には、総国分尼寺だった法華寺、平城京跡、伎芸天像が有名な秋篠寺がある。
法華寺
正倉院の西にある転害門前の交叉点の西に県道104号があり、これが佐紀路である。
西に400m進むと、右手に聖武天皇陵、仁正皇后陵があり、法華仲町交叉点を越える。
約1キロ進むと、不退寺口バス停があり、右手三百メートル奥に不退寺がある。
「 不退寺は、仁明天皇の勅願を受け、在平業平が開基した寺である。 寺伝によれば、祖父平城天皇が、薬子の変の後、剃髪し、 平安京から平城旧京に帰り、ここに茅葺の仮の住まいを作り、住んでいたので、萱の御所と呼ばれた。 平城天皇の皇子・阿保親王やその息子の在平業平もここに住み、 承知十四年(847)、業平が自作の観音像を安置し、寺になった、と伝わる。 」
不退寺口バス停の先には奈良街道(国道23号)があり、それを横断して進むと、
法華寺前バス停がある。
そのまま進むと、左に法華寺神社があり、右手に法華寺がある。
「 法華寺は、光明皇后が、父、藤原不比等の屋敷を喜捨して建てた尼寺である。 大和の三門跡寺院の一つで、氷室御所とも呼ばれる。 一時衰退したが、豊臣秀頼が諸堂を再建された。 」
法華寺家境内図があり、江戸中期に建立された赤門(東門)から中に入ると、 左側に大きな鐘楼があった。
「 鬼瓦には慶長七年(1602)の銘を刻み、
細部に桃山時代の建築様式がみられることから、本堂や南門と同期に復興された、と考えられている。 」
赤門の正面には、からふろ(浴室)がある。
「 からふろとは、現在のサウナ。
現在の建物は明和三年(1766)に再建されました。
内部には竈(かまど)や風呂屋形があり、薬草を用いて、蒸し風呂を焚くようになっている。
二部屋とも蒸し風呂になっていて、昭和初期まで夏と冬に使われていた。
からふろは、掛け湯や取り湯形式でなく、蒸し風呂形式であること、
また、尼僧ではなく庶民のための風呂であったことの二点で、
他の寺院の風呂と大きく異なる。
古代寺院は僧侶が沐浴潔斎する為に使用されました。
しかし、からふろは「我自ら千人の垢を去らん」という光明皇后のご発願に由来し、
庶民に開かれた福祉施設の原点ともいえるものでした。
今も六月に施浴体験が行われる。 」
傍らに井戸があり、案内板には「 常に清らかな水をたたえ、
浴室の伝統は井戸とともに、古い由緒を伝えています。 」とある。
狭い道を進むと、「光月亭入口」の看板があった。
「 光月亭は、梅林で有名な月ヶ瀬村(現奈良市)から昭和四十六年(1971)に移築された、旧東谷家住宅で、緩やかな丸みをもつ茅葺屋根。
軒が深く、自然の味を生かした梁やすす竹の天井、勾玉型の竈など、昔懐かしい建物である。
」
本堂は、豊臣秀頼の母、淀殿に寄進により、慶長六年(1601)に再建された。
「 伸びやかな曲線を描く屋根や左右の連子窓(れんじまど)など、 天平時代の特徴を残しているが、組物や彫刻、須弥壇(しゅみだん)の金具飾りなどには、 桃山時代の豪奢な特色が見られる。 」
建物の正面にある石灯籠は昭和五十八年(1983)に建立された八角燈籠である。
その正面にある門は南門で、門前には「総国分尼寺 法華滅罪之寺」の石碑が立っている。
「 南門は、寺の正門で、 本堂と同時期に建立された桃山建築の特色豊かな四脚門である。 国の重要文化財に指定されている。 」
水の中にあるのは、護摩堂。
「 平成十六年(2004)に建てられた建物で、
室町時代に護摩堂が倒壊したものを再建した。
法華経の護摩法要は、光明皇后が自ら法華経を読経されたのが始まりで、
戦前には全国社寺の中で唯一、当寺の護摩法要で祈願した御札が皇居に献納されと、という。 」
平城京跡
法華寺を出て、北に向うと左手に平城京跡がある。
今はただただ広い空地であるが、奈良時代には内裏、大極殿、各種の役所などが建っていたという。
「特別史跡 平城宮跡」と書かれた台の周囲に平城京の地図がタイルで描かれていた。
「 和銅三年(710)、飛鳥に近い藤原京から、
奈良盆地北部のこの地に都が移された。
大路小路が碁盤目状に通る平城京の人口は10万人とも20万人ともいわれている。
平城京の中央北端に位置する平城宮は、南北約1q、東西約1.3qの大きさで、
天皇の住まいである内裏、政治や儀式をとりおこなう宮殿、さまざまな役所、
宴会の場となる庭園などが設けられていた。
しかし、都は延喜三年(784)に長岡京へ、さらにその10年後には平安京へと移り、
平城京も宮もしだいに土の中に埋もれていった。
現在、平城京跡は、国の特別史跡として大切に保存され、
奈良国立文化財研究所が発掘調査を続けている。
これまでの調査結果、平城京は四角形ではなく、東側に張出し部をともなっていたことや、
政治の中心施設である大極殿と朝堂院の区画が東西2ヶ所あったことなどが、
明らかになっている。 こうした成果にもとづき、遺跡の復元・表示がおこなっている。 」
下の中図はタイル図から取り出した、宮殿の配置図であるが、 当初は左側に大極殿(赤で囲まれた長方形)、その下に朝堂院、右側に内裏があったが、 聖武天皇が再び遷都されて建てた大極殿は、 右側の内裏下の小さな四角形(赤で囲む)に建てられた、とある。
「 大極殿は、天皇の即位などの重要な儀式が行われていた場所だが、
平城京には、その跡が二つある。
聖武天皇は740年から745年まで、現在の京都、大坂、滋賀と、都を転々と移し変えたのだが、
その際、それまであった大極殿を解体、移築した。
745年に再び、平城京を都としたが、この時、内裏の南側に大極殿と朝堂院を建てた。
現在の平城京跡にみられる「第一次大極殿」は元明天皇が建てたもの、
「第二次大極殿」は聖武天皇が建てたものである。 」
その先に見えるのは平城宮遺構展示館である。
平城京跡資料館には出土遺物や復元模型の展示、遺構展示館では発掘状況をそのまま保存している。
資料館に入ると復原模型がいくつかあった。
第一次大極殿正殿のミニチャ―模型があったが、これを基に現在の建物は復原されたのであろうか?
遺構展示館では発掘状況をそのまま保存している。
なお、訪問した当時の平城京跡は右下写真の状態であった。
現在は、このあたりに第一次大極殿正殿が復元されていると思うので、
機会があれば訪問したい。
秋篠寺
平城京跡を出て、西に向うと近鉄の大和西大寺駅に出る。
この駅は大坂、樫原、奈良、京都と四方に広がる近鉄の主要駅である。
駅名は平城京の西側に建てられた官寺の西大寺による。
「 西大寺は、称徳天皇の勅願により、
天平神護元年(765)に創建され、広大な寺域を持ち、多数の堂塔が建つ寺院であったが、
承知十三年(846)以後、度々の火災に遭い、今はかっての面影はない程小さくなってしまった。
現在残るのは本堂、愛染堂、四王堂などで、江戸中期の建築である。 」
秋篠寺には、近鉄京都線を越えて、十五所神社で右折し、進んで行くと県営競輪場があり、 その先に進むと、秋篠寺前バス停があり、その先の左側に秋篠寺がある。
「 光仁天皇の勅願により建立された奈良時代最後の官寺といわれる。
保延元年(1135)に火災のため、建物の大部分が焼失したが、講堂は災を免れ、
諸堂の仏像は助け出された。
本尊は木造薬師三尊であるが、最も有名なのは伎芸天である。 」
秋篠寺は紅葉の季節できれいだった。
本堂は講堂が建っていたところに、鎌倉時代に再建されたもので、国宝に指定されている。
中央に薬師如来、両側に日光・月光菩薩、その両側に十二神将、
その右側に伎芸天、左側に地蔵菩薩が祀られていた。
(訪問日)平成20年(2008)11月16日