薬師寺は、藤原京に天武天皇の発願により創建されたが、
平城京の誕生により現在地に移った。 興福寺・春日大社の僧兵と共に、薬師寺も僧兵を抱えていて、江戸時代に入る前には創建当時の建物は東塔を残すだけになった。
郡山は、戦国時代以降、城下町として発達した。 また、柳沢氏が甲斐から持ってきた金魚が
幕末に藩下級武士の内職に、明治には農家で養殖が始められ、金魚の国内最大生産地になった。
薬師寺
薬師寺は、西大寺、唐招提寺とともに、西ノ京と呼ばれる地区にある。
「 南都七宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。
天武天皇九年(680)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京の地に創建されたが、
和銅三年(710)の平城遷都に伴い、八世紀の初め、養老二年(718)頃に、
平城京の六条大路に面した右京六条二坊(現在地)に移転した。
天禄四年(973)の火災により、金堂、東塔、西塔を残し、
講堂、僧坊、南大門などの建物が焼失した。
戦国時代の亨録元年(1528)には、興福寺の衆徒・筒井順興に兵火により、
東塔や東院堂を残し、全山焼失した。
金堂は、慶長五年(1600)に、郡山城主・増田長盛により再建され、
大講堂は嘉永五年(1852)に再建されたが、往時の大伽藍に比ぶべくもなかった。
高田好胤管主により、昭和五十一年(1976)に金堂が、昭和五十六年(1981)に西塔が、
昭和五十九年(1984)に中門が、平成七年(1995)に東西回廊の一部が、平成十五年(2003)に大講堂が、次々再建された。
平成二十九年(2017)に、食堂(じきどう)が完成し、復興事業はほぼ終了の段階に入ったようである。 」
近鉄樫原線西ノ京駅を降り、駅の東側に「県道122号京終停車場線」「奈良市西ノ京町」の標識のある道に入っていくと、「法相宗大本山 薬師寺」の石標とその奥に朱色の門がある。
西塔は、昭和五十六年に再建された、東塔と対称的に建つ三重の塔である。
「 旧塔は亨録元年(1528)に、戦火で焼失してしまった。
デザインは東塔に似ているが、
東塔の裳階部分が白壁であるのに対し、西塔は、同じ箇所に蓮子窓を設けるなどの違いがある。
」
東塔は、薬師寺に残るもっとも古い建物で、天平二年(730)に建立されたと云う説が有力である。
訪問した時、約百十年振りの解体修理で、塔全体が見えなくなっていたのは、残念であった。
「 東塔は高さ34.1mで、現存する江戸時代以前に造られた仏塔としては、
東寺・興福寺・醍醐寺の五重塔に次ぎ、四番目の高さである。
一見、五重塔に見えるが、下から一・三・五番目の屋根は裳階(もこし)であり、
構造的には三重の塔である。
塔の先端部分の相輪に付けられている青銅製の水煙(すいえん)には、
飛天像が透かし彫りになっていて、奈良時代の高い工芸技術を現代に伝えている。
明治時代に訪れたアーネスト・フェノロサがこの塔を評して、「凍れる音楽」と表現した話は
有名である。 東塔は国宝に指定されている。 」
金堂は、昭和五十一年(1976)に再建されたものである。
「 金堂には、奈良時代仏教彫刻の最高傑作とされる本尊・薬師三尊像(国宝)を
祀る。 上層は、写経が納められた納経蔵になっている。
なお、台風や地震、火災から守るため、内陣だけは鉄筋コンクリートで造られた。
なお、慶長五年(1600)に増田長盛により再建された入母屋造りの金堂は、
昭和五十年(1975)に、興福寺に仮金堂(現在は仮講堂)として移築され、
その際、寄棟造に改造された。 」
薬師寺興楽門 | 薬師寺西塔 | 薬師寺金堂 |
大講堂は平成十五年(2003)に再建されたものである。
「 正面41m、奥行20m、高さ17mあり、
伽藍最大の建物である。
以前の大講堂は、亨録元年(1528)に焼失した後、嘉永五年(1852)に再建されたものであったが、
今回の再建にあたって、解体された。
本尊の銅造弥勒三尊像(重要文化財)は、中像の像高は約267センチの大きなもので、
造られた当初どこにあったか不明であるが、ここに祀られる前は西院弥勒三尊像として、
祀られていた。
堂内には、仏足石(国宝)や仏足跡歌碑(国宝)も安置されている。 」
薬師寺を出て、道の反対に行くと玄奘三蔵院がある。
玄奘三蔵院伽藍は、平成三年(1991)に建てられた。
門をくぐった先にあるのは玄奘塔である。
「 玄奘三蔵坐像と玄奘の頭部の遺骨であるご頂骨・真身舎利を祀る裳階付きの八角 円堂である。 扁額「不東」は高田好胤の筆。 不東とは、インドに着くまでは一歩も東(唐)に帰るまい、という意味である。 」
その奥に、大唐西域壁画殿がある。
「 日本画家平山郁夫が三十年かけて制作した、幅2.2m、長さが49m(7場面、
計13壁面の合計)からなる大唐西域壁画が祀られている。 壁面は終身舎利とされ、なかでも
中央の3面は本尊・西方浄土須弥山となっている。
扁額「大唐西域壁画殿」は平山郁夫の筆である。 」
薬師寺大講堂 | 玄奘三蔵院 | 玄奘塔 |
大和郡山
大和郡山は、こじんまりとした城下町なので、半日あれば充分に回れる。
「 大和郡山は、平城京の南方に位置し、吉野街道や斑鳩の道や伊勢街道にも近く、
交通の要衝であった。 また、大和は興福寺や春日大社など、神社仏閣の勢力が強く、
彼らの荘園になっている土地が多いため、武士勢力が入りこめず、長い間、幕府から独立した
存在であった。 そうした地にくさびを打ち込んだのは松永久秀弾正であり、
それに対抗するため、宗教勢力が担いだのが筒井順慶である。
筒井順慶は、織田信長の援助を得て大和国守護となり、松永弾正の信貴山城に対抗するため、
最初、筒井城を築いたが、大和国唯一の城郭として郡山城の築城を開始する。
その後、豊臣秀吉の弟、秀長が入城し、郡山に城下町を作ったことから、奈良より商人も移住し、
大和で一番栄える城下町へ変身していった。
今も秀長ゆかりの寺院や史跡が残っている。 また、江戸以降に発達した金魚養殖の町でもある。 」
薬師寺からは近鉄に乗ればあっという間に、郡山駅に着く。
まず、郡山城跡に向う。 近鉄郡山駅で下車し、バスターミナル前を北上すると右側に三の丸会館があるが、この辺りはすでに大和郡山城の領域である。
「 大和郡山城は、天正八年(1580)に、筒井順慶が築城した城であったが、豊臣秀吉が天下統一を図る中、天正十三年(1585)、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長が郡山城主になり、
郡山城は、本格的に整備された。
本丸の他、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等、多くの曲輪が普請された。
このように大規模な城郭になったのは、豊臣秀長の居城としての目的の他、
羽柴秀吉のいる大坂城の防衛の城としても重要であったからと考えられている。
文禄四年(1595)には豊臣秀吉の五奉行の一人・増田長盛が入部し、
外周五十町十三間(約5.5q)の外堀普請を行った。
完成した城郭の形状は現在までその姿を良好に保っている。
関ヶ原の戦い後、大坂・京都に近い要衝として幕府に重視され、
水野、松平、本多といった譜代大名が相次いで城主を努める。
元和五年(1620)に、松平忠明が入城し、二ノ丸屋形の造営をはじめ、
伏見城の鉄門、一庵丸門、桜門、西門などが移築された。
享保九年(1724)、柳沢吉里が十五万石で入部すると、幕末まで柳沢家が城主を務め、
郡山は大和国の政治、経済、文化の中心地として繁栄した。
全国生産高シエア四十%を誇る金魚は、文亀二年(1502)に明国から輸入されたものだが、
郡山には享保九年(1724)甲斐国甲府から郡山に入封した柳沢吉里がもたらした、といわれる。
幕末には郡山藩下級武士の内職となり、明治維新後は農家も養殖するようになった。 」
三の丸会館は郡山城の三の丸の頬当門が建っていたところとされる。
三の丸会館の先の交叉点を渡ると右側の石垣前に「柳御門跡」の石碑が建っている。
柳御門は城の表玄関をなす門で、道の左側には三の丸緑地という公園がある。
石垣に登ると下に見える堀が三の丸を守る大手掘で、
大和郡山市役所の反対側の道には大手掘に架かる大手橋の欄干がある。
緑地の中を歩くと左手は蓮池跡で、車道に出ると左折して近鉄の踏切を渡る。
右にカーブする坂があり、右側の石垣の下に「鉄御門跡」の石碑が建っている。
柳御門跡 | 大手掘 | 鉄御門跡 |
江戸時代には鉄御門(くろがねごもん)をくぐると、二の丸であった。
「鉄御門跡」の石碑の先、松の坂に阿波野青畝の 「 十五万石の城下へ 花の坂 」 という句碑があある。
道の左側には奈良県立郡山高校の建物が続き、閉まった門の前に「表門跡」の石碑がある。
この一帯は松平忠明が整備した二の丸屋形跡である。
「 二の丸屋形は城主の居館と藩の政庁があり、巨大な御殿群を形成していたといわれ、 東側は藩庁の表向、西は藩主の私邸奥向きになっていた。 」
「表門跡」の石碑は郡山高校の表門がかってここにあったことを示すもので、
その右側に森口武男の「金魚とねこ」という童謡の詩碑がある。
表門跡を過ぎると左側に高校の正門があるが、右側には柳澤神社の鳥居が建っている。
鳥居をくぐると両側は城の内堀で、その先に「竹林橋跡」の石碑がある。
表門跡 | 柳澤神社の鳥居 | 竹林橋跡 |
そのまま直進すると、左側に柳澤神社の社務所、右側には「白澤門跡」の石碑がある。
石段の先に柳澤神社の社殿があるが、
ここには「祭神 旧川越城 甲府城主 柳澤美濃守吉保公」の石碑が建っている。
「 柳澤神社は、本丸跡に明治十三年に旧藩士により創建された神社で、 五代将軍綱吉の側用人、柳澤吉保が祭神である。 」
社殿の左側に、昭和天皇が詠まれた
「 天地の神にぞ祈る 朝なぎの海のごとくに 波立たぬ世を 」
の歌碑が建っている。
その先には小さな祠が祀られていて、そこを過ぎると天守台がある。
「 本丸の北端部にある天守台は、
平面形が上面で約16X18b、基底部で23X25bの南北に長い長方形で、高さは約8.5b。
南側に高さ約4.5bの付櫓台が取りつく複合式の形態である。
石垣は野面積みで、自然石の他に石仏や礎石、墓石などの転用材が多く用いられている。
天守に関する史料がほとんど存在しないため、実態は不明な点が多く、“幻の天守”ともいわれてきた。
石垣の解体修理の際実施した発掘調査で、礎石列や金箔瓦が出土し、
豊臣政権期に1階が7X8間規模の天守が建っていたことが判明した。 」
柳澤神社 | 昭和天皇歌碑 | 天守台石垣 |
天守台は標高八十二メートルで、展望がよく、若草山、春日原生林、東大寺、興福寺、薬師寺、
唐招提寺などの世界遺産、生駒山や葛城山などが遠望できる。
天守台を降り、裏側に行くと逆さ地蔵があった。
「 天守台を築く際、大和には石材が乏しかったため、墓石や石仏が使われた。
天守台北面石垣の築石として、石組の奥に逆さになったままの状態で
積み込まれているために、逆さ地蔵と呼ばれている。
仏身は約90センチで、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、大永三年(1523)癸末七月十八日の刻銘がある。
いつのころか信仰を集め、供養のために五輪塔や石灯篭が立てられ、
また、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。
天守が倒壊したのは逆さ地蔵の祟りといううわさもある。 」
柳澤神社の社務所まで戻り、公衆トイレの裏にある極楽橋を渡ると、柳沢文庫がある。
「 ここは毘沙門郭の跡で、柳沢文庫は、昭和三十五年に開設された資料館で、
柳沢家から引き継がれた史料や書物が展示されている。 」
天守台からの展望 | さかさ地蔵 | 柳沢文庫 |
柳澤神社の鳥居まで戻り、右折してすすむと右側に「中仕切門跡」の石碑があり、
道の反対、左側には「松陰門跡」の石碑があるが、江戸時代には、その左手に松陰郭があり、
その先に城への入口である南門があった。
「南御門跡」の石碑を過ぎ、堀の外にでると柳澤家の菩提寺・永慶寺がある。
「 永慶寺は黄檗宗の禅寺で、柳沢吉里が甲府から国替えの時、当地に移築したという。 山門は明治六年(1873)、郡山城が破却された時、城門を移築したものである。 」
中仕切門跡まで戻り、中に入っていくと左手は空地になっているが、ここは新宅郭の跡地である。
「 新宅郭は緑郭とも呼ばれていたが、本多忠平時代にはその名前があるので、 古くからあったと考えられている。 」
右側の樹木越しに、堀の先にある本丸の石垣が見えた。 しっかりした石垣である。
少し行くと「五拾間馬場跡」の石碑が建つが、このあたりだけ土地が堀側にせり出していた。
道の左側一帯は御厩郭跡である。
「 御厩郭はもともとは新宅曲輪だったが、 松平忠明時代に別の場所にあった厩を新宅郭の北半分に移し、厩二棟と馬場を設けた。 」
その先に大きなモチの木があり、道は右にカーブ。 その先に「馬場先門跡」の石碑がある。
江戸時代、新宅郭と厩郭の左手に松陰池があり、その左側に麒麟郭が建っていた。
「 麒麟郭はもとは西の丸と呼ばれていたが、柳沢氏以降に麒麟郭に改名された。
柳沢吉保が徳川綱吉から麒麟の書を与えられたことから、柳沢吉里が命名した、と言われている。」
中仕切門跡 | 永慶寺山門 | 馬場先門跡 |
カーブする道が終わると広場があるが、左側の緑地が「玄武郭跡」である。
「 玄武郭は、もとは納戸郭と呼ばれていたが、柳沢氏以降に玄武郭に改名された。 硝煙蔵が五棟建ち並び、西側には玄武門が建っていた。 」
玄武郭の先には明治の館という城址会館が建っているが、 これは奈良県立図書館だった建物で奈良市から移設されたものである。
「 この建物は、明治41年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内に建てられた 奈良県最初の県立図書館で、建設当初は奈良県立戦捷記念図書館と称していた。 設計は奈良県技師の橋本卯兵衛によるもので、昭和43年(1968)にここに移築された。 この建物は木造ニ階建て、入母屋造、千鳥破風付きの主棟と、その両側に平屋建て、 切妻造の翼部を配した左右対称の構成をとっている。 外観には奈良時代から鎌倉時代の建築意匠が多く採用され、 内部には胴張りをもつトスカナ式の柱などの西洋の意匠が使われ、 小屋内にはトラス構造により補強されている。 近代において復古的な意匠で設計された和風建築で、 木骨構造を基本としながらも、和風の外観と擬洋風の内装を施した建物である。 数少ない明治期の公共建築物として貴重なものである。 」
城址会館の前に、森川許六の 「 菜の花の 中に城あり 郡山 」 という句碑が建っていた。
城址会館の南には、小野十三郎の「ぼうせきの煙突」という詩碑がある。
玄武郭跡 | 明治の館・城址会館 | 小野十三郎の詩碑 |
城址会館の裏側に廻ると、右手にあるのが昭和五十九年(1984)に復元された追手東隅櫓である。
説明板「追手東隅櫓」
「 追手東隅櫓と名を変えたのは柳澤氏が入城後で、
それまでは法印斜曲輪巽角櫓(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)と呼ばれていた。
豊臣秀長が入城した天正十一年(1583)に筆頭家老で五万石を拝領していた桑山一奄法印良慶の屋敷が
この曲輪に構築されていたので、この曲輪を法印郭(曲輪)または一奄文と呼ぶようになった。
古絵城図によると、櫓は二重で、下重が二間五尺に三間二寸五分、上重が二間二尺に二間五尺。
郡山城の五つの櫓の中では一番小型に属する。 窓が五つ、石落としが二ヶ所、鉄砲狭間が六ヶ所設けられた。 」
追手東隅櫓の周囲を見てから、城址会館の前に戻ると小さな池があるが、
これは高台なのに水を切らさぬ池という。
近くに、山口誓子の句碑があり、
「 大和また 新たなる国 田を鋤けば 誓子 」
と刻まれていた。
右側にに「久護門跡」の石碑があり、梅が多く植えられている。
本丸入口の追手門は豊臣秀長時代に建てられたが、関ヶ原の戦い後、伏見城に移された。
「 元和四年(1618)、 松平下総守忠明が十二万石で郡山城主になった時、 家康の命令で、伏見城に移されていた諸門が郡山城に戻された。 その際に、追手門も戻された。 当時は一奄丸門と呼ばれていたが、柳澤良里により梅林門と名を変えられた。 明治維新により廃城となり、すべての建物が壊され、追手門も消滅した。 」
現在の追手門は昭和五十八年(1983)に復元されたものである。
追手東隅櫓 | 久護門跡 | 追手門 |
追手門を出て、城の水堀に沿って進み、鉄御門跡、踏切を渡って大通りに出た。 車道を横断して、その先の道に進み、突き当たりの三叉路を左に、 そして次の三叉路を右折すると新中町で、左側に春嶽院がある。
「 豊臣秀吉の弟で、郡山城城主だった羽柴秀長の菩提寺である。 秀長の位牌や画像、千手観音、足利尊氏の念持仏などを安置する。 」
最初の三叉路まで戻り、堺町の道を南下すると、交叉点があり、柳一丁目の標識があり、 正面に屋根に煙抜けのある古い家の本家菊屋がある。
「 和菓子の老舗で、御城之口餅は豊臣秀吉が名付けた四百年続く味である。
豊臣秀長が菊屋の祖、菊屋治兵衛に、兄の秀吉をもてなす茶会用の菓子に依頼があり、
粒餡を餅で包み、黄粉をまぶしたところ、秀吉はたいそう気に入り、
天正年代に「鶯餅」の御銘を頂戴した。 一説には、全国の鶯餅の原型といわれている。
その後、店をお城の大門を出て、町人街の入口にあることから、「御城之口餅」と呼ばれるように
なった。」
店頭でお茶と一緒にいただけるので、休憩を兼ねて、賞味した。
南に向って進み、次の交叉点を左折する紺屋町で、少し進んだ右側に箱本館「紺屋」がある。
「 かって、郡山に十三軒の紺屋があった。 ここで代々、藍染を継承してきた奥野家住宅を改装し、藍染と金魚に関する資料を展示している。 工房ではハンカチなどの藍染の体験ができる。 」
その先の交叉点を南下し、次の交叉点で右折し、西に向うと近鉄郡山駅である、
南下すると洞泉寺と「垢かき地蔵」がある。
「 豊臣秀長が、天正十三年(1585)に、三河にあった寺をここに移したと伝わる。
木造の阿弥陀三尊立像は、切金文様を置く鎌倉時代の作。
門の左手の小堂の祀られる、垢かき地蔵は、かって郡山城の沓脱石になっていたといわれるもので、
気品のあるふっくらとした顔立ちが美しい。
境内に残る湯槽石は、光明皇后が病人のために使ったとされ、内側四方に如来の梵字が彫られている。 」
内掘 | 春嶽院 | 本家菊屋 |
以上で郡山の歩きは終了である。
訪問日 平成28年(2016)6月16日