興福寺は、藤原氏の氏寺として創建された、法相宗の総本山である。
室町時代までは大和国を支配したが、度々火災に遭い、その都度、再建された。
神仏習合の時代には春日大社と一体となり、春日大社の神宮寺であったが、
明治の廃仏毀釈により、寺勢が衰えた。
前日、近鉄奈良駅近くのホテルに泊まったので、開館時間に合わせて、ホテルを出た。
東大路を東に向うと、左手に県庁があり、右側の細い道・北参道に入ると興福寺の境内である。
この一帯は国の名勝・奈良公園で鹿が沢山いる。
突き当たりにあるのは興福寺東金堂で、その奥にあるのは五重塔である。
「 興福寺は、藤原鎌足夫人の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇八年(669)、山背国山階(現京都市山科区)に創建された山階寺(やましなてら)が始めである。
天武天皇元年(672)に藤原京に移り、厩坂寺となる。
和銅三年(710)の平城京の遷都に伴い、鎌足の子・不比等がここに移し、興福寺と名付けた。
興福寺は、奈良時代に四大寺、平安時代には七大寺の一つとなり、
摂関家の藤原北家と関係が深かったことから厚く保護された。
平安時代には春日社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国の荘園のほとんどを領して、
事実上大和国の国主となった。
その勢力の力強さは、延暦寺とともに、南都北嶺と称された。
鎌倉時代から室町時代になっても豪族・僧兵を擁し、幕府は守護を置くことができず、
大和国は興福寺の支配下であり続けた。
その一方、興福寺は創建以来、度々火災に遭い、その都度、再建を繰り返した。
特に、治承四年(1180)の平重衡による南都焼き打ちの被害は甚大で、
東大寺と共に、大半の伽藍が焼失した。
従って、現存する建物はこの火災以降のものである。
また、仏像などの寺宝は鎌倉復興期のものが多い。 」
東金堂は、室町時代の応永二十二年(1415)に再建されたもので、国宝に指定されている。
「 興福寺の本堂である中本堂に対し、東にあることから、東金堂と呼ばれる。
神亀三年(726)に、聖武天皇が叔母の元正太上天皇の病気全快を願って造られた薬師如来坐像を
本尊とする。
創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来の浄瑠璃光世界がこの世にあらわされていた。
以来、五度の被災、再建を繰り返し、今の建物は応永二十二年(1415)に再建された。
平面は桁行七間、梁間四間、前一間を吹き放しとし、三手先斗きょう、寄棟造、屋根は一重、
本瓦葺で、奈良時代の雰囲気を伝える。
堂内には、本尊の薬師如来坐像を中央に、
左右に、国宝の維摩居士坐像(ゆいまこじざぞう)と文殊菩薩坐像を祀る。
本尊の薬師如来は、浄瑠璃光世界の教主で、人々の災いや苦を除き、
病を治し、寿命を伸ばし、薬を与え、正しい道を教える。
室町時代の制作で、高さ255cmの銅製坐像で、国の重要文化財である。
維摩居士坐像は、88cmの檜の寄木造りで、仏師定慶が彫り、
法橋幸円が彩色を施した。
文殊菩薩坐像は、94cmの檜材、寄木造で、こちらも仏師定慶の作とされていて、
鎌倉時代のものである。
その両側にあるのが国の重要文化財・月光菩薩と日光菩薩である。
薬師如来の浄瑠璃光世界を補佐する二菩薩で、七世紀末の白鳳時代に、
飛鳥の山田寺に安置するために造られた、銅製鍍金の像で、十二世紀末にここに移された。
日光菩薩は約3m、月光菩薩は3m弱の高さである。
お堂の中の外側で上記を守護しているのが、国宝・木造十二神像立像で、
鎌倉時代の天部彫刻の代表作である。
その外にあるのは、持国天、多聞天、増長天、広目天の木造四天王立像で、桧一本造で、
平安時代の作で、国宝である。
もちろん、撮影は禁止である。 」
そとに出て、五重塔を眺める。
「 興福寺は、春日社との神仏習合であったが、明治の神仏分離令により、
大きな打撃を受けた。 僧は春日社の神職となり、一乗院と大乗院の門主は還俗した。
境の塀は壊され、樹木が植えられ、奈良公園の一部となり、廃寺同然となった。
一乗院跡は奈良地方裁判所、大乗院跡は春日ホテルになっている。
東金堂と五重塔は売却を免れて、今日までのこる。
天平二年(730)に光明皇后の発願により創建、現存の塔は六代目、
室町時代の応永二十二年(1415)に再建されたもので、国宝に指定されている。
塔の高さは50.1mで、日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高いものである。 」
五重塔を南に進むとあるのが南円堂である。
「 弘仁四年(813)、藤原北家の藤原冬嗣が、父の追善のため、創建した八角堂で、
現在の建物は四代目、寛政元年(1789)の再建で、屋根一重、本瓦葺、八角円堂、
正面に拝所を附属する。 西国三十三所第9番札所である。
本尊は文治五年(1189)に運慶の父・康慶一門により制作された、不空羅索観音坐像で、国宝である。 その他、国宝の木造四天王立像や国宝の木造法相六祖坐像が祀られているが、
開扉は10月17日の大般若経転読会の日のみである。 」
南円堂の西側に盛りあがっている土地があるが、これが西金堂跡で、礎石が残っている。
「 西金堂は、光明皇后が、母橘三千代の一周忌に釈迦三尊像を安置する堂として、天平六年(734)に建立したが、平安時代に二回、鎌倉時代一回被災、その都度再建されてきたが、江戸時代享保二年(1717)の講堂からの出火により、中金堂、南円堂と共に焼失。 基盤を残すのみとなった。 」
道の向うに見えるのは興福寺の本堂である、中金堂である。
「 藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するために平城遷都の和銅三年(710)に
造営が始められ、寺の中心的なお堂であった。
創建以来度々創建され、文政二年(1819)に再建されたが、従来のお堂より小さく仮本堂であった。
現在の建物は、平成二十二年から八年かけて、平成三十年(2018)に落慶した九代目である。
本尊は文化八年(1811)に、仏師・赤尾右京により造られた約284cmの釈迦如来坐像である。
その脇にあるのが木造薬王菩薩。 元は西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として、
鎌倉時代建仁二年(1202)に造立したもので、国の重要文化財。
木造四天王像は鎌倉時代の作で国宝、当初の安置場所や作者は不明。
南円堂に安置されていたが、康慶作の四天王像と入れ替わる形で、平成二十九年に中金堂に移された。 」
中金堂の西手にあるのは北円堂である。
「 藤原不比等の一周忌に際し、養老五年(721)に、女帝・元明上皇、元正天皇が
長屋王に命じて、創建された八角円堂で、現在の建物は承元四年(1210)の再建で、
興福寺に現存する最古の建物である。
法隆寺夢殿と同じ、八角円堂で、屋根を一重、本瓦葺である。
堂内には本尊の木造弥勒菩薩坐像が祀られている。
建暦二年(1212)に運慶が一門の仏師を率いて完成させたもので、国宝である。
脇侍の木造法苑林菩薩と大妙相菩薩の半跏像は室町時代のもの。
木心乾漆四天王像は堂内の他の仏像より古く、平安時代初期のもので、国宝に指定されている。
弘安八年(1285)の修理銘に「本来は大安寺のもので、延暦十年(791)に造立された。」 とある。 」
開館時間になったので、国宝館に向う。
国宝館は東金堂の左手奥にあり、その間の料金所で支払い、中に入った。
国宝館は興福寺の食堂跡地に建てられた。
館内撮影禁止である。
以前東京国立博物館で見た阿修羅像がある。 ここで見ると小さいなあと思った。
「 阿修羅像は乾漆八部衆立像の一体で、
乾漆八部衆立像は、元は西金堂の本尊、釈迦如来像の周囲に安置されていた、という。
乾漆十大弟子立像六体も同じで、
西金堂の本尊、釈迦如来像の周囲に安置されていたとある。 両方とも奈良時代の作で、国宝である。
廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部が残され、木造頭部は国の重要文化財に指定されている。
木造金剛力士立像も、もと西金堂に安置されていたもので、鎌倉時代の作で、国宝である。
木造天燈鬼・龍燈鬼立像も、もと西金堂に安置されていたもので、国宝である。
鎌倉時代の建保三年(1215)、運慶の子・康弁の作で、架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した
鎌倉期彫刻の傑作である。
木造千手観音立像は、もと食堂の本尊で、国宝館の中央に安置されていて、国宝である。
高さ5.2mの巨像で、鎌倉時代、寛喜元年(1229)頃の完成と推定されている。 」
いずれもすばらしく、神妙な気持で見て回った。
興福寺が持つ国宝は二十七件、重要文化財は五十件にもある古刹であった。
(訪問日) 令和三年(2021)4月15日