奈良を歩く 「 春日大社 」






春日大社の一の鳥居は奈良ホテルがある荒池の北側にあり、 ここから社殿まで約千三百メートルの参道が続く。
一の鳥居は江戸時代の建立で、国の重要文化財に指定されている。
参道を進むと、左側に神苑があり、 万葉集で詠まれている植物約三百種が植えられている庭園である。
広い参道が続き、参道の両側にはおびただしい燈籠が建ち並び、総数約二千六百基といわれる。 
二の鳥居を過ぎると春日大社の南門と南回廊に到着した。  

「 南門は、永徳二年〜至徳二年(1382〜1385)の建立で、 南回廊は慶長年間(1596〜1615)の創建で、いづれも国の重要文化財である。 」

燈籠群      二の鳥居      南門
燈籠群
二の鳥居
南門と南回廊



その東側にあるのは、中門と東御廊である。 

「 春日大社は、和銅三年(710)に、藤原不比等が、藤原氏の氏神、鹿島神( 武みかづき命)を常陸国鹿島から勧請したのが始まりとの説があるが、 神社は奈良時代の神護景雲二年(768)に、称徳天皇の勅命により、 武みかづき命、経津主命、天児屋根命、比売神の社殿が造営されたのをもって、 春日社の創祀と、している。 
春日神が鹿に乗って影向したという伝説から、鹿は神鹿として大切にされてきた。 
延喜式神名帳では名神大社に列し、平安時代前期には現在の規模の社殿が整った。 
藤原氏との関係から興福寺との関係が深く、 弘仁四年(813)には、藤原冬嗣が建てた興福寺南円堂の本尊・不空羂索観音が、 武みかづき命の本地仏とされ、 神仏習合が進むにつれ、春日社と興福寺が一体のものになっていった。 
十一世紀末から、興福寺衆徒らによろ強訴がたびたび行われたが、 その際、春日社の神霊を移した榊(ご神木)を奉じて上洛することが行われた。 
中門は慶長十八年(1613)の創建された楼門で、正面にある唐破風は明治時代に取りつけられたもので、国の重要文化財である。 また、東御廊と西御廊、北御廊も慶長十八年(1613)の創建されたもので、国の重要文化財に指定されている。 」

春日大社
春日大社中門・東御廊



各御廊や各回廊には奉納された約千基にも及ぶ釣燈籠が並ぶ。 
二月と八月に行われる万燈籠の際には、これも奉納された約二千基の石灯籠も合わせて、 全ての灯籠に明りが灯される。 
多くの釣燈籠の中から直江兼続が奉納した燈籠を見付けた。
火袋の左面に「慶長五年庚子極月吉日 越後国直江山城守息女敬白」と刻まれていた。 

説明板「直江兼続奉納釣灯籠」
「 兜の前立に「愛」の一字を掲げ、戦国時代を生き抜いた直江兼続は、 最強と謳われた上杉家二代景勝の重臣筆頭で、一時は米沢城(山形県)6万石を知行するなど、 大名の家臣でありながら大名を凌ぐ高名な武将であった。 
本灯籠は、火袋の銘文から、関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600)に、 直江兼続の娘である於松から奉納されたことが解る。  しかし、於松は当時10代半ばで、 元神主家の記録に「直江山城守殿様灯籠」の記述があることから、 関ヶ原の戦いで東軍が勝利したことにより、西軍(豊臣側)に属して敗北した主家の安泰を願い、 徳川家に遠慮して兼続本人の名を伏せて奉納されたことが覗われる。 」

その左にあるのは、宇喜多秀家の寄進灯籠である。 

説明板「宇喜多秀家奉納釣灯籠」
「 宇喜多秀家は、黒田官兵衛と同じ、播磨国(兵庫県)に縁のある戦国武将で、 豊臣秀吉の一字を与えられて秀家を名乗り、 さらに秀吉の養女になった前田利家の娘を妻に迎えるなど、最も厚い信頼を受けた近臣。  備前・美作・備中50万石の領主となり、慶長三年(1598)、五大老の一人に任じられた。 
灯籠はこの年に奉納されており、残念ながら月日は欠くが、銘文に「武運長久」に加え、 「為国家安全」とあるのは、国の大老としての気概を持った祈りではないかと思われる。  この年の八月には秀吉が死去、その後の関ヶ原の合戦では、 西軍の中心となって戦って敗北するものの、 後に赦免され天寿をまっとうした。 」

釣燈籠群      直江兼続奉納釣灯籠      宇喜多秀家奉納釣灯籠
釣燈籠群
直江兼続奉納釣灯籠
宇喜多秀家奉納釣灯籠



更に、藤堂高虎の奉納した将軍家と大御所の繁栄を祈願した一対の釣燈籠がある。 

左側の火袋扉金具に「春日社 奉寄進 
将軍様為御祈祷也
藤堂和泉守
慶長十二年乙酉二月吉日 敬白 」 と銘文が刻まれている。 

説明板「藤堂高虎奉納釣灯籠」
「 宇和島城(愛媛県)・篠山城(兵庫県)・伊賀上野城(三重県)などを築城した藤堂高虎は、 近江国(滋賀県)の出身の武将で、築城の名手と称えられている。  高虎は浅井氏、織田氏に仕えた後、豊臣秀吉に仕えるが、 関ヶ原の戦いでは徳川家康配下として活躍、 豊臣家ゆかり外様大名にもかかわらず家康の信任篤く、 慶長13年(1609)伊賀伊勢に22万石の所領を得て、津城に入った。  本灯籠は、慶長14年2月に将軍秀忠の繁栄を祈念し奉納されたもので、 家康の繁栄を祈る灯籠と対をなす。 
藤堂家は春日社を氏神としており、 歴代の藩主からは50基以上の灯籠が寄進される他、 春日若宮社のおん祭に毎年警護の槍56本を奉仕するなど、春日社との縁は深い。 」

その隣にある釣灯籠には、
「春日社 奉寄進  大御所様為御祈祷也  藤堂和泉守  慶長十二年乙酉二月吉日 敬白 」 
と銘文が刻まれていて、 徳川家康の繁栄を祈る灯籠である。 

また、五代将軍、徳川綱吉が館林藩主時代に奉納した寄進灯籠もあった。

説明板「徳川綱吉寄進灯籠」
「 徳川綱吉は三代将軍家光の子で、母は桂昌院。  綱吉は寛文元年(1661)、15歳で上野国(群馬県)館林藩25万石に封ぜられた。  延宝八年(1680)、四代将軍家綱の死去により、五代将軍となった。  綱吉の治世は藩政がよくない諸大名を処分するなど賞罰厳明であることから、 「天和の治」と称えられ、また「生類憐みの令」でも知られる。
本灯籠は寛文七年(1667)館林藩主時代に奉納されたもので、 連名の「室」とは、左大臣鷹司教平の娘で、正室の信子のこと。  右記の銘文の他、徳川家と鷹司家の家紋「三葉葵」・「牡丹」を配している。
右記の銘文
「 春日社 奉寄進   諸願成就祈所
 寛文七年丁未十一月吉日
 館林宰相正三位   源 綱吉 卿  
               室  」

藤堂高虎将軍家繁栄灯籠      藤堂高虎大御所繁栄灯籠      徳川綱吉寄進灯籠
藤堂高虎将軍家繁栄灯籠
藤堂高虎大御所繁栄灯籠
徳川綱吉寄進灯籠



南門の前には周囲が囲まれた中に石がある。 

説明板には
「 この石は、太古の昔、神様のよりしろとして祀られた「磐座(いわくら)」、 或いは赤童子(春日若宮御祭神)が、このところより現れたといわれる「出現石」、 また宝亀三年(772)の雷火で落下した社額を埋納したと伝えられる「額塚」等、 諸説のある神石です。 」
とあった。 かって、南門には神額「鹿嶋大明神」が掲げられていたが、 落雷で砕けてここに落ち、それを埋めた場所とされ、額塚と呼ばれていた。

春日大社には拝殿がなく、一般の参拝者は幣殿の前で、 初穂料を納めた拝観者は本殿前の中門から参拝する。
本殿には壮麗な春日造りの四棟が並んで建っていて、すべてが国宝に指定されている。 
神さまが祀られているので、撮影はできないが、国宝館に写真があったので、 その様子は確認できる。 

「 第一殿 − 祭神:武みか槌命 文久三年(1863)の建立。
 第二殿 − 祭神:経津主命 文久三年(1863)の建立。
 第三殿 − 祭神:天児屋根命 文久三年(1863)の建立。
 第四殿 − 祭神:比売神 文久三年(1863)の建立。 」

手力雄・飛來天神社遙拝所の案内板があり、 「御本殿の近くにお鎮めになる手力雄飛來天神社はこちらからお参りください。」 とある。

手力雄・飛來天神社遙拝所
「 手力雄神社
  御祭神 天手力雄神様
  御例祭 四月一日
  御神徳 勇気と力の神様
 飛來天神社
  御祭神 天御中主神様
  御例祭 四月一日
  御神徳 空の旅の安全を守る神様  」

額塚      本殿      遙拝所
額塚
本殿
手力雄・飛來天神社遙拝所



「御蓋山浮雲峰遙拝所→」の立て看板がある。 

「 春日大社は、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、神護景雲二年(767)、 御蓋山(みかさやま)の中腹のこの地に社殿を造営し、 四柱の神々様を併せお祀り申しあげたのがはじまりである。  春日皇大神(かすがすめおおかみ)、春日大明神と尊称され、崇敬を集めてまいりました。 」

回廊を歩くと古そうな樹木や小さな社などがあり、振り返ると中門が見えた。
「廻廊東北角の築地」と書かれた説明板があった。

説明板
「 春日大社の大宮は、東・西・南・北廻廊に囲まれているが、 この東北角だけが板葺きの築地塀になっている。  正倉院御物の「東大寺山堺四至図」にあるように、 古代春日大社の大宮は四囲を築地塀で囲まれていたが、 平安時代の治承三年(1179)に築地塀は現在のような廻廊に改築された。  ただ御本殿から見て東北(丑寅)の方角にあるこの部分は、鬼門にあたるため、 廻廊への改築を免れたと伝えられいる。  尚、この築地塀は御本殿に属するもので、御蓋山浮雲峰遙拝所は御本殿から東南東となり、 鬼門とは関連しない。 」

遙拝所看板      廻廊を歩く      築地塀
御蓋山浮雲峰遙拝所案内板
廻廊を歩く
廻廊東北角の築地塀



その先に赤い鳥居があり、御蓋山浮雲峰遙拝所があった。 

説明板「御蓋山浮雲峰遙拝所」
「 奈良時代の初めの平城京守護のため、武みか槌命様が白鹿の背にお乗りになり、 天降られた神蹟、御蓋山の頂上浮雲峰の遙拝所。 
神護景雲二年(767)に、御本殿が創建される以前に、 鹿嶋・香取・牧岡の神々様が御鎮まりになる神奈備として崇められ、 現在も禁足地として入山が厳しく制限されている。 
  この遙拝所は、浮雲峰から春日大社の御本殿を通り、 平城京大極殿まで続く神々様のお力が伝わる尾根線上にある。  この尊い尾根線上から浮雲峰を遙拝ください。 」

樹齢千年ともいわれる大杉は、樹高23m、幹周7.94mである。 
鎌倉時代後期(1309)に描かれた絵巻物「春日権現験記」にその姿が描かれている。
根元から西方に、直会殿(なおらいでん)の屋根を通して伸びる樹は、イブキ(ビャクシン)である。 
その先の朱色の建物に上る廊下は捩廊(ねじろう)と呼ばれるもので、 治承三年(1179)の創建で、国の重要文化財に指定されている。 

説明板
「 春日祭に奉仕する斎女や内侍が昇殿するための登り廊で、 江戸時代に飛騨の名工、左甚五郎が、現在のように斜めに捩じれたものに改造した、 と伝えられている。 」

遙拝所      本社大杉      捩廊(ねじろう)
御蓋山浮雲峰遙拝所
本社大杉
捩廊(ねじろう)



国の重要文化財に指定されている宝庫は大同二年(807)の創建と伝わる。

説明板
「 古くは「宝蔵(ほうぞう)」あるいは「神庫」とも呼ばれ、本殿に次ぐ重要な建物である。  殿内には春日祭などの御神宝を納め、かってはやくし(鍵)は官に保管されるという厳重さであった。 」

その先に重要文化財「藤浪之屋」がある。 

「 春日大社は燈籠が沢山あることで有名で、 平安時代から現在まで奉納された燈籠は、およそ三千基にのぼります。  春日の燈籠は数が多いだけではなく、歴史的な資料としても重要で、 現存する室町時代以前の燈籠の六割以上が当社にあるといわれています。 
二月の節分、八月十四・十五日の年三回、すべての燈籠に浄火を灯す、 春日萬燈籠が行われています。  この萬燈籠神事を感じていただこうと、江戸時代まで神職の詰所であった、 重要文化財の藤浪之屋を開放しました。  由緒ある建物の中で萬燈籠の幽玄の美を感じてください。 」

中に入ると、真暗闇で、その中に無数の燈籠に明りが灯され、幽玄の美を醸していた。

宝庫      藤浪之屋      萬燈籠再現
宝庫
藤浪之屋
萬燈籠再現



外に出ると多賀神社があった。

「 御祭神: いざなぎのみこと
 御祭日: 四月二十二日
 御神徳: 生き物・生命の根源を司る神様で、延命長寿の信仰が篤い。 
   また、東大寺の中興の祖・重源上人は多賀様の御神助によって、
   平家の焼き討ちによって焼失した大仏殿を復興できた故事により
   仕事の完遂をお導きになる神様としても信仰されている。 」

最後に廻廊をあらためて眺める。

説明板「重要文化財 廻廊 五棟」 治承三年(1179)創建
「 連子窓(れんじまど)で中央を仕切り、それを中心に左右の屋根裏に各々棟をつくり、 更に大棟をつくる複廊形式の三棟造で、同種の遺構はほとんどなく貴重なものである。 」

最後に着到殿を写したが、半分しか画面に入らなかったはお愛嬌。 

説明板「重要文化財 着到殿(ちゃくとうでん) 一棟」 延喜十六年(916)創建
「 春日祭の折に勅使(天皇のお使い)が着到の儀式を行うところで、 天皇行幸の際には行在所(あんざいしょ)としても使われた。  南(参道)側が正面であるが、東側を入母屋の葺き下しとし、そこから出入りしている。 」

多賀神社      廻廊      着到殿
多賀神社
廻廊
着到殿



以上で、春日大社のお参りは終了である。 


(訪問日)  平成29年(2017)1月14日



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かうんたぁ。