草津宿は江戸方の横町道標から始まり、草津追分を経て京方の立木神社の南、
二百メートルにある黒門までといわれた。
橋を渡ると土手の右側に地蔵堂、下に降りる道の左側に常夜燈がある
ここは草津宿の江戸方入口で、以前は道の北側にあったが、河川の改修時に
この位置に移されたようである。
左側にある常夜燈は「横町道標」と呼ばれ、道標を兼ねていた。
* 常夜燈には、 「 左 東海道いせ道 」 「 右 金勝寺志がらき道 」
という刻印があり、高さは火袋を含めて四メートルもある常夜燈である。
日野の豪商中井氏の寄進により、文化十三年(1816)に建てられたこの石造道標は草津宿に出入りする人を明るく照らし、
旅人の道先案内に大きな役割を果たしていた。
土手を下って行くと、両脇に民家が建ち並んでごちゃごちゃしている。
一部に古い家と思われる漆喰壁の家もあり、
宿場の雰囲気はわずかながら残っている。
突き当ったT字路の右側に草津川をくぐるトンネルがある。
* ・説明板「草津川ずい道(トンネル)の由来
「 草津川トンネルは草津川が天井川であったことから、出水に悩み、
また通行のも不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り川越のルートから、
草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画し、ときの大路村戸長長谷庄五郎は明治十七年(1884)八月二十四日付で、草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事)
中井弘あてに提出した。
これが容れられて、明治十八年十二月四日総工事費7368円14銭9厘を以って、着工された。
翌明治十九年三月二十日の突貫工事で完成した。
構造はアーチ式煉瓦両側石積みで、長さ43,6米、幅4、5米のずい道が造られた。
同年三月二十二日より、旅人通行の事、東は三月二十五日より、場所荷車は四月五日より、
従来左方斜めに堤防をのぼって、川を渡り大路井村側で右方へ下った。
中仙道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった。
(以下省略) 」
突きあたりには高札場が復元されていて、三枚の高札が掲示されていた。
その手前の小高い所に、「 右東海道いせみち 」 「 左中仙道みのぢ 」 と刻まれた、
石造の常夜燈が建っていて、石製の説明板があった。
ここは「草津追分」で、江戸時代の中山道はここで東海道に合流していたので、
ここから京三条大橋までは同じ道を歩くことになる。
説明板「市文化財 道標」昭和四十四年十月十五日指定
「 ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。
トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、右に曲れば東海道伊勢路に行けた。 しかし、この地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、
高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。
多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、文化十三年(1816) 江戸大阪をはじめ
、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、高さは一丈四尺(四・四五メートル)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、火袋以上はたびたびの風害によって、
取り替えられたが宿場の名残りの少ない中にあって、常夜燈だけは今もかっての草津宿の
名残りをとどめている。
草津市教育委員会 」
このあたりは草津二丁目で、道角の草津公民館は脇本陣大黒屋弥助だったところである。
* 草津宿は東海道と中山道が合流する宿場だったので、それだけ規模も大きく、十一町五十三間半(約1.3km)の長さに家の数が五百八十六軒、宿内人口は二千三百五十一名、本陣が二軒、脇本陣二軒、 旅籠は七十二軒 (最盛期はもっと多くあった) もあり、大変な賑わいを見せていた。
追分からすぐのところに、本陣の一つ、 「田中七左衛門本陣」が、当時の姿をほぼとどめたまま公開されている。
説明板「国指定史跡 草津宿本陣」
「 草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として、
草津に設置された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、
その機能を果たしてきました。
史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延
四千七百二十六平方メートルにのぼる敷地内には、
かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札、大福帳、調度品ほか、
貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。
この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、
急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、
建て直されたものであると伝えられてきました。
しかしながら、現存する本陣の平面形態が、
本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、
現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、
弘化三年から文久三年頃(1846〜1863)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。
敷地内には、正面、向かって左手に、表門、式台、主客の宿泊に当てられた上段の間、
家臣用の座敷広間、御膳所、湯殿等を配し、通り土間を境にして、右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居間と台所を設けています。
また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、
兼務であった材木商の業務に使った物入れや土蔵、避難口として使った御除ヶ門などの建築物
が今なお残され、敷地周囲は高塀、藪、堀により区画されています。 」
草津宿本陣の敷地は千三百坪もある広大なもので、建坪は四百六十八坪、部屋数は三十余もあり、現存する本陣の中では最大級である。
田中家が個人でこの古い由緒ある建物を守ってきたが、草津宿本陣として一般公開している(月曜日・年末年始は休み、200円)
立派な構えの門をくぐると、現存する本陣としては最大級といわれるだけあって、
内部は広く、上段の間や湯殿、各種の広間など、一通り見るだけでもかなりの時間を要する。
玄関広間には関札が並べられていた。
「関札」とは、大名、公卿、幕府役人が本陣などに泊まる際、持参した札で、
使用目的により、宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)を関札で示した。
玄関の先に座敷広間、台子の間、そして殿様の上段の間があった。
* その奥に庭園があり、お殿様用の湯殿は離れになっていた。
上段の間の反対に(向き合って)、向上段の間があり、 玄関に向かって、上段相の間、東の間、配膳所、台所土間と続いていた。
真ん中は畳敷きの通路であるが、
人数が多いときにはそこに泊まるとあったのはおもしろかった。
本陣職を務めた田中家の住宅部分は六畳以下が大部分とはいえ、九部屋以上もあり驚いた。
裏には厩(うまや)もあり、本陣はすごい施設と思った。
展示されている宿帳には、 「 慶応元年五月九日、土方歳三、斉藤一、伊藤甲子太郎、など三十二名が宿泊した 」 と記載されていた。
ここからの通りは商店街となり、当時の面影は感じられない。
* 江戸時代にはその先の左側に脇本陣の「藤屋与左衛門」と「仙台屋茂八」があった。
仙台屋茂八脇本陣は、白い建物の「脇本陣」という名の草津市観光物産館に変身し、
草津宿のお土産屋兼レストランになっていた。
中に入ると
いろいろなおみやげがある中で、小さな奇妙な形をした御菓子を見付けた。
姥が餅(うばがもち)という乳房をかたどった小さなあんころ餅で、当宿の名物だったようである。
* 織田信長に滅ぼされた佐々木義賢の忘れ形見の幼子(曾孫)を乳母が、 あんころ餅を売って育てた、という故事のある菓子である。< /p>
中神病院は三度飛脚取次所跡である。
そのさきの民家前には柱に「柏谷十右衛門脇本陣跡」の看板があった。
* 看板の記載文書
「 脇本陣跡 柏谷十右衛門家
宝暦年間(1704〜1711)ころから本陣代わりに使用された旅籠屋 」
その先はアーケードのある本西商店街で、左側に街道交流館がある。
右側の常善寺は承平七年(735)、良弁上人の開基の寺院で、
本尊の阿弥陀如来像は鎌倉期のもので国の重要文化財に指定されている。
田中九蔵本陣は十軒位に分割されたといわれ、その先の食事処がその一軒のようである。
アーケードの終わりにある「太田酒造」がある。
* 太田酒造は戦国時代の関東の英傑、太田道灌の末裔が江戸時代から営む造り酒屋である。
草津宿の問屋場職を兼ね、草津政所と呼ばれていた旧家で、
「道灌」という酒樽が店の前に置かれていた。
道の反対側の道の前に「問屋場 貫目改所」の看板があった。
* 看板の文字
「 問屋場 貫目改所 」
問屋場は草津宿の政務を司る役所、享和三年(1803)当時、24人の宿役人が交替で詰め、
平時は8人の体制で勤務していた。
貫目改所は、全国で五ヶ所設置されたもので、草津宿ではこの問屋場に併設されていた。
安政五年(1858)には、この向かいにも問屋が記されている。
少し先の「旅館 野村屋」 の看板を掲げた家は幕末から営業している元旅籠である.
草津3丁目交差点の先にある伯母川(志津川)には江戸時代、「宮川土橋」が架かっていたという。
橋を渡った右側の「立木神社」は旧草津宿と旧矢倉村の氏神だった。
神社に鎮座するのは狛犬が普通だがここでは獅子の狛犬の他、神鹿が祀られていた。
草津宿の京側の入口は立木神社の先に黒門があったとされるが、その跡は確認できなかった。
「 立木神社の創建は神景雲護景雲元年(767)と伝えられる古社で、
その名前は常陸鹿島明神からこの地に一本の柿の木を植えたことに由来する。
延宝八年(1680)十一月の草津宿最古の追分道標がここに移築されている。 」
ここで草津宿は終わる。
草津宿の京側入口にある立木神社を出発して二百メートル先には草津川があり、矢倉橋が架かっていた。
* この川は旧草津川沿線の洪水を防ぐために、 平成十四年(2002)から平成十九年(2007)七月にかけて、新たに開削された新草津川である。
橋を渡ると左奥に「光伝寺」がある。
* 光伝寺は承平年間(931〜938)の創建と伝わる寺で、応仁の乱により消失したが、 明暦年間(1655〜1658)に再興された。
ここは江戸時代は矢倉村だったところで、古るそうな家がある。
信号交叉点の手前右側の「天井川」と書かれた酒の看板があるのは(古川酒造」で、ショウルームには杉球が吊るされ、酒徳利が置かれていた。
百メートル行くと交差点の右側に瓢箪(ひょうたん)を扱っている「瓢泉堂」がある。
「 矢倉の瓢箪は今から二百五十年ほど前から作られたといわれるが、現在はこの店だけである。
この場所には明治時代に同じ矢倉の地から移ってきたという。 」
店の角に 「 右やはせ道 これより廿五丁 」 と刻まれた「矢橋(やばせ)道標」が建っている。
*
江戸時代には 「 瀬田へ廻ろか、矢橋へ下ろか 此処が思案のうばがもち 」
と言い囃された姥ヶ餅屋があったところで、東海道と矢橋道との追分である。
「矢橋道標」は姥が餅屋(うばがもちや)の軒下に寛政十年(1798)に建てられたもので、
東海道を往来する旅人を「矢橋の渡し」に導くために建てられた。
矢橋道を歩いて行くと、矢橋港に浮世絵の看板があり、 帆架け船と旅姿の女性群が描かれている。
「 矢橋道は矢橋港の渡し場への道で、
矢橋港から大津行きの大丸子船(百石船)が出ていた。
陸路の瀬田の大橋経由で大津宿は三里(12キロ)なのに対し、
矢橋港からの渡船では湖上五十町(5.5キロほど)と短く、
時間短縮と疲労防止ができたので、浮世絵の百石船のように多くの旅人や商人が利用したという。
江戸時代の旅人はここの「姥が餅屋」で、茶を飲みながら、舟にするか、大津まで歩くかを思案したことだろう。
与謝蕪村はここで 「 東風吹くや 春萌え出でし 姥が里 」 という句を残している。
矢倉集落を過ぎると国道1号線の矢倉南交差点に出る。
対面の標識に「旧東海道」の案内表示があるので、
それに従って国道を斜めに渡ると野路集落に入る。
* 野路は、東山道の宿駅の野路駅舎として、 源頼朝など武将達が往来したところで宇治への分岐点だったが、 東海道が開設され、草津宿ができると野路の存在は低下していった。
道を渡った反対側の小さな上北池公園に「野路一里塚」の石碑がある。
石碑の文章
「 野路の一里塚はこれより北西三十メートルと道を挟んだ約北東二十米の所の二ヶ所にあった。
明治十四年、国有地払い下げられ、消滅するにいたった。
ここに野路一里塚の旧記を証するため、この石碑を建立。 」
東海道は、国道の一本東の狭い道に入る。
国道と平行していて、道の左側には「浄土宗 本誓山教善寺」の石柱があり、石段の右側には
鐘楼がある。
その前に「草津歴史街道 東海道」の説明板がある。
説明板
「 東海道は、中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中を加えた五街道の中でも、
江戸と京を結ぶ江戸時代随一の幹線路であった。
その里程は、江戸日本橋から相模小田原を経由、箱根の関・大井川を越え、
遠州灘沿いに西進し、伊勢桑名宿を経て、鈴鹿峠から近江に至り、土山・水口・石部・草津の
各宿を経由、勢田橋を渡り、大津宿を経て、京三条大橋に至るもので、東海道五十三次と
称された。
草津では、小枯から大路井に入ると、すぐ砂川(草津川)を渡り、11町53間半(約1.3km)
の草津宿を経て、矢倉・野路・南笠を通過し、勢田に至った。
草津宿には、本陣・脇本陣などが設けられ、常善寺・立木大明神をはじめ、
500軒以上の民家があった。
また、矢倉には光伝寺・姥ヶ餅屋・矢倉道標・野路には一里塚・教善寺・新宮大明神(新宮神社)・野路の玉川跡などの社寺名勝が在り、矢倉野路間、野路南笠間の街道沿いには
松並木が続いていた。
草津市教育委員会 」
少し先の右側の遠藤家という民家の中に錦鯉が泳いている池の奥に五輪塔の「清宗塚」がある。
説明板「清宗塚」
「 文治元年(1185)に源平最後の合戦に源義経は壇ノ浦にて平家を破り、
安徳天皇(八歳)は入水。
平家の総大将宗盛、長男清宗等は捕虜とし、遠く源頼朝のもとに連れて行くが、
頼朝は弟義経の行動を心よしとせず、鎌倉には入れず追い返す。
仕方なく京都に上る途中、野洲篠原にて宗盛郷の首をはね、本地に於いて清宗の首をはねる。
清宗は父宗盛(三十九歳)が潔く斬首されたと知り、西方浄土に向い静かに手を合わせ、
堀弥太郎景光の一刀にて首を落される。 同年6月二十一日の事、清宗時に十七歳であった。
首は京都六条河原に晒される。
(以下省略) 」
説明板「平清宗」
「 平安後期の公卿、平宗盛の長男、母は兵部大輔平時宗の娘、後白河上皇の寵愛をうけ、
三才で元服して寿永二年には正三位侍従右衛門督であった。
源平の合戦により、一門と都落ち、文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで、
父宗盛とともに生虜となる。
「吾妻鏡」に、「至野路口以堀弥太郎景光。 ○前右金吾清宗」とあり、
当家では代々胴塚として保存供養しているものである。
遠藤権兵衛家 当主 遠藤勉 」
遠藤家はこの塚を数世紀に亘り守ってきたわけで、
遠藤家の歴史の長さと行為に感心した。
このあたりは野路集落の中心であるが道が狭い。
願林寺の裏には「八幡神社跡」の記念碑があり、 「 京都の石清水八幡宮に近い歴史があった。 」 とある。
その先に「新宮神社」と「都久夫須麻神社」の石柱と鳥居が建っていた。
少し先の信号のない交差点で、東海道は車に注意しながら大きな道(県道43号線)を渡る。
その先の右側のフェンスに囲まれているのは「野路の玉川」である。
* 野路の玉川は、十禅寺川の伏流水が湧き水になり、一面に咲く萩と共に近江の名水、名勝として有名だった。
しかし、東山道の野路宿駅の衰退とともに野路の玉川も運命をともにしたようである。
現在の「野路の玉川」は昭和五十一年に復元されたものである。
源俊朝が千載和歌集で 「 あさもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やとりけり 」
と詠まれた他、多くの歌人が歌を詠んだ。 阿仏尼は十六夜日記に
「 のきしぐれ ふるさと思う 袖ぬれて 行きさき遠き 野路のしのはら 」 という歌を詠んでいる。
道がカーブすると南笠東に入る。
江戸時代には松並木があったようだが、今はなくなっている。
右側にある弁天池はマンションや住宅などが建ち、見えづらかった。
狼川を渡ると道は緩やかな上り下りをくり返しながら続く。
栗林町から大津市になる。
以前は畑か山林だったと思われるところは民家が続き、工場が増えてきた。
月輪三丁目の信号のない交差点の左側に古く立派な家があった。
*
月輪は江戸時代、立場茶屋があったところで、それを示す石碑が街道脇にあった。
玉川からここまで一キロ以上の間は、街道という雰囲気はまったくなく、道の狭さだけが当時のものだろうと思った。
左側の柵の中に「曹洞宗普門山 月輪寺 行者堂」の石柱があるが、
文久三年(1863)の開基の月輪寺である。
その右側に「明治天皇御東遷御駐輩之碑」 や「新田開発発祥之地」の石碑が建っていた。
ここから一里山で、街道は車道を横断しながら、くにゃくにゃ続いている。
車一台分位しかない狭い道なのに予想した以上の車が走り、歩きづらい。
やがて、洋服お直し工房の脇に出ると、一里山一丁目の交差点である。
街道は瀬田駅へ行く広い市道と交差している。
店の一角に「←JR瀬田駅」の道標、「一里塚址碑」と説明板があった。
説明板「一里塚跡」
「 一里塚は徳川幕府が旅人の目じるしに江戸の日本橋を起点として、
東海・東山・北陸の三道に一里ごとに設けた塚です。
ここにあった一里塚は、東海道の大津と草津の間に位置するもので、大きな松の木が植えられてた塚でしたが、惜くも明治末期に取り除りのぞかれました。
その場所は旧道と広い市道と交差しているこの地点にあたります。
現在の一里山という地名が一里塚のあったことを物語っています。
昭和六十一年三月 大津市教育委員会」
交差点を横断すると狭い下り坂になった。
*
街道はこの先、大江三丁目と六丁目の境を行くが、国道に向かっていく道が多く、分かりずらい。
道筋に大津市が設置した道標があるのでそれを見ながら行くが、見はぐれると分からなくなってしまう。
「大江四丁目 東消防署前」の地図付きの道標、続いて、「大江三丁目 市立瀬田小学校前」の地図付きの道標に出る。
道標の下に、「西行屋敷跡」の説明がある。
「 西行法師は、俗名佐藤義清といい、百足退治の伝説で知られる俵藤太(藤原秀郷の後裔)で、鳥羽上皇の院御所を警護する北面の武士であったが、23歳の時出家し、
諸国を行脚を重ね、仏道修行と歌道に精進した平安末期の代表的歌人だが、
一時この大江の地(瀬田小学校の南の忠魂碑の近く)に住んでいたという伝説がある。 」
街道は道標で左折し、左側の正善寺、そして左手の関電瀬田変電所の前を通り、
博受保育園前バス停の先にある交差点で右折する。
ここには「近江国府跡」の道標がある。
道標の下の説明文「近江国府跡」
「 近江一国を管轄する政庁跡のことで、奈良時代中頃(8世紀中頃)建築され、
平安時代中頃(10世紀末)まで存続したとされる。
国庁跡としては、東西二町(218m)、南北三町(327m)で、1000名を越える官吏や兵士が勤務し、
市(いち)も開かれたといわれている。 」
交差点を直進し突き当たったところを右折、 次に左折すると「雇用瀬田宿舎」の手前に「近江国衙跡」の石碑が建っていて、左手に 「近江国府跡」の説明板がある。
説明板「近江国府跡」
「 国府は律令という中国の法律制度にならって、
天皇を中心とする統一国家を作ろうとしたころに、全国六十八ヶ国にそれぞれ設置された役所
で、近江国府は奈良時代前半(今から一三〇〇年前)に置かれ、平安時代後半(約八〇〇年前)まで存続したようです。
ここでは都から派遣された国司(現在の知事のような役)を中心として、徴税・裁判・軍事など、今でいう県庁・警察署・裁判所・税務署として、
近江国の統治と都との連絡にあたっていました。
国府は、前殿・後殿と東西の脇殿という建物を中心に、門や築地などからなり、
東西二町(約二一六m)、南北三町(約三二四m)の区画をいいます。
また、その外側には九町(約九七二m)四方の広がりをもつ規格化された街路が広がっています。
近江国庁は日本で初めて、古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡です。
平成元年三月 滋賀県教育委員会 」
中央の簡素な建物の中には発掘状況などの説明板が並んで掲示されていた。
また、国府の想像図がイラストになって掲示されていた。
所どころに柱石に囲まれた区域があるが、これは建物のあったことを示すものである。
「史跡 近江国庁跡」遺跡説明板
「 国庁の中心となる政庁の西側にあたるこの付近は、奈良時代に国庁を建設する際、
谷地形になっていたところを整地し、平坦な土地を造成して利用しています。
整地した場所には数棟の掘立柱建物が建築されました。 (以下省略) 」
交叉点に戻り、旅を再開。
瀬田南小学校前バス停で旧国道1号線の広い道に合流、橋を渡ると神領である。
神領の地名は建部神社の門前に位置し、御料田(神領)となったことから名付けられたといわれる。
古い家が少し残る商店街を行くと、神領建部大社前のバス停で三差路になる。
左折すると「近江国一の宮 建部神社」の大きな石柱と鳥居がある。
* 建部神社の創祀時期は定かでないが、
昔から建部大社とか建部大明神などと称え、
近江国一の宮として延喜式内名神大社に列する由緒正しい神社である。
社伝には 「 景行天皇四十六年、稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、
神崎郡建部郷千草嶽に日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳四年、勢田郷へ遷座した。
天平勝宝七年(755)、孝徳天皇の詔により、大和一の宮大神神社から大己貴命を勧請し、
権殿に奉祭せられ、現在に至っている。 」 とあり、本殿に主祭神の日本武尊を、
相殿に天明玉命、権殿に、大己貴命を祀っている。
神社の創世に不明な点があるようだが、 稲依別王の子孫である建部連安麿が、 天武天皇の頃(676) に創建したという説が有力のようである。
参道を歩いて神門に到着。
* 承久の乱で戦火に遭い、社殿と多くの社宝を失ったが、 延慶弐年(1319)、勢多の判官・中原章則が再建したといわれる。 歴代の朝廷の尊信が驚く、また、源頼朝が伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄り、 源氏再興を祈願し見事にその願が叶ったことから武運来運の神として信仰を集めた。
神門を入ると神木の「三本杉」があり、入母屋造の「拝殿」が建っている。
拝殿の先には「中門」を隔てて、「本殿」と「権殿」が並んで建っている。
中門の右側の柵内にある石燈籠は文永七年(1270)の銘があり、国の重要文化財である。
* その他、平安末期から鎌倉初期の作と推定される「木造女神像三体」があり、 重要文化財に指定されているが、これは宝物館に保管されている(拝観料200円)
街道に戻り、商店が立ち並ぶ道を歩くと、唐橋東詰交差点に出る。
交差点の左手前角に「田上太神山不動寺」の道標があり、 「是より二里半 」 と刻まれている。
* 田上太神山(たなかみやま)不動寺の道標は、寛政十二年(1800)に建立されたもので、田上不動道への起点を示すものである。
もとは瀬田三丁目の瀬田商店街の角にあったが、理由は分らないが、ここに移転していた。
交差点を渡った先には「常夜塔」と「歌碑」が建っている。
河川敷の中には「勢多橋龍宮秀郷社」があり、祭神は瀬田川の龍宮と俵藤太秀郷である。
*
神社は。俵藤太が竜神の頼みにより大ムカデを平らげたという伝記に基づき
建立されたのだろう。
大江匡房は 「 むかで射し 昔語りと 旅人の いいつき渡る 勢田の長橋 」 という歌を詠んでいる。
瀬田の唐橋をわたる。
唐橋は、京の宇治橋、山崎橋とともに、天下の三名橋といわれ、近江八景の一つ「瀬田の夕照」として、広く知られている。
* 瀬田の唐橋は、
琵琶湖の南端から流れ出る瀬田川に架かる奈良時代にはあった橋で、
鎌倉時代に付け替えられた時に唐様のデザインを取り入れたため、唐橋と呼ばれれるようになった。
古代から、東国から京に入る関所の役割を果たし、軍事、交通の要衝だった。
そしたことから、「 唐橋を制する者は天下を制す 」 とまでいわれ、
壬申の乱を始め、承久の乱、建武の戦いなど、幾多の戦いがこの橋を中心に繰り広げられ、
その度に、橋は破壊と再建を繰り返してきた。
現在の橋は、大正十三年(1924)にかけられたコンクリートの橋で、 木製ではないが、古くからの姿を引き継ぐような設計がなされている。 川中の島を挟み、二つの橋で構成されていて、大小三十四本の擬宝珠がある。
橋を渡った先の交差点の先には「石山商店街」の表示があるが、商店街らしくない。
道の左側に二軒の古い家があり、その隣の建物は中国風である。
京阪唐橋前駅手前の小路の角に、中央に「逆縁之縁切地蔵大菩薩」、右側に「地主之守大神」、「方位之守大神」、 左側に「蓮如上人御影休息所」と書かれた石碑が建っていた。
京阪電車京津線の線路を越えると、鳥居川町の交差点に出る。
ここを右折するのが東海道だが、
交差点の右側の家の一角、交通標識の奥に「明治天皇鳥居川御小休所」の石碑が建っている 。
* 正面に「明治天皇鳥居川御小休所」。左側に「昭和十二年三月建立」とある。
中山道を歩きここを通った時は白壁の塀に黒い門があり、その前に石碑が建っていたが、東海道を四年後に歩くと家が建て替えられて、右端の狭い一角に押し込められていた。
ここで御霊神社へ寄り道する。
交差点を左折して車が一台しかと通れない狭い道に入ると「鎮守の森 (御霊神社)」の説明板がある。
この道は直進すると「地蔵寺」の前を通って京阪石山寺駅に出る。
説明板「鎮守の森 (御霊神社)」
「 本樹林は、聖域だった本殿の背後の一段小高くなったところに、
永年大切に守られていた鎮守の森である。 (以下省略) 」
その先に「御霊神社」の石柱と鳥居があり、小高いところに上ると本殿があった。
中の鳥居に「大友宮」とあるが、壬申の乱で亡くなった「大友皇子」が祭神なのである。
* 天智天皇の子の大友皇子は、父の死後の壬申の乱で、
叔父の大海人皇子との戦いに敗れ、この先の長等で自刃した。
明治時代に天皇に列せられ、弘文天皇という諱がおくられた悲劇の皇子で、
御陵は三井寺の先の御陵町に造られている。
なお、この森の奥の晴嵐小学校に「近江国分寺跡」の石碑がある。
「日本紀略」に 「 延暦四年(785)、近江国分寺が焼失し、弘仁十一年(820)、定額国昌寺を以て分寺とした。 」 とあるが、
その寺の跡といわれている。
街道に戻り、京阪電車の線路を越えて右折、石山駅の横でJR線のガードをくぐる。
左側にNECの工場が続くので、一回りするように歩く。
一キロほど行くと左側に朝日将軍、木曾義仲と乳兄弟だった「今井兼平(いまいかねひら)の墓」の道案内があった。
*
今井兼平の正式名は中原兼平(なかはらのかねひら)、父は中原兼遠兼平、
兄弟に樋口兼光、巴御前がいる。
墓はここ以外に長野市川中島にあり、彼を祀る今井神社は同所と松本市にある。
このあたりは「御前浜」という地名だが、
江戸時代以前には「粟津野」といったようで、古戦場である。
近江八景の一つ、「粟津の晴嵐」もこのあたりだが、湖が埋め立てられて、
水面を望むという風情は残っていない。
街道が狭くなると、膳所の町並に入る。
膳所は本多六万石の城下町であった。
左にカーブする道脇の民家の前に「膳所城勢多口総門跡」の石柱がある。
このあたりは、城下町特有の鉤形になっていて、道は右、左、
右というようにかなり曲がっている。
膳所には街道情緒がいくらか残っていて少ないが古い家が残っていた。
左側の格子の家には珍しい「ばったん床几」が付いていた。
ばったん床几とは前に倒すと縁台になるものである。
京阪電車の踏み切りを渡ると右側に「若宮八幡神社」がある。
表門は、明治三年に廃城になった膳所城の「犬走り門」を移築した、
切妻造の両袖の屋根を突き出した高麗門で、
軒丸瓦には本多氏の立葵紋が見られる。
*
若宮八幡神社の創建は、白鳳四年(675)、天武天皇がこの地に社を建てることを決断し、
四年後に完成したとあり、九州の宇佐八幡宮に次ぐ古さである。
当初は粟津の森八幡宮といっていたが、若宮八幡宮となり、明治から現在の名前になった。
社殿は幾多の戦火により焼失したので、それほど古くないが、江戸時代の東海道名所図会に 「 粟杜膳所の城にならざる已前、膳所明神の杜をいうなるべし 」 とあるのはこの神社のことだろう。
道は鉤形になっていて、また、京阪の瓦ヶ浜駅前の踏切を渡る。
瓦ヶ浜には古い家がかなり残っていて、それを大事にしながら生活しているような気がした。
左側のマンションの隣に「篠津神社」の鳥居があったので、
奥に入ると篠津神社があった。
篠津神社の表門は膳所城の「北大手門」を廃城時に移設したものである。
説明板「篠津神社」
篠津神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、
古くは牛頭天王と称した膳所中庄の土産神である。
創建時期は明らかではないが、康正二年の棟札から室町時代にはあったと考えられ、
宮家の御尊崇高く、膳所城主の庇護を受けた。 」
狭い道が続くが、左にカーブして進むと本丸町に入り、「膳所神社」の右手に出る。
膳所神社の表門は、明治三年(1870)に廃城になった膳所城から二の丸から本丸へ入る城門を
移築した薬医門で、国の重要文化財に指定されている。
* 膳所神社は、天武天皇六年に大和国より豊受比売命(とようけひめのみこと)を奉遷して、 大膳職の御厨神とされた、と伝えられる神社で、中世には諸武将の崇敬が篤く、 豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残る。
本殿、中門と拝殿の配置は直線上にあり、東正面の琵琶湖に向かって建っている。
境内には「式内社膳所倭神所」と書かれた石碑があった。
少し歩くと広い道と交差した。
交叉点を右折すると琵琶湖湖岸に 「膳所城址公園」 がある。
中に入って行くと本丸の天守閣跡に石碑が建っていた。
瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は、琵琶湖の中に石垣を築き、
本の丸、二の丸を配置し、本の丸には四層四階の天守が建てられていた。
明治三年(1870) 廃城令が布告されると直ちに解体され、一部の門が神社に移築されたが、
その他は破壊され、北側に石垣がわずかに残っているだけである。
*
膳所城は、徳川家康が大津城に替えて、慶長六年(1601)、瀬田の唐橋に近いこの地に藤堂高虎に縄張りを命じて、
新たな城を築いた城で、琵琶湖に浮かぶ水城として有名だった。
京都への重要拠点だったので、譜代大名を城主に任命した。
初代は戸田氏、その後、本多氏、菅沼氏、石川氏と続き、
慶安四年(1651)、再び本多氏となりそのまま幕末まで続いた。
街道に戻ると、左側にある「梅香山縁心寺」は、膳所城主、本多家の菩提寺である。
その先に和田神社がある。
透かし塀に囲まれた「本殿」は、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)、
軒唐破風(のきからはふ)をつけるのが特徴で、国の重要文化財に指定されている。
桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたものだが、側面の蟇股は鎌倉時代の遺構と伝えられる。
*
和田神社は、白鳳四年(675)に祭神の高竈神を勧請し創建された神社で、
古来から八大龍王社とか、正霊天王社とも称されたが、明治に和田神社となった。
門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものである。
境内のいちょうの木は、樹齢六百五十年といわれる市の保護樹木で、
関が原合戦に敗れた石田三成が京都へ搬送されるとき縛られていた、という話が残る。
二百メートル先で右折し、寺の周りを回って道なりに行くと西の庄に入る。
小さな橋を渡るとすぐあるのが石坐神社である。
*
石坐(いわい)神社は、大龍王社とか高木宮と称したこともあったが、
延喜式にも近江国滋賀郡八社の一つと記されている古い神社である。
祭神に海津見神(わたぬみのかみ)を主神、天智天皇、弘文天皇などを祀っている。
本殿は文永三年(1366)とあるので、鎌倉期のものらしい。
法応寺を過ぎると「膳所城北総門跡」の石碑が建っている。
このあたりが、膳所城の北のはずれなので、膳所藩と大津陣屋領との境である。
*
徳川家康は慶長七年(1602)、大津城を廃城にしてその資材で膳所城を作らせ、
大津を直轄地にして、大津奉行(時期によって大津代官と呼ばれた)が支配する大津陣屋が置いた。
これ以降、大津の町は宿場町として、また近江商人の町として発展を遂げることになる。
馬場1丁目に入ると、国の指定史跡の義仲寺(ぎちゅうじ)がある。
名所記に
「 番場村、小川二つあり。 西の方の川をもろこ川といふ。
川のまへ、左の家三間めのうらに木曾殿の塚あり。
しるしに柿の木あり 」
と記されているところである。
* 寺の由来書によると 「 寿永三年(1184)、源義仲は源範頼、義経の軍勢と戦い討ち死したが、しばらくして、側室の巴御前が尼になって当地を訪れ、草庵を結び、義仲の供養した。 尼の没後、庵は無名庵(むみょうあん)、あるいは、巴寺といわれ、木曾塚、木曾寺、 また、義仲寺とも呼ばれたと、鎌倉時代の文書にある。 戦国時代に入ると寺は荒廃したが、室町時代末、近江守護、佐々木氏の庇護により寺は再建され、寺領を進めた。 その後、安政の火災、明治二十九年の琵琶湖洪水などに遭ったが、改修された。 第二次大戦で寺内の全建造物が崩壊したので、現在の建物はその後のものである。 」
山門の右手にあるお堂は巴地蔵堂で、巴御前を追福する石彫地蔵尊が祀っていて、昔から遠近の人の信仰が深い。
境内に入ると、左奥の土壇の上に宝きょう印塔があり、左側に「寿永三年正月二十一日没 木曽義仲公の墓」と書かれた木札が立っていた。
* 宝きょう印塔は「木曽義仲の供養塔」で「木曾塚」ともいわれる。
その隣に「巴塚」があった。
*
武勇に優れ美女であった側室の巴御前は尼になり、ここで庵を結び、仲の供養に明け暮れていたが、ある日突如として旅に出て、信州木曽で九十歳の生涯を遂げたという。
巴塚の近くにJR大津駅前にあった山吹姫の「山吹塚」も移設されていた。
芭蕉は義仲を偲んで何度もここに宿泊し、大坂で没するときも、「 骸は木曽塚(義仲寺) に 」 との遺言を残し、この地に葬られたという。
*
芭蕉が最初に訪れたのは貞享弐年(1685)で、その後、四回滞在している。
元禄七年(1694)十月十二日、大阪で亡くなると芭蕉の遺言により、去来、其角ら門人の手で遺体はこの寺に運ばれ、木曾塚の隣に埋葬された。
芭蕉の墓は当時のままで、右側には 芭蕉の辞世の句 を刻んだ句碑が建っている。
「 旅に病で 夢は枯野を かけ廻る 」
その他にも、巴塚の近くに
「 古池や 蛙飛びこむ 水の音 」
の句碑がある。
本堂は朝日堂ともいい、義仲とその子義高の木像を厨子に納め、
義仲や芭蕉などの位牌が安置されている。
また、真筆を刻んだとされる句碑も朝日堂に近いところにある。
「 行春を あふミの人と おしみける 」 (芭蕉桃青)
街道に戻ると京阪電車の踏切を越えたところが打出浜で、「石場」というところ。
*
江戸時代には矢橋港などから琵琶湖を船で渡ってきた旅人が利用する石場港があったので、大変賑わい立場茶屋が並んでいた。
港には弘安弐年(1845)、船仲間の寄進で建てられた高さ八メートル四十センチの花崗岩製の
大きな常夜燈が建っていて、船の安全を守る灯台の役目も担っていた。 その常夜燈はよそに移されて今はない。
道を左にとると、古くから芸能の神として信仰を集めていた「平野神社」の石碑が建っている。
平野神社は左の坂の上にあり、蹴鞠の祖神という精大明神を祀っている。
平野集落には古い家が残っていた。
平野集落を過ぎると松本2丁目になり、三叉路で街道は左の道を行く。
*
石山からここまでは古い建物が多く残っていたのに、
この先、大津宿の中心部に入ると古い町並や建物がほとんど残っていない。
推測になるが、第二次大戦で空襲に遭い大津市中心部はほぼ全壊したことと、
昭和四十年後半から大津市の人口が急増し、市域が五倍に拡大し、
市中心部の高層化が進んだことによるのだろう。
街道筋はともかく、その周囲が賑やかになると、大津宿である。
海上交通が今よりずっと重要視された時代、大津は琵琶湖水運の要として大いに栄えた。
*
大津宿は東海道で53番目、中山道で通算すれば69番目の宿場である。
宿場は南北一里十九町(四キロ強) 、東西十六町半(二百メートル)の広さで、本陣が二軒、脇本陣一軒、旅籠は七十一軒を数えた。
また、近江上布を扱う店、大津算盤(そろばん)、大津絵など近江商人が商う店が増え、
天保年間頃には人口が一万四千人を超え、家数は三千六百五十軒と、
東海道最大の宿場町になった。
街道が通るのは「京町通り」で、
京都への道筋にあることから名付けられたという通りである。
スーパーやデパートのある湖畔べりの道からそれほど離れていないし
、県庁などの官庁が近くにあるのにかかわらず、喧騒を忘れたような静けさである。
道脇に天保十二年造と書かれた「北向地蔵尊」を祀った小さな社(やしろ)があった。
通りには寺院が多いが、寺なのか貸し駐車場なのか分からないような寺もあるのは時代を反映しているのだろう。
左折して、通り一つ行くと「滋賀県庁」がある。
このあたりは江戸時代、四宮といわれたところで、「東海道名所図会」に
「 四宮大明神社 − 大津四宮町にあり
祭神 彦火火出見尊 」 とある四宮神社が町名になった。
*
四宮神社は延暦年間(782)に創建され、平安時代の大同三年(806)、
近江に行幸された平城天皇が当社を仮の御所として禊祓いをされたという古い神社で、
四宮大明神とか天孫第四宮などとも呼ばれたが、明治時代に天孫神社に名に変え
、現在に至っている。
四宮の由緒には幾つかの説がある。
祭神が彦火火出見尊、国常立尊、大己貴尊、帯中津日子尊の四神であることからというもの。
近江国には神徳の厚い社が多くあり、昔の人々は一宮〜四宮と称した。
一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社、四宮が天孫神社である。
天孫神社はこの説を採っているように感じた。
大津地方裁判所の近くに江戸時代四宮大明神と呼ばれた「天孫神社」がある。
* 天孫神社の例祭は、十月第2日曜、前日の土曜の宵宮と併せて、
「大津祭」と称され、周囲の町内から十三基の曳山(山車)が参加し、
市内を巡幸する様は豪華華麗で有名である。
その様子は大津祭曳山展示館(大津市中央1丁目2-27)で見ることができる。
天孫神社の隣の「華階寺」の門前には「俵藤太」「 矢板地蔵」「 月見石」の石柱が建っている。
左右に中央大通りが通る京町三丁目の交差点を越えた右手に真宗大谷派の「大津別院」がある。
山門前には「明治天皇大津別院行在所」の石柱が建っている。
*
大津別院は、慶長五年(1600、織田信長に敵対した教如の創建という寺院で、
本堂は慶安二年(1649)、書院は寛文十年(1670)の建築で、ともに国の重要文化財である。
書院の天井には草花、障壁や襖には花鳥などがあざやかに描かれている。
京町通りは江戸時代と違い住宅が多くなったが、
それでも仏壇屋や料理屋などの店があった。
「すだれ老舗」の看板を掲げた森野すだれ店を覗くと、装飾を施したものなど、
室内インテリアとなるモダンなものが飾られていた。
「御饅頭處」 と書かれたお菓子屋で買ったかしわ餅は素朴な味がした。
京町二丁目交叉点左側の徳永洋品店の脇に、 「比付近露国皇太子遭難之地」 の石柱が
建っている。
ここは歴史の教科書に「大津事件」と掲載されている歴史的な事件が起きた場所である。
* 大津事件
「 明治十三年(1880)五月、日露親善のため来日したロシアの皇太子が警備中の巡査、
津田三蔵に切りつけられた。
ロシアを恐れる明治政府は津田三蔵を大逆罪で死刑にするよう迫ったが、
大審院長の児島惟謙の主張により刑法どおり無期徒刑とし、司法権の独立を貫いた。 」
街道をそのまま進むと、湖西方面から来た国道161号に出る。
ここが札の辻で、交叉点を越えたところに地図付き道標があり、
その左下に「大津市道路元標」が建っていた。
* 江戸時代には、高札場が置かれたことから、「札の辻」と名付けられたところである。
大津宿の人馬会所があった。
国道161号は、この先、坂本や堅田など琵琶湖西岸を通り、
敦賀へ抜ける道で、江戸時代には北国西街道と呼ばれた。
ここで長等神社に寄り道する。
地図付き道標の先、北国街道を進むと、左側に赤い鳥居があり、入って行くと長等神社があった。
* 長等神社(ながらじんじゃ)は、天智天皇が遷都した大津宮の鎮護のため、
長等山岩倉に須佐之男神を祭ったのが始まりで、
天安弐年(858)、比叡山の僧、円珍が大山咋命を合祀し、新たに建立。
天喜弐年(1054)、庶民参詣のため山の上から現在地に移った。
現在の建物は寛文四年と慶安二年にそれぞれ増改築されたものである。
入口の赤い楼門は、明治三十八年に建立されたもので、三間一戸、屋根入母屋造、
檜皮葺である。
京町一丁目南交差点に戻る。
道路の右上には 「旧東海道」 の標識があり、国道161号を南に向って歩くように表示されている。
* 国道161号の起点は国道1号と交わる逢坂1交差点である。
この交叉点で曲り、西に向い、先程訪れた長等神社、三井寺、坂本方面へ向かって行く。
この交叉点を南に向うと、「蓮如上人近松御旧跡」「是より本町 」と刻まれた道標がある。
* 江戸時代には、札の辻一帯に旅籠が多くあったのだが、
今は旅館も古い家も一軒もない。
京阪電車が突然現れ、車と平行して道路を走り、
左側にある大津京町郵便局のところで、電車が道路から別れて右に入って消えた。
その先の滋賀労働局の前に「本陣」があったことを示す石碑が建っている。
ここは「大塚嘉右衛門本陣」があったところと思われる。
道はゆるやかな上り坂になる。
春日町交叉点を過ぎると、右側に「南無妙法蓮華経」の石碑がある。
「妙光寺」の石柱の先には京阪電車の線路が横ぎっていて、
「妙見大菩薩」とあった。
右側の東海道線のトンネルは、左と右で造られた年代が違い、左側は明治時代に造られた煉瓦製で、
鉄道開通から百年以上が経つが今も現役である。
その先で国道161号は左側からの国道1号線と合流する。
大津宿はここで終わる。
大津宿の探訪が終わるとゴールの京都三条大橋は目前である。
* 国道1号線に合流すると山科までは東海道の古い道はなく、国道を歩くことになるが、 通過する車の数は半端ではない。
少し行くと右側に「蝉丸神社下社」の常夜燈と石碑、線路の向こうに鳥居がある。
踏み切りを渡って境内に入ると、少しじめじめしたところに社殿があった。
現在の神社は、ここにあった蝉丸を祭神として祀る「蝉丸宮」に、
江戸時代の万治三年(1660)、現社殿が建てた時に、
街道筋にあった「猿田彦大神」と「豊玉姫命」を合祀したものである。
*
蝉丸神社は音曲の神様ということで、琵琶法師は、蝉丸神社の免許がないと、
地方興行ができないほどの権力を持っていたという。
天皇の皇子だったという設定の謡曲「蝉丸」があるが、蝉丸の生い立ちははっきりしないが、盲目の琵琶の名手だったことは間違いないようである。
境内には 「 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 」 という歌碑があった。
京阪電車の踏切りを渡ると右側の小高いところに、安養寺がある。
先程道標にあった「蓮如上人近松御旧跡」はここであろうか?
* 安養寺は蓮如上人の旧跡の寺で、上人の身代わりの名号石がある。
、
また、国の重要文化財指定の行基上人作といわれる阿弥陀如来坐像が安置されている。
ここから逢坂山の上りになる。
* 逢坂(おうさか)の地名は、
「日本書紀」の 神功皇后の将軍「武内宿禰」がこの地で忍熊王と出会った、という故事に由来する。
平安時代に平安京防衛のため、逢坂の関が設けられ、
関を守る鎮守として「関蝉丸神社」と「関寺」が建立された。
なお、関蝉丸神社は蝉丸宮(現在の蝉丸神社)のことである。
寺の入口に「関寺旧跡」と表示した教育委員会の木札があるので、 日本書紀にある「関寺」はここにあったのであろう。
この先、右側には歩道がないので左側を歩くことになる。
右側は国道、左側は京阪電車の線路の狭い道を四百メートル上ると名神高速道路に出逢う。
更に、百メートル行くと、右手の高いところに赤い鮮やかな鳥居の「蝉丸神社上社」が見えた。
更に二百メートル程行くと、右側に「逢坂山弘法大師堂」、の木柱が建っていて、
民家のような建物がある。
ここには小さな祠が幾つかあり、石仏が祀られていた。
逢坂は右にカーブをしながら頂上に至る。
東海道はここで国道と別れ、右側の狭い道を行くので、歩道橋で国道を越えて右側に出る。
ここで、国道を少し大津方面に下ると、「逢坂山関址」の石碑と寛永六年建立と刻まれている「逢坂常夜燈」が並んで建っている。
* 「 これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂の関 」 と、蝉丸が詠んだ逢坂の関跡である。
古来より多くの旅人がここで出会い、そして別れていったのだろう。
歩道橋まで戻り、東海道に入るとうなぎ日本一の看板が大きく掲げた 「かねよ」という鰻料理の老舗の店がある。
その先の右側に「蝉丸大明神」の常夜燈があり、小高いところにもう一つ、蝉丸神社があった。
* 江戸時代にはこのあたりに立場茶屋があり、山から流れて出た清水を使った「走井餅」が評判だったといわれるところである。
東海道は短くすぐ終わり、国道に合流してしまった。
この後は、国道の左側に歩道があるので、それを歩く。
民家の前に「大津算盤の始祖、月岡庄兵衛住宅跡」の石柱があり、
説明板に「 月岡庄兵衛は慶長十七年(1612)、明国から長崎へ渡来した算盤を参考にして、
当地で製造を開始した。 最近まで子孫の方が住んでいた。 」 とあった。
今やそろばんは時代の長物化した感があるが、
当時はパソコンの到来くらいのすごいものだったのだろうと思った。
坂は下り坂なので快調であるが、このあたりは旧寺一里町で、江戸時代には両脇に一里塚があったところである。
左手の月心寺は橋本関雪の別荘跡といわれる。
月心寺から七百メートルで名神高速道路をくぐる。
道が少しごちゃごちゃしている感があるが左に入っていくのが東海道で、国道1号とはここで別れる。
道の北側が大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋屋敷町となり、 滋賀県と京都府の県境である。
少し行くと三差路があり、「伏見道」の追分である。
*
伏見道は、伏見や宇治への道で、難波(大阪)に出る近道だった。
大名が京都に入るのを幕府が好まなかったので、参勤交代の時、大名は京に入るとを避け、
伏見道を使った。
「東海道名所図会」に 「 追分 ー 村の名とす。 京師・大坂への別れ道なり。 札の辻に追分の標石あり。 」 と書かれている。
「みきハ京みち」、「ひだりふしミみち 」 と刻まれている道標は今も残っている。
隣の「蓮如上人」の石碑には 「 明和三丙 」 と刻まれていたが、
途中で折れたものか?、かなり小さかった。
三叉路の右側の京都への道は車は一台しか通れない巾なので、
一般車は進入禁止になっているのに通りぬけていく車がある。
東海道を行くと右側のに門前に「放光山閑栖寺」の石柱があり、真宗大谷派の閑栖寺があった。
門の右前に「 東海道 」の道標があり、左側面に「 京三條 と刻まれていた。
その隣に車石の説明板があり、その前に茶色の車石があった。
* 説明板「車石」
「 東海道五十三次、大津八丁(札の辻)から京三條大橋までの約三里(12km)の間、
物量輸送する牛馬車の通行を楽にするため、花崗岩に溝を刻んで切石を敷きつめた。
文化二年(1802) 心学者、脇坂義堂が発案し、近江商人・中井源左衛門が財を投じたとも
、伝えられている。
この付近は車道と人道に分かれていて、京に向って、右側に車石を敷き、
左側は人や馬の通る道であったと伝えられている。
当寺の境内にも数基保存されている。
放光山閑栖寺 」
近江商人の中井源左衛門は脇坂義堂が発案した計画を実現のため、一万両を投じたと伝えられる。
「 一万両というお金は半端なものではないが、文化文政時代ごろから商人の経済力が強くなり、 幕府に頼らず商人の手で行う動きがでてきたが、これもその一つである。 」
横木一丁目で旧道は終わり国道に合流する。
東海道は国道の反対側に続くので横断歩道橋で越える。
橋から来た方角を見ると京都東ICへの道や北国街道への道などがあり、壮観である。
これで逢坂山は越えた。
陸橋を下り、少し行ったところに「三井寺観音道」と刻まれた大きな道標がある。
*
三井寺は長等神社の隣にあり、天皇家の崇敬を受け、大きな敷地を有する門跡寺院である。
三井寺観音道は長等神社の脇から小関越をする道で、ここが京側の追分(分岐点)である。
北国街道を利用する旅人にはこの道が近道だった。
このあたりは横木一丁目で、まだ大津市の領域、四ノ宮町に入ると京都市山科区に変る。
一部古い家があるが、地下鉄の開通により、山科の景観は一変しつつある。
道の右側に「臨済宗南禅寺派 徳林庵」と「山科廻地蔵」の標札があり、その奥にお堂がある。
手水鉢には丸に通の字が彫られ、裏には 「 定飛脚 宰領中 文政四巳年(1821) 」 と彫られていて、
これが日本通運の丸通になったといわれる。
その先の建物前に二つの石柱があり、その一つの「南無地蔵尊」と刻まれた石柱は、 京都六地蔵の一つ、山科地蔵(四宮地蔵とも山科廻り地蔵ともいう)を示していて、地蔵尊は六角堂に安置されている。
* 後白河天皇は都の守護、往来の安全や庶民の利益結縁を願い、
小野篁(おののたかむら)により、仁寿弐年(852)に作られた六体の地蔵尊像を
平清盛、西光法師に命じ、
保元弐年(1157)、京都の入口に当たる街道筋に安置させた。 これらは六地蔵といわれるようになった。
各寺で授与される六種のお幡(おはた)を家の入口に吊るすと、厄病退散、福徳到来のご利益があるとして、六地蔵めぐりの行事が定着した、といわれる。
毎年八月二十二日、二十三日に、六地蔵巡りの行事が行なわれる。
もう一つの石柱に「人康親王(さねやすしんのう)墓所」とある。
*
寺の脇の道を奥に行くと十禅寺があり、その隣に墓がある。
人康親王は蝉丸という説もあるようで、徳林庵は親王の子孫が開創した寺といわれる。
その先の右側に「諸羽神社」の石標と鳥居が建っている。
* 説明板「諸羽神社」
諸羽神社は、延喜式の式内社で、神社の歴史は古い。
祭神の天兒屋根命と天太玉命が禁裏御料地の山階郡柳山に降臨座されたので、
楊柳大明神と奉称された。
二神は天孫降臨の時左右を補佐したことから両羽大明神と称し、
清和天皇の貞観四年(862)に御所により社殿が造営され、裏山は両羽山と称するに至る。
永正年間に八幡宮と若宮八幡宮を合祀したことから諸羽神社と改称した。
これが四ノ宮の地名の由来である。 」
線路を越えた先に更に鳥居があり、その奥に青い屋根の社殿がある。
* 諸羽神社の社殿は二度の火災に遭い、現在の社殿は明和五年に再建したものである。
毘沙門堂に寄り道する。
神社の奥から山科疎水の橋を渡り、緩やかな上りの道を行くと毘沙門堂の入口に出る。
橋の形した先に「毘沙門堂門跡」の石標と「常夜燈」が建ち、石畳が続いていた。
車道に架かる橋の上には「極楽橋」の文字がある。
* 寺の設置した説明板
「 極楽橋は後西天皇による勅号で、明治以前はどんな高貴な方でもここで下乗され、
参拝した。
毘沙門堂は、大宝三年(703)、行基によって出雲路に創建された出雲寺と号する天台宗の五門跡の一つである。
室町以降の度重なる戦乱により荒廃し、岩倉や大原などに移転したが、
天正年間に堂宇が全焼。
寛文五年(1665)、天海僧正によりこの山科の地に再興された。 」
その先のかなり急な石段を上ると、しだれ桜の先に本堂があり、本尊の毘沙門天像が安置されている。
街道に出る道の右側に、赤穂義士のゆかりの寺・瑞光院がある。
* 山門の脇の説明板
「 慶長十八年(1813)、因幡国若桜藩主・山崎家盛により、浅野長政の旧蹟に創建された寺で、山崎家が無嗣により断絶すると、赤穂浅野家の祈願寺となる。
元禄十四年(1701)三月、浅野長短は吉良上野介に刃傷し、浅野家は断絶。
同年八月、大石良雄は当寺に浅野長短の衣冠を埋め、亡君の石塔を建立し、
墓参の都度、同志との密議のところとなる。
更に、元禄十五年十二月の赤穂義士による吉良邸討ち入り、本懐を遂げて後、
義士四十六士の髻を寺の住職が預かり、主君の墳墓の傍らに埋めたのが遺髪塚である。 」 その先左側の民家前には「左毘沙門堂道」と刻まれた道標が建っていた。
鉄道のガードをくぐると先程の東海道の先に出た。
右側の「エスタシオデ山科 三品」というマンション前、右側に「東海道」の道標と車石があった。
右手はJR山科駅、
それを越えた右側のRACTOビルの植え込みに「明治天皇御遺蹟」碑がある。
かって、このあたりに奴茶屋があった。
*
明治天皇は、東京に遷都の際、京都と東京の間を数回往復されたが、
その際、本陣あるいは小休所として三回利用されたのが、
毘沙門堂の領地内にあった奴茶屋だった。
昭和の終わりまでは料亭として残っていたが、現在はビルの中に移り、
こじんまりと営業をしているようである。
少し行くと、左側に、五条別れ道の道標が建っている。
* 北面には、「 右ハ三條通 」、東面には 「 左ハ五条橋 ひがしにし六条大仏 今ぐ満きよ水道 」 、南面には 「宝永四丁亥年十一月」、 西面には 「 願主・・・ 」 と刻まれている。
「左ハ五条橋」とは、澁谷越道で五条大橋へ出るルートである。
国道1号線はほぼ同じルートを通っているが、澁谷越道は途中で途切れている。
京都三条大橋までは山科から六キロ程の距離である。
「五条別れ道」道標で、右側の道を進むと、県道(通称三条通り)に合流し、
すぐにJRのガードをくぐる。
このあたりは御陵久保町で、左側に散歩道があるが、
その先左側の細い道に入るのが東海道である。
ここは間違いやすいところなので、要注意である。
このあたりの御陵○○町という地名は、県道のこの先右に入った森にある天智天皇陵による。
東海道はその先、左右の道と数回交差する。
左右からの道の方が広いが気にせず、まっすぐ行き、
左側に畑が一部残るところを過ぎると、御陵岡町の住宅地に入る。
その先は日の岡地区で、大乗寺への案内がある先の交差点を越えると、
かなりの上り坂になる。
* この道は日ノ岡峠に通じる道で、今は自動車も通れるが、
昔は石ころや窪みのある悪路で牛車や荷車の難所だった。
木食上人はこの峠道の改修に心血を注いて、元文三年(1738)、
三年がかりで安心して通れる道を完成させた。
坂を登った左側に「亀水不動尊」がある。
* 木食上人は、峠の途中のここに道路管理と休息を兼ねた木食寺梅香庵を結び、 井戸水を亀の口から落として石水鉢に受け、 牛馬の渇きを癒すと共に旅人に湯茶を接待した、という。
その先の北花山山田町の敷地の一角に、二条講中が建てた「明見道道標」、
その隣に 「 右かざんいなり(花山稲荷)道 」 の道標が並んで建っている。
左の小さなお堂の脇には石仏群が祀られている。
*
都会と隣接しながら一部古い家が残り、落ち着いた暮らしの雰囲気があるのだが、
周りの住宅地開拓がどんどん進んで変貌しつつ感じも受けた。
一台しか通れない一方通行の狭い道なのに走る車は多いので、
注意しながら四百メートル行くと県道(三条通り)に合流した。
歩道は右側にしかないので、道を横切って反対側に出て、坂を上る。
九条山交差点を過ぎると、前方に見えるのは東山ドライブウェイの橋で、
標識には「九条山」と表示されている。
*
東山ドライブウェイは左手の坂を上ると将軍塚に至る。
将軍塚は桓武天皇が平安京の造営時、王城鎮護のため、
八尺の征夷大将軍・坂上田村麻呂の土像を作り、
都(西方)に向けて埋めた、と伝えられるところである。
橋をくぐりぬけると日ノ岡坂の頂上で、ここから下り坂。
坂を下ると左側に京都蹴上浄水場があり、ここから京都市山科区から東山区に変る。
道の右側に「両宮太神宮」の常夜燈があり、石段を上ると疎水に架かる太神宮橋が架かっている。
常夜燈は安政六年(1859)三月建立されたものである。
* 太神宮へは、橋を渡った先の石段を上っていく。
太神宮は日向大神宮で、顕宗天皇の時代に筑紫日向の高千穂の峯の神蹟を移したのが始まりとされる。
天智天皇がこの山を日御山と名づけ、清和天皇が天照大神を勧請したといわれる神社で、
延喜式にも記名がある古社である。
水が流れる琵琶湖疏水は大津方面にトンネルがあるのが見えた。
左手には疎水を利用して人や荷物を運んだ「インクライン」の跡があり、 使用した台車が展示されている。
*
明治に入ると大津港から南禅寺溜まりまで、
船に人や荷物を載せたまま運ぶ輸送が行われた。
そのため掘られたが疏水やトンネルである。
高低差の多いこの区間は水路が使えないので、土砂で傾斜を付けて、レールを敷き、
船を載せた台車をロープで引き上げる方式(インクライン)がとられた。
街道に戻ると、道の右下に煉瓦造りの「蹴上発電所」の建物が見える。
*
蹴上発電所は日本で最初の商用発電所で、琵琶湖疏水の水を利用して水力発電を行った。
明治二十三年(1890)一月に工事を着工し、明治二十四年(1891)の八月に運転開始したが、
明治四十五年(1912)二月に第二期に工事が完成すると、最初の建物は壊されたという。
従って、写真の煉瓦造りの建物は第二期のものである。
坂を下ると右側に地下鉄の蹴上駅がある。
右折する道は「哲学の道」といわれ、南禅寺や銀閣寺に至る。
蹴上交叉点の三叉路で右に行くと平安神宮。
東海道は真っ直ぐで、左側に都ホテルがある。
坂を下りきったあたりが粟田口で、「正一位合槌稲荷明神参道」の道標が建っている。
* 説明板「合槌稲荷明神」
「 ここは刀匠三條小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、
その邸宅は三条通りの南側、粟田口にあったと伝える。
宗近は信濃守粟田籐四郎と号し、粟田口三條坊に住んだので、
三條小鍛冶の名がある。 稲荷明神の神助を得て、名刀、小狐丸をうった伝説は有名で、
謡曲「小鍛冶」も、これをもとにして作られているが、
そのとき、合槌をつとめて明神を祀ったのがここだともいう。
なお、宗近は平安中期の人で、刀剣を鋳るのに、稲荷山の土を使ったといわれる。
謡曲史跡保存会 」
道の反対には粟田神社がある。
三条神宮道交叉点では、右手に平安神宮の大きな鳥居が見え、 左折すると知恩院へ至る道だが、東海道は直進する。
その先の白川橋の脇に道標が建っている。
*
東面に 「 是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」、南面に 「 延宝六戊午三月吉日 京都為無案内旅人立之 施主 為二世安楽 」 と、
刻まれている。
その先の東山三条交差点で、東大路通りを渡ると 左側に「銘酢 千鳥」という看板を掲げた村山造酢がある。
*
村山造酢は、創業から二百八十年という老舗で、
質のいい江州米と酒を使って食酢をつくり続けているという。
江戸時代の醸造蔵を近代建築で囲い、京都市都市景観賞にも選ばれている。
「 茶懐石 辻留 出張専門 」 という看板を掲げているのは、明治三十五年創業の辻留で、
裏千家お出入りの仕出し屋である。
京都の料亭は板前を持たず、一流職人を抱える仕出し屋から料理を届けさせている。
左側の京阪三条駅は、出町柳まで線路を延伸した時駅を地下化し、 上は喫茶店とモダンな庭園にしている。
右側に「浄土宗 だん王」という石碑が建つ寺の正式名は、
朝陽山栴檀王院無上法林寺(ちょうようざん せんだんのういん むじょうほうりんじ)
である。
その先にひれ伏す武士像は、皇居を遙拝している高山彦九郎像である。
*
高山彦九郎は、延享四年(1747)、上野国新田郡細谷村(群馬県太田市細谷町)の生まれで、天皇を崇拝した勤王思想家である。
松平定信などの幕府の警戒から常に監視下に置かれ、寛政五年(1793)、
筑後国久留米の友人宅で四十六歳で自刃した。
林子平、蒲生君平と共に寛政の三奇人と云われた人物であるが、
その後の幕末の勤王の志士達に大きな影響を与えた。
目の前にあるのは加茂川で、三条大橋が架かっている。
日本橋から中山道で534キロの旅もこの橋で上りである。
* 現在の三条大橋は、昭和二十五年に建設されたものだが、 擬宝珠の中には豊臣秀吉が作らせたものもあり、 また、西より二つ目の擬宝珠には、池田屋騒動時につけられたとされる刀傷が残る。
なお、池田屋は高瀬川に架かる三条子小橋の西側にあった。
池田屋騒動も関係する橋なのだと思いながら橋を渡る。
橋を渡ると左側にあるのが弥次喜多像である。
*
弥次さん喜多さんの時代には途中で大変なことが多かったので、
京都に到着すると大きな達成感が得られたと思う。
交通機関の発達した今日に生きる我々でも東京から京都まで歩くことはコストと
時間を考えると贅沢なことともいえよう。
そのような時代の移り変わりの中で、加茂川は今日も淡々と流れていた。
江戸日本橋から中山道で草津追分、そこから東海道を歩いて京三条大橋まで歩くことが
できた。
色々な人との出会いに感謝、旅を応援してくれた家族に感謝である。
(所要時間)
草津宿→(1時間)→野路の玉川→(1時間30分)→建部大社→(20分)
→瀬田の唐橋→(1時間30分)→儀仲寺→(30分)→大津宿
→(50分)→逢坂の関跡→(1時間)→山科駅前→(1時間20分)→三条大橋
草津宿 滋賀県草津市草津 JR東海道本線草津駅下車。
大津宿 滋賀県大津市中央 JR東海道本線大津駅下車。
三条大橋 京都府京都市中京区 京阪電車三条駅、阪急河原町駅などから