近江鉄道高宮駅から高宮宿を経て、武佐宿まで歩く。
無賃橋北詰交叉点の先に高宮橋があり、その下に犬上(いぬかみ)川が
南から北へ向かって流れ、琵琶湖へ注いでいる。
高宮橋は高宮宿の境に架かる橋で、江戸時代には無賃橋(むちんはし)と
呼ばれていた。 橋の手前の右手に天保三年(1832)建立の「むちんはし」「無賃橋」
と刻まれた石碑がある。
* 説明板「無賃橋」
「 彦根藩はこの地の豪商、藤野四郎兵衛、小林吟右衛門、馬場利左衛門等
に架橋を命じました。 彼等は一般の人々から浄財を募り、天保三年(1832)に
竣工させ、橋をかけさせた。 渡り賃を取らなかったところからむちん橋と
呼ばれました。 」
地蔵堂が川の縁にあるが、上記と関連し、建立されたものである。
* 説明板「むちん橋地蔵尊由来記」
「 昭和五十二年(1977)、むちん橋の改修工事の際、橋脚の下から2体の地蔵尊
が発掘されました。 近隣の人々と工事関係者は、これこそ天保三年(1832)
最初に架橋された橋を架けたむちん橋の礎の地蔵尊に違いないと信じ、
八坂地蔵尊の御託宣を得て、橋畔を永住の地とし、お堂を建て、むちん橋地蔵尊と
名付けて祀りました。 」
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安藤広重は高宮として、松並木を左右に配置し、西から見た渇水期の犬上川、
そして橋脚だけのむちん橋を中央に、その先には常夜燈が立ち、高宮宿の街並み
が続き、遠景に伊吹山を描いている。
無賃橋歩道橋の渡詰めに高宮宿側と同種のむちん橋碑と太い丸太標柱高宮宿が
あり、高宮宿の京方(西)の入口である。
車道側の渡詰めには「牛頭天王道」の標石がある。
橋の上からは、遠く鈴鹿北部の山並みが見えた。 橋を渡ると二車線(県道542号)
になり、
道幅が広がり、車の往来が多くなるが歩きやすくなった。
四の井川の新安田橋を渡ると高宮から旧法士村(ほうぜむら)に入る。
左側に「法土一里塚跡」の標石があり、江戸より百二十里目である。
先に進むと左側の浄土真宗本願寺派妙行寺前に「是よりたがミチ」の道標が
あり、敷地内には法土町自治会館と法土町地蔵堂がある。
法土町(ほうぜちょう)交差点を過ぎた辺りで松並木があり、出町までの間、枯れ
てなくなっているものが多くまばらではあるが、 一応並木として続いている。
葛籠(つづら)町に入る。 昔はつづら、行李、団扇などが当地の名物の立場で
あった。
道の右側に小さな山門があるのは地福寺地蔵堂(延命山月通寺)である。
正式名は真言宗豊山派延命山月通寺で、山門前に「不許酒肉
五幸入門内」と刻まれた石標が立っている。
別名柏原地蔵とも呼ばれており、本堂中央には行基菩薩の彫造と伝えられる
地蔵菩薩が安置されている。
山門は左右に本柱と控柱をそれぞれ一組ずつ配し,屋根は切妻破風造りと
なっている薬医門と呼ばれる形式の一種で平成10年10月に
葛籠町有志一同の山門修復事業により修復されました。
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葛籠の集落は農業が多いのか、昔の茅葺屋根にトタン板を被せた家が多く
あった。 一軒だけ茅葺がむきだしになっている家があったが、東北地方と違う
のは瓦を併用している点である。
月通寺を過ぎた右側に若宮八幡宮の参道があり、参道入口に小屋組みの中に
石組みの産(うぶ)の宮井戸があり石製の四角い手水鉢には「足利氏降誕之霊地」
と刻まれている。
ここから竹林の中の参道を進むと小さな社があり、これが産の宮である。
若宮八幡宮あるいは産の宮と呼ばれ、古来、産の宮として、安産祈願の参詣客
が多いという。
* 「 南北朝争乱の頃、足利尊氏の子義詮(よしあきら)が 文和四年(1355)後光厳(ごこうごん)天皇を奉じて西江州で戦い、湖北を経て 大垣を平定し、翌五年京へ帰ることになりました。 その時義詮に同行した 妻妾が産気づき、ここで男子を出産しました。 付け人として家臣九名がこの 地に残り、保護したが君子は幼くして亡くなりました。 生母は悲しみのあまり 髪を下ろして醒悟(せいご)と称して尼となり、この地に一庵(松寺)を結んで 幼君の後生を弔いました。 ここに土着した家臣九名は竹と藤蔓(ふじづる) でつくった葛籠(つづら)を生業とするようになり、松寺の北方に一社を祀った のがこの宮です。 以来産の宮と呼ばれ安産祈願に参詣する人が絶えなかった といいます。 家臣の葛籠作りが葛籠村の村名の由来です。 」
集落が途切れると街道は松並木になり田園風景が広がる。
車が比較的多くないのでのんびり歩ける。
新幹線が走っていく姿の先に、鈴鹿連山が霞んで見えた。
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左側に彦根市モニュメントがある。 三本の石柱の上に麻を背負った婦人、
菅笠を被った旅人、そして近江商人の像が乗っていて、彦根市から出る側には
「またおいで」、入る側には「おいでやす彦根市」と刻まれている。
右側の大東電材の向いに「中山道葛籠町」の標石があり、出町交差点を横断する
と左側に「中山道出町」の標石がある。
出町に入ると、左側に日枝神社があり、 対の常夜燈の奥に明神系台輪鳥居
がある。 本殿は小さな造りで、出町の鎮守である。
道の右側に水車のあるあづまや風の公園があったので、
スーパーで買ってきたパンとお茶を飲み、しばしの休憩をとる。
豊郷町に入ると大きな工場が点在している。
四十九院交差点の右側に縣社阿自岐神社の石標、対の常夜燈、次いで
「是従本屋社六丁」の道標、そして鳥居が立っている。
ここから右(西)に約780m進むと阿自岐神社がある。 応神天皇の時代に
この地を開発した百済の渡来人阿自岐(あじき)氏が祖神を祀ったもので、
三間社流造りの本殿は文政二年(1819)の建立である。 犬上川の伏流水が
湧き出る池泉多島式阿自岐庭園は阿自岐氏の邸跡で日本最古の名園といわれる。
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道から少し入ったところに、大きな風格のある伽藍と整備された庭がある唯念寺 がある。 正式名は真宗大谷派兜率山(とうりつざん)四十九院照光坊唯念寺である 。
* 「 四十九院とは行基が天平三年(731)この地に四十九の 寺院を建てたことに由来する。 唯念寺はその四十九番目で、 行基作の阿弥陀如来像と弥勒菩薩像が本尊として安置している。 文和四〜五年(1355〜1356)頃、北朝の後光嚴天皇が行在された寺で、山号の額、 宸斡などを賜ったと伝えられる。 」
四十九院公民館先を左に入ると先人を偲ぶ館があり、豊郷に生まれ全国で
活躍した八人の傑人の業績や生い立ち、成功への道程を紹介している。
街道に戻って進むと左側に「春日神社」と刻まれた石標と鳥居がある。
春日神社は開化天皇の子孫、恵知王によって創建された神社で、
行基が四十九院の創建時に伽藍鎮護の守護神として祀ったものである。
明治になって 愛知神社 と改称された。
唯念寺から石畑集落に入り数百メートル歩くと左側に豊郷小学校旧校舎が
ある。
* 「 昭和十二年(1937)、丸紅専務、古川鉄次郎の寄付により 建てられた鉄筋造りの校舎は、ウイリアム メレルヴォーリズの設計によるもので、 東洋一といわれた。 鉄次郎は伊藤忠兵衛の元で丁稚奉公からの叩き上げで、忠兵衛の右腕となって 活躍。 身の回りは質素で通し、公共の福祉には大金を惜しまなかったところ から、近江商人の鑑といわれました。 豊郷小学校旧校舎は当時の町長が新校舎 を強硬に建築し、旧校舎を壊す恐れがあり、住民が法廷闘争を起し、話題に なった。 今は複合施設となって保存されている。 」
豊郷小学校の向いに「やりこの郷」の碑があり、碑には弓矢があしらわれて いる。
* 説明板「やりこの由来」
「 安食南には、古くから 矢り木(やりこ)という地名があり、昔、いく日も雨が
降らず、農作物が枯れてしまって村人たちは大変困っていました。 村人たちは
阿自岐神社の神様に雨を降らしていただくようお願いしたところ、
「安食南にある大木の上から矢をはなてば、矢の落ちたところから水がわく」
とお教えになり、早速、弓の名人に大木の上から矢をはなってもらうと、阿自岐
神社の東の地面につきささりました。その矢をぬくと清水がわきだし、渇いた
大地をうるおし農作物は大豊作となって、その清水を「矢池」と名付けました。
この矢をはなった大木が「矢射り木」と呼ばれ、それがなまって「やりこ」と
言われるようになったと思われます。
今日、その大木の生えていたところが「矢り木」という知名になって伝わって
おり、はるか昔の名残をとどめています。
平成七年二月 安食南区 」
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豊郷小学校のすぐ先左側の八幡神社境内に、中山道一里塚の郷石畑」の石柱
があり、一里塚が縮小されて復元されている。 石畑の一里塚跡で、江戸より
百二十一里目である。
「←高宮宿 石畑(間の宿)愛知川宿→の道標と石畑の説明板等がある。
* 「 石畑は高宮宿と愛知川宿の中間に位置し、間の宿として 発展し、立場茶屋がありました。 石畑の地は文治元年(1185) 屋島の合戦で 弓の名手として名を馳せた那須与一の次男、石畠民武大輔宗信が那須城を築き、 この地を支配しました。 」
一里塚の奥にある八幡神社は宗信が延応元年(1230)に男山八幡宮を勧請した
ものである。 また、八幡神社の奥に浄土真宗本願寺派引誓山称名寺があるが、
正嘉二年(1258)那須与一の次男宗信が創建した寺である。
少し進むと左側に豊郷町役場があり、交差点を越えた左側に
「くれない園」 と刻まれた石碑が立つ公園がある。
この公園の手前を左折すると近江鉄道の豊郷駅がある。
この公園は昭和十年、伊藤忠商事・丸紅商店の創始者である伊藤忠兵衛を記念
して造られたもので、公園中央には肖像がはめ込まれた伊藤忠兵衛翁碑が
ある。
公園の隣の駐車場の脇に「伊藤長兵衛住宅跡」の石碑がある。
* 説明板「七代目(1868〜1941) 伊藤長兵衛翁の偉業」
「 犬上郡河瀬村大字犬方の若林又右衛門の二男として生まれ、幼名は長次郎。
16歳で伊藤長兵衛商店にはいり、22歳のとき六代目伊藤長兵衛の養子となり、
1892年その次女やすと結婚、その翌年七代目長兵衛を襲名した。 そして
先代が創業(1872)した伊藤長兵衛商店を順調に発展させ、1921年これに
伊藤忠商店を合併して株式会社丸紅商店を設立し、初代社長に就いた。
翁は仏教の信仰心厚く、人間愛また深く、正義・公正・質素・倹約を生活信条
として企業家としても成功し、1925年自ら巨額の浄財と敷地の大部分を
寄付して豊郷病院を創設した篤志の人としても世の尊敬を集めた。
この駐車場はそのご子孫の所有地であったが、1997年に財団法人豊郷病院
へ寄付されたものである。 財団法人 豊郷病院 」
公園から五十メートルの道の左側に伊藤忠兵衛記念館があり、ここが 伊藤忠兵衛屋敷跡である。
* 説明板「伊藤忠兵衛記念館」
「 伊藤忠商事、丸紅の創始者・初代伊藤忠兵衛の100回忌を記念して初代
忠兵衛が暮らし、二代忠兵衛が生まれたここ豊郷本家を整備、伊藤忠兵衛記念館
と命名して、一般公開することになりました。 初代及び二代忠兵衛の愛用の品
をはじめ、様々な資料を展示して繊維卸から「総合商社」への道を拓いた
その足跡を紹介しています。 この旧邸は、初代忠兵衛が生活していた頃
そのままの形で残されその佇まいからは、近江商人忠兵衛の活況ある当時の
暮らしぶりやそれを支えてきた、初代の妻・八重夫人の活躍を偲ぶことが
できます。また、ここで生まれた二代忠兵衛は、母である八重夫人の教育もあり、
国際的なビジネスを展開し、現在の「総合商社」の基礎を築いています。
近江商人のスピリットを先駆的な感覚を合わせて世界という舞台にのせた
初代伊藤忠兵衛と二代忠兵衛、そして八重夫人のルーツにふれながら、
その偉大な業績を称え、末永く後世に語り継いでいきたいと思います。 」
伊藤忠兵衛の生家は火、木、土の週三日、十〜十六時、無料公開されて
いる。 開館日だったので、中に入ることができた。 建物や敷地などは
我々の家と違い大きいが、明治の成功者の家という割には、かなり質素なもの
だった。 家の間取りは商家としてつくりになっていて、庭には咲き終わった
つつじの花びらが散っていた。 庭の灯篭や庭石の組み方などには感心した。
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伊藤忠兵衛記念館の手前の左奥に犬上神社がある。 祭神は犬上の君の始祖稲神(いねがみ)といわれ、 この地は百済から入植した帰化人が開いた土地である。
* 「 その王は農耕を振興したところから稲神(いねがみ) と呼ばれ、これが転化して犬上になったといいます。 伝説によると犬上の君の飼い犬が激しく君に吠えかかり、これに怒った君が 犬の首を刎ねると、首は宙を飛び、松の木の上で君を狙っていた大蛇の喉を 喰い破りました。 君は哀れに思い、胴を埋葬し、頭を持ち帰り、 犬頭明神ととし犬上神社に祀りました。 」
街道を進むと右手の奥に天雅彦神社(あめわかひこじんじゃ)があり、 天応元年(781)の創建でこの地の総鎮守である。
* 説明板「天雅彦神社」
「 戦国時代、佐々木京極氏の家臣でこの地を支配した
高野瀬氏の信仰が篤く、この地を通る武将は天稚大明神に神饌を供し、勝運を
祈願したといいます。 今も勝運の強い神として受験生や選挙の候補者に
崇拝され、又、厄除け商売繁盛の神として霊験あらたかといわれてい
ます。 」
(ご参考) 日本神話には、 「天照大神が諸国を平定するため 天稚彦を使わしたが、地元の姫と恋仲になり帰ってこなかった。 そのため遣わ した雉に天稚彦は矢を射たので、天照大神は怒って天稚彦を殺してしまった。 亡骸が祭った喪屋が落ちたところが美濃の喪山である。 」 とある。 喪山は 美濃市に同じ地名があるが、垂井の古墳に天稚彦を埋めたという話もあって、 諸説あるようである。 天稚彦がなぜここに祀られているか分からないが、 愛知川の武満神社の祭神が大国主命であるので、これと関係があるのではと思う。 また、隣町の秦荘町は 新羅からの渡来人である秦氏が焼き物の技術を伝え永住した地とあるので、 これまた、関係があるのではないか? なお、彦根にも天稚彦を祭る神社が あるようである。
伊藤忠兵衛記念館から五分程行くとニシキ会館の前に井戸のモニュ メントがある。 左側の石の説明板の柱部分には「水の香る郷 四谷」と刻まれ、 右側には「西沢新平家邸跡」なる石標が立っていた。
* 説明板「金田池」
「 この地より北約五十米の処、大字澤一番地に金田池と称する湧水があり、
田の用水にまた中山道を旅する人達の喉をうるおしてきた。
近年の地殻変化により出水しなくなり埋め立てられたが当区の最上流で永年
名水として親しまれた池ゆえにそれを模して再現した。 」
下枝(しもえだ)に入り、日枝郵便局を過ぎると右側に又十屋敷があり、
豪商藤野喜兵衛屋敷跡である。 何故か一里塚跡の碑が立っている。
又十とは、江戸時代から明治時代にかけて、根室を中心とする道東・千島の
漁場を取り仕切った 藤野喜兵衛 という人物で、豊郷から蝦夷に渡り、財をなした
郷里の英雄である。 北海道における商人資本の漁場開拓者として位置づけ
られる人物であるが、先住民のアイヌから見ると、許しがたい支配者であった。
藤野家は、昭和の初めには、北海道に完全に移住していき、残された屋敷は
日吉村役場になっていた時期もあったが、現在は地元有志による会館として
維持されている。
* 説明板「資料民芸館 豊会館(又十屋敷)」
「 当館は、江戸末期より蝦夷と内地とを北前船を用いた交易で財を成した
近江商人藤野家本宅跡です。 明治初期に入ると我国初めての鮭缶の製造を始め
五稜北辰の商標「星印」で販売した所、人気を博しました。 今日では「アケボ
ノ缶詰」として受け継がれています。 亦天保の大飢饉には住民救済の為行われ
た又十の飢饉普請は有名で江州音頭発祥の地千樹寺の再建と当家の建造物
及び湖国百選に紹介されている名庭園「松前の庭」勝本宗益作等何れも当時の
原形を今日までほどよく保存されています。 また、館内には千数点に及ぶ美術
・工芸品等が展示されています。 」
* 説明板「一里塚跡碑について」
「 一里塚は元々此の地より北八百米豊郷町役場付近にあったと謂われ、
三間四面に盛土をして塚を造り木を植え里程標としまた車馬賃の目安とも
なった。 尚石畑は中山道の高宮宿と愛知川宿の丁度中間点で間の宿と呼ばれ
八幡神社付近には立場茶屋があり中山道往来の旅人で賑わったようで、
石畑は一里塚のさと と呼ばれる所以であらう。 」
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古い家の屋根上に、小さな屋根が付いている家を見たので、不思議に思い、
住民に聞いた。 家で火をたいたときの煙出し用に設けられたもので、
古い家だけに付いている、ということだった。
豊会館のすぐ先は上枝、下枝地区だが、ここをはなれると田んぼが散在して
いる。 一キロ歩いたところの右側に日吉山千樹寺があり、門前に「江州音頭
発祥地」の石碑と「伝統芸能扇踊り日傘踊り中山道千枝の郷」の碑があり、
その間に石製の下記説明文がある。
* 説明板「観音堂(千樹寺)と盆踊り 江州音頭発祥の起源」
「 天正十四年(西暦1586年)今から四百五年前、藤野太郎衛門常実が
兵火(永禄十一年五月七日織田信長の)後の観音堂を再建して、其れ竣成せし、
遷仏式を挙しが、旧暦七月十七日であった。 当日余興にと、仏教に因む
造り人形を数多く陳列し、又仏教弘道の一手段として、地元の老若男女を集め
手踊りをさせ、又、文句は羯諦羯諦波羅羯諦(かっていかっていはらかってい)、
波羅僧羯諦(はらそうかってい)、等(時の住職根與上人)経文の二、三句を
節面白く歌いつつ、手振り、足振り揃えて、多くの人で円陣を作り踊らせ、
来観の群衆もあまりの楽しさに参加して踊ったと伝えられる。
その後、毎年七月十七日、盆踊りを催し、枝村観音の踊りは遠近の人々で
益々多くなった。 弘化三年、藤野四郎兵衛(良久)は、観音堂を改築して、
その遷仏供養に古例の踊りを催せしが、特にこの時、種々の花傘とか華美なる
扇子を持ちて踊らせ、音頭(音頭取・桜川大竜)も陣新なる文句を作り、益々
好評を博し、その後他村の社寺は勿論、他共同の祝事には此、手踊りを催す
こととなり、今では、毎年八月十七日観音盆には扇踊り、日傘踊りを踊り、
好評を博している。 」
臨済宗永源寺派日吉山千樹寺は行基が創建した四十九院の一寺で、観音堂
とも呼ばれている。 信長の兵火に遭い寺は焼失しましたが、天正十四年(1586)
藤野喜兵衛の先祖、藤野太郎右衛門が再建した。 その落慶法要で時の住職が
境内に人形をたくさん並べ、お経に音頭の節をつけて唱い、手振り、足振り
拍子を揃え踊り出したのが江州音頭の始まりである。
これが毎年八月十七日の観音盆の伝統芸能絵日傘踊り、扇踊りとして今に伝えられ
ている。
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道が少し上り坂になると、宇曽川(うそがわ)があり、歌詰橋という変った名前 の橋が架かっている。 江戸時代の橋は数本の長い丸太棒を土台にして、 その上に土を被せた土橋だったというが、今は歩道橋は別という、しっかりした コンクリートの橋になっていた。 また、橋を渡った右側土手に宇曽川と歌詰橋 の説明板が立っている。
* 説明板「宇曽川と歌詰橋」
「 宇曽川
宇曽川は、秦川山及び押立山に水源があり、ここ石橋を経て琵琶湖に注いでいる。
この川は、古い時代から水量が豊富であったため、舟運が盛んで人や物資のみで
なく、重い石も舟運を利用して運んでいた。 また、木材は、丸太のまま上流
から流したという。 このことから「運槽川」と呼ばれていたが、中世になって
、うそ川となまったようである。 」
「 歌詰橋
宇曽川に架けられていたこの橋は、かつては十数本の長い丸太棒を土台にして
その上に土を塗りこめた土橋であった。 天慶三年(960) 平将門は藤原秀郷に
よって東国で殺され首級をあげられた。 秀郷が京に上るために、中山道の
この橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に
対して歌を一首といい、いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。
そこがこの土橋であったとの伝説がある。 以来、村人はこの橋を歌詰橋と
呼ぶようになった。 」
橋を渡ると豊郷町上枝から愛荘町石橋になり、一.五キロほど
で愛知川宿である。
歌詰橋を渡った次の交叉点の左側に浄土真宗本願寺派普門院があり、
本堂裏に将門首塚がある。 塚に小さな祠が乗っているが、実際は円墳の
山塚古墳である。
次いで石橋から沓掛に入る。 歌詰橋から20分ほど歩くと左手側に
「式内石部神社」の標石があり、対の常夜燈の奥に石造神明鳥居があり、参道
には石灯籠が並んでいる。
本殿は一間社流造りで、延喜式に記載されている古社である。 石を扱う石作部
(いしつくりべ)に由来する神社である。
宿場入口の沓掛の三叉路には「旗神豊満豊満大社」の道標があり、左に行くと
豊満神社で、中山道は右である。
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豊満神社(とよみつ)に立ち寄る。 神社の森が見えてきて、神社に入る両脇には常夜燈 が点在していた。 道標から千五百メートル程か? 正面には国の重要文化財 である、四脚門がある。
* 説明板 重要文化財「豊満神社四脚門(よつあしもん)」
「 豊満神社は、古くより軍旗の守護神として崇敬され、祭神は大国主命・足仲
彦命・息長足姫命・誉田別命の四神を祀る。 現在の四脚門は鎌倉時代後期に
建てられ、形式は本柱の前後に四本の控柱があることから四脚門と呼ぶ。
屋根は入母屋造りで、葺材料は檜皮とこけら板を交互に葺いた「よろい葺き」の
珍しい工法である。 建物は柱を太くして力強さと安定感を持たせる反面、
柱上の組物・軒垂木は繊細に作り巧妙な均整美をつくる。 また軒反りを強くし、
屋根勾配をゆるくおさえて軽快感をもたせた、県内の代表的な四脚門である。
昭和六十三年三月 滋賀県教育委員会 」
「 ポイ捨てに注意!! 」 などの注意書きがあり、門の周りがてすりで
囲まれていた。 神社の境内には脇門から入ると、広い敷地で、立派な社殿
がある。 豊満神社は籏神豊満大社ともいい、 地元では、 旗神さん 、 御旗さん
という呼び名で、親しまれている。 境内の竹を切って旗竿にすると戦いに
勝つと、源頼朝を初め多くの武将が崇拝しました。 御参りを済ませてから、
少し休憩し神社を後にした。
三叉路に戻り、沓掛と中宿の境を流れる小川を左(西)に入ると井上神社がある。
愛知川小学校を過ぎると右側に河脇神社の台輪鳥居が聳えている。
河脇大明神と称し、愛知川筋の上に御河辺神社、中は当社、
下には川桁神社の三社が祀られている。
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愛知川小学校前を通って次の交叉点(県道214号と交差)を左折すると
近江鉄道愛知川駅まで二百六十メートルである。 駅舎のトイレ前の郵便ポスト
はこの地の残る伝統工芸・びんてまりを形どったものである。
交叉点を越えると「中山道 愛知川宿」と書かれた木のゲートが道路に
またがって立っている。
門をくぐると左側にある白漆喰の家が文化庁登録有形文化財の田中
新左衛門旧本宅である。 田源の屋号で呉服、蚊帳、麻織物を商った近江商人
の豪商で、現在は湖魚季節料理の近江商人亭三角屋中宿店になっている。
右側に郡分(ぐんわけ)延命地蔵尊のお堂があり、地蔵堂脇にはエプロンを掛けた
多数の地蔵や道祖神が集められている。
地蔵堂脇を流れる中の橋川は中宿と堺町の境であり、神崎郡と愛知郡の境である。
これが郡分地蔵の由来である。
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郡分地蔵堂前に「愛知川宿北入口」の標石があり、愛知川宿に到着である。
愛知川宿は中世東山道時代からの宿駅で、近江麻布の生産及び集散地として栄え、
東海道土山宿への御代参街道を控え、大いに賑わった。
天保十四年(1843)の 「中山道宿村大概帳」 によると、家数199軒、宿内人口
929人(男471人、女458人)、本陣1、脇本陣1、問屋3、旅籠28軒で、
中規模の宿場町であった。
街道を進み、信号交差点にて県道214号を横断すると、左側にポケットパーク
があり、園内にはむちん橋由来、広重画恵智川レリーフ、
明治四年(1871)郵便事業創業時に使われた書状集箱(しょじょうあつめばこ、
黒ポスト)が再現されていて、この書状集箱は現役である。
ここから泉町になる。 右側に「親鸞聖人御旧跡」の標柱があり、奥に
真宗大谷派負別山宝満寺がある。
* 「 宝満寺は昔は豊満寺といわれ豊満神社の別当寺とされ、 江戸時代には愛知郡内他に二十五寺の末寺をもつ大寺院でした。 宝満寺には親鸞手植えの紅梅や直筆の掛け軸があります。 当寺は本願寺中興 の祖といわれる蓮如上人御影道中の定宿として知られています。 御影道中とは蓮如上人没後、北陸での教化の苦労とその徳を偲んで、 京都東本願寺と吉崎御坊(現福井県あわら市、吉崎別院)間を徒歩で往復する 行事です。 毎年五月七日の晩に愛知川宿の家々は提灯を掲げ、御影道中の一行を迎えます、 宝暦二年(1752)から継続しています。 」
街道に戻ると右側の日本生命愛知川営業部の辺りが西沢本陣跡である。
建坪百四十二坪で門構玄関付で、皇女和宮三日目の宿所となりました。
源町を進むと右側に八幡神社がある。
* 「 養老年中(717〜23)に宝満寺のあったところに居館が
あった愛智氏の守護神として勧進された、と伝えられる神社で、
聖徳太子が物部守屋との戦いで、身の安全を祈願したところ、神託により
この八幡神社に身を潜めて難を免れた。 太子は報養に田園を奉納した。
それ以来皇室の崇敬が篤かった。 本殿は寛文十一年(1671)頃に建立
されたと推定され、県の有形文化財に指定されている.。 」
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八幡神社の参道口左側の常夜燈横に高札場標石があり、ここが愛知川宿の
高札場跡である。
八幡神社参道の常夜燈の先に白い洋館と紅殻塗りの家(伊吹正化学工業)の間に
「脇本陣跡」の標石が置かれていた。 藤屋脇本陣の跡で、脇本陣は
建坪百三十一坪で門構玄関付でした。
また右側の時計メガネ宝石のタカダの向いに「問屋跡」の標石があり、
ここに問屋場がありました。
その先は御幸町で、左側に割烹旅館竹平楼(たけへいろう)がある。 門の右側
には「明治天皇
御聖蹟」の石柱が建っており、門を入った玄関脇には明治天皇が休憩した説明板
が掲げられている。
* 説明板「史蹟」
「 明治天皇明治十一年北陸東山御巡行の際十月十二日及び同月二十一日の両度
にわたり当邸に御小憩あらせられた。 當時の御座所は平屋建瓦葺で八畳の間に
六畳二間を連接し今尚よく舊規(きゅうき)を存している。 竹平楼 」
なお、竹平楼は宝暦八年(1758)、初代平八が「竹の子屋」の屋号で旅籠を
営んだことに始まり、四代目平八の時に竹平楼と改めた。 明治十一年(1878)
の明治天皇北陸東山道巡幸には侍従長の岩倉具視、大隈重信、井上馨、山岡鉄舟等
が随行した。 二百四十五年の歴史がある老舗で、建物は文化庁登録有形文化財で
ある。 鯉のあめ煮が名物である。
この先で愛知川宿は終わる。
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愛知川宿の西端の竹平楼を過ぎると、不飲川が流れている。 水の量が少ないので、気がつかないほどの川だが、中山道国道と合流する信号 交差点には、不飲橋の標示があった。
* 「 不飲(のまず)川は滋賀県愛知郡愛知川町と彦根市を流れ、
琵琶湖に注ぐ川で、源流は不飲池(野間津池)である。 井伊直弼が安政六年に
通船水路を開削し、年貢米の運送に使ったという川で、東海道本線が開通する
までは人の輸送にも使われ、琵琶湖を横断し、大津への近道だった、という。
愛智川郡史には 「 不飲池より発し愛知川を経て、柳川に至り、湖に注いで
いる。 不飲池は往古にこの池で激戦があり、池水、血を流すに至る。 地人
忌みて之を飲まず、よって名づくという。 或いはガスを含む毒水なら
ん。 」 とあるが、実際には湧き水が出ていたようで、毒水が流れていた訳
ではない。 現在は、湧き水もなく、小さなため池のようになり、とても飲める
ものではないとのこと。
藤原秀郷が平将門の首を京へ持ち帰る際に、将門の首を洗ったところ血で水が
濁ってしまった為、この川の水を飲まなくなったと云うことから名が付いた、
という説がある。 」
不飲川橋を渡ると中山道愛知川宿ゲートがあり、不飲橋の信号交叉点で、中山道は
国道8号に合流する。 合流した先の右手駐車場の奥に一里塚跡の標石があり、
愛知川の一里塚跡である。 江戸より百二十二里目である。
御幸橋の手前、左の祇園神社前の道に進むのが中山道。
* 「 祇園神社はかって八幡神社の脇に山王社として鎮座 したが、天保九年(1838)、愛知川の河畔に無賃橋の橋神(守護神)として遷座し、 祇園社と改称された。 毎年七月中旬の祇園納涼祭りでは湯立神楽が行われ、 明治初期より近江鉄道と東海道新幹線の間の愛知川河川敷にて勇壮な手筒花火 が奉納される。 」
旧道を進むと祇園神社の脇に弘化三年(1846)地元有志によって建立された 愛知川の渡しの常夜燈(睨み灯籠)がある。 この常夜燈は愛知川を挟んで対岸の常夜燈と対になっていて、この間が 愛知川の渡し場跡であり、無賃橋の架橋跡である。
* 「 弘化三年(1846)、川を照らすことにより旅人の水難防止
と安全を守るため、 地元の有志が金を出し合って、高さ四メートル三十五センチ
の大きな常夜燈を建てた。 橋はその後、何度も場所を変えたようで、そのたび
に常夜燈の位置も変わったらしいが、 現在は 祇園神社境内にある。 」
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愛知川に出ると右手の御幸橋を渡る。 愛知川は恵智川、越知川、愛智川とも書かれ、近江一の大河で、鈴鹿山系に源を 発し、琵琶湖に注ぐ。 この川は別名人取川とも呼ばれ、出水の度に多くの人命 を奪ってきた。 現在の御幸橋は明治天皇巡幸に際し、馬車を通すために板橋が 新設されたことから御幸橋と命名された。
* 「 現在の橋は昭和三十六年、国道8号の開通に伴い、
愛知川に架けられたものだが、 明治十一年に架設された木橋が明治天皇巡幸
を記念して「御幸橋」と名付けられたので、その名を踏襲した。
木橋からは四代目になる橋である。
それ以前の橋は「むちん橋」と呼ばれていた。 江戸時代、幕府の政策で橋を
架けることを原則として禁じていたので、渡しか、川を歩いて渡っていたため、
水難事故は絶えず、大洪水のたびに溺死者を出してきた。 文政十二年(1829)、
愛知川宿の成宮弥次右衛門と五個荘の四人が
彦根藩に申し出て、私財を拠出し、数年の歳月をかけ、天保二年(1831)に竣工
した。 この橋は渡り賃を取らないところから無賃橋(むちんばし)と呼ばれ
ました。 成宮家には西園寺藤原実丈(さねたけ)の歌 「旅人の あわれみかけて
むちんばし ふかき心を 流す衛知川(えちがわ)」が、また、
愛知川に架かる橋をつくり上げていく過程が精密な描写で描かれている「愛知河
架橋絵巻」が家宝として残されている。 」
安藤広重の木曽街道六拾九次の内「恵智川宿」には、
愛知川の宿場風景ではなく、郊外の愛知川に架かる橋を描いている。
この無賃橋を画面中央に、そして画面左側奥(遠景)に西国三十三所の三十二番
札所、観音正寺がある観音寺山、右側の橋の袂の標柱には「むちんはし はし
銭いらす」と記され、橋上には天秤を担ぐ近江商人などを描いている。
橋を渡ると、近江商人の発祥の地といわれる五個荘町(ごかしょうちょう)。
渡り詰めの簗瀬北交差点を左折し、川沿いの道に入り、近江鉄道の愛知川南踏切
を渡ると右側に「太神宮」その下に「講中 」と刻まれた常夜燈がある。
これは文政八年(1825)建立の大神宮常夜燈で、愛知川対岸と対をなす
睨み灯籠である。
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常夜燈を右折し、狭い道に入る。 この道は中山道の旧道で、国道とほぼ平行して
いるが、車の通行はほとんどなく、人も歩いていない道である。
一本目を右折すると、左側に秋葉山永代常夜燈がある。
このあたりは静かな集落で、右側にかっては茅葺だったと思われるトタン屋根
の軒に、火災予防の「水」と書かれた魔よけがある家がある。
家の構造からは農家のように思われるのだが、どうであろうか?
街道を進むと右側に「東嶺禅師御誕生地」の石碑が立って
いる。
* 「 東嶺(とうれい)禅師は、京都妙心寺の高僧、白隠禅師
の弟子で、東嶺円慈禅師のことである。
享保六年(1721)ここで誕生し、九歳で出家、駿河の白隠禅師の元で修行し、
臨済宗中興の祖となり、寛政四年(1792)七十二歳で没しました。
生涯の大半は静岡県三島市の竜澤寺(りゅうたくじ)で送り、晩年、この地に戻り、
齢仙寺でなくなった。 滋賀県日野町川原の臥竜山妙楽寺には、禅の大悟を得た
という遺跡や開悟偈文(げもん)が残る。 」
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電気店前を左に入ると草分け地蔵があり、更に奥に進むと左側に厳島神社がある。
厳島神社の境内に芭蕉の 「 八九間(はっくけん) 空で雨降る 柳かな 」と
いう句碑がある。 元禄七年(1694) 芭蕉五十一歳の時の句で、春雨が止んだのに、
八九間もある柳から雨滴が落ちてくる様を詠んでいる。 うしろに芭蕉句碑を
建てた市河公風の句碑 「 果寿美かと 思ふほどなり 初霞 」がある。
街道に戻り、近江鉄道の小幡踏切を渡る。 小幡新町バス停を過ぎると右側
に 「聖徳太子御旧蹟跡 法皇山善住寺」と刻まれた石柱があり、
その奥に延文二年(1357)創建の浄土宗法皇山善住寺がある。
その先の右側には「小幡神社御旅所」と刻まれた大きな石柱が建っている。
御旅所とは祭礼の際に御神体を乗せた神輿が休憩または宿泊する場所である。
境内の奥には山王神社が祀られている。
すぐ先の右側に元禄年間(1688〜1704)創建の浄土宗小幡山長寶寺がある。
その先の小幡バス停前の交叉点は五差路になっていて、左側はY字路になって
いる。 このY字路は左に進むと近江鉄道の五個荘駅で、右の道は御代参街道で
ある。
* 説明板「御代参街道」
「 御代参街道は、多賀から伊勢への近道で、八日市や日野を経て東海道の
土山宿に続き、伊勢や多賀大社への参詣道である。 退位した天皇(上皇)が
伊勢神宮や多賀大社に御参りに行くならわしになっていたのが、何時ごろからか、
貴族に命じて代参させるようになり、また、大名や家臣たちもそれをまねて
御参りするようになったので、そう呼ばれるようになったのである。 また、
近江商人が伊勢方面へ商いに出かけるのに使用した道でもあった処から
市場通りとも呼ばれました。 寛永十七年(1640) 、春日局は二代将軍秀忠の
病気平癒祈願の為、伊勢神宮から多賀大社へ通行した時も使われました。 」
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御代参街道の追分道標は二又に分かれる家の垣根の中にある。
享保三年に建立されたもので、「右 京みち 」左 いせ ひの 八日市みち」と
刻まれている。
このあたりはもとの小畑村である。 道はまた、三叉路になるが、この手前を
右折する。
この角は旧中仙道ポケットパークで、明治五年(1872)建立の大神宮常夜燈
が立っている。
右折すると右側に臨済宗妙心寺派慈光山正眼寺がある。
* 「 建武年間(1334〜36)の創建で、 国指定重要美術品の安南国書(あんなんこくしょ)と呼ばれる御朱印状 が残されている。 これは近江商人が安南(ベトナム)と朱印船交易をした証 だというものである。 」
大同川の砥心橋を渡り、突き当たりを左折すると五個荘小幡から東近江市宮荘町に
入る。 これから先は五個荘の近江商人の家があるところである。
道は広くなり、左側には川が流れていた。
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五個荘竜田町を進むと右側の東近江市役所支所の前に名残の松がある。
右側に堂々とした地蔵堂があり、
ここから先の街道筋には趣のある旧家や紅殻塗りの塀を数多く残している。
すぐ先の左側のポケットパークには幕府が文化三年(1806)に作成した中仙道分間
延絵図の五個荘部分が掲げられている。
五個荘三俣町に入ると右側に松居家住宅がある。
* 「 大正十四年(1925)に竣工した木造二階建で、外装はモルタル仕上げに なっていて、昭和三十九年(1964)まで五個荘郵便局として使用された。 国の有形文化財になっている。
その向いに西澤梵鐘鋳造所があり、門前に鐘が置かれている。
当家は九代三百年に渡り、代々梵鐘鋳造を家業としてきた。
梵鐘の鋳型造りに野洲の粘土や琵琶湖の砂が適しているという。
中山道は直進するのだが、折角来たので近江商人の屋敷をみることにした。 三
俣バス停の先の交叉点を右折し、国道を越えて進むと左側に、てんびんの里
文化学習センターがあり、三階に近江商人博物館がある。
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五個荘小学校で左折し、文化学習センター駐車場の先を右折すると右側に「 近江商人のふるさと」の看板と常夜燈、とお堂、左に金堂の標示板がある。
* 説明板「金堂の町並み」
「 五個荘町は湖東地方のほぼ中央に位置し、北に和田山、西に繖山、南に
箕作山が囲み、残る東は愛知川が流れています。 平野部には古代の条里制を
遺す水田が広がる田園地帯で、金堂はこの真中にあります。
江戸時代、金堂ははじめ幕府領だしたが、貞亨二年(1685)以降、明治四年(1871)
までは大和郡山藩領地で、元禄六年(1693)には金堂に陣屋が置かれました。
金堂の町割は、条里制地割を基礎に、集落中心に陣屋、その三方に弘誓寺・
勝徳寺・安福寺が配され、周辺に農家が集まり、集落東側に大城神社が鎮座し、
更にその外側には条里制水田の景観が広がる集落構成が出来上がりました。
五個荘町は近江商人発祥の地で、金堂からも多くの商人が輩出しました。
明治十三年(1880)には全戸数の三分の一に当たる六十七軒が呉服・太物
など繊維製品を扱う商業に従事し、うち十三軒は県外に出店を有していま
した。
商人の本宅は、広大な敷地を板塀で囲み、内部に切妻や入母屋造りの主屋を中心
に数奇屋風の離れや土蔵・納屋を建て、池や築山を配した大きな日本庭園が特徴
です。 農家住宅は、切妻もしくは寄棟造平屋の草葺屋根の主屋と納屋を持つ
伝統的な形式です。 以上、金堂の町並は湖東平野を代表する農村集落で、
加えて近江商人が築いた意匠の優れた伝統的な建造物群として、歴史的景観を
保存しています。
平成十年十二月二十五日に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され
ました。
平成十二年三月 五個荘町教育委員会 」
道幅が広がり、その先の右側に大城神社、左側に日若宮神社がある。 大城神社の主祭神は高皇産霊大神、菅原道真公で、歴史のある神社である。
* 説明板「大城神社 社歴」
「 第三十四代推古天皇二十九年(621)、厩戸皇子大臣が
小野妹子に命じて当地に金堂寺を建立せしめられしに創り、其の護法鎮守の為、
字・大城の地をトして社檀を造営勧請奉斎せられたるを創始とす。 後嘉応二年
(1170)に至り西南続きたる現地に社殿を改造し天満天王八幡大神を勧請し同殿に
合祀し当山の前五箇荘総本社と崇敬せり。 天満宮の称は蓋しこの頃より始まり
しものなり。 文亀三年(1503)には、地頭職那須与一の末(裔)が金堂修理と社宇を
加造し以って家運長久を祈願せり。 祭礼は卯月吉辰勤行の恒例とせり。
佐々木氏観音城を繖山に築くに至り城の艮位に方れるを以て守護神とし崇敬特に
篤く神田を寄進し年々幣物を喬し際しせられしが、元亀年間(1570年頃)
度々織田氏の兵火に罹り、佐々木氏の没落と共に当社の旧記塔も紛失す。 徳川の
世となり、大和郡山候柳沢氏領となり、代官陣屋を当地に設けられるや、
年々一月三日藩侯代参の儀あり神楽を献ぜられ撒下の供物を贈進する例となり、
例祭には奉行参拝して祭儀を警衛し以って明治に及べり。 天和二年(1682)三月
故あって大梵天王を七里村に分祀す。 五箇神社是なり。 安政二年(1855)四月
八幡大神を川並村塚本村に分祀す、結神社八幡神社是なり。 明治九年(1876)に
村社に被制定同十四年郷社に加列せらる。 」
少し行くと、金堂の中心地に到着。 右側の空き地奥にあるのが金堂始まり の寺といわれる安福寺。 間口三間奥行四間のお堂で、境内には五輪塔が ある。 この五輪塔は総高百九十七センチの七尺塔。 四方に四門の梵字を配し、 地輪に「正安二庚子二月日」「願主沙や蓮口口之」と刻まれている。 正安二年は 西暦千三百年で、在銘塔としては県下最古の五輪塔である。
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右折すると、道が狭くなり、寺前・鯉通りで、軒の立派な屋敷が見える。
これらはみな元近江商人の屋敷である。
この通りには近江商人屋敷の旧外村繁家 、旧外村宇兵衛家などがあり、
五百円なりで見学できる。
五個荘商人を代表する外村宇兵衛家は橋を渡った右側にある。
* 説明板「近江商人屋敷 外村宇兵衛家」
「 五個荘商人を代表する外村宇兵衛家は、近江商人として活躍していた
外村与左兵衛門浄秋(六代目)の末子嘉久が、享和二年(1802)に分家して
宇兵衛家を興したものです。 文化十年には独立して商いを始め、努力の末に
東京・横浜・京都・福井などに支店を有し呉服木綿類の販売を中心に商圏を広げ
ました。 明治期には全国長者番付に名を連ねるなど近江を代表する豪商として
の地位を築きました。 屋敷は家業の隆盛とともに数次にわたる新増築が重ねられ、
主屋、書院、大蔵など十数棟にわたる建物が建てられていました。 また、庭は
作庭当時、神崎郡内一番の庭と評せられる程立派なものでした。 しかし残念
ながら建物や庭の半分ほどが取壊され、旧状を損なっていました。 そこで
五個荘町が、茶室・四阿の復元、主屋・庭の改修や整備を行い、明治期の姿
に修復し、てんびんの里伝統的家屋博物館として公開するものです。 五個荘
商人の本家の生活文化にふれてみてください。
平成六年六月 東近江市五個荘近江商人屋敷 外村宇兵衛邸 」
中江家は明治三十八年(1905)三中井(みなかい)商店を発足し、朝鮮、中国に
二十余の百貨店を展開しました。 しかし敗戦と共に終焉を迎えました。
邸宅には隆盛を極めた往時の三中井を偲ぶことができる。
旧外村繁家は金堂集落の中心に位置し、隣地には稲荷神社、金堂
陣屋跡がある。 澪標(みおつくし)の作家・外村繁の生家で、
外村繁文学館になっている。
* 説明板「近江商人屋敷 旧外村繁家」
「 外村繁家は、隣家の外村宇兵衛家の分家にあたり、明治四〇年当主吉太郎が
本家の勤めから独立、東京に呉服木綿問屋を開き近江商人として活躍しました。
外村繁(本名 茂)は明治三十五年に三男として生まれ、京都第三高等学校を経て、
東京帝国大学に進み文学を志しました。 父の死後一時家業を継ぎましたが、再び
文学の道に入り、芥川賞候補や池谷賞、野間文芸賞等を受賞し数多くの作品を
遺し、昭和三十六年、五十八歳で永眠しました。 遺族の御協力により近江商人
屋敷作家外村繁の生家として永久に保存するものです。
平成二年四月 東近江市五個荘近江商人屋敷 外村繁邸 」
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寺前・鯉通りを引き返すと、突き当たりに 弘誓寺(ぐぜいじ)がある。 なお、 隣に淨栄寺がある。
* 「 山門は元禄五年(1692)の建立で、本堂は入母屋造り、 本瓦葺き、間口十八間、奥行二十間で、国重要文化財に指定されている。 」
街道に戻る途中に 「観音寺へ1.5km」の表示がある。 右折して進むと 突き当たりが観音寺山の下の石寺の集落に至る。
* 「 石寺集落は、近江源氏の佐々木氏が守護として勢力を 張った所で、山の中腹に西国霊場の観音正寺がある。 西国三十二番札所の 観音正寺は聖徳太子の建立と伝わる古刹で、万事吉祥の縁結びの祈祷道場で ある。 観音寺城は永禄十一年 (1568)、織田信長の上洛を阻止すべく戦った六角承貞(佐々木氏の分流)の城で、 落城の時、観音正寺と共に焼き尽くされた。 」
街道に戻ると、 北町屋町の標識の手前左側の小路に天保十五年(1844)建立
の常夜燈があり、
「右京道 左いせ ひの 八日市」と刻まれ、御代参街道道標を兼ねている。
信号交差点を越すと左側のポケットパーク内に「明治天皇北町屋御小休所」の
石碑があり、明治十一年(1878) 北陸東海巡行の際、向いの市田家で御休息
された。 邸内には元帥伯爵東郷平八郎謹書による「明治天皇御聖蹟碑」が
ある。
右側に真宗仏光寺派慈照山蓮光寺があり、そ先の右側に市田庄兵衛家の本宅がある。
当家は江戸時代から呉服繊維商として京都、大阪で活躍し。
建物は明治初期の建築で、奥に細長い京町家風の建築様式である。
平成十三年(2001)に北町屋町が屋敷を購入し、保存、活用している。
道の右側に大きな「大郡神社」の社標があり、その奥に常夜燈と鳥居がある。
大郡神社の石柱に東郷平八郎謹書とあり、上述の明治天皇御聖蹟碑の建立と同時期
に建てられたのだろう。
* 「 大郡神社(おおこりじんじゃ)は北町屋の鎮守で、 社殿は国道8号線を越えた先に鎮座している。 神社を中心とした東西南北400m程は奈良、平安時代に近江國に置かれた 神崎郡役所(郡衙ぐんが)の大郡遺跡である。 遺跡からは役人(郡司)が使用し た土器や硯、庁屋(ちょうおく)の布目瓦等が出土している。 」
信号交差点で県道209号を横断すると右側に茅葺き屋根の旧片山家住宅が
あり、角に天保八年(1837)の建立の立派な金毘羅権現常夜燈が立っている。
ここは大名、武家、公家等が休憩した茶屋本陣跡で、ういろうが名物でした。
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道脇の農家には、切妻あるいは寄棟造りの茅葺屋根が多く残っていた。
武州路、上州路、信濃路、木曽路、美濃路そして近江路とあるいたが、
これだけ立派な茅葺屋根が残っているところはない。
すぐ先の町小路バス停右の小路口に享和三年(1830)建立の観音正寺道標「三十二
番かんのん正寺」があり、繖山(きぬがささん)観音正寺への道標である。
その先で国道8号に合流、合流点に「てんびんの里」の石碑が立っている。 国道に合流したら次の交差点で右折し、すぐの自治会館
前を左折して国道と並行する一本右の道に入ると清水鼻の集落である。
入ってすぐ右側に屋根に覆われた今も清水の湧き出す井戸がある。
ここは清水鼻の名水と呼ばれ、立場もあったところで、傍に立つ石碑には
「近江ノ国 清水鼻の名水 旧中山道」と刻まれている。
* 説明板「湖東三名水の一つ、清水」
「 昔から湖東の三名水(湧水)が、旧中山道の町内の道沿いにあります。
古くは交通の要衝として栄えた当地では、今も湧水が絶えなく、道行く人達
にも潤いを与え、喜ばれています。
湖東三名水とは、「清水鼻」、「醒井」、「十王村」の三つを指す。
五個荘清水鼻町自治会 五個荘地区まちづくり協議会 」
右側の浄敬寺を過ぎると五個荘清水鼻町から安土町石寺に入る。
フードショップタケヤスを左折すると右側に大神宮常夜燈があり、後ろに
愛宕神社の祠がある。 直進する道は八幡道(八風街道)で近江八幡に
通じている。
緩い坂を下ると旧道は国道8号線に合流するが、すぐ右の橋を渡って国道に
並行している水路と田圃の間の道を進む。 これが旧道。
その後国道と新幹線が入れ替わり、新幹線の右側を
更に十二分ほど進むと「石寺営農組合農業倉庫」前に綺麗な橋が見えてくるから
左折してその橋を渡る。
右に見えているのが石寺集落で、右折して北西へ
進むと安土城跡に行ける。
新幹線の高架を潜り、歩道を進み、東老蘇1号橋地下道で国道8号を横断
し反対側に出ると
「安産守護 交通安全祈願 史跡老蘇の森鎮座 鎌宮奥石神社」の案内板
と「中山道 東老蘇」の道標が立っていて、道標の右側面には「武佐宿へ一里」
と刻まれている。
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少し歩くと左に「老蘇の森→」「奥石神社→」の標識があり、道の右側には 「鍬宮 奥石神社」の標柱と対の常夜燈、そして右の奥に森が見え、参道にそって 常夜燈が並んで建っている。 この森は国史跡の老蘇の森である。
* 「老蘇の森由来」 (鳥居の横に立っていた説明板)
「 古来老蘇の森一帯は蒲生野と讃えられ老蘇・武佐・平田・市辺の四ヶ村周辺
からなる大森林があった。 今尚近在に野神さんとして祀れる大杉が老蘇の森の
樹齢に等しいところからもすでに想像されるが現在は奥石神社の鎮守の森として
其の名を留むるのみで、面積は六十反歩を有し松・杉・桧等が生い茂ってゐる。
奥石神社本紀によれば昔此の地一帯は地裂け水湧いて人住めず七代孝霊天皇の
御宇石辺大連翁等住人がこの地裂けるを止めんとして神助を仰ぎ多くの松
・杉・桧の苗を植えしところ不思議なる哉忽ちのうちに大森林になったと云われ
ている。 この大連翁は齢百数十才を数えて尚矍鑠(かくしゃく)と壮者を凌ぐ程
であったので人呼んで「老蘇」と云ひ、この森を老蘇の森と唱えはじめたとある。
又大連はこの事を悦び社壇を築いたのが奥石神社の始めと傳えられている。 」
老蘇(おいそ)の森は二千年以上の前の孝霊天皇の時代には、この地は地が割れ
水が湧き出て、人の住めるところではなかった。 石辺大連が神の助けで、
松、杉や檜を植えたところ、大森林になった、と伝えられるところである。
昔から文人の間で有名な森で多くの人が訪れている。 東関紀行の著者は、この森
を訪れた印象を
「 おいその森という杉むらあり。 下草深き朝露の、霜にかはらむ
ゆくすえも、はかなく移る月日なれば、遠からずおぼゆ。 」 と、綴り、
「 かはらじな 我がもとゆひにおく霜も 名にしおいその 森の下草 」
と詠んでいる。
森に入ると鳥居があり、更に進むと奥石神社の社殿がある。 奥石神社は石辺大連
が社壇を築き、 祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)である。
奥石神社は、繖山(きぬがさやま)を御神体とする原始的根元的神社で、延喜式
神名帳にある古く格式のある式内社で
ある。 三間社流造り桧皮葺きの本殿は天正九年(1581)織田信長が寄進し、
柴田勝家が普請奉行を勤めました。
鳥居は天明四年(1734)領主の旗本根来新右衛門が寄進したものである。
* 「史跡老蘇の森鎮座 式内 鎌宮 奥石神社」
(本殿前に立っていた説明板)
「 景行天皇の御宇、日本武尊蝦夷征伐の御時、弟橘姫命は上總の海にて海神
の荒振るを鎮めんとして、「我胎内に子存すも尊に代わりてその難を救い奉らん
霊魂は飛去り江州老蘇の森に留まり永く女人平産を守るべし」と誓い給ひて
その侭身を海中に投じ給ふ云々とあり、爾来安産の宮として祈願する諸人
多し。 」
* 説明板「奥石神社本殿」国指定重要文化財 三間社流造
檜皮葺 桃山時代
「 三間社流造の庇の間に建具を設けて前室とし、さらに向拝(こうはい)をつける
形式は滋賀県に中世の遺構が多く古式の流造がひときわ優美に発達したもので
ある。 この本殿は天正九年の再建で、庇の間は開放としているが中世に発達した
形式を踏襲しており、唐草文様を透彫りした蟇股や彫刻をほどこした手挟(てばさみ)
、あるいは母屋の腰廻りの嵌板(はめいた)に配列した格挟間(こうざま)など、
各所に華麗な装飾をつけた当代第一級の本殿建築である。 本殿の再建は織田信長
が城下町を形成する施策に関連したものと考えられ、棟札はその考証の好資料と
なるので、銘文を左記に記載した。
棟札銘文(棟札表)
江州佐々木御庄内老蘇村御社建、天正九年正月廿六日
願主者柴田新左衛門尉家久美州西方池尻住人也、天正九年辛巳書之畢
(棟札裏)
大工 西之庄左衛門三郎 筆者 観音寺住僧圓王院定長
八日市藤左衛門内口七是也
平成十年十二月 安土町教育委員会 」
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境内には賀茂真淵と本居宣長(右写真)の歌を刻んだ歌碑が建っていた。
「 夜半ならば その森の郭公 今もなかまし 忍び音のころ 」
(本居宣長)
「 身をよそに いつまでか見ん 東路の 老蘇の森に ふれる白雪 」
(賀茂真淵)
* 「 神社の境内には誰もいなくしーんと静まり返り不気味な くらいだった。 上を 見上げると、大きく成長した杉の巨木が聳えていた。 しかし、老蘇の森も、 今や、奥石神社の境内とその隣接地が残っているだけになってしまった。 それでも幽玄で、手が加えられていない、自然のままなのはよかった。 」
森を出て、街道を西に向かう。
東老蘇公民組合前に「←陣屋小路」の道標があり、向いの陣屋小路を進むと
「根来陣屋跡」の石碑と説明板がある。
* 説明板「根来陣屋跡」
「 中山道沿いの東老蘇公民館前の小路を古くから陣屋小路と呼んでいる。
その突き当りの当地に江戸時代根来陣屋があった。 鉄砲の根来衆で有名な根来家
始祖盛重は和泉国熊取谷(熊取町)中左近家出身で根来寺の僧であった。
秀吉の根来寺焼き討ち後家康の家臣となる。 数々の戦功をたて大和・近江・関東
に領地(知行所)を拝領し三四五〇石の大旗本となる。 当地が根来家の知行所と
なったのは寛永十年(1633)東老蘇六八六石と西老蘇十三石であった。 元禄十一年
(1698)領地替で関東の一五〇〇石と愛知郡上中野・下中野八八六石、野洲郡五条・
安治・富波沢七〇〇石と交換、この時期当地に陣屋が設置され代官所を置いた。
江戸期の絵図に陣屋が描かれている。 東老蘇は代々坪田恒右衛門家が在地代官を
勤めた。 元禄十三年(1700)四代正国は奥石神社旧拝殿と鎧・兜(現存)を、
天明四年(1784)九代正武は参道の大鳥居(現存)を寄進する。 福生寺の本堂は
陣屋の書院を移築したものといわれている。 幕末、各大名・旗本は財政的に
破綻し江戸幕府は大政奉還し明治維新を迎える事となる。 江戸時代の東老蘇の
一端を後世に遺すため中山道道標二基とともにこの所に根来陣屋跡碑を建立した。
平成十四年十月吉日 東老蘇町づくり実行委員会 」
その先の左側に天正十六年(1588)の開基浄土宗老蘇山福生寺がある。
本尊は鎌倉中期作の木造阿弥陀三尊像で、本堂は根来陣屋の書院を移築したもの
という。 境内の轟地蔵堂には小幡人形による千体仏が安置されて
いて、安産に御利益ありと伝えられている。
轟川に架かる轟橋を渡る。 往時の轟川の川幅は狭く、三枚の石によって架橋
されていたという。 その橋石は現在、奥石神社公園地内に保存されている。
轟橋手前の右側に「轟地蔵跡」の標石と説明板があり、説明板の隣に愛宕山常夜燈
が立っている。
* 説明板「轟地蔵旧跡と轟橋」
「 現在福生寺に祭祀されている轟地蔵は中山道分間延絵図(重文 1806年)には、
この場所に画かれている。 平安時代の俗謡「梁塵秘抄」のなかに「近江におかし
き歌枕 老蘇轟 蒲生野布施の池‥‥」と歌われ、その轟にあやかって名付けら
れた。 轟地蔵は小幡人形の可愛いい千体仏で安産祈願のお地蔵さんである。
慶応元年(1865)の福生寺の絵図には轟地蔵の記載がなく、恐らく明治以後橋
改修時に移したものと考えられる。 往時轟川の川巾は狭く三枚の石橋が架かって
いた。 轟橋と呼ばれ、その橋石は現在、奥石神社公園地内に保存されている。
近江輿地志略に掲載された轟橋の歌三首
堀川百首 わきも子に近江なりせばさりと我文も見てまし 轟の橋 兼昌
夫木集 旅人も立川霧に音ばかり聞渡るかなとどろきのはし 覚盛
古 歌 あられふり玉ゆりすえて見る計り暫しな踏みそ轟の橋 読人不知
この案内板及び轟橋の欄干は「創意と工夫の郷づくり事業」で設置された
ものである。 」
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橋を渡った左側には文化十一年(1814)立の金毘羅大権現常夜燈がある。
安土老蘇郵便局を越すと右側に小祠があり、太いしめ縄が飾られて、
傍らの木札には「風雨災励 五穀豊穣」と記されている。
信号交差点手前の右側に新設の「中山道大連寺橋」道標があり、右面「内野道
右観音正寺 左十三仏」左面「内野道 右八日市 左安土」と刻まれている。
その先の左側の広場に御神燈と「奥石神社御旅所」の標石がある。
奥石神社の祭礼の際、神輿を仮に鎮座しておく場所である。
右の家並みの奥に林が見えると、 西老蘇地区である。
大きなお宮は西老蘇の鎮守、鎌若宮神社である。 本殿は一間社流造り
で、 寛政三年(1791)の暴風雨で本殿は破損し、同年再建された。
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その先の右側の東光寺の門前に「建部伝内之遺跡」と刻まれた石碑 がある。
* 「 浄土宗円通山東光寺は豊臣秀吉の祐筆だった建部伝内の 寓居跡で、伝内堂には元禄八年(1695)造立の建部伝内の木像が安置されて いる。 元は清水鼻にあり六角氏ゆかりの寺でしたが、観音寺城が落城すると この地に移つりました。 」
亀川交差点を越えると安土町西老蘇から西生来(にししょうらい)町になる。 そこから少し先で用水路を渡るが、その右側に「泡子延命地蔵尊御遺跡」と の石碑と「大根不洗い川」の石碑があり、 説明板には醒井宿の泡子塚と同じ伝説が書かれている。
* 「 茶屋の娘が旅の僧に一目惚れし、僧が飲み残した茶を 飲んだところ、妊娠し男の子を出産しました。 三年の時が経ち、子を抱いて 川で大根を洗っていると、旅僧が再び現れて「嗚呼不思議なるかな、この子の 泣き声が、お経を読んでいるように聞こえる」という。 娘が振り向いて旅僧 を眺めると、三年前に恋をした僧でした。 娘が仔細を話すと、僧が男の子に フッと息を吹きかけたとたん、泡となり消えてしまった。 僧は「西方のあら井の池の中に尊き地蔵あり、この子のためにお堂を建て安置 せよ」といって立ち去った。 その地蔵尊があった所です。 」
西生来中バス停を過ぎると右側に天正五年(1577)開基の浄土宗圓明山西福寺
がある。 山門脇の地蔵堂は泡子の僧が「泡と消えた子のために、あら井の延命
地蔵尊をお堂を建て安置せよ」との告げにより建立された地蔵堂で、堂内には
泡子延命地蔵尊が安置されている。 西生来の地名の由来でもある。
先に進むと右側の暮らしの衣料三喜屋の脇に「西生来一里塚跡」の標石があり、
江戸より百二十四里目の一里塚である。
蛇沢川(いさがわ)を渡ると武佐宿は目の前で、
牟佐神社手前の右側に「武佐宿大門跡」の標識があり、武佐宿の江戸方(東)
の入口である。
武佐宿は近くに近江商人の町である近江八幡があり、物資の往来が盛んに行われ、
伊勢に通じる八風街道の追分を控え、塩や海産物の往来で賑わいました。
天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によると、武佐宿は八町二十四間(900m弱)
の町並みで、家数は183軒、宿内人口537人(男272人 女265人)、本陣1、脇本陣1、
問屋2、旅籠が23軒であった。
武佐は牟佐、身狭とも書かかれましたが、江戸時代になると武佐に統一されまし
た。
道の右側のに牟佐神社は武佐宿の氏神で、市神大明神とも呼ばれ、境内に盛大な
市が立ちました。 境内の大ケヤキは樹齢三百年以上である。
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武佐神社参道口の左側に江戸時代には高札場があったようで、
武佐小学校の卒業生が十数年前に書いた案内板がその旨を表示していた。
武佐小学校を過ぎると右側にある白壁に連子格子の家は平尾家宿役人跡で
ある。
* 「 平尾家は宿場の伝馬人足取締り役人を勤め、庄屋を兼ね ました。 足利義満も口にしたと伝わる井戸椿井や古文書等を今に残して いる。 」
向い側の浄土真宗本願寺派太子山廣済寺の参道口の右側に「明治天皇武佐行 在所跡」の石碑がある。
* 「 廣済寺は推古天皇二年(694)聖徳太子による創建で、 元は天台宗でしたが嘉禎元年(1235)に改宗しました。 明治十一年(1878) 明治天皇巡幸の際、行在所となりました。 」
明治天皇御聖蹟のすぐ先の右側に冠木門があり、左に「武佐町会館」、 右側に「脇本陣跡」の看板がある。
* 「 武佐町会館が武佐宿脇本陣跡で、脇本陣は奥村三郎右衛門 が勤め、建坪六十四坪、門構玄関付でした。 敷地内には馬頭観世音文字塔と 愛宕大神碑がある。
脇本陣跡の斜め向かいにある旧八幡警察所武佐分署庁舎は明治十九年
(1868)に建てられた木造二階建ての洋館で、文化庁の有形文化財に登録されて
いる。 現在は隣に魚友楼に払い下げられ、魚友楼の洋館になっている。
なお、魚友楼は明治初期創業の割烹料理屋である。
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武佐町交差点の手前の右側に武佐宿中山道公園があり、東屋と武佐宿常夜燈 モニュメント、武佐宿の案内板が立っていて、象の絵が描かれている。
* 「 享保十三年(1728)安南国(ベトナム)より徳川第八代将軍吉宗に献上された象は 武佐宿に宿泊し、この先東海道に出て、途中姫街道を経由して、江戸まで 歩いて運ばれた。 」
武佐町交差点で国道421号線八風街道を横断する。
この八風街道は近世の新設で、往時の八風街道はまだ先である。
武佐町交差点を渡ると左側に休憩所「いっぷく処綿屋があり、御茶が頂け、
トイレがある。
その先に大橋家(商家・役人宅)の建物がある。
* 「 大橋家は米、油等を商い、十五代目金左衛門は伝馬所 取締役を勤めた。 上述の平尾家役人宅と同じように、 二階は低く虫籠窓、出格子の建物は塗篭壁で造られている。 宿内最古の建物 という。 」
対面(右側)の武佐郵便局が伝馬所(問屋場)跡である。
書状集箱(しょじょうあつめばこ)が復元されている。
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武佐郵便局の左手に門があるのが武佐宿本陣跡である。
* 「 武佐宿本陣は代々下川七左衛門が勤め、建坪二百六十二坪、 門構玄関付で、本陣門と土蔵を残している。 皇女和宮は下川本陣で昼食を摂り ました。 下川家はそのまま十字路まで続き、そこから右の道を見ると更に奥まで 屋敷が続き、さすが本陣家だけに広大な敷地であることが分かる。 」
旧本陣前にある料理旅館・中村屋は中山道近江路で唯一、現在も
営業を続ける旅籠であった。 小生は訪れた時はあったが
2010年12月10日に漏電による火事で全焼してしまったとのことである。
武佐宿が開かれた当初から創業していたと云う由緒ある建物だったので惜しい
限りである。
本陣先の交叉点を右折すると、八幡町への道である。 江戸時代の八幡町には
朝鮮街道が通り、商人の町として多いに賑わっていた。
交叉点の手前左に文政四年(1821)建立の道標がある。
* 「 道標には「いせ 三な口 ひの 八日市
道」と刻まれていて、八風街道追分道標である。 八風街道は八日市、鈴鹿山系の
八風峠を越えて伊勢に通じる街道である。 」
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交叉点を越えると右側に「安土浄厳院道」の道標があり、安土道の追分でも ある。
* 「 浄厳院は天正五年(1577)織田信長が伊賀と近江の浄土宗 総本山として再興した寺院である。 浄華宗と浄土宗との間で争われた「安土 問答」で有名である。
交叉点を越えた左側は松平周防守陣屋跡である。 武佐の地は川越藩の松平家の
飛び地領でした。
陣屋跡の並びに愛宕山常夜燈と愛宕山碑がある。 ここに西の高札場があった。
先に進むと左側に「武佐寺長光 従是三丁」の道標がある。 ここで、街道から
はずれて、長光寺に寄ることにした。
ここを左折し、法性寺前を通る。
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近江鉄道八日市線を越し、左に進むと右側に 長光寺の参道があり、奥に山門が見えてくる。
* 「 長光寺は高野山真言宗補陀洛山長光寺が正式名称で、推古天皇時代(592〜628) 聖徳太子が建立した 四十九院の一つで武佐寺と呼ばれました。 本尊は聖徳太子の手による千手子安 観世音菩薩で、今も安産の仏様として親しまれている。 秘仏で五十年に一度 の御開帳。 聖徳太子が妃(きさき)と共に老蘇の森を仮宮とした時、俄に妃が 産気付き難産に陥った。 そこでひたすら仏を祈ると千手観音の遣いの童子が 現れ安産に導きました。 童子が去った方角に八尺の香木があり、その根元に五色 に輝く霊石がありました。 この香木で千手観音を刻み本尊とし、霊石の上に本堂 を建立したのが武佐寺の始まりである。 」
東関紀行に「 ゆき暮れぬれば、むさ寺といふ山寺のあたりにとまりぬ。 」 と
書かれている。 長光寺になったのはいつか分からないが、このあたりを
長光寺村といったことを考えると江戸時代
ごろなのだろうか? 太平記に「 足利尊氏は後光厳天皇を奉じて、武佐寺に
逃れた 」 とあるので、 昔はかなり大きな寺院だったと思われるが、
今は小さな建物である。
* 「 「東関紀行」の著者は 「 まばらなるとこの秋風、
夜ふくるまゝに身にしみて、都にはいつし かひきかえたる心ちす。 枕にちかき
鐘の聲、曉の空に音づれて、かの遺愛寺の邊の草の庵の寢覺もかくやありけむと
哀なり。 」と秋の暮の寂しさをつづり、
「 都いでゝ いくかもあらぬ 今夜だに 片しきわびぬ 床の秋風
」 と詠んでいる。 」
境内のハナノキは樹齢六百年の大きな木で、春先には葉に先立って花が咲く
珍しい木である。 武佐寺建立時に聖徳太子が手植えしたと伝わる伝説の木で
ある。
街道に戻り中山道を進むと右側に愛宕山常夜燈と愛宕山碑がある。 ここは
西の高札場跡である。
突当りの近江鉄道八日市線を右折するがここは枡形で、この辺りが近江宿の西
見付跡で、武佐宿の京方(西)の入口である。
今日の旅はこれで終わり、近江鉄道の武佐駅から帰宅した。
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(所要時間)
高宮宿→(1時間30分)→伊藤忠兵衛生家→(1時間)→愛知川宿→(1時間50分)
→奥石神社
→(1時間10分)→武佐宿
愛知川宿 滋賀県愛知川町愛知川 近江鉄道愛知川駅下車。
武佐宿 滋賀県近江八幡市武佐町・長光寺町 近江鉄道武佐駅下車。