大伴神社を過ぎると、右側の信濃毎日新聞店の先で、右斜めの細い道に入る。
ここは望月宿の西の枡形跡である。
右側に馬頭観世音文字塔が立っている。 道は左にカーブしすぐに県道に合流
県道は緩やかな上り坂で、振り返ると歩いてきた望月の町並が見える。
御桐谷交叉点を越え、三井川を渡ると御桐谷西交叉点を越えたところで、県道と
分かれ左の上り坂に入る。 ここが御桐谷旧道東口で、「←中山道」の標識がある。
左側に風化した馬頭観音像があり、右手の佐久良公園を過ぎると三叉路で右に
進む。 この分岐点には「←中山道→」の標識がある。 道は左に右にカーブ
すると延享二年(1745)の寒念仏供養塔がある。 この辺りが青木坂である。 国道の
要璧に突き当たるのでそれに沿って右に行き、国道142号の下を抜けるとT字路を
右折する。 ここの「中山道→」の標識がある。 すぐに県道148号に合流。
旧小学校前バス停を過ぎると右側の横道に「右巡見道」の道標がある。
坂を上りきるとここからは緩やかな下り坂になる。
観音寺入口バス停を過ぎると右側ににごり池がある。 そこを過ぎると右側に
「←茂田井間の宿」の標識があり、その先の三叉路で県道と分かれ、右の道に
入っていく。 ここが茂田井宿の東口で、説明板が立っている。
* 説明板 「中山道茂田井入口」
「 望月宿を抜けると中山道は茂田井に至っている。茂田井は東の望月宿と西の
芦田宿の間にある日村で、現在は間(あい)の宿とも呼ばれている。ここは茂田井
への入口で、坂を下りひじめると、江戸時代の面影が残る民家や造り酒屋が軒を
連ねている。
寛保二年(1765)の大洪水で望月新町が道ごと流されたり、本町も大きな被害
を受けたため、茂田井村を望月宿の加宿にしようと江戸幕府に願い出たが却下
された経緯がある。 元治元年十一月十九日、天狗党水戸浪士の中山道通過に
際しては、茂田井村が小諸藩兵士四○○人程の宿となっている。 また、
文久元年十一月七日には、徳川十四代将軍家茂にm公武合体の犠牲となって降嫁
される孝明天皇の妹和宮の大行列が茂田井を通過するなど大きなできごとが
あった。
一里塚は瓜生坂頂上付近に続き、立科町茂田井の石原坂を上りきった左右に位置
しているが、現在は痕跡がみられるだけである。
望月町教育委員会 」
中山道はすぐに県道と分かれ、右へと伸びる、間の宿・茂田井(もたい)集落へ
入っていく。 道はゆるやかな上り坂。 左脇には用水路、澄んだ水が流れて
いる。
右手丘上に神明社がある。 宝永六年(1709)茂田井村下組初代名主の大澤茂右衛門が
願主となり、建立された社である。
その先から大きな家が続いている。
茂田井は道があまりに狭かったために、早くから主要道が迂回したという。
そのおかげで、集落内の家屋がそのまま残された。 その残された家々が美しい。
* 「 間(あい)の宿は宿場と宿場の中間に設けられたことから そう呼ばれたもので、大名や公家たちが休憩を取るため休み所が設けられていた。 しかし、茂田井の場合はそれと違い、望月宿の臨時的な宿場として利用されたようで ある。 茂田井集落の家は大きいので、望月宿に客が一杯の時は泊めてやって欲しい という依頼がある。 当時の農家は現金が手に入る手段が少なかったので、喜んで 依頼を受けたということで、望月宿の加宿のような役割を果たしてきた。 明治に入ると大きな家を改造し、二階で養蚕を始めた。 製糸業のある岡谷が近いの で、それを奨励する人が回ってきたからである。 今も屋根にその足跡が残る。 」
右側の屋敷門の軒下に酒林(杉玉)を吊った造り酒屋がある。
* 「 叶屋こと、武重本家酒造で、門の入口には杉玉にしめ縄。
新酒が出来たことを杉玉を造り掲げるのは江戸時代のやり方で、今でも中山道には
こうした酒屋が残っている。 明治元年(1868)第十二代当主、武重徳右衛門が酒造業
を創業、銘酒「御園竹」銘酒「牧水」の蔵元で、若山牧水が愛飲したと伝えられる
。 江戸後期の住宅、酒造設備等が国の有形登録文化財である。 」
道の反対側の建物前に酒をこよなく愛した漂泊の詩人、若山牧水の歌碑がある。
「 よき酒と ひとのいふなる 御園竹 われもけふ飲み つよしと思へり 」
「 白珠の 歯にしみとほる 秋の夜の 酒は静かに 飲むべかりけり 」
「 ひとの世の たのしみ多し 然れども 酒なしにして なにのたのしみ 」
坂の上にも白壁の堂々たる屋根を構えた造り酒屋蔦屋がある。
* 「 元禄二年(1689)創業の大澤酒造で、銘酒「大吉野」の
蔵元である。 元文二年(1737)〜明治四年(1871)まで茂田井村下組の名主、庄屋を
勤めた。
皇女和宮降嫁の行列費用として小諸藩に金十両を献納し銚子を拝領した。
当家は元治元年(1864)水戸浪士(天狗党)中山道通過の際、それを折ってきた小諸藩
の本陣になった。 小諸藩は水戸天狗党の戦闘能力の高さに恐れをいただき、一定
の距離を置いて追尾したといわれる。 」
酒蔵は元禄年間(1688〜1704)の建物である。
ここには大澤酒造民俗資料館としなの山林美術館が設けられている。
大澤酒造の外れの土塀の前に「旧茂田井村高札場跡」の説明板がある。
* 説明板 「旧茂田井村高札場跡」
「 江戸時代、庶民に法令を徹底させるため、ここに高札を掲げた。高札場は名主宅
前に設けられことが多い。大澤家は元文二年(1737)から明治四年(1871)に至るまで
茂田井村の名主を勤め、元治元年(1864)十一月十九日、水戸浪士(天狗党)通過の際、
それを追って来た小諸藩五〇〇人の本陣となった。 望月町教育委員会 」
上り坂を進むと左側に小川が流れ、大きな馬頭観世音碑が建っている。
ここを左に入ると諏訪神社がある。 社殿は文化十五年(1818)の再建で、立派な
彫刻が施されている。
集落の中を進むと左側に茂田井村上組高札場がある。
* 「 茂田井村は戸主が多いため、上組と下組に二人の名主が いました。 高札場は上組名主宅前にありました。 」
現在茂田井村上組は立科町茂田井、下組は佐久市茂田井と行政が分かれている。
集落はずれのやや急な坂は石割坂。 勾配がきつく大きな石があり、交通に不便だった
ので、石を割って中山道を開通させたことから、その名がついた。
坂を上りきると、左側の民家の隣の藪を切り開いたところに
茂田井一里塚跡の説明板があるが、一里塚の一般論が大部分で、当地に該当する部分は
「天保年間の茂田井村差出帳には、当時この両側に土塚があり、榎の根本が残って
いたとある。」のみである。 説明板と隣に「立科歴史コース 中山道 茂田井間の
宿」の標木が立っていた。
坂を下って西町公会堂前で県道に再び合流する。 分岐点の角に「中山道
茂田井間の宿入口」の標柱がある。 また、中北道標「←笠取峠4.4km 塩名田宿
10.9km→」がある。
左右に田圃が広がる平々とした光景の中を緩やかな下り坂を進んで行き、芦田川の
芦田橋を渡る。 中居交叉点の手前左側に「中山道芦田宿」と書かれた燈台風の燈籠と
道標「これより中山道芦田宿」があり、ここが芦田宿の江戸方(東)の入口である。
* 「 芦田宿は慶長二年(1597)に設置され、笠取峠を控えて
賑わったが、旅籠は六軒しかなかった。 旅籠は6軒と少ないのはなぜか?
太田南畝の壬戎紀行に「 蘆田の駅も又わびしき所也 宿あしくふ用心也」 とあり、
評判が良くなかった。
理由の一つは望月や八幡、塩名田がその後、宿場に加えられたことから宿場が増え、
競争が激しくなった。
理由の一つ、公定価額の駄賃や人足の賃銭が高かった。
幕府は、その理由に途中の悪路を挙げているが、駄賃(荷物1駄の賃金)は望月方面
六十八文、長久保方面八十七文と、他の佐久の宿場の五割から倍も高かったので
ある。
宿場経営が厳しいので、芦田宿は飯盛り女を置くことなどを小諸藩の役人に陳情した
が認められなかった。 」
中居交叉点を渡ると右側に祝言道祖神が祀られている。
右側の古町口バス停に道祖神碑がある。
立科町役場入口交叉点の手前右側に中北道標「←笠取峠3.3km 塩名田12.0km→」
がある。 街道は左にカーブし上り坂になる。 振り向いて上を見ると「芦田宿」と
書かれたプレートの下に二つの照明がある。
芦田宿は慶長二年(1597)に宿場になったので、信濃路で古い部類に入る宿場である。
天保十四年の宿村大概帳によると、芦田宿は六町二十二間に、宿内人口326名、
家数80軒で、本陣1、脇本陣1、問屋場2、旅籠8軒である。
* 「 安藤広重の木曽街道六十九次の芦田宿は、宿場から離れた
笠取峠の松並木を描いている。
遠景に浅間山、右上の頂上に立場茶屋小松屋、左下の麓にもう一軒の立場茶屋を
描いた構図である。
昭和の合併で、当時の芦田村と三都和村、横鳥村が合併し、現在の立科町になった。
その結果、町域は南北に細長くのび、南縁には蓼科(たてしな)山、八子ヶ峰
(やしがみね)がそびえるというところで、白樺湖、女神湖や蓼科牧場などの観光地
がある。 」
左側に蛇石様が祀られている。 大きな石に蛇が這ったような跡があり、米のおひねり
を捧げると乳飲児の夜泣きが治るといわれた。
右側のふるさと交流館芦田宿を過ぎると、交差点右側の道脇に見える御屋敷は
本陣兼問屋であった土屋家で、明治維新まで大名や公家などの宿泊や休息に使われた。
中に入ると「芦田宿本陣跡」の標柱と「芦田宿本陣土屋家」の説明板がある。
* 説明板 「芦田宿本陣土屋家」
「 芦田宿は慶長二年(1597)に設立、江戸幕府の交通政策施行(慶長六年)より四年前で
北佐久では一番早くできた。 本陣土屋家は問屋を兼ね芦田宿の開祖でもあった。
本陣御殿(客室)は寛政十二年(1800)に再建されたもので、間口五間、奥行十一間の
切妻造り、桟瓦葺で 屋根の上にシャチホコを掲げている。 イチイの木を使った京風
上段の間があり、大名の宿泊を今に伝える「宿札」も残され、往時をそのまま
伝える建物は中山道唯一と言われている。 」
表から見ても堂々たる構えの屋敷で、立派な門から本陣御殿の玄関前までは 入場できた。
* 「 土屋家は武田信玄二十四将の上席土屋右衛門の末裔で、 芦田宿の開宿に尽力し、名主と問屋を兼ねた。 本陣御殿は長野県の県宝になって いる。 門の右手に高札場があった。 皇女和宮は土屋本陣で昼食をとりました。 」
本陣の向かいの駐車場になっているところが山浦脇本陣跡で、駐車場奥の家の前に それを示す木柱が建っていた。
* 「 山浦家の始祖は芦田宿を開設した一人、岩間忠助で、問屋 を兼ねていました。 」
芦田中央交叉点を越えると藤屋商店のところに「脇本陣 山浦家」の標柱が 立っている。
* 「 山浦脇本陣は建坪百十六坪、門構え、玄関付で、
問屋を兼ねていた。 」
その先の右側に酢屋茂(すやも)がある。 明治二十六年(1873)の創業、元は酢の
老舗だったが、現在は味噌醤油醸造業である。
向かいの空地に「庄屋山浦家」の説明板があり、 「 代々山村権助が庄屋を勤めた
。 」 とある。
さらに道を進んで左を見ると、二百年以上の歴史を持つ金丸土屋旅館があり、
旅籠気分で泊まることができる宿として好評である。
* 「 文化元年(1804)創業の旅籠で、出桁造り連子格子の建物は
木鼻彫刻が施されている。 二階の軒下にある歌舞伎の庵看板に似た看板の江戸方
には「土屋」京方には「津ちや」と大書されている。
岩田交叉点を越えると左側に真言宗智山派の高能山正明寺がある。
* 「 天和八年(1622)の開山で本尊は楠一本彫りの阿弥陀如来
である。 標柱の先に大きな枝垂桜がある。 境内には古墳や紫雲の松がある。
道は左にカーブし少し上り坂である。
右側に火の見櫓がある。 かっては見慣れた風景だが、今残っているところは
少ない。
芦田宿の京方(西)入口に近い右側の集合住宅の駐車場の脇に男女双体道祖神が
祀られている。 宿場の入口に当り、悪霊の侵入を見張っていた。
街道は石打場公園に至る。 この三叉路に「中山道入口」の標柱が立っている。
ここが芦田宿の京方(西)の入口である。
石打とは境界を意味し、ここが芦田村と横島村の境だった。
車は左折するが、中山道は公園を横切る。 ここには中北道標「←笠取峠2.3q
塩名田13.0km→」がある。 芦田宿入口交叉点で国道142号を横断して、向かいの
上り坂に入る。 右側に大きな常夜燈があり、左側に中北道標「←塩名田13.1q
松並木を経て笠取峠2.3q→」がある。
ほんのわずか坂を上り、車は右に折れるが、車両進入禁止の標識のある道を直進
する。 ここは笠取峠の入口で左側に男女双体道祖神がある。
先に進むと「進入禁止」の標識の脇に「笠取峠のマツ並木」の標柱が立って
いる。
少し進むと左側の草叢に「馬頭観音」次いて「八幡大神社」の石碑がある。 先の
左側には地元の詩人、三石勝五郎の歌碑がある。
「 かりがね渡る笠取の峠の茶屋はなけれども 残るふもとの松並木 芦田の芦
の先に 」
右側に流れる用水に架けたる太鼓橋の先には保科五無斎の歌碑や若山牧水の歌碑
「岨道(そばみち)のきわまりぬれば赤ら松 峰越の風にうちなびきつつ 」
がある。 」
そこを過ぎると左側に東屋がある松並木公園がある。
* 「 松並木公園は松並木の下の石畳の道が遊歩道になっていて、
周辺には芝生が植えられ、休憩所もあり、ベンチやテーブルそしてトイレもあり、
中山道を歩くものにはありがたい設備である。 」
園内には和宮東下の行列のレリーフがあり、皇女和宮降嫁の行列風景が銅板に
刻まれている。
安藤広重の木曽海道六拾九次の望月、芦田、長久保宿がタイル画で埋め込まれていた。
「金明水」の説明板があり、 「 江戸時代、笠取峠の茶屋小松屋にあった二つの
名水の一つである。 もう一つの銀明水とともに多くの旅人の喉を潤した泉を
模したものである。「飲用できます。」 とあり、峠の茶屋にあったものを
復元していた。
松並木道は八百メートル程しか残っていないが、
路傍に石仏などがたたずみ、かっての街道をしのばせる格好のコースとなってい
る。
松並木道を行くと右側の用水に架かる太鼓橋の先に吉村雲嶺の歌碑 「
古道の名残も勝て難きなれど 縫う多道や春めく人通り 』がある。
松並木は国道に突き当たる。 中山道は国道を横断して左の松並木に入る。
合流点の左側に道祖神と常夜燈があり、右側には小諸領界石がある。
* 説明板 「小諸領界石」
「 小諸藩が文化三年(1806)に領地の境界に石標を設置した。 東側は小田井宿と
追分宿との間の追分原に 「従是西小諸領」の石標を建立した。 西側は笠取峠に
「従是東小諸領」と刻まれた石標を建てた。 これはその石標を復刻したもので
ある。 」
少し歩くと松並木が途絶え、国道と合流する。 合流点の松並木には「笠取峠の 松並木」の国道標識と中北道標「←笠取峠1.3q 塩名田14.0km→」がある。 また、「笠取峠の松並木」の石碑も立っている。
* 説明板 「長野県天然記念物 笠取峠の松並木」
「 この道は江戸時代の中山道である。 はじめは「中仙道」であったが、享保
元年(1716)から「中山道」と改められた。 慶長七年(1602)、幕府は中仙道の整備に
着手、この松並木はその一環として同年幕府から小諸藩に赤松数百本が下付されたもの
を植栽したものである。 以後、小諸藩により補植、保護がなされてきた。
笠取峠の松並木は中山道の名所として知られ、四季を通して旅人の目を楽しませ、
松籟を聞かせtきた。 大正十三年(1924)長野県による調査と保護が加えられ、
昭和四十九年(1974)長野県天然記念物に指定された。 現在百本余の老木が往時を
今に伝えている。
長野県教育委員会 立科町教育委員会 」
車の流れはかなり激しいが、歩道が広く脇が田圃で気にせず歩くことができる。
歩きながら見上げると、右側の山には松の木が多い。 このように生えているのを
見るのは久しぶりである。 以前はどこにでも生えていた松は松くい虫にやられて姿
を消してしまった。
十分程歩くと右側、歩道の脇の小高いところに笠取峠の一里塚がある。
* 説明板 「立科町文化財 一里塚(笠取峠)」
「 中山道は中仙道とも書くが、享保元年(1716)に東山道の中枢の道であることから
中山道と呼ぶとあり、また木曽を通るので木曽路ともいわれ、五街道の内では東海道
に次いで江戸京都を結ぶ主要路線であった。 一里塚は、この道一里間につくられた
道標の遺跡である。 当時の輸送が宿ごとに荷物をつけかえる習慣から、輸送距離を
知るための路程道標でもあったとされ、その目じるしに松の木などが植えられた。
この笠取峠の一里塚にも赤松が植えられ、その大木が今なお当時の街道の面影を
残している。 立科町教育委員会 立科町文化財保護委員会 」
日本橋より四十四里目の笠取峠一里塚は残っているのは北塚のみで、
気を付けないと通り過ぎてしまいそうなところにある。
赤松が植えられていたが、塚の形状はかなり削られたような気がした。
また、一里塚の位置は道路からかなり高いので、現国道はかなり土を削ってつくられ
たのだろう。 どちらにしても国道により影響を受けたのは明らかである。
塚の傍らには祝言道祖神が祀られている。
そこから二百メートル上ると左側に「笠取峠竣工記念碑」の銅板が「笠取峠」と
書かれた石碑に埋め込まれている。 笠取峠の道路改修を記念したもので、
これにより、峠は堀下げられて、切り通しになった。
立科町から長和町に入ると左の小高いところに「旧中山道 笠取峠」の丸太標柱が
あり、標高八百八十七メートルの笠取峠の頂上である。
* 「 笠取峠は雁取峠とも呼ばれたが、
当時の峠は現在の国道より数メートル南にあり、今より数メートル高かった。
頂上は小諸藩と幕府領の境界であり、今は北佐久郡立科町と小県郡長和町の境で
ある。 笠取峠の名は「峠は風が強く、旅人の笠が飛ばされた」、「ここから見える
浅間山の見事な眺望に旅人は笠を取った」、「余りの急坂の暑さから笠を取った」など
諸説あるようである。 」
峠の左側に笠取峠学者村総合管理センターがあるが、その近くに、
銀明水と金明水という立て札があったが、水は出ていな
かった。 ここが立場茶屋小松屋の跡である。 ここから浅間山が一望でき、名物
は三国一力餅であった。
峠を下り始めると右側に峠の茶屋があり、その先に「中山道」の燈籠モニュメント
と「笠取峠」碑と中北道標「←和田宿9.6km東餅屋(和田峠)20.4km 笠取峠0.2km→」
がある。
国道142号を下る右側の道路要璧に大きな笠取峠立場茶屋図のリリープがある。
* 「 笠取峠にあった立場茶屋小松屋の様子が描かれている。
立場とは立場茶屋のことで、将軍や大名が宿場以外で休憩
をとるために設けられた施設である。 これは長久保宿の釜鳴屋に版木が残るもの
で、茶屋は峠の斜面に建てられていたことが分かる。 」
国道142号の右に旧国道が分岐している。 この中央に土道の中山道があり、
入口に「中山道原道」の標識と中北道標「←和田宿9.3km 笠取峠0.5km→」がある。
土道を下ると旧国道に突き当たるので左折する。 ここには「中山道原道」の標識
がある。 すぐ先が三叉路(Y字路)になっているので右に進む。 ここには
中北道標「←笠取峠1.0q 和田宿8.8km東餅屋(和田峠)17.6km →」がある。
その先で左に回り込むと左側の斜面に馬頭観世音文字塔と地蔵尊が旅人の安全を
見守っている。
すぐ先の右側ガードレールの切れ目から右の土道に入る。 ここには「中山道原道」
の標識がある。 土道に入ると中山道原道の「←笠取峠→」の標識が立っている。
旧国道に突き当たるので、Uターン状に旧国道を右に進む。 ここには丸太道標「中山道
笠取峠原道」の標柱が立っている。 明るく開けた旧国道を進むと国道142号に
突き当たる。 ここはT字路で右折して国道に入るが、ここには中北道標「←笠取峠
1.7km 和田宿8.1km→」がある。
国道の歩道を進み、S字カーブが過ぎると左側の林とガードレールの切れ目から左側に
草道の斜面を下る。 ここには中山道原道の「←笠取峠」の標識がある。
草道を下りると舗装道に出るので、右折する。 ここには中山道原道の「←笠取峠→」
の標識がある。
舗装道を進むと左手には田畑が広がる。 その先で旧国道に合流。 分岐点に
消防ホース格納庫があり、「中山道原道→」の標識がある。
左にカーブした先のガードレールの切れ目から石段を下りて松尾神社に向うのが
旧道のようだが、その道は使用しなかった。
更に下っていくと、道端に二十二夜供養塔や色々な石仏、石塔が
並んでいた。
長久保宿に入る三叉路に「←和田宿7.1km東餅屋(和田峠)17.9km 笠取峠2.7km↑」
の中北道標がある。
三叉路を右折すると右側に松尾神社の鳥居がある。
* 説明板 「松尾神社本殿」
「 本殿は諏訪の宮大工、三代目立川和四郎富重の建築で、万延元年(1860)に再々建
したもので総檜で三社の高床造りである。 本殿の欄間には龍がまきおこす波に
亀が泳ぎ、鶴が舞い遊んでいる姿や貫の木鼻には象のはななど、実にみごとな
彫刻がしてある。
神社は旧郷社で、祭神は大山昨命であり、本社は
京都市右京区松尾町の官幣大社松尾神社で、酒造守護の神として往古より酒造家の
尊信あつく遠くより参詣する人が多かった。 以前は長久保の町裏地籍にあり、
その当時は大欅の森があったが小学校校庭の拡張のため昭和三十三年五月現在地に
移転した。その際略式の四神の祭祀のあることが発見された。
(以下略) 長門町教育委員会」
松尾神社を過ぎて右側に入ると長久保宿である。
安藤広重の木曽海道六拾九次長久保宿は、依田川と和田橋を遠景に和田宿に帰る馬と
犬と戯れる童を描いている。 右側の家は木曽路に多い石置き屋根である。
長久保宿は七町五十二間とほぼ和田宿と同じ長さであったが、天保十四年(1843) の中山道宿村大概帳によると、宿内人口721名、家数187軒、本陣1軒、脇本陣1軒、 旅籠43軒と、下諏訪宿や岩村田宿に次ぐ大きな宿場町だった。 下諏訪宿までは約二十八キロ、追分宿へは三十二キロの地点にあり、また、城下町の 上田への街道が通じる交通の要所だったことによる。
* 「 長久保宿は当初依田川沿いの下河原に設置されたが、嘉永
八年(1631)の大洪水で壊滅し、段丘上の現在地に移転した。 宿の東に笠取峠、
西に難所の和田峠を控え、大門道、大内道、北国街道の要衝で、大いに賑わった。
長久保町域の大半は霧ヶ峰北東麓の広大なすそ野で、
千曲川の支流依田川の扇状地にわずかに水田が広がっているという土地であり、
少し離れたところから見ると、長久保宿は傾斜地につくられていたことが分かる。
長久保宿はL字の形をしていて、L字の竪棒の部分が竪町、横棒を横町で、
竪町に宿場の機能が集中し、横町には旅籠が軒を連ねていた。 」
松尾神社を過ぎると右側に「中山道長久保宿吾一庵」があり、江戸末期から明治 初期の農家建築の造りを残していて、見学できる。 その先の左側に一福処濱屋(いっぷくどころはまや)がある。
* 「 現在の建物は明治時代の初期に旅籠として建てられまし
たが、中山道の交通量が減ったため、開業には至りませんでした。
間口九間と広く、総二階建て、延べ床面積四百平方メートル程の宿内でも
大きな建物です。 また、一階よりニ階部分を突出させた出桁造りが特徴的で、
山間部の旅籠建築に多く見られる手法である。 平成十二年に所有者から寄付
を受け、地域住民の語らいの場としてまた旅人のお休み処として改修されました。
また、歴史資料館となり、一般に開放されている(午前9時から午後5時、無料、
毎週月曜日休館) 」
右側の立派な門構えの家は元本陣の石合家である。 石合家は真田家の家老を勤め、四代目の石合十蔵道定は真田信繁(幸村)の娘と婚姻 している。 江戸時代を通じて本陣をつとめた家柄で、現存する遺構としては御殿と 表門。 御殿は寛永年間(1624-43)の建築で、中山道で現存する旧本陣の中で最古 である。
* 説明板「「長久保宿旧本陣石合家住宅」
「 江戸時代初期の本陣建築で、大名、公卿等の宿泊した御殿の間と呼ばれる上段之
間、ニ之間、三之間、入側等を現存する。書式様式で、大柄な欄間意匠には
寛永前後(1624前後)の風格がしのばれ、中山道旧本陣中、最古の建築として貴重で
ある。
嘉永三年(1850)の本陣絵図には上段之間ほか客間、茶之間、台所等二十二室が主要部で、
ほかに問屋場、代官詰所、高札場を併置し、御入門ほか幾つかの門、御番所二ヶ所、
御湯殿四ヶ所、雪隠七ヶ所、土蔵、馬屋等があった。
旧本陣石合家には、江戸初期よりの古文書、高札等貴重な文書、史料が数多く
残されており町文化財に指定されている。 長門町教育委員会 」
本陣跡の隣に高札場が復元されている。
その先を右に入り、五十鈴川を渡ると真言宗智山派松尾山観音寺がある。
本尊の木像地蔵菩薩立像は室町時代のものである。
街道に戻ると左側に古久屋(羽毛田家)がある。 旧旅籠で、天保年間(1830-44)の
建築と推定される。 隣は脇本陣跡で標柱だけが立っている。
右側に釜成屋(かまなりや)の竹内家がある。 本卯建を上げた建物は享保十六年(1731)
以前の建物で、長野県内最古の町家である。 竹内家は酒造業を営み、宿場役人も
勤めた。
* 説明板「長門町指定文化財 竹内家住宅(釜成屋) 」
「 釜成屋は寛永時代(1624-44)から昭和初期まで酒造業を営む。
この住宅の建立年代は江戸初期といわれているが不詳である。 大きさは間口九間半
(17.27m)奥行十間半(19.08m)の正方形に近い形で、建坪約百坪(330u)片側住居二列
型の典型である。 「通りにわ」(土間)は幅三間半(6.36m)で奥まで通し、その中に
細長く板敷をとっている。土間の上は巨大な小屋根が現れている。屋根は当初板葺、
昭和五十五年葺きかえる。屋根には本卯建(うだつ)が上げられている。
うだつについては、多くの論者があるが機能については、防災のためと格式の表示
のためのニ論がある。うだつにはここに見るような「本うだつ」とニ階の軒下部分
の「軒うだつ」のニ種類がある。 竹内家には笠取峠立場図版木と宿場札(長久保
宿のみ通用の札)の版木も、町文化財として指定されている。
長門町教育委員会 」
次いて、左側は問屋場跡。 小林家は代々九右衛門を名乗り、宿役人を勤め
た。 街道沿いに長屋門や人足溜りがあり、奥に母屋があった。 屋根には
旧主真田家の六文銭の鬼瓦が掲げられている。
街道は旧旅籠米屋徳十郎家に突き当たるのでこのT字路を左折する。 右折する道は 上田道で、右側に「中山道長久保ぜんこうじ」の道標がある。
* 「 北国街道(善光寺道)は上田城下町を通り、善光寺に至ること
から上田道と呼ばれた。 傍らには「長久保町道路元標」と中北道標「↑笠取峠3.3km
和田宿6.5km→」がある。 また、この先にJR長野新幹線上田駅に行けるJR関東
バス停がある。 」
道を左に直角に曲がれば横町。 道改修で誕生したのが横町で、出桁造り連子格子の
古い家が残っている。 江戸後期の長久保宿には四十三軒の旅籠があった
とされ、大多数が横町にあったのだからから、客引きなどで喧騒を極めたこと
だろう。 この分岐点には浜田屋旅館がある。
横町を進むと右側に「油屋」を掲げる家がある。 旧旅籠の井桁屋跡で、木鼻に彫刻が
施されている。
その先の左側に旧旅籠辰野屋がある。 出桁造りで総ニ階建ての母屋は江戸末期の
建築である。 竹重家は宿場役人を勤めた。
辰野屋の手前を左折すると長安寺がある。 天和四年(1618)の創建で、小諸城主
松平因幡守憲良(のりなが)の墓がある。
街道に戻り、横町バス停を過ぎると道は左にカーブし、T字路に突き当たる。
ここは長久保宿の京方(西)の入口で枡形になっていたところである。
正面に消防団の赤い消火栓とホース格納庫(写真の右側)が見えるので、ここで
右折する。 この分岐点には中北道標「←笠取峠3.7km 和田宿6.1km東餅屋(和田峠)
16.9km→」がある。
長久保宿はここで終わる。
長久保宿を出て、道なりに進むと長久保横町交叉点に出るので、
右折して国道142号に合流する。 ここには丸太道標「是より長久保宿」がある。
この国道、歩道が付いていないところが多く、車に注意して歩いていく。
左から国道152号が合流し、道が左にカーブするとドライブインながとの手前で
右側の細い道に入る。 右側に「四泊落合 標高680m」の標識があり、「←中山道
→」の標識がある。 その先の国道と旧道の間に「中山道 一里塚跡」 の説明板が
あるが、ここは四泊一里塚の跡で、日本橋から四十八里目である。
* 説明板「長門町指定文化財 中山道 一里塚跡」
「 中山道の一里塚がここにあった。 昭和三十五年(1960)の道路改修以前は榎の
大木が植えられていた。町民は「エノミの木のある所」といいて親しんでいた。
江戸初期正保四年(1647)信濃国絵図(長野県宝)にもこの場所に一里塚があったことが
明記されている。ここより北東へ一里(約四キロ)旧中山道笠取峠地籍や南西へおよそ
三里の和田村唐沢地籍には一里塚が現存している。 (以下略)
長門町教育委員会 」
中山道はほんの一瞬だけ国道から右に離れる。 ほっとする間もなく二百五十メートル程で、
また国道に合流する。 右側の民家のブロック塀前に明和十一年(1774)建立の
道祖神がある。
少し行くと大和橋交叉点で右は国道142号で岡谷方面、左は国道152号で大門街道、
白樺湖方面と分かれるので、左の白樺湖方面の国道152号に入る。
* 「 国道152号は大門街道と呼ばれ、武田信玄が東信濃攻略の ために開削した軍用道路で、棒のように真直ぐだったことで棒道と呼ばれた。 大門峠を越えて、蓼科や白樺湖を経由して現在は茅野に通じている。
その先の落合上バス停のところで、右に曲がって大門川に架かる落合橋を渡る。
* 「 このあたりは大門落合で、戦前は大門村だったが、戦後、 長久保村と合併し、長門町になったが、今回の合併で長和町大門落合に変る。 」
依田川(よだがわ)に架かる和田橋を渡ると、和田峠に向う国道142号に再び
合流する。
前述の安藤広重の長久保宿はこの依田川と和田橋を描いている。
中山道は左折して国道に合流するが、この分岐点に「←中山道」「中山道→」の標識が
ある。
その先の青原交叉点で国道と別れ、右の道を進む。
分岐点の左側に「水明の里」の
石碑と東屋、水場、「歴史の道中山道」の説明板と馬頭観音群がある。
旧道に入ると左に依田川が見え、右手は屏風のような山また山である。 道は山の中
に吸い込まれるように伸びていく。
「青原中組」の標柱を過ぎると集落入口の右側に青面金剛庚申塔と道祖神がある。
その先の左側に茅葺きの上深山口バス停があり、脇に「←中山道→」の標識がある。
先の左側に中組公民館があるが、手前に寛政十二年(1800)の天王夜燈籠と宝暦二年(1752)
の西国順礼供養塔、庚申塔等が祀られている。
左側の神社風の下和田中組バス停待合所の左脇に明治三十六年(1903)建立の大きな
「馬頭観世音」の石碑とその前に小さな馬頭観音碑がある。
その先の左側に男女双体道祖神に見立てたミミズの碑がある。 ミミズに感謝して
祀られたもので、ミミズは良質な土壌を生成し、解熱剤にもなった。
左側の和田観光バス駐車場の対面に相馬家の門があり、右手奥に堂々とした屋敷門
がある。 このあたりに立場があったようである。
左側の火の見櫓の足元には水場がある。
その先の右側には割れているが道祖神がある。
その先の右側の草道に入ると奥に大日堂があり、手前に御神塔と馬頭観音群がある。
街道に戻ると左側に馬頭観音石塔、寛政八年(1795)の大乗妙典供養塔、享和三年(1803)
の庚申塔があり、右端に安永六年(1777)の三千僧接待碑がある。
* 説明板 「歴史の道 中山道 三千僧接待碑」
「 信定寺別院の慈眼寺境内に建立されていたものだが、寛政七年(1795)にこの地に
うつされた。 諸国遍歴の僧侶への接待碑で、一千人の僧侶への供養接待を発願して
見事に結願し、一躍二千を増やした三千の僧侶への供養接待を発願したと碑文に
刻まれている。
碑を見れば誰の目にもわかるように一千僧の一の字を三千僧の三の字に改刻した後が
歴然としている。当時三千よいう僧侶への接待用の食べ物は米飯ばかりでは到底賄い
きれないところから麦飯、麺類、粟飯、ひえ飯等雑穀にても賄い、更に天保年間の
六年に亘る凶作続きの際にはじゃが芋の粥などで賄ったことがあると言われる。
和田村・長野県・文化庁 」
神社風の上立場バス停待合所を右手奥に朱塗りの覆屋があり、中に小社が三社祀られて
いる。
柳又上バス停を過ぎると左側の火の見櫓手前に段上に阿亀観世音石塔と福大大士塔
がある。
森までくると、その先の三叉路で旧142号と分かれて、左の道に入る。
左側に若宮八幡神社の鳥居があり、社殿がある。 入って行くと拝殿の奥に鞘堂があり、
覗き込むと本殿がある。
* 説明板 「若宮八幡神社本殿 和田城主大井信定父子の墓」
「 祭神は仁徳天皇である。 本殿は、一間社流造の間口1.5メートル、奥行1.7メートル
の大きさで、棟札には享保六年(1721)建立とある。 正面と側面に廻縁をつけ、
隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪違文に六辨花が彫刻された各部分
の調和がとれた建築である。
天文二十三年(1555)、和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦、
信定父子を始め、一族郎党ことごとくが戦死し、その父子の首級はここに埋葬された。
元禄六年(1693)、その回向のため信定寺の六世来安察伝和尚が当境内に墓碑を建立
した。 和田村 」
薄暗く少し不気味な感じの神社の左側に、大井信貞親子の供養塔があった。
信定寺や八幡神社を見ると、大井信定の信濃の勢力が大きかったのだろうなあ、と
思われた。
境内のはずれに享和元年(1801)建立の芭蕉句碑「安能雲ハ 稲妻越待つ たよ里可南」
(あのくもはいなずまをまつたよりかな) がある。
その先の左側に「中山道一里塚跡 江戸ヨリ四十九里」の大きな石碑が建っている。
上組の一里塚は昭和三十五年(1960)の道路改修により取れ壊された。
「原」の標板を過ぎると徐々に上り勾配がきつくなる。 松林を抜けると三叉路で左に
進むと「是より和田宿」の大きな石碑と和田宿の歴史を紹介した中山道の案内板が
立っていて和田宿の入口である。 ここにはこの他、「中山道」の道標、「中山道」の標柱、
そして道祖神が祀られている。
* 説明板 「中山道 和田宿」
「 この道は江戸時代の中山道である。和田宿は慶長7年(1602)
中山道の設定により開設された。下諏訪宿まで和田峠越えの5里余(約20km)の道筋は
慶長19年(1614)ごろ完成したといわれている。名称ははじめは「中仙道」であったが、
東山道のうちの中筋の道ということで、享保元年(1716) に「中山道」と改められた。
江戸かの板橋宿から近江の守山宿まで67宿であるが、京都までの69宿、132里10町(約
520km)をいう場合もある。1日7里(28km)とすれば、17日の行程である。木曽路を通るので
「木曽街道」とも呼ばれた。信濃には26宿があった。
和田宿は江戸から28番目の宿場である。宿成立以前から人家のあった中町・下町を
中心に上町が、さらに周囲の雨原、細尾、鍛冶足、久保などから人を集めて宿を
構成し、さらに正徳3年(1713)には下町に続く川越えの橋場・新田を宿場に組み入れ
ている。 宿場は幕府の公用旅行者の継ぎ立て業務を取り扱う所であったが、参勤交代
で中山道を通行する34家の大名や一般旅行者が休泊する場所でもあった。 天保14年
(1843)の「中山道宿村大概帳」によると宿の長さ7町58間(約870m)、人数522人、
家数126軒、うち本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠屋28(大12、中4、小12)と
なっている。問屋、本陣、脇本陣、木問屋等は中町に集中し、それらを中心に上町や
下町まで旅籠屋や伝馬役、歩行役を勤める家、茶店、商家などが並んでいた。それらの
多くの家が農業を兼ねていた。 和田宿は下諏訪宿まで中山道唯一の長丁場であるうえ、
上り2里半、下り2里半という和田峠の難所をひかえ、継ぎ立てにあたる伝馬役、歩行
役の苦労は並大抵ではなかった。天保3年(1832)に和田宿で動員した人足は延17759人、
馬は延7744匹にのぼっている。文久元年(1861)11月の和宮通行の際は4日間に延8万人
が通っている。その後も幕末まで大通行がしばしばあった。 50人、50匹の宿常備
の伝馬でまかないきれない分は、元禄7年(1864)に定められた助郷制によって、
近隣の村々から動員された。幕末はとくに出勤回数が多く助郷村の負担は大変なもの
であった。 」
原集落に入ると右側に中学、そして鳥居、その向こうが小学校である。
建っていた鳥居は和田神社で、鳥居の脇に水場がある。
和田神社はもとは大宮社といい古い神社である。
原バス停にも水場がある。 その並びに八幡社がある。 和田城主大井氏の居城の鬼門
除けに建立された神社である。 ここからは和田新田である。 和田新田バス停の手前右奥
に大悲密山菩薩寺がある。 空也上人が安和元年(968)に庵を造ったのが始まりで、本堂は
文政三年(1820)の建築である。 新田から橋場に入り、逆川に架かる迫川橋を渡ると
下町である。
長久保宿からここまで約二里の距離で、ぶらぶら歩いて二時間の行程である。
橋を渡ると、右側の少し高くなったところに旧旅籠「かわち屋」(現 歴史の道資料館)がある。
道の奥に黒耀石石器資料館。 かわち屋の斜め向かいは問屋の山本屋。
* 「 歴史の道資料館は江戸時代、「かわちや」という旅籠だった家である。
この建物も文久元年に建築されたもので、この宿場の旅篭としては大きい方だったらしく、
出桁造り連子格子の二階建てで、間口八間半、奥行十一間半、建坪九十八坪弱の堅牢な造りで、
上客向けの旅籠であったという。 出桁造り、格子戸のついた宿場建物の代表的な遺構で
ある。
黒耀石石器資料館に展示されている黒燿石は黒い堅い鉱物で、矢じりや石斧、石製の刃物など
に使われてきた。 太古の時代に和田は黒燿石の産地として知られて、全国に広く流通
された。 新和田トンネルが掘られた時、学術調査が行われ、男女倉(おめぐら)遺跡から膨大
な発掘品が発見された。 」
左側の出桁造りの家は山木屋跡で、下の問屋を勤めた。 その並びにあるのは旧旅籠大黒屋
。 大火後の建物で間口六間、奥行七間の出桁造りで、安政年間以降は穀物商を営んでいた。
少し行くと左側に「中山道 和田宿本陣」の看板が掲げられている門があり、右側をぐるっと
回ると左側に門、右側に立派な建物がある。 この門が復元された和田宿本陣御入門
である。
* 説明板「中山道和田宿本陣御入門」
「 中山道和田宿本陣は、文久元年(1861)三月の大火で焼失したが、同年十一月の皇女和宮の
降嫁にそなえてただちに再建された。 その後明治期に座敷棟は丸子町の竜顔寺へ、また、
座敷棟の正面にあった御入門は丸子町向陽院へとそれぞれ移築された。 ここに復元した
御入門は移築されている門の実測調査により作成した復元図に基づき、平成元年度、
「潤いのあるまちづくり」優良地方公共団体自治大臣表彰記念、村制施行100年記念事業の
一環として、日本宝くじ協会の助成を受けて再建した。 また、座敷棟については同じく
敷地等の関係から復元することはできなかった。 和田村教育委員会 」
門を入ると本陣長井氏の居住棟が修復され、公開されている。 和田宿本陣は和田城主大井信定の娘婿である長井氏が宿創設以来、問屋、名主を兼ねて 勤めていた。
* 説明板「中山道和田宿本陣」
「 この建物は中山道和田宿の本陣として、文久元年(1861)に建設されたものである。この年
の三月には宿場の大半を火災で焼失し、前身の本陣もこの際に灰塵に帰したが、
十一月の皇女和宮の降嫁の宿泊地とされていた和田宿では、この使役を全うすべく幕府の
拝借金を得て、宿場の復興が行われその中心建物として再建されたものである。
本陣建物は大名などの宿泊に当てられる「座敷棟」と本陣の所有者が生活する「居室棟」に
別れており、この建物は「居室棟」にあたる。 建物の規模は約444u(135坪),
軒高さ5.3m、棟高さ8.8mで、正面の間口12間は宿内最大規模で、約1.5mと深い
軒の出、出桁状に張り出したニ階部分、一階の立面は逆に後退させ土庇風とし、出桁上の壁面
は格子を設けず幅広の貫を通す。陰影深く重厚な外観を見せている。 内部は延べ十四の部屋
に別れ、土間の上部のみに二階部屋が二室ある。また背面には湯殿と三棟の便所が附属して
いる。 使用されている木材は、土台を栗とするほかは大半が唐松で、一部には杉が混じる。
屋根は石置きの板葺き屋根で、手割の栗板を並べて石で押えている。
明治維新後は本陣の機能を終えて、村役場・農協事務所として昭和五十九年四月まで使用
されていたが役場の新庁舎移転にともない解体の運命にあった。しかし、調査の結果、和田宿
における重要な遺構としての価値が認められ、昭和六十一年より解体修理が行われ、五年の
歳月と総工費約一億八千万円をもって、往時の姿に復元された。 」
街道から右奥に入った左側に信定寺があり、鐘楼門が印象的である。 梵鐘は元禄三年 (1690)の鋳造で、時の鐘として昭和十七年(1942)まで使われていたが、戦時中に供出された。
* 「 古峰山の麓にある信定寺は和田宿の地頭、大井氏の居館があったといわれる。 和田は戦国時代(十六世紀)までは大井信定支配していた土地で、下町から釈ヶ堂まで 和田氏(大井信定)の城下町になっていたといい、古峰山の尾根上に大井氏の砦群が連なって いた。 しかし、天文二十三年(1554)、大井信定父子は 信濃を手中に納めようとする武田信玄の攻撃を受け、青原地籍で自害した。 信定寺は 大井信定の菩提を弔う為に建立された寺で、和田城主だった大井信貞の墓がある。 」
そのまま、街道に戻った。 和田宿は、慶長七年(1602)の中山道の開設と同時に始まったが、
この信定寺に近い中町と下町が宿の中心で、そこに本陣、脇本陣や問屋場が置かれた。
なお、上町は少し遅く開けた町である。
右側に「石合」の木札を掲げる家がある。石合家は元旅籠で、江戸時代には宿場の年寄を
勤めていました。 典型的な旅籠の外観を残しています。
左側の米屋鐵五郎は上の問屋を勤めた。現在は和田宿休憩所になっている。
並びの旧本亭旅館が名主であった長井氏の家屋を改築したものである。 敷地に「和田村
道路元標」が立っている。
* 「 立派な門と塀に囲まれた、倉や連子格子、出桁造りの建物などが並ぶ
屋敷は庄屋だった長井氏の家で、現在残っている建物は文久元年(1861)の大火後に建てられた
ものである。 内部は改造されているが、上段の間、広い中廊下がある堂々とした造り
である。 」
向かい(右側)の奥に脇本陣の翠川家がある。
* 「 道から右に少し入ったところにあるのが、脇本陣の翠川家である。 御殿部分が残っているが、現在も居住に使われているので、見ることはできない。 」
南西に向って歩を進める。 上町は少し遅く開けた町である。
宿場内には屋号を出した古い家が多いが、ほとんどが旅籠だったという。
馬や牛を泊める宿もあったようである。
左側のよろずや酒屋は立派な卯建と白壁土蔵を残している。 かっては質屋と両替商を営んで
いたという。
上町公民館には不動明王が祀られている。 上町中バス停には高札場の説明
板があるが、ここが和田宿の京方(西)入口の上町木戸であった。
* 高札場跡の道の右側の案内板には 「 正面三間(約5.4m)奥行七尺 (約2.1m)の一段高い敷地に二間(約3.6m)の屋根付高札場があった。 旅人はここでは笠等を とるのが習わしであった。 和田宿は標高八百二十五メートルの高いところにあり、 京側の下諏訪宿からは峻険な和田峠を越えて五里十八町(22km)もあったので、 問屋に支払う荷物一駄あたりの料金は五百二十二文と他の宿の4〜5倍もしていた。 」 と書かれていた。
この後は中山道の難関、和田峠越えが待っている。
(所要時間)
望月宿→(30分)→茂田井→(1時間20分)→芦田宿→(20分)→笠取峠→(1時間30分)→長久保宿
→(2時間40分)→和田宿
芦田宿 長野県立科町芦田 長野新幹線佐久平駅からバス30分芦田下車。
長久保宿 長野県長和町長久保 長野新幹線上田駅からバス55分長久保下車。
和田宿 長野県長和町和田 長野新幹線上田駅からバス1時間15分上和田下車。