『 中山道を歩く  (10) - 坂本宿・軽井沢宿  』





(17)坂本宿

横川駅から横川関所跡の下を通過すると三叉路で左の道を行く。 左側に 鎮魂碑、招魂碑がある。 難所の碓氷 峠に信越本線を設置する際に犠牲になった人達の霊を弔うものである。 
右側に旧信越本線のアブト式を使用した鉄道村からアブトの道があり、その下を くぐる。 その先、車道は左にカーブするが、中山道は直進。霧積川を渡る。 右に ある細い道は旧道である。 

* 「 往時(江戸時代)には現在の橋よりやや上流に川久保橋が架け られていました。 正しくは、碓氷御関所橋と 呼ばれ、中山道と関所を結んでいました。  橋桁の低い土橋だったため、 増水により度々流されたが、流失すると復旧するまでは川止めが行われた。  このため、碓井関所には大綱一筋、麻綱一筋が常備され、宿継ぎ御用綱として使われ、 御用書状を対岸に渡すことに使われた。 
  土橋だったのは江戸への侵入を阻止するという幕府の政策だったというが、庶民にとって は迷惑だったことだろう。 」  

川久保橋を渡るとバイパスには行かないようにして真直ぐの細い道に入る。 
入るとすぐの左側の民家の一角といったところに川久保薬師如来の奉納燈籠が 立っていて、その上に薬師堂がある。 

* 「 この坂は薬師坂といい、元和九年(1623)、碓氷関所が開設され ると、通行の取り締まりが厳しくなり、 更に碓氷峠越えを間近にひかえているため、 無事通過の願いを込めて、薬師堂が建設されたといわれる。  薬師如来は近くの湧水で洗顔すると眼病に霊験あらたかといわれ、近郊の客が多く 参拝していました。 」  

霧積川
     薬師坂碑      川久保薬師
霧積川
薬師坂碑
川久保薬師


近くに「薬師湧水」の石碑があり、脇に祠があった。 今は水は出ていないようである。 

* 「 川久保薬師では近くに清澄な清水があることから、 心太(ところてん)を出す茶屋があり、旅人でにぎわい、心太坂といわれ親しまれたという。 」 

坂を上り切ると国道18号に合流する。 ここに「←坂本宿0.9q 松井田宿7.4km→」 の中山道の道標があり、京方面からは重要な分岐ポイントである。 
このあたりの地名表示を見ると 「原」とあるが、原村は坂本宿が整備される前からあったようで、松井田町が誕生 した時、現在の名前になったようである。 左側は碓井上水道貯水池で、振り返ると 妙義山が大きく見える。 
国道を合流すると左側の道の奥に白髭神社がある。 

* 「 白髭神社は景行天皇四十年(110)創建と伝わる古社で、日本武尊 が碓井峠の白鹿に化けた山の神の危難から救った白髭の老人を祀っている。 

上信越自動車道の高架の手前左側に赤い鳥居と小さな祠があり、「水神宮」とある。  

* 「 水神宮は旧原村内に流れる用水路の起点に清浄で豊富な水を 願って水神を祀ったものである。 」 

薬師湧水
     妙義山が大きく見える      川久保薬師
薬師湧水
妙義山が大きく見える
水神宮


高架橋をくぐると左側に「中山道坂本宿」の標柱と柵のようなものがある。 これは 坂本宿の「下の木戸」の一部を復元したものである。 

* 「 ここは坂本宿の江戸側の入口、下の木戸といわれたところ である。 木戸は明け六つと暮れ六つの間だけ開かれた。    明け六つは午前六時、暮れ六つは午後の六時であるが、時計を持つ時代ではないので、 太陽の運行により、長くなったり、短くなったりした。 」 

坂本宿は寛政二年(1625)に開宿した新宿である。 

* 「 碓井峠を控え、また、碓井峠を 越えてきた旅人は横川関所に向う準備をする宿場として作られた新宿で、 家並みは整然としていました。 家屋は間口七間(約12.6m)と間口三・五間(約6.3m)のニ種類 あり、間口七間の家屋を一軒屋、間口三・五間の家屋は半軒屋と呼ばれました。  街道に沿った家は隣との間にスペースを設け、桁違いになっていました。 」  

英泉が描いた木曽街道の浮世絵には、 こんもり丸い刎石山(はねいしやま)を背に 道の中央を用水が流れ、その両側を人が歩き、家並みが続く構図が描かれている。 
坂本宿の長さは六町十九間(約713m)で、道幅八間一尺(約14.8m)と広く、中央に 川幅四尺(約1.3m)の用水が流れていた。 
天保十四年(1843)の宿村大概帳によると、宿内人口732人、家数162軒、本陣二軒、 脇本陣二軒、問屋が一軒、旅籠が四十軒である。 旅籠40軒と宿泊施設が多いが、 飯盛り女もいて、前後に関所や峠越えを控え、旅装を解く人達が多かった。 

* 「 本陣、脇本陣、旅籠、商家百四十軒がそれぞれ屋号看板を掲げ、そのにぎわいは 「雨が降られこそ松井田泊まり、降らさ越します坂本へ」の馬子唄にうか がえる。 」   

「中村碓嶺(たいめい)生誕の地」の案内板がある。 
民家の軒下にそれぞれ屋号のようなものが書かれているのを見付けた。 
江戸時代の雰囲気を今日まで残すという地元民の総意であろう。 

下の木戸跡
     坂本宿浮世絵      「米屋」の看板の家
下の木戸跡(坂本宿側からの)
栄泉の木曽海道坂本宿
「米屋」の看板の家


宿場の中心には本陣や脇本陣が設置されていた。 
金井本陣は芝生と民家に姿を変え、当時のものは残っていない。 

* 「 金井本陣は下の本陣と称し、間口十間半(約17m)建坪百八十坪 (約594u)、玄関、門構付きの建物であった。 参勤交代で中山道を行き来した北陸、 信越の大名の定宿になった。 憲政二年八月、加賀前田家の松平加賀守は江戸へ、 信州松代藩真田右京太夫は帰城の途で、ここですれ違い宿泊している。 また、 文久元年(1861)皇女和宮が降嫁された際、十一月九日に宿泊、翌十日朝出立して いる。 」  

その先の左側に「坂本小学校発祥の地」の碑がある家がある。 この家は佐藤本陣 跡である。 

* 「 佐藤本陣は上の本陣とも呼ばれました。 坂本宿は東に碓井 関所、西に碓井峠が控えていたため、坂本泊まりが必然となり、本陣が二軒が必要 であった。 明治八年(1875)、佐藤本陣を仮校舎とした坂本小学校が開校しました。 」  

その向かいにあるのが「みょうがや脇本陣」で、門だけが残っている。 
坂本交叉点手前の右側の「永井脇本陣」はすっかり建て替えられているが、門は当時のまま らしく、面積も広いので、当時の面影を残している。  

佐藤本陣跡
     みょうがや脇本陣跡      永井脇本陣跡
佐藤本陣跡
みょうがや脇本陣跡
永井脇本陣跡


隣の永楽屋脇本陣はすっかり建て替えられている。 また、佐藤本陣と金井本陣の間 に、「八郎兵衛脇本陣」の表示があった。 
坂本交叉点を越えた先の右側、坂本公民館は酒屋脇本陣の跡である。 

* 「  合計すると五つの脇本陣である。  天保十四年の中山道宿村大概帳では、脇本陣は 二軒となっているので、帳尻が合わない。 坂本宿は加賀藩や尾張藩など大藩の参勤 交代が重なることはままあったようで、さばききれない場合は旅籠を貸しきって しのいだとある。 また、幕末の文久三年(1863)、参勤交代の制が緩和され、大名の 妻子の自由帰国を許可された。  その結果、中山道の通行が増え、 本陣と脇本陣だけではさばききれなくなったので、利用された旅籠の中から脇本陣 になったことは考えられる。 」  

その先右側に旅籠「かぎや」の跡がある。 屋根看板には家紋の 「 丸に結び 雁金 」 の下にかたかなで「 かきや 」 と書かれている。  この時代の看板は、片方は漢字が普通なので、両方ともかたかなというのはめずらし く、見やすいと旅人に好評だった。 

* 「 三百七十年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家の祖先が 坂本に移住し、旅籠に役職にちなんだ名をつけた。 屋根は社寺風の切妻、懸魚があり、 出梁の下には透し 彫刻が施されている。 間口六間の玄関を入ると裏まで通じる土間が ある。 奥行八畳二間に廊下、中庭を挟んで八畳二間、往還に面してニ階建て、階下、 階上とも格子である。 
宿場は街道文化の溜り場で、坂本宿でも俳諧、短歌、狂歌など、天明、寛政のころは 最盛期で、当時の当主、鍵屋幸右衛門は紅枝(べにし)と号し、
「 末枝や 露八木草の 根に戻る 」 の作品を残している。 」 

その先の右側に旅籠「つたや」跡がある。 漂泊の詩人、若山牧水が宿泊した宿で ある。 

* 「 碓井峠にアブト式鉄道が開通して十五年後の明治四十一年 (1908)頃になると繁栄を極めた坂本宿はすっかり見る影を失い、寂びれてしまった。  この年の八月六日、牧水は軽井沢で遊び、峠を越えて坂本に宿をとろうとした。ただ 一軒残っていた宿屋「つたや」に無理に頼んで泊めてもらうことにした。寝についても 暑さで寝つかれず焼酎を求めて出て、月下の石ころ道を歩きながら、ふと耳にした 糸繰唄は一層の寂寒感を覚え、詠んだ句は 「 秋風や 碓井のふもと 荒れ侘し  坂本の宿の 糸繰りの唄 」 である。 」 

坂本公民館
     旅籠「かぎや」跡      旅籠「つたや」跡
坂本公民館(酒屋脇本陣跡)
旅籠「かぎや」跡
旅籠「つたや」跡


その先右側の民家の前に「小林一茶定宿のたかさごや」の説明板が立っている。 

* 「 信州柏原が生んだ俳人小林一茶は郷里と江戸を往来するとき、 中山道を利用すると「たかさごや」を定宿にしていた。寛政、文政年間、坂本宿では 俳諧、短歌が降盛し、旅籠商人の旦那衆はもとより馬子、飯盛り女に至るまで指を 折って俳句に熱中したという。 
そこで、ひとたび一茶がたかさごやに草鞋を脱いだと聞くや近隣近郊の同好者まで かけつけて自作に批評を仰いたり、俳諧談義に花を咲かせた。近くから聞こえてくる 音曲の音とともに夜が更けることを忘れたにぎわいを彷彿させる。 
小林一茶は碓井峠の刎石の頂に覗きと呼ばれるところで、 「 坂元や 袂の下は  夕ひばり 」という句を詠んでいる。 ここは坂本宿が一望できるところである。 」 

その先の右側に「上州中山道坂本宿 旅籠丸仁屋」の標柱が立っていて、 右面に「東江戸へ三十四里I左面に「西京へ百二里」とある。 
宿はずれの旅籠「いげたや」跡を過ぎると、上の木戸跡(京側入口)である。  先程、江戸側の入口にあったものと同じ木柱と柵が復元されている。 
木戸柵内に常夜燈の石碑と文政五年(1822)建立の橋供養塔がある。 これは用水に 架かっている橋を供養したものである。 
その先の角に、「 ひとつ脱て うしろに おひぬ 衣かへ 芭蕉翁 」と詠まれた芭蕉の句碑がある。 

 *  「 寛政二年(1790)秋に坂本宿の俳人連が春秋庵白雄に依頼し建立 したもので、碑の文字は春秋庵白雄の手による。 書体はちくら様で、当初は碓氷峠 の刎石坂にあったが、明治に入り、中山道が廃道になったため、ここに移された。  なお、この句は元禄年間の「曠野」にあり、内容は木曽路下りのものである。 」 

たかさごや跡
     上の木戸跡      芭蕉句碑
小林一茶定宿たかさごや跡
上の木戸跡(京側から写す)
芭蕉句碑


坂本宿を歩いて感じたのは、古い建物や昔の建物を改装して使っている家が多い ことである。  また、お寺を見なかったことと営業している商店がないことである。  人は住んでいるのだが、見かけることがなく、江戸時代のまま町全体が沈黙している ような気がした。 




(18)軽井沢宿

坂本宿の京方の木戸を出ると森中の右側に八幡宮がある。 坂本宿八十二戸の 氏子の神として祀られていた。 

 *  説明板「八幡宮」  
「 創立年代不詳なれども当地開発の当初より碓井郡の鎮守産土神として古来崇敬 される。伝承によれば景行天皇四十年十月日本武尊の勧請によるという。 延喜年間に 現在地より東北の小高い丘に社殿を建立。江戸時代宿駅制度の確立により宿場の上なる 小高い地、現在の地に祭祀せる。明治時代に辻郷に祭祀される諏訪神社、白山神社、 八坂神社、水神、菅原神社、大山祇神社等を合併合祀する。 大正三年村社に指定 される。 」 

赤い鳥居をくぐると石段の左側に「御嶽山座主大権現」の石碑が立ち、その奥に 愛くるしい狛犬一対がある。 五十段の石段を上ると社殿があり、境内には明治に遷座された神社 の小さな祠が並んでいた。 また、双体道祖神が二体祀られていた。 
この先坂本浄水場の所で、国道は右側に大きく曲がるが、中山道は直進する小さな道 に入る。 入る手前に「これより碓井峠曲折多し運転注意」の看板があり、 ガードレールの切れ目から中に入る。 坂を上ると右下にはアプト道(鉄道線路を 撤去した道)が見える。 

八幡宮鳥居
     双体道祖神      アプト道
八幡宮鳥居
二体の双体道祖神
アプト道


中山道はすぐに国道18号に出るので、国道を渡ると「旧中山道」の標柱が立っていて ここから 中山道の碓井峠越えが始まる。 

 *  「 古事記、日本書紀や万葉集の頃には峠という字はなく、 坂や嶺を使った。 日本書紀の日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国遠征の物語に 「碓日嶺」があり、万葉集には 「 ひなぐもり碓日の坂を越えしだに・・・ 」 の歌がある。 碓日はこの地の天候の表現で、午後には霧が出てあまり日がささない 「薄日」のこと。 ちなみに「ひなぐもり」は碓井にかかる枕詞で、日の曇り。 」  

ごろごろした急坂を上ると、右側に堂峰番所跡がある。 今でも、 石垣の一部が残っていた。 

 * 説明板 「堂峰番所」  
「 堂峰番所は碓氷関所の出先として、山を越えて関所を破ろうとする者を見張って いたところである。 堂峰の見晴らしのよい場所の石垣の上に番所を構え、 中山道をはさんだ西側に定附同心の住宅が二軒あった。 関門は両方の谷が迫っている 場所をさらに掘り切り、道幅だけとした。 」 

「大日尊」の大きな石碑の手前には「刎石坂」の説明板があるが、ここから覗き までは崩れてきた石がごろごろしていて、歩くのが困難な刎石(はねいし)坂である。  

 * 説明板 「刎石坂」  
「 刎石坂には多くの石造物があって、碓井峠で一番の難所である。むかし芭蕉句碑 もここにあったが、いまは坂本宿の上木戸に移されている。  南無阿弥陀仏の碑、大日尊、馬頭観世音がある。ここを下った曲がり角に刎石溶岩の 節理がよくわかる場所がある。 」

旧中山道の標柱
     堂峰番所跡      刎石坂
旧中山道の標柱
堂峰番所跡
刎石坂


説明板を下った曲がり角に「刎石節理」の説明板があり、その奥に柱岩が幾重にもなって 連なっていた。  

 * 説明板 「刎石節理」  
「 このあたりは刎石の名前の由来となった柱状節理の石が多く 見られる。 柱状節理は溶岩が冷えた時亀裂が生じ、柱状になったものである。 」 

その先には「上り地蔵下り地蔵」の説明板がある。 

 * 説明板 「上り地蔵下り地蔵」  
「 十返舎一九が「 たび人の 身のこをはたく なんじょみち 石のうすいの  とうげなりとて 」・・・ その険阻な道は刎石坂である。 
刎石坂を登りつめたところにこの板碑のような地蔵があって、旅人の安全をみつめると ともに幼児の成長を見守ている。 」  

「  見よ この崇高な山頂に一つの新しい石碑 が書き いくつかの坂を越えて遠い「時代の旅人」 そこを登るであろう。 そして、 秋の落ちかかる日の光で人々は石碑の文字をゆぶであろう。 そこには何が書いてあるか。 見るものは黙しうなずきそして皆行き去るだろう。 時は移り風雪は空を飛んでいる。  ああ! だれが文字の腐蝕を防ぎ得るか。 山頂の空気は希薄であり、鳥は樹木に かなしく鳴いている。  だが新しい季節は来たり 氷は解けそめ再び人々はその麓を通るだろう。 その時、ああ だれが山頂の墓碑を見るか、多数の認識の眼を越えて、白く雪の如く 日に輝いている 一つの義しき存在を 芥川龍之介の死より 萩原朔太郎  」  

刎石節理
     上り地蔵下り地蔵      芥川龍之介の死より
刎石節理
上り地蔵下り地蔵
萩原朔太郎「芥川龍之介の死より」


その先が覗きである。 覗きという名の通り、すばらしい景観が木の間から見渡 せる。 

 * 「 大田南畝は壬戌紀行で、この風景を 「 妙義の山也といふ。  これまで岩山をみしかど、かかる険しき岩の色黒きが雲をしのぎてたてるをみず。  唐画にかける山のごとし。 」 と書いている。 

眼下に道が一直線に延びているが、その先の両側に並んだ家が坂本宿である。  その前を高速道路が横断し、右前方には妙義山の威容が迫っていた。  人に威圧感を与える妙義山や眼下に見える坂本の風景にしばらく見入った。 
小林一茶も、坂本宿を見下ろしながら、「 坂本や 袂の下の 夕ひばり 」 という 句を詠んでいる。  
覗きのすぐ先に「風穴」の説明板があり、 「 刎石溶岩のさけめから、水蒸気 で湿った風が吹き出している穴が数カ所ある。 」とあり、穴に手をやるともやっとした 空気が感じられた。 
ここから再び急坂を上る。 すると、右側に井戸が見えてきた。 弘法の井戸である。  刎石茶屋には水が無いので、弘法大師がここに井戸を掘ればよいと教えた と伝えられる霊水で、今もきれいな水が涌いている。 その前にの新旧二つの説明板 がある。 

 * 説明板 「弘法の井戸」  
 @ 「 弘法大師からここを掘れば水が湧き出すと教えられ、水不足に悩む村人は 大いに喜び弘法井戸と名付けたという。 」 
 A  「 諸国をまわっていた弘法大師が刎石茶屋に水がないので、ここに井戸を 掘ればよいと教えられたと伝えられる霊水である。 」 

やっと平地になったところに石垣に囲まれた敷地がある。 江戸時代に小池 小左衛門茶屋本陣、大和屋等の四軒の茶屋(刎石茶屋)があったところで、 右側の空き地の奥に石垣があり、墓も残っていた。 
ここにも二つの説明板がある。 

 *  説明板 「刎石茶屋跡」  
 「 ここに石垣に囲まれた四軒の茶屋があった。 現在でも石垣や墓が残って いる。 

 *  説明板 「四軒茶屋跡」  
 「 刎石山(標高810m)の頂上で、昔ここに四軒の茶屋があった屋敷跡である。今でも石垣が 残っている。(力餅、わらび餅などが名物であった) 」 

覗き
     弘法の井戸      刎石茶屋跡
覗き(のぞき)からの展望
弘法の井戸
刎石茶屋(四軒茶屋)跡


段上にハイカーや中山道を歩く人のための休憩所(峠の小屋)があるが、 その手前に「碓井坂の関所跡」の説明板がある。 

 *  説明板 「碓井坂の関所跡」  
 「 (平安時代前期の)昌泰二年(899)碓井坂に関所が設置を設けたといわれる場所 と思われる。 」 

中部北陸自然歩道の道標には「左坂本宿2.5q 右熊野神社6.4km」とある。 
ここからまた森の中の登りが始まる。 道は台風などで倒された樹木が横たわり、 すり鉢状の道を行く。 
その先の左右が下に傾斜しているところに「堀切」の説明板が立っている。 ここは 天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原城攻めの際、北陸、信州連合軍(前田利家、上杉景勝率いる)三万余 を松井田城主、大道寺政繁が防戦するため、堀切を造ったものである。 

 *  説明板 「堀切」  
 「  両側が深い谷で道巾が狭く小田原勢の武将大道寺政繁(松井田城主)がこの道を掘り 割いて北国勢を防いだ古戦場跡である。 」 

碓井坂の関所跡
     すり鉢状の道      堀切
碓井坂の関所跡
すり鉢状の道
堀切


この堀切を南に出た途端、南側(左側)は絶壁で、昔、この付近に山賊が出たといわれる。  大岩の下に寛政三年(1791)建立の南向馬頭観音が祀られている。 
この険しい場所を過ぎると、左側が岩場となり、高い岩の上に馬頭観音が祀られて いる。 文化十五年(1818)の建立で、北向馬頭観世音を呼ばれている。 
この先の左側に一里塚の説明板が立っている。 

 *  説明板 「一里塚」  
 「  座頭ころがしの坂を下ったところに、慶長以前の旧道「東山道」がある。  ここから登っていった。その途中に小山を切り開き「一里塚」をつられている。 」 

登ってみるとそれらしい盛り上がりはあったが、一里塚の跡は確認できなかった。

南向馬頭観音
     北向馬頭観音      一里塚説明板
南向馬頭観音
北向馬頭観音
一里塚説明板


整備されているが、谷の中のような急な坂道を登っていくと、岩や小石のごろごろとし ている。 そこから赤土となり、湿っているので滑りやすいことから、「座頭ころがし (釜場)」と呼ばれる難所である。 
ここを通り過ぎると、栗ヶ原の説明板が立っている。 

 *  説明板 「栗ヶ原」  
 「 明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所で、明治八年群馬県最初の「見回り 方屯所」があった。 これが交番のはじまりである。 」  

尾根道や切り通し道を進むと右側の段上に線刻の入道くぼ馬頭観音がある。 
ここから山中茶屋まではまごめ坂で、赤土のだらだらした下り道となる。 

 *  「 まごめ坂の入口は入道くぼと呼ばれているところで、右側 (北側)の小高いところにある大きな石には「馬頭観音像」が線刻されている。 

座頭ころがし
     栗ヶ原      入道くぼ馬頭観音
座頭ころがし
栗ヶ原
入道くぼ馬頭観音


まごめ坂の左には石積みがある。 整備した林が続き美しく、鳥のさえずりも聞えた。 
まごめ坂を下ると峠の中間点の辺りに、明治天皇に握り飯を振る舞ったといわれる 山中茶屋跡がある。 道の右側に「山中茶屋」の説明板があった。 

 *  説明板 「山中茶屋」  
 「 山中茶屋は峠のまんなかにある茶屋で、慶安二年(1662)には十三軒の立場茶屋 ができ、寺もあって茶屋本陣には上段の間が二か所あった。 明治の頃小学校も できたが、現在は屋敷跡、墓の石塔、畑跡が残っている。 松井田町観光協会 」 

道の右側に「山中部落跡」と「山中学校跡」の説明板が立っている。 
江戸時代には山中村があったが、今はその跡かたもない。 

 * 「 山中村跡は右側にあるが、慶応年中(1648〜)に碓氷峠の峠町 の人が川水をくみ上げるところに茶屋を開いたのが始まり、寛政二年(1662)には十三軒 の立場茶屋があり、丸屋六右衛門茶屋本陣がありました。 力餅、わらび餅が名物 でした。 明治の世になると小学校が出来、山中に町があるといわれました。  明治十一年(1878)の明治天皇北陸巡幸の際、教育の振興のために金二十五両が下賜され ました。当時の児童は二十五名であったといわれます。  しかし、鉄道の開通により街道が廃止になると、山中村は廃村になりました。 」 

まごめ坂から十分下ったところに山中坂の説明板があり、右手に見えるのは石持山で ある。 

 *  説明板 「山中坂」  
 「 山中茶屋から石持山の山麓を陣場が原に向って上がる急坂が山中坂で、 この坂は「飯喰い坂」とも呼ばれ、坂本宿から登ってきた旅人は空腹ではとても駄目 なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った。  山中茶屋の繁盛はこの坂にあった。  松井田町観光協会  」 

山中茶屋跡
     山中村跡      山中坂
山中茶屋跡
山中村跡
山中坂


右手は石持山、左の山中坂の急勾配を登ると左側に「一つ家跡」の説明板があり、 「 ここには老婆がいて、旅人を苦しめた言われている。 」 とあった。 
このあたりに一つ家の一里塚があったが、浅間山の天明の大噴火で消滅したといわ れる。 上りが緩やかになると陣馬ヶ原の三叉路で、右側の道は文久元年(1861)和宮降嫁 の際に開削された和宮道で、毎年五月の第二日曜日に開催される安政の遠足のコースで、 「安政遠足」の標木がある。 中山道は左に進むが、左側に「陣馬ヶ原」の説明板が ある。 

 *  説明板 「陣馬ヶ原」  
 「 太平記に新田方と足利方のうすい峠の合戦が記され、戦国時代、武田方と上杉方の うすい峠合戦記がある。 笹沢から子持山の間は萱野原でここが古戦場とい われている。 」  

また、正面の小高いところに「子持山」の説明板があり、 「 万葉集第十四巻 の東歌(あずまうた)の中に、 読人不知だが、子持ち山の題で 、「 児持山 若かへるでの  もみづまで 寝もと 吾(あ)は思う  汝(な)はあどか思う 」の歌が詠まれて いる。 」 とあった。 
ここからの道は狭く、倒木をくぐりながら進むと右側に「化粧水跡」の説明板があり、  「 峠町へ登る旅人がこの水で姿、形を直した水場である。 」 とある。 
右側に「人馬施行所跡」の説明板がある。 

 *  説明板 「人馬施行所跡」  
 「 笹沢のほとりに、文政十一年江戸呉服の与兵衛が安中藩より間口十七間、奥行二十 間を借りて人馬が休む家を作った。 」 

一つ家跡
     陣馬ヶ原      人馬施行所跡
一つ家跡
陣馬ヶ原
人馬施行所跡


その先の笹沢は徒歩渡りになる。 沢を渡ると熊笹が繁った狭い峠道になり、 碓井峠の最後の登り坂の長沢道になる。 ここには「長沢道」の説明板があり、  「 中仙道をしのぶ古い道である。 」とある。 
長沢道を上がるとT字路に突き当たるので、 右折する。 ここには「松井田、坂本宿→」の道標がある。 
右折すると再びT字路に出る。 ここに「←石持山 旧中山道→」の道標がある。  ここは松井田峠である。  右の石持山の道は先程、陣馬ヶ原で分かれた和宮道である。 旧中山道→は小生が歩 いてきた道を指し、この道標は京方から歩く人の目印である。 
江戸からの人はT字路を左折する。 
この分岐点に「仁王門跡」の説明板としめ縄が捲かれた石碑が立っている。 

 *  説明板 「仁王門跡」  
 「 もとの神宮寺の入り口にあり、元禄年間再建されたが、明治維新の時に廃棄 された。 仁王様は熊野神社の神楽殿に保存されている。 」 

「思婦石」の説明板の右側に「日本武尊をしのぶ歌碑」の標柱があり、その奥に 石碑が建っている。 

 *  説明板 「思婦石」  
 「 群馬郡室田の国学者関橋守の作で、安政四年(1857)の建立である。 
  ありし代に かへりみしてふ 碓井山 今も恋しき 吾妻路のそら  」 

土道を進むと左側に碓井川水源地がある。 明治天皇巡幸の際、御膳水となった名水 であるが、付近は山ヒルがいるので近寄らないほうが無難である。  土道が舗装路になると碓井峠の頂上である。 ここが上州と信州の国境、現在は群馬県と 長野県の県境である。 頂上には日本武尊を祀った熊野神社がある。 

 * 「 神社入口の左側にある柱の正面には「熊野皇太神社」とあるが 、右側には「熊野神社」と書かれている。 神社は古から上州と信濃から信仰を集め、 群馬県では熊野神社、 長野県では熊野皇太神社と呼ばれてきた。 同じ神社なのに呼び名が違うため、標柱に 二つの名が書かれている。 上州は高崎藩、信濃は小諸藩が守護神として庇護したが、 中山道が通行容易な入山峠でなく、難路の碓氷峠になったのも、熊野神社を守り神に する両藩が推したという説がある。 」  

両側に常夜燈が立ち、その先に狛犬そして石の鳥居、その奥はけっこう急な石段である。  右側の常夜燈の前に「安政遠足決勝点」の標識がある。  常夜燈は国の重要文化財指定で、古いものである。 
鳥居の手前に、高浜虚子の句碑があるが、昭和五十年に建立されたもので、「 剛直の  冬の妙義を 引き寄せる 」 と刻まれている。 

思婦石
     熊野神社      高浜虚子の句碑
思婦石
熊野神社
高浜虚子の句碑


新しい狛犬もあったが、古い狛犬は室町時代中期の作である。  狛犬は本来、威嚇を目的としているはずだが、この狛犬は素朴でほのぼのとしていた。 
神社の階段はかなり急である。 登りきったところに「熊野皇太神」の額のある神門 があるが、手前の常夜燈の前に丸い石臼のようなものが左右にあったが、 これは石の風車と言われるものである。 

 * 説明板 「石の風車一対」  
 「 軽井沢宿の問屋、佐藤市右衛門と代官、佐藤平八郎の両人が 二世安楽祈願のため、当社正面石だたみを明暦三年(1657)築造した。 その記念に、 その子、市右衛門が元禄六年(1688)、佐藤家の紋章源氏車を刻んで奉納したもので ある。 秋から冬にかけて吹く風の強いところから中山道往来の旅人が石の風車として親しみ、
 「 碓氷峠のあの風車 たれを待つやらくるくると 」と追分節にうたわれて 有名になった。 軽井沢町教育委員会 軽井沢町文化財審議委員会  」  

神門をくぐると正面に三つの社殿がある。 中央にあるのが本宮で、上信国境上 にあり、祭神は日本武尊、伊邪那美神、右側は新宮で上州側にあり、祭神は速玉男命 である。 左側は那智宮で、祭神は事解男(ことさかのお)命で、信州側に鎮座して いる。  

 *  熊野神社由来によると 「  日本武尊が東国平定の帰路、 碓氷峠に差し掛かると濃霧に閉ざされて行く手が分からなくなったが、 八(や)た烏 (からす)の道案内により、無事峠を越えることができたので、帰京後、熊野の大神 を祀ったと伝えられる。  」  とある。 熊野神社は二つの県にまたがる珍しい神社 で、社務所が信州側と上州側と二つあり、賽銭箱も二つある。 社殿は江戸中期以降 の建築である。 」  

狛犬
     神門と石の風車      三つの社殿
室町時代中期作の狛犬
神門と石の風車
三つの社殿


右側の熊野神社(新宮)には群馬県の指定文化財になって いる古鐘が納められている。 鎌倉時代の正応五年(1292)、松井田一結衆十二人に よって奉納されたもので、上信の国境にあった鐘楼から時を告げたといわれる。  」
その前にある「太々御神楽」の額がある建物の中に仁王門にあった仁王像が保管されている。 
多重塔は沙弥法性という人が文和三年(1354)に建立したものである。 
境内の左側に「 明治天皇峠御小休所 」 の石柱があり、 その右側に「 日本武尊の 吾嬬者邪(あずまはや)咏嘆の処」の標木が建っている。 

 * 「 碓井嶺に立った尊は雲海より海を連想され、走水で入水された 弟橘比売命を偲ばれて、吾嬬者邪と嘆かれたという。 」  

群馬県側から登ってきたところ(現在は閉鎖)に「伊達政宗発句」 という標板があり、 「 伊達政宗は慶長十九年(1641)四月末に登ってきた。 」 とあり、その時詠んだのが  「 夏木立 花は薄井の 峠かな 」である。 

 *  「 慶長十九年には大坂の役があり、 その途上での出来事と思うが、この戦いで伊達軍は功を焦って、味方の神保相茂隊を 同志討ちにして、全滅させる失態を演じた。 」  

神楽殿
     多重塔      明治天皇峠御小休所碑
群馬県側の神楽殿
多重塔
明治天皇小休所碑


下に降りると鳥居の前には名物の力餅屋が並んでいる。 
元祖力餅の看板を掲げたしげのやの右側に、信濃国と上野国の国境を書いた立て札が あった。 店内に入り、早速力餅を注文する。 力餅は頼光四天王の一人、強力で 知られた碓氷貞光にちなんだ餅である。 あんこだけかと思ったら、大根おろしなど、 何種類かあった。 注文してから作るというので、しばし休憩となった。 店内の柱の 一つに、国境の表示があったのは面白かった。 
しげのや駐車場の奥に 「み国書石碑」がある。 

 * 「 四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十四万万四  二三四万六一十 」 と、数字で彫られた数字歌碑で、「 よしやよし 何は置くとも  み国書(ふみ) よくぞ読ままし 書(ふみ)読まむ人 」 と読むようである。  これは峠の社家に伝えられていたものを昭和三十年に現地に移したものである。 」 

隣接するうすい山荘第一駐車場に朱塗りの石祠が祀られている。 赤門屋敷跡 である。 熊野神社と関係の深い曽根家の屋敷だったといい、茶屋本陣の役割を 果たしていた訳である。 

 * 説明板 「赤門屋敷跡」  
「 ここには加賀藩前田家の御守殿門に倣って造られた朱塗りの 赤門屋敷があった。 熊野神社代々の社家、峠開発の祖、曽根氏の屋敷でした。  参勤交代の諸大名は碓氷峠の熊野神社で道中安全祈願をした後、 この赤門屋敷でしばしの休憩をとられました。 皇女和宮も休憩されている。 明治 になり、碓氷峠の道が廃道になり、屋敷もなくなった。」 

名物の力餅屋
     み国書石碑      赤門屋敷跡
名物の力餅屋
み国書石碑
赤門屋敷跡


熊野神社の下に「宗良親王仰歌碑」が立っている。 

 * 「 宗良親王は後醍醐天皇の皇子で、父の後醍醐天皇とともに吉野の 南朝方にあった。 正平六年(1351)、新田義興とともに鎌倉を占領するが、足利尊氏に より駆逐された。 征夷大将軍に任じられ、信濃国(長野県)など関東を流転するが、 その後の消息は不明という人物である。 」  

舗装された道は県道133号で、明治天皇が御巡幸に訪れた明治十一年(1878)に改修 されたという由緒ある道である。 
熊野神社の周囲は江戸時代には峠町といわれたところで数軒の茶屋が軒を並べていた。  碓井峠越えは中山道の最大の難所だが、ここを登りきった旅人はほっとしただろう。 
熊祖神社を少し下がった三叉路(上信国境の石碑の先)を左折と石畳の道があり、 五十メートル上ったところに碓井見晴台がある。 入口の右側に碓氷峠万葉集歌碑がある。 

 * 「 万葉集歌碑 」 
「 日の暮に うすひの山を こえる日は せなのが袖も さやにふらしつ (よみ人知らず) 
「 ひなくもり うすひの坂をこえしだに いもが恋しく わすらえぬかも 」(他田部子磐前)
この碑は、昭和四十二年に建立されたものである。  

左側には、詩聖タゴールの記念像(胸像)がある。  

 * 「 タゴールはアジア最初のノーベル文学賞を受けた人です。  この胸像はタゴール生誕百二十年記念で建立されたもので、背景の壁に彼の言葉 「 人類不戦 」 の文字が刻まれています。 」 

見晴台は広い空き地というか公園だった。 あいにく靄がかかっていて、見晴しが悪く 景色は見えない。 ここにもしげの屋にあったような信州と上州との国境を示すオブジェ があるようだが、気が付かずあとにした。 

宗良親王仰歌碑
     万葉集歌碑      タゴールの胸像
宗良親王仰歌碑
万葉集歌碑
タゴールの胸像



軽井沢へは先程の県道か旧中山道うすい峠道の選択であるが、旧道は激しく危険という ことで、ほぼ旧道に近い形で作られらた遊歩道を下る。 道標には「碓井峠遊覧歩道入口 (至る旧軽井沢 約4km)」とあった。  
林の中に入ると、多いのはズミの木だった。 ズミの花は林檎の花のように白く、 咲いてる様はなかなかきれいである。 ズミは湿気を好む木なので、これが多いのは このあたりは霧や雨が多い証拠だろう。 
下に車道が見えるところを通ると中部北陸自然歩道の「←14.7km 峠の茶屋 碓井峠 (県境) 1.3q→」という道標が立っている。 

遊歩道入口
     林の中を下る      道標
遊歩道入口
林の中を下る
道標


車道に歩道橋が架かっている。 渡ったところには「碓井峠遊覧歩道」 「←至碓井峠 ・見晴台 細道上る  至旧軽井沢方面 細道下る→」の道標がある。 
その先、吊り橋を渡ると別荘地で、これまでは山道であったが広い道になる。 
別荘地をぬけると右側に県道133号が現れ、合流する。 ここには「遊歩道→」の大きな 看板、「歩行者道路」の杭、野生動物生息地域の看板がある。 京側来た時はこれを 目印にするとよい。 ここまで見晴台から三十分程。 

歩道橋
     吊り橋      道標
歩道橋
吊り橋
京側の遊歩道入口


県道を下ると矢ヶ崎川に架かる二手橋(ふたてはし)に出る。 江戸時代、宿場女郎が 前夜の客を送り、別れを惜しんだという二手橋であるが、現在の橋はいつのものか わからない。 

 * 「 碓井峠から十と八丁下れば軽井沢の宿。 宿の手前で渓流が道を 断ちきり、橋が架かっている。 朝、旅人を送ってきた宿の女たちがここで別れを告げ、 二手に分かれたところから、この橋を二手橋と呼ぶ。 」  

橋の手前は碓氷峠や見晴台などの大きな案内板が立っている。 公衆トイレもあり、 見晴台へ行くバス停にもなっている。 
近くに室生犀星の詩碑があるので、立ち寄る。 

 * 「 川に沿った右側の道を少し行くと、川へ少し下った側壁に 室生犀星の詩碑がある。  
「 我は張りつめたる氷を愛す 斯(かか)る切なき思ひを愛す 我はそれらの輝ける を見たり 斯る花にあらざる花を愛す 
  我は氷の奥にあるものに同感す 我はつねに狭小なる人生に住めり その人生の 荒涼の中に呻吟せり  
 さればこそ張りつめたる氷を愛す 斯る切なき思ひを 愛す 」    

室生犀星自らが手がけた詩碑とあり、軽井沢という地が氷の詩を選んだということも あるが、 「 この詩の氷は作者の審美的な感覚の表象であり、同時にひとりの生活者の人生的覚悟 を表明したもの 」  と説明文にあった。
二手橋に戻り橋を渡る。  この辺り、楢や白樺の深い木立の中に瀟洒な別荘が点在して、いかにも高級 別荘地といったたたずまいである。 
軽井沢の別荘の第一号は英国聖人宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーで、この 建物は昭和六十一年にその別荘を復元したものである。 

二手橋
     室生犀星詩碑      ショーハウス
遊女の別れた二手橋
室生犀星詩碑
ショーハウス


その先には宣教師、アレキサンダー・ショーの胸像、その奥に質素な木造の教会、 アレクサンダー・クロフト・ショー記念礼拝堂がある。 

 *  説明板 「アレクサンダー・クロフト・ショー氏の記念の碑」 
「 軽井沢開発の恩人、アレクサンダー・クロフト・ショー氏(英人)は碑文にあるように、 明治十九年布教の途上この地を通り、軽井沢の美しい自然と気候が故国スコットランド に似ているのに感動し、その夏家族・友人とともに避暑に訪れた。 翌年も夏をすごして、 ますます気に入り、保健と勉学の適地として推奨し、翌明治二十一年旧軽井沢の大塚山に 簡素な別荘を建てる。 これが軽井沢の別荘の最初のもので、今日の観光・保健地 軽井沢を造る一粒の種になったのである。 氏の項徳をたたえ、明治三十八年五月 三十一日地元の人々によって建立された。  」 

礼拝堂の中は、木のぬくもりがいっぱいという感じがした。 
その反対側に 台座は苔で覆われている芭蕉句碑がある。 

 * 説明板 「芭蕉句碑」  
「 馬をさへ ながむる雪の あした哉  」 
「 松尾芭蕉(1644〜1694)が「野ざらし紀行」(甲子吟行)中の一句。前書に「旅人 をみる」とある。 
雪のふりしきる朝方、往来をながめていると、多くは旅人がさまざまな風をして通って 行く。 人ばかりでない、駄馬などまでふだんとちがって面白い格好で通っていくよ の意。(飯野哲二編「芭蕉辞典」による) 
碑は天保十四年(1843)、当地の俳人小林玉蓬によって、芭蕉百五十回忌に建てられた ものである。 軽井沢町 」 

この辺りが軽井沢宿の東(江戸方)の入口で、宿場時代には枡形があったのだが、 その形跡はない。 
軽井沢宿は坂本宿から二里十六町(約10km)、追分宿まで一里五町(4.6km) と比較的短い距離にある宿場であるが、碓井峠と碓井関所を控えて宿場であるため、 天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳によるとここから軽井沢銀座と呼ばれる ロータリー入口(宿場の京方の入口)までの 六町二十七間(約700m)の間に家数119軒、宿内人口451人、 本陣が1、脇本陣は4、旅籠は21軒があった。 碓氷峠と横川関所を控えていたので、 休息と歓楽の場になって、江戸時代は宿場に262人の女性がいて、男性より 多かった。 

 *  「 大田南畝は壬戌紀行の中で、 「 ここはあやしのうかれ女の ふしどときけば、さしのぞきてみるに、いかにもひなびたれど、さすがに前の宿より賑わしくみゆ  」 と書いているの で、飯盛り女が大勢いたことが裏付けられる。 

さらに行くとつる屋旅館が見えてくる。 

 *  「 旅館つるやは、昔は茶屋だったが、明治以降旅館となり、 芥川龍之介などの文士が好んで泊まった。 昭和四十六年に焼失した後、今の建物に なった。 」  

記念礼拝堂
     芭蕉句碑      旅館つるや
ショーの胸像と記念礼拝堂
芭蕉句碑
旅館つるや


右側に真言宗智山派の表白山神宮寺がある。 元は碓井峠の熊野神社あたりにあったが、 寛文二年(1652)に現在地に移ってきた。 
この先は軽井沢銀座と呼ばれる商店街になっている。 

 *  「 江戸時代、ここと沓掛宿は遊女で賑わっていたが、明治に入り 街道制度が廃止になり、 鉄道の時代に入ると中山道を歩く人はなくなり、軽井沢宿は存亡の危機に遭遇した。  それを救ったのがクロフト・ショーを始めとする外国人の別荘であり、カラマツ林の中 での結核療養所の出現である。 第二次大戦以前にこの付近に多くの別荘が建てられ、室生犀星などの文人や実業家が避暑 に訪れた。 軽井沢宿は別荘族の御用達として活用され、軽井沢銀座となった。  その結果、軽井沢宿はかっての宿場の面影を残してはいない。 」  

ほぼ中央にある観光会館は四つあった脇本陣の一つであるが、脇本陣跡であること を示す案内はない。 

神宮寺
     軽井沢銀座      脇本陣跡
神宮寺
軽井沢銀座
観光会館(脇本陣跡)


宿場の中央付近にある土屋写真館は江戸時代の旅籠白木屋の跡で、小林一茶も江戸と 越後の行き来の際宿泊している。 
教会通りの入口付近に佐藤本陣があったようであるが、跡方もなくなっていた。 
脇道に入ると中山道その先の聖パウロカトリック教会の間に「軽井沢宿明治天皇 行在所跡」という石碑がある。 この石碑が軽井沢宿があったことを示す歴史に 残る数少ない証拠である。 

* 説明板 「軽井沢宿明治天皇行在所跡」  
「 明治時代(1868〜1912)の前期、明治五年から明治十八年にかけて、明治天皇は 地方視察の為、国内を巡幸された。この中でも特に大規模な地方巡幸の一つであった 明治十一年(1878)北陸東海御巡幸は中山道を利用された長野県を巡幸される。 長野県 の東の入口軽井沢には碓井峠を越え、九月六日、中山道・峠町(熊野権現)に入れる。 峠町にて御小休をとられた御巡幸の列は峠より下り川場川に架かる二手橋を渡り、中山道 ・軽井沢宿に昼過ぎに到着される。軽井沢本陣(佐藤○衛)敷地内に新設された「御昼行在所」 昼すぎに軽井沢宿に到着し、食事をとられる。(午後一時頃)御昼(小休止)を御昼御在所 にて過ごされた後は車にて軽井沢宿を発たれた。 軽井沢町教育委員会  」  

道を突き当たりところには聖パウロカトリック教会が建っている。  この教会は結婚式で人気が高いところである。 

旅籠白木屋跡
     明治天皇行在所跡      聖パウロカトリック教会
旅籠白木屋跡
明治天皇行在所跡
聖パウロカトリック教会


西の宿はずれの枡形の跡は今はロータリーになっている。 昭和五十年代まではバスターミ ナルだったが、今はバスが一時間に数本ここを通り過ぎるだけである。  軽井沢宿はここで終わる。  


(所要時間) 
碓井の関所跡→(20分)→坂本宿→(30分)→旧道入口→(2時間20分)→山中茶屋跡→(1時間)→熊野神社
→(1時間15分)→軽井沢宿 


坂本宿  群馬県安中市松井田町坂本  JR信越本線横川駅から徒歩20分。  
軽井沢宿  長野県軽井沢町軽井沢  長野新幹線軽井沢駅下車。  




(11)沓掛宿・追分宿・小田井宿                           旅の目次に戻る



かうんたぁ。