慈恵稲荷を出ると左に成就院があり、新浦和橋有料道路(R463)の下をくぐり、 県道164号を北に向うとJRの線路が右からせまってきて、JR宇都宮線、高崎線、 京浜東北線の上を新浦和橋で渡る。 その先の右側に笹岡稲荷がある。
「 笹岡稲荷の境内の榎の木は浦和の一里塚にあったものか、その 子孫といわれる。 一里塚は昭和の初期まで浦和橋より少し南にあり、街道の 両端の五間四方の塚に榎の木が植えられていた。 浦和橋を架ける時、塚は 取り壊され跡形もない。 」
北浦和駅東口交叉点の左手に北浦和駅がある。 横目に見ながら交叉点を越え、市立 北浦和図書館前交叉点を過ぎると、 元治元年創業の梅林堂のすぐ先、左側に廓信寺がある。 地蔵堂、鐘楼と正面に本堂 があり、木造阿弥陀仏如来坐像は鎌倉時代頃の造像といわれる。
「 廓信(かくしん)寺は浦和郷一万石の代官中村弥右衛門尉吉照が
旧主の高力河内守清長(岩槻城主)追悼のため建立した寺と伝えられる寺である。
中村弥右衛門は浦和郷の代官として任じられたが、その後、幕臣となり、引き続き、浦和郷の代官を務めた。 その際に設けられたのが
ここから東方にあたりに「針ヶ谷陣屋」があったが、遺構は残っていない。
一本杉の仇討で討たれた元丸亀藩藩士の河西祐之助の墓がある。 」
寺の入口に「紅赤の発祥地」の説明板があり、「 サツマイモの女王、紅赤通称金時
は北浦和(旧木崎村針ヶ谷)で、明治三十一年(1898)に山田いちにより発見された。」 とあり、墓のある寺に
顕彰のため記した、ということが記されている。
大原陸橋東交叉点を渡った先の右側に、正徳4年の猿田彦が彫られた庚申塔がある。
ミニストップの先に見える一本杉の下に道路に面して「一本杉」の説明板がある。
「 文久四年(1864)一月二十三日の朝、水戸藩家臣宮本鹿太郎と後見人 三名が千葉周作門下の元讃岐藩の浪人河西祐之助を父の仇として討ち、四年越しの 本懐を遂げた場所である。 」
与野駅東口交差点の右側に大きな一本の欅(けやき)が立っていた。 「半里塚跡」
の碑には「ここが一里塚と一里塚の間に作られた半里塚の跡といわれる。 」 と
あった。 威風堂々としてそれを避けて車が走っていた。
上木崎交叉点の手前左手に「出世稲荷」の旗がひるがえっている小さな神社がある。
「 高力河内守清長は岩槻城主であったが、この地針ヶ谷に陣屋を 設け、陣屋内に稲荷を祭り、出世神として崇めて、岩槻から参拝にきていたという、 屋敷稲荷である。 高力清長は仏の高力といわれた人物で、徳川家康の関東入国に より、岩槻三万石を与えられ、浦和郷一万石を預けられた。
その先の右側は上木崎。 英泉による浮世絵 「支蘇路ノ驛 ・浦和宿」(中山道の 浦和宿)はここから浅間山を見た姿が描かれている。 ここは六国見(ろっこくけん) と呼ばれて、六国が見晴らせる場所だったのである。 周りが囲まれて今は 何も見えないが、駅の反対側の中央郵便局や隣の高いビルからは見えるのだろうか?
当時の旅行案内、「木曽路名所図会」にも 「 富士(駿河)、 浅間(信州)、甲斐(甲州)、武蔵、日光(下野)、伊香保(上州)など、あざやかに 見えたり 」 と書かれている。
左にさいたま新都心駅とさいたまアリーナがある。
「 このあたりは合併前は与野市上木崎で、国鉄時代には列車基地になって いたところが再開発され、埼玉新都心の超高層ビルへと変貌した。 さいたま市は平成十三年六月一日、浦和、大宮、与野が 合併し全国十三番目の政令指定都市になった。 さらに、平成十七年四月一日、岩槻市 と合併した。 」
ここから五百メートルは道の両脇にケヤキ並木が続く。このケヤキは昭和四十二年
に開催された埼玉国体の際に植えられたもので、この先はそれらを眺めながら歩くこと
になる。
一旦、ケヤキ並木が途絶えた右側の歩道の上に小さな祠があり、二体の石仏が祀られて いる。 後に見えるビルあたりがさいたま副都心駅である。
説明板 「火の玉不動尊と女郎地蔵・刑場跡」
「 この二体の石仏には火の玉不動尊と女郎地蔵という名が付けれて
いる。 左側の石仏が火の玉不動尊。下の中央に「為無縁」、
左側に「天保六(1835)年三月吉日」、右側には「施主粂三郎」とあり、
刑死者の供養のために建立されたものと思われる。
右側のはお女郎地蔵で、像の両側に「無縁法界菩薩」、「寛政十二(1800)申二月建立」、
と刻まれていて、宿場の飯盛り女の薄倖の死を悼んで建てられたものである。
地元の言い伝えによると 「 大宮宿柳屋の女郎が世をはかなんで高台橋から身を
投げたのを哀れに思った村人が地蔵様を彫って備えたが、それ以来、前々からあった
不動明王から夜な夜な火の玉が漂った。 」 とある。 この高台橋の傍に刑場があり、
大盗賊神辺徳次郎も御用になった末、この刑場の露に消えたと伝えられる。 」
さいたま新都心駅前交叉点を過ぎると再びケヤキ並木が現れ、ケヤキ並木を
進むと大宮氷川神社の赤い鳥居が見えてくる。
道の右側に赤い鳥居と「武蔵国一宮」石柱が立っている。
この鳥居が氷川神社参道の一の鳥居で、この参道は中山道の古道である。
「 当初、この参道を中山道に使用していたが、街道が神域を通るのは
不敬であると、寛永五年(1628)に現在の直進する中山道が造られ、それに
伴い、宿民を移転させて大宮宿が造られた。
参道には行かず、真直ぐ行くと吉敷町交叉点からかっての大宮市域になる。
交叉点の先の左側にある門は加賀前田家から拝領したという門である。
吉敷町一丁目バス停近く、至誠堂ビル南の細い道を入ると、大きなケヤキの木が
二本あり、二つの祠が並んでいる。 左側が塩地蔵で、右側の数体が子育て地蔵で
ある。
説明板「 塩地蔵の由来 」
「 いつの頃か、妻に先立たれた二人の娘を連れた
浪人が大宮宿で病に倒れて日一日と重くなっていきます。 ある晩、夢枕に地蔵様が
現れ、二人の娘に塩だちをするように告げて消えました。 娘達は早速塩だちをして
近くの地蔵堂に祈ったところ、父の病は全快しました。 そこでたくさんの塩を
この地蔵様に奉納し、幸せに暮らしたとのことです。 」
その後、人々も塩を供えるようになり、いつの頃か塩地蔵と呼ばれるようになった
とのこと。 この地蔵は埼玉新都心付近の鉄道敷地(操作場)内にあったのを、
大正十年(1921)に、ここに移されたのである。
第四銀行南の建物脇(ヤマト運輸と第四銀行大宮支店の間の道を入ると右側に) 「涙橋(中之橋)」の石標がある。
説明板「涙橋(中之橋)」
「 往時、大宮宿のこの辺りの中山道を横切る溝川の流れがあり、
中の橋と呼ばれる橋が架かっていました。 当時、吉敷町の町外れ、高台橋に罪人
の処刑場があって、その親類縁者が中の橋で、この世の別れを惜しみ涙を流した
ことで、いつしか涙橋と呼ばれるようになったといわれている。 この碑は昭和
42年3月第四銀行がこの地に開業するに当り敷地造成の折、国道に架けられた橋桁
の枠石が発見されたのを機に遺跡として顕彰したものである。 」
大宮宿は浦和から一里十町、江戸から四番目の宿場である。 宿の長さは 九町三十間(約一キロ)で、天保十四年(1843)の 宿村大概帳によると宿内人口1508人、家数319軒で、人口は蕨(わらび)宿や熊谷宿より は少なかったが、浦和宿よりは多かった。 本陣は1軒、脇本陣9軒、問屋4軒、 旅籠25軒、と脇本陣が多いことが目立つ。 また、武蔵国一の宮の氷川神社がある 門前町でもあり、その参拝に訪れる人も 含め、宿場には多くの飯盛女(女郎)を抱えていたようである。
「 脇本陣の数が多いのは荒川が増水して
川止があった時、大名行列を受け入れるため、必要になったからと思われる。
太田南畝は武蔵一の宮へ 「 武蔵一の宮へゆきて見まほしけれど、大宮の駅に入ら
ざれば夫馬かふるわづらひあり 」 と、見過ごしたが、 「 大宮の駅舎も又ひなびたり。
商人すくなし。 」 と、記している。 商人などは少なく寂しいところと感じていた
様子である。 」
中山道は大宮駅の東側の人と車がごった返す道で、街道沿いにはビルが林立して
いる。 第二次世界大戦による空襲で焼失し、バラック小屋から再建した商店
街で大宮宿の遺跡は残っていない。
高島屋デパートは寿能城家老、北沢家の屋敷跡である。 北沢家は紀州徳川家の鳥見役
として御鷹場本陣と中山道の脇本陣を兼ねていた。 また、明治二年一月〜八月には
大宮県の仮庁舎になっていたこともあった。
本陣は臼倉新右衛門がつとめていたが、文政期以降、山崎喜左衛門がつとめた。
左側の岩井ビルが山崎本陣。 キムラヤビルが臼倉本陣の跡である。
大栄橋交叉点の左右の道は川越街道で、交叉点の左側に御影堂がある。
大栄橋交叉点を右折し、次の宮町交叉点を左折する。 この細い道が江戸時代の
岩槻街道で、この道に入ると左側に東光寺がある。
「 東光寺は紀州の僧、東光坊が関東に来て、黒塚の悪鬼を呪伏し、 坊舎を建てたのが始めとされ、曹洞宗の寺である。 建物は順次建替えられたので、 古いものはない。 」
東光寺の門前の道を東に進むと「氷川神社入口」交叉点で、氷川神社表参道に 出る。 ここには二の鳥居があり、鳥居の左側に「大宮氷川神社参道ふるさと並木道」 の説明板がある。
並木道の説明板には 「 この並木は約二キロ、ケヤキ、スタジイ、 エノキ、クス等の多様種類の樹種で並木が形成されているところに特徴がある。 」 など と記されている。
表参道は十八町(約2km)の長さで、吉敷町の一の鳥居から氷川神社まで続くが、
途中で広い道に分断されたり、中央が車道になっている区間もあるが、緑も多く
快適に歩くことができる。
二の鳥居の近くにあった常夜燈には正面に「武蔵国一宮 東国總鎮守 氷川両宮」、
側面に「文化十四年 御垣之内村 其外近遠氏子信心中」と刻み込まれていた。
「大宮氷川神社」
「 氷川神社は孝昭天皇三年四月創建という武蔵国足立郡の古い神社で、
八世紀頃には武蔵国一の宮と定められ、延喜式神名帳にも記されている。
源頼朝が平家討伐の旗挙げの時、氷川神社に祈願し勝利した後、神領を寄進、
徳川家康が江戸に幕府を開くと朱印地三百石を寄進し社殿を造営した。 明治天皇は
東京遷都で、明治元年(1868)十月十三日、東京に到着なされたが、
四日後の十七日、勅書をもって氷川神社を勅祭社と定められ、二十八日には自ら
行幸され、祭祀を行われている。 明治に入り官幣大社となった。 」
これ等の歴史に残る出来事はこの神社が古くから人々の信仰を
集め、為政者もこれを崇めることによって民衆の支持を得ようとした証拠といえよう。
二之鳥居は大宮駅から真っ直ぐきたところにあり、三之鳥居を越えると氷川神社の
広い境内で、神池があり、朱色の神橋の先に朱色の楼門がある。 楼門をくぐると
舞殿があり、その奥に拝殿、廻廊内に本殿がある。
広大な神域に朱塗りの神門や社殿が清浄で厳かである。
「 神社がある地は昔は見沼原と呼ばれ、見沼低地を望む 大宮氷川神社(男体宮)と氷川女体神社(さいたま市宮本)と中山神社 (簸王子宮・さいたま市中川)の三社が並立していた。 これらの三社で氷川神社一体 をなしていたという説があり、明治維新の神仏分離で女体神社が衰退し、氷川神社が 政府の保護でこれらを統合し、今日に至っている。 」
参拝後、裏参道を通り中山道に出る。 出たところと交叉点に「官幣大社氷川神社
是ヨリ八丁」裏面に「大正6年10月」と書かれている。
裏参道は東山道で寛永五年(1628)伊奈備前守忠治が新道を作る迄は中山道で
あった。
大宮は今は喧噪の中にも穏やかさを残す大都会である。 その大宮を後に上尾に向う。
その先は東武野田線北大宮駅で、東武野田線とJR東北線の下をくぐる。
国道の左側にある県道164号を進むが、歩道が狭く歩きにくい。
大宮郵便局北交叉点の先の左側にCOCOSというファミレスがあり、駐車場
の出入口に大山御嶽山道標が建っている。
大山御嶽山道標
「 大山御嶽山道標は 「 大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道 」 と
彫られている追分道標で、安政七年(1860)に建てられた。 川越道は中山道とここで
西に別れ、レストランと魚屋の間を通り、大成町2丁目の普門院の東側へ通じ、与野に
至っていた。 大山とは神奈川県伊勢原市にある阿夫利神社のことで、江戸時代には
男子が15〜20歳になると、大山にお参りをすると一人前という風習が生まれた。
最初は成人を迎える神事であったが、この頃には娯楽化していたようで、
これを滑稽に描いたのが落語の大山詣である。 」
スーパーマルエツの向かいの小さな交叉点を入った突き当たり右側に小さな祠に
八百姫大明神と刻まれた石碑が祀られている。
八百姫比丘尼(やおひめびくに)は人魚の肉を食べて、八百歳まで生きたといわれ、
ここにしばらく滞在していた、という伝説が残る。
保健センター入口交叉点を左折し、少しは入った左側に石鳥居があり、新しい鳥居の
横には石上神社の石柱がある。 鳥居と石柱は立派だが、社(やしろ)は小さく、
貧弱だった。
教育委員会の説明板 「 石上(いそのかみ)神社は江戸時代の
中山道の絵図にも載っている古い神社で、疱瘡(ほうそう)の伝染が大変恐れられた
時代に「ホウソウの神様」として信仰を集めてきた。 昭和三十年代までは家々から
もち米と小豆を持ち寄り、小豆入りの餅を搗きあげ、子供に食べさせた。 」
中山道に戻ると、保健センター入口交叉点の右側、ロッテリアの手前の歩道上に 二体の石仏が離れて立っている。
「 一つは「安永六年(1777)・・ 南無三界萬霊供養塔 上尾」 と刻み込まれた地蔵像で「右原市道」、もう一つは「供養塔」と刻まれた馬頭観音で 、「此方 せいふ(菖蒲) きさい(騎西)五り半」とあり、道標を兼ねていた。 」
北区役所バス停の手前右側の道脇に「享保二年(1802)二月吉日 下鴨野村」と刻み
込まれた馬頭観音が祀られている。 花が活けられているので、今もなお地元の人に
信心されているのだろう。
新幹線のガードが見えてくると、手前百メートルの左側に赤い鳥居があり、お堂の中
に「青面金剛像」と「二鶏」、「三猿」が陽刻された庚申塔があり、地元で
長い間、大事にされてきたものである。
教育委員会の説明 「東大成の庚申塔」
「 これは東大成(ひがしおおなり)の庚申塔といわれるもので、高さが百四十二センチ、幅が四十五センチ
の大きさ。 元禄十年(1697)、井上、清水、黒須、吉田、小川などの十四名とおまつ、
お加めなど、二十二名の女性の名が刻まれ、平方村(上尾市)の石屋、治兵衛に注文
され製作された。 地元では、耳の神さん、眼の神さん、と大事にされている。 」
新幹線のガードをくぐると左側に高い住宅団地が聳えている。 その方角に
宮原駅がある。 太田南畝の壬戌日記にも 「 左に社あり、人家あり。 天神橋の
立場といふ 」 と記されているところであるが、今や、立場茶屋があった面影は
無く、バス停に「天神橋」の名が残るだけである。
なお、左側の石鳥居の奥にある木造の小さな祠は菅原道真を祭った天満宮(天神社)である。
「天神社(バス停「天神橋」のところ)」
「 ここには川が流れ(今は暗渠)天神橋という石橋があった。 立場茶屋が置かれ、
「天神橋の立場」と呼ばれていた。 茶屋は島屋と福島屋の二軒が有名で、特に島屋は
参勤交代時の加賀前田家の休憩所に使われた。 」
三百メートル先の右側にあるのは「木曾路名所図会」に「 賀茂村に賀茂祠あり 」 とある加茂神社である。
「 加茂神社は京都上賀茂神社を勧請したと伝わる加茂宮村の 鎮守で、 御祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)、倉稲魂命(うがのみたまのみこと) 、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉冉命(いざなみのみこと)と菅原道真である。 神社の創建はさだかではないが、文政七年、幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿に もあることから、かなり古い神社であることは間違いない。 」
境内には本殿の脇に三峰神社や天王様を祀る神輿殿があり、
また、「宝暦三年(1753)」、「弘化二年(1845)」と刻まれたものや「
文政十年(1827)御屯宮)と刻まれた石灯篭がある。
上尾宿は大宮から二里。江戸から五番目の宿場。
渓斎英泉の描く「木曽海道六十九次」の上尾宿の光景には、右端に「加茂大明神」と
書かれた幟(のぼり)が何本もあり、街道沿いの茶屋のような家の前では、一家総出で、
米を玄米と籾に仕分ける収穫風景が描かれている。
加茂神社の緑に包まれた森が旅人の格好の休み所になっていた。
加茂神社を出ると国道16号の下をくぐる。 吉野交叉点を通過すると右側の諏訪公園
の入口に南方(みなみかた)神社がある。
「 赤い鳥居の南方神社は、江戸時代の五街道細見独案内に 「諏訪神社」として登場する神社で、旧吉野村の鎮守で諏訪社とも呼ばれたが、 明治四十年、近隣にあった九つの神社を合祀して、現在の名前になった。 」
つつじヶ丘公園(西)交叉点付近は自動車も人も多い。
左側に「魂霊神」という石柱があり、社(やしろ)の中には石像が祀られている。
このあたりから上尾市になる。 馬喰新田バス停の左側に庚申塔がある。
「 青面金剛像が描かれた下の台座には「 足立郡馬喰新田
講中二十名 」 とあり、碑の右側面には「 寛政十二年十二月 」、左側には
「 是より秋葉へ壱里十二町、ひら方へ壱里八町、川越へ三里 」 と、
地名と距離が刻みこまれて、庚申塔は道標を兼ねている。 三叉路の左側の狭い道
が川越道であり、平方河岸を越えて川越へ続いていた。 街道の追分の面影がない
ので、気を付けないと通り過ぎてしまうほどである。
下上尾バス停を過ぎると左側に横浜ゴム物流センター、上尾陸橋交叉点を右折
すると緑の多い上尾運動公園、その先にさいたま水上公園がある。
上尾陸橋交叉点を越えると左手に高い木が見えてくるがその中に明治四十三年
(1910)に東町から移築されてきたといわれる愛宕神社が
ある。 境内は駐車場になっているが、南角の道との境の鳥居近くに庚申塔がある。
「 庚申信仰は神道、仏教、道教、陰陽五行などが融合して
出来た民間信仰であるが、長野県や群馬県では庚申等の文字が刻まれたものの他、
青面金剛という文字や青面金剛像が刻まれたものも多い。 仏教による庚申の御本尊
は青面金剛とされ、ここにあるものは三猿と二鳥の上に青面金剛が乗っているという
図柄である。
青面金剛は庚申様と道祖神とが一体となって信仰されてきた土着の神である。
道祖神は夫婦(めおと)神で、村の外れで外界から邪悪なものが侵入してくるのを防ぐ
役目をしている。 二人の仲を邪魔するものは追い出すことから、村の守り神に
なったというものである。 神道では、庚申の祭神は猿田彦(さるたひこ)神とされ
る。 猿田彦は天宇受売神(あめのうずめのかみ)と夫婦になった神である。
天孫降臨の時、邇邇芸命(ににぎのみこと)の道案内をしたとされる神であること
から、 道中の神 → 旅の神→ 道祖神 となった。
このあたりは現代の我々には分かり難い話である。
武蔵国(埼玉県、東京都、千葉県)には庚申塔が多いが、この後、中山道を歩いて
行くと、碓氷峠を越えたあたりからは道祖神に変っていくので、確認しながら
歩くのも楽しい。 」
愛宕神社を過ぎると右側にはら内科があり、その前に上尾原市新道のバス停がある。 上尾宿の江戸側の木戸があったのは上尾原市新道付近で、宿場の長さは十町十間 (約1.2キロ)、天保十四年編纂の中山道宿村別帳によると、宿内人口は793人 (男372人女421人)、家数182軒、本陣が1軒、脇本陣は3軒、旅籠は41軒あり、 大田南畝の壬戌(じんじゅつ)紀行には 「 上尾の駅舎ひなびたり 」 とあるが、 宿場女郎が大勢いたことや 六斎市が開かれたので、川越藩士たちもよく遊ぶに訪れたとあり、近隣の人で 宿場は繁盛していたようである。
「 徳川家康の家臣、西尾吉次は慶長七年(1602)、原市藩を 立藩し、菩提寺妙禅寺を再興したが、その子、忠水の時代に上野国白井藩に転封と なり、原市藩は廃藩となりこの地は天領となった。 はら内科の脇の道を東に進み、 上尾運動公園交叉点を横断して進むと上尾下に陣屋というバス停がある。 幕府の 陣屋はここと同時に上村(上尾市上)にも設けられた。
左に上尾駅とある交叉点の周りは上尾宿の中心であったが、今はビルでその姿はない。 「中山道上尾宿と本陣」という説明板を見付けた。
説明板「中山道上尾宿と本陣」
「上尾市の中心は中山道に沿った上尾宿をその源にしていますが、この上尾宿はすでに
後北条時代に宿駅として成立していたようです。 宿駅として整備されたのは慶長七年
(1603)の伝馬制施行以降のことです。幕府は中山道各宿駅に五十人五十匹の人馬を用意
され、主要幹線路としての役割をはたさせました。 また、各宿に本陣、脇本陣を置いて
大名などの宿泊所としました。中山道を通行した大名は加賀藩の前田家をはじめ三十四
家ほどでした。 上尾宿は中山道の中では比較的小さな宿場でした。江戸時代末の
家数は百八十二軒、人口は七百九十三人、旅籠屋は四十一軒でした。
上図は文化三年(1806)完成の中山道分間延絵図に描かれた中山道上尾宿の中心部です。
中央の太い道筋が中山道で、画面右が大宮方面、左側桶川方面になります。 画面下側
中央の鳥居が鍬大神宮(今の氷川鍬神社)、鍬大神宮の正面に本陣があり、その両側に
脇本陣が二軒あります。その右近くには問屋場、さらに右に行くと道をはさんで両側に
一里塚があります。鍬大神宮のすぐ右側にもう一軒の脇本陣が描かれています。
上尾宿には本陣が一軒(林八郎右衛門)、脇本陣が三軒(本陣の右が白石長左衛門、
左が井上五郎右衛門、向いが細井弥一郎)ありました。これらは主として参勤交代の
大名たちの宿で、本陣のことは「大名宿」とも呼ばれました。脇本陣は副本陣のような
性格をもち、本陣の代理もしました。 平成11年3月 上尾市教育委員会 埼玉県北本
県土整備事務所 」
上尾宿は江戸時代末期の安政七年(1860)の大火でほとんどが焼け、遺構は残って
いない。 明治以降の建物も昭和六十年以降の都市化の進展でほとんどなく、
氷川鍬神社の道の反対側にあったとされる、井上脇本陣は眼鏡屋が入っているビル、
林本陣(林八郎右衛門)はパチンコ屋のビル、白石脇本陣(白石長左衛門)と問屋場は
藤村病院に変った、とされる。 説明がないので、違っているかも知れないが、
ここに立ち並ぶ大小のビルのどれかであることは間違いない。
もうひとつの脇本陣、細井脇本陣は神社の手前の埼玉りそな銀行あたりにあったようである。
ビル街に「お鍬さま」と呼ばれる神社がある。 上尾宿の鎮守であった氷川鍬神社 (ひかわくわじんじゃ)である。
「氷川鍬神社」
「 氷川鍬神社は武蔵国足立郡御鍬太神宮累來によると百九代明王天皇の御代、寛永
九年(1632)の御創立と伝えられます。
御祭神は豊鍬入姫命、稲田姫命、菅原道真、
木之花咲耶姫命、応神天皇の神で、豊鍬入姫命は悩める人苦しむ人の胸中を知りその人
のため救いの手をさいのべて下さる神であり、疫病除け、招福、豊作の神であり
ます。
稲田姫命は須佐之男命の御妃で限りない慈しみと深い母性の愛を表わされる神であり、
菅原道真公は学問の神として、木之花咲耶姫命は浅間山の神様で、大山祇神という
尊い神さまも御子神さまです。応神天皇は文化神としてのご神徳を持っておられます。
氷川鍬神社は上尾宿鎮守として広く世人の崇敬を集めた古社あり、通称、
お鍬さまと呼べれております。 氷川鍬神社の名称になったのは明治四十一年(1908)
の神社合祀以後のことで、それより以前は「鍬大神宮」という社名であった。
(以下略)
平成十一年三月吉日建之 宮司 」
鳥居をくぐった先の右手には「上尾郷二賢堂碑記」と「雲室上人生祠碑頌」と 「浅間大神」碑と「上尾郷二賢堂跡」の標柱と説明板が建っている。
説明板 「上尾郷二賢堂跡」
「 二賢堂(通称「じけんどう」)天明八年(1788)学僧の雲室上人が上尾宿(現在の
氷川鍬神社境内)に開いた郷学ともいえる「聚正義塾」の学舎の名称です。 雲室が
当時親交のあった林大学頭信教らと相談して、中国の南宋の大儒朱文公(朱子)と我が国
の学問の神様ともいわれる菅原道真の二人を祀る意味から「二賢堂」と名付けたもの
です。
雲室は信濃国飯山出身の当時有名な学僧で、江戸の多くの文人たちとも
交流がありました。 雲室が上尾宿で開塾したのは学友の石井永貞とその弟子にあたる
上尾宿の山崎武平治碩茂の強い勧めがあったためです。
聚正義塾の学舎は山崎碩茂ら上尾宿や近隣の村の人々の資金と労力によって建てられ、
その意味では私塾とは異なる郷学の性格を持っておりました。 雲室は四年ほどで上尾を
去りますが、その後山崎碩茂が引き継いています。 塾は文政九年(1826)に碩茂が
亡くなって後も続けられたといわれています。 現在も氷川鍬神社に残る林大学頭信教
筆の扁額、そして境内の「上尾郷二賢堂碑記」と「雲室上人生祠碑頌」とあわせて
三件が上尾郷二賢堂跡を物語っています。 平成十一年六月一八日 上尾市教育委員会 」
境内の手水鉢には元禄八年(1695)の年号と上尾町 山崎武右門 と、寄進者の名前が 刻まれていて、上尾の地名が残る一番古い石造物といわれる。
「鍬神社の言い伝え」
「 三人の童子が鍬二挺と稲束を持ち、白幣をかざしながら踊り歩き、上尾宿に来た。
童子たちは鍬を残し、いずこにか消え失せてしまった。 残された鍬を祭ったのが
神社の起源と伝えられ、ご神体は小鍬である。 地元ではお鍬さまと呼び親しまれて
いる。 」
(注) 上尾地方では柄の付いた鋤や鍬を作る職人を棒屋といい、腕の良い職人が
いたといわれる。
上尾駅の四差路の左は川越道で、南に向うと川越に通じる。 右は岩槻道で、
ここから北へ、岩槻を経て、日光街道へいたる。
それにしても、中山道の宿場の中で神社仏閣も含め、これだけ古い施設が残っていない
ところには驚いた。
少し先の上町一丁目の道の右側に遍照院(へんしょういん)がある。
「 遍照院は日常山秀善寺と号する真言宗智山派の寺院で、
本尊は不動明王である。 徳川家康から寺領二十石の朱印地を与えられた寺である。
幕府から御朱印を与えられた寺院がここには多い中で、二十石は当地では最高の
石高である。 上尾市史には「天保九年(1838)の村絵図では広大な境内地を持ち、
参道は旧中山道から山門に直進する形で描かれている。 」とある。
現在の上尾市は宿場だった上尾宿と荒川舟運の要衝として栄えた平方村や
市場町としての発展をした原市町など、周辺の村が合併したものである。
墓地の中央最北端には歴代住職の墓石が並ぶが、その近くに山崎武平治 碩茂(ぶへいじせきも)の墓がある。
「 山崎武平治は氷川鍬神社の隣にあった旅籠の主人で、 天明八年(1788)の春、当地を訪れた、当時高名であった学僧雲堂上人に塾の開設を 懇願し、 上人を招いて、聚正義塾を開設し、上人が去った後は同塾を主宰した。 上尾に開いた学舎を二賢堂(にけんどう)と称し、氷川鍬神社には上尾郷二賢堂碑記 が残っている。
その対面には上尾宿本陣を勤めた林家の墓所がある。
墓地の中央付近には戒名が「郭室妙顔信女」と刻まれた孝女お玉の墓がある。
墓はなかなか立派なもので、墓参りに来た女性が線香を手向けていたのは印象的
だった。
「孝女お玉」
「 越後の貧しい農家の子、お玉は家を助けるため文政三年(1820)、
十一歳の時、上尾宿の飯盛旅籠の大村楼に身を売った。 その後、
美しく気立ても良いと宿場で評判の遊女となったお玉は十九歳の時、参勤交代で
上尾宿を訪れた加賀前田藩の小姓に見初められ、江戸に下ったが、
二年ばかりで悪病を患い上尾に戻されてしまう。 病身のお玉はそれでも生家を
助けるため懸命に働き続ける。 しかし、その努力が報いられることもなく、
二十五歳の若さでこの世を去った。 大村楼の主人や同輩は孝行な娘お玉の死を
憐れみ、遍照寺に墓を建てて篤く弔ったという。 墓石に彫られた戒名
「郭室妙顔信女」とともに誰からも愛された人柄が偲ばれる。
(上尾市教育委員会) 」
この時代にあって、一遊女のために立派な墓を建てた例は数えるほどしかない。
たいていはの遊女が死ねば無縁仏となって小さな石塔に名が刻まれるだけの扱い
であった。
今回の旅はここで終了。
(所要時間)
浦和宿→(2時間)→大宮宿→(1時間)→加茂神社(宮原)→(1時間30分)→上尾宿
→(1時間30分)→桶川宿
大宮宿 埼玉県さいたま市宮町 JR京浜東北線大宮駅下車。
上尾宿 埼玉県上尾市仲町 JR高崎線上尾駅下車。