『 中山道を歩く (1) - 日本橋・板橋宿  』





日本橋

日本橋は、江戸時代、商いの中心地として、夜明けとともに活気づいた。 
日本橋は今日でも国道の基準となっていて道路元標が橋の中央部の道路に埋め込ま れている。 
木造だった日本橋は明暦三年(1657)の大火から安政五年(1858)の二百年の間に 数十回も炎上している。 橋は何度も架け替えられ、現在の橋は明治四十四年(1911)に 完成した。 

* 江戸名所図会の日本橋には、 「 南北へ架す、長さ凡そ二十八間、南の橋詰に 西の方に御高札建てらる。 欄檻葱宝珠の銘に万治元年戊戎(1658)九月造立と鐫(せん)す。 」 とある。  木造なため、明暦三年(1657)の振袖火事を始め、明治になるまでの二百年の間に、 数十回も燃え、橋が造り替えられた。  明治四十四年(1911)に、ルネサンス様式二連アーチ 式の石橋が建てられた。橋に刻められている、「日本橋」、「日本はし」の文字は、 徳川最後の将軍、徳川慶喜の揮毫によるものである。  

浮世絵
     日本橋      道路元標
江戸時代の日本橋
現在の日本橋
道路元標


日本橋を背にして旧中山道を行くと、左手に三越本店がある。 江戸時代、この辺りに は伊勢、近江、京都に本店を置く上方商人の江戸店(えどたな)が並んでいた。 その代表格が 呉服屋の大店の越後屋で、今の三越である。 
三越の先に人形町があるが、今は人形店は 見渡ないが、江戸時代このあたりは十軒店(じゅうけんたな)と呼ばれ、五代将軍綱吉が 京都の雛人形師十人を招き、長屋十軒を与えて雛人形屋を開かせた。 
人と車が激しく行き来するJR神田駅のガードをくぐると旧東海道は筋違見付(現在はない)、 昌平橋を渡り、秋葉原の電気街を抜けて本郷の台地に上がるが、坂の上がり口左手に 湯島聖堂がある。 

 * 湯島聖堂は、元禄三年(1690)に、徳川五代将軍の 綱吉によって建設された、 朱子学の学問所である。 その後、およそ百年を経た寛政九年(1797)、幕府はここに 昌平坂学問所、通称、昌平校を開設した。  大正十二年(1923)の関東大震災で焼失したが、 昭和十年(1935)に再建したのが現在の建物で、 寛政時代の旧制を模して、 鉄筋コンクリート造りで造られている。 

三越
     三井高利      湯島聖堂
三越本店(左建物)
三井高利
湯島聖堂


坂の途中右手に天野屋と神田神社の鳥居があり、奥に入っていく総漆朱塗りの 門がある。 

 *  神田神社は神田、日本橋、秋葉原、丸の内、旧神田市場、 築地魚市場の百八町の氏神で、 江戸時代には神田明神と呼ばれたが、明治維新以降、神田神社が正式名称になった。  創建当初は、皇居の辺り(芝崎町)にあったのだが、江戸幕府により、江戸城拡張の際に、 ここに移転させられたものである。  祭神は、一之宮は大己貴命(別名は大国主命)、二之宮は少彦名命(別名えびす様)と 平将門命である。 関東大震災により、全ての建物が燃失したが、 拝殿は昭和九年に鉄骨鉄筋コンクリート造りの総漆朱塗り権現造で、再建され、 東京空襲でも焼けずに残った。 

本郷3丁目の春日通りと交叉するところに「かねやす」がある。  兼廉裕悦は歯科医で、歯磨粉の乳香散を売り出して大評判になった。 江戸の大火後、 江戸の町並は瓦葺きと定められたが、この先は茅葺の家が続き、「本郷もかねやすまで は江戸のうち」と川柳に詠まれた。 
さらに北上すると加賀前田家の上屋敷があった。 現在は東京大学の敷地で、有名な 東大の赤門は加賀百万石前田家の上屋敷の御守殿門である。 

* 東京大学は徳川幕府の昌平坂学問所で、加賀百万石前田家の江戸 屋敷跡にできたものである。  加賀藩は江戸城に近い辰口に敷地を与えられ、江戸 屋敷(上屋敷)にしていたが、明暦の大火で焼けたため、筋違橋(神田)近くに移されたが、 その屋敷も天和二年暮の大火で焼失、翌天和三年(1683)から、下屋敷の本郷邸が 上屋敷に改められた。

神田神社
     かねやす      東大赤門
神田神社
かねやす
東大赤門


東大農学部前の高崎商店のところが本郷追分で、この辺りに一里塚があった。  直進すると岩槻街道で、左折するのが中山道で、巣鴨、板橋宿へと続く。 

* 駒込追分の一里塚は中山道の一番目の一里塚で、日光御成道と の分かれ道にあったことから、追分一里塚と呼ばれた。 日光御成道は交差点を左に 行く道で、現在は本郷通りと呼ばれている。 この街道は将軍が日光を参詣する際 に使われたので、その名があるが、道中奉行の管理下におかれていた。 

* 東大農学部は江戸時代、水戸藩の下屋敷のあったところである。  明治に入り、下屋敷跡に第一高等学校が作られたが、昭和十年、東大農学部と交換して、 現在の姿になった。 水戸黄門の親交のあった「朱舜水終焉の地」の碑や第一 高等学校の碑などが建っている。 

高崎屋は江戸時代から続く酒店で、両替商も兼ね現金安売りで繁昌した、 という。 
中山道(白山通り)を進むと左手に入ったところには白山神社がある。 

* 白山神社は天暦年間(947〜957)に、加賀一宮白山神社を本郷1 丁目の地に勧請したと伝えられる古い神社で、元和年間(1615〜1624)に、二代将軍 秀忠の命で、巣鴨原(現在の小石川植物園内)に移られたが、明歴元年(1655)、 五代将軍綱吉が館林藩主となったため、屋敷を造営するため立ち退きになり、 現在地に移った。 この縁で綱吉と生母、桂昌院から厚い帰依を受けたといわれる。 

東大農学部
     高崎屋      白山神社
東大農学部
高崎屋
白山神社


白山神社の西方、新白山通りを越え、小道を上ったところに本念寺がある。  日蓮宗の小さな寺だが、小生が今後しばしば引用させていただいく「壬戌紀行」 の著者の大田南畝こと、大田蜀山人の墓がある。 

* 裏の小さな墓地の中央に、大きな墓石の一面だけに 「 南畝大田先生之墓 」 と、彫られた墓がある。 辞世の句は  「 生き過ぎて 七十五年 くいつぶし 限り知らぬ 天地の恩 」 

このあたりは指ガ谷町。 白山上交差点まで戻り、白山通り(国道17号)を少し 歩くと左側に大円寺があり、境内にほうろく地蔵が祀られている。 

* 大円寺は正式には金龍山大円寺といい、曹洞宗の寺院で、  本尊は聖観世音菩薩。 寺に入った正面に「ほうろく地蔵」と呼ばれる地蔵が祀ら れている。 この地蔵さんは八百屋お七が火あぶりの刑に処せられた時、火を 被って焦熱を和らげたということから、ほうろく地蔵と呼ばれた。 その後、 焦熱を和らげた火傷や首から上の病(頭痛、眼病、耳や鼻の病など)に霊験あらたか、 ということで、江戸時代には女性の信仰を集めたといわれる。 

寺の左、道を挟んだ反対にある墓地の奥に、国の史跡に指定されている高島秋帆 (たかしま しゅうはん)の墓がある。 

* 高島秋帆は、名は茂敦、号が秋帆。 長崎町年寄の高島茂起 (四郎兵衛)の三男として生まれ、自らオランダ語や洋式砲術を学んで高島流砲術を 完成させた。 幕府方の江川等に砲術を伝授していたが、鳥居耀蔵の讒訴により 投獄された。 赦免され出獄後は幕府の鉄砲方、講武所砲術の師範となり、幕府の 砲術訓練の指導に尽力した。  武州徳丸ヶ原(現在の板橋区高島平)で、 日本初となる洋式砲術の公開演練を行なったので、 高島平の地名が付いた。

大田蜀山人の墓
     ほうろく地蔵      高島家の墓
大田蜀山人の墓
ほうろく地蔵
高島家の墓


中山道(本郷通り)を歩くと左側の天栄寺の前に「江戸三大青物市場遺蹟」 、 「白鳥神社誌」と「駒込土物店跡」と刻まれた三つの石碑が建っている。 

* 説明板 「駒込土物店跡」  
「 神田、千住と共に、江戸三大市場の一つであり、幕府の御用市場であった。  起源は元和年間(1615-1624)といわれている。 初めは近郷の農民が野菜を担いて江戸に 出る途中、天栄寺境内のさいかちの木の下で、毎朝休むことを例とした。 すると 付近の人々が新鮮な野菜を求めて集まってきたのが起こりといわれて、 土地の人々は駒込辻のやっちゃ場と呼んで親しんだ。 また、富士神社一帯は駒込 茄子の生産地として有名であり、なす以外でも大根、にんじん、ごぼうなどの土の ついたままの野菜(土物)が取引されましたので、駒込土物店(つちものたな)とも いわれた。 正式名は駒込青物市場で、昭和四年(1929)からは問屋が駒込青果市場 に改称した。 
街道筋に点在していた問屋は明治三十四年(1901)に高樹寺境内に集結したが、 昭和十二年(1937)に豊島区に移住して、豊島青果市場となって現在に至っている。  文京区教育委員会  」  

中山道を進むと右手に六義園がある。 せっかくなので、六義園に立ち寄る。 

* 六義園は元禄十五年(1702)、武州川越藩主、柳沢出羽守吉保が 築造した江戸の大名の庭園で、現存する庭園の中で屈指の名園であり、国の名勝に 指定されている。 
六義園の名称は古今集の序にある和歌の分類の六体に由来する。 回遊式築山泉 水庭で、吉保自らの設計により、紀州和歌の浦の景勝や万葉集、古今集から名勝 を選び、八十八景を写し出す構成になっていた。 このような庭園も吉保が没した 後は荒れる一方だったが、文化七年に整備され、明治十年頃、岩崎弥太郎氏の 別邸の一部となるにおよんで、再び昔の美しさを取り戻した。 昭和十三年、 岩崎家より東京市に寄贈され、市民に公開された。 
約十万平方メートルの広さを誇り、園内は広い。  入園すると正面に中の島に ある築山、妹山、背山とせきれい石が見える。 左に臥竜石と蓬莱島がある庭園で、 専門家に高い評価のある庭園設計である。  藤代峠と呼ばれる丘からの眺望がとくにすばらしい。  春は新緑、秋は紅葉の雰囲気を味わい、 茶屋で一服することができる都心で数少ないところである。 

街道に戻ると右側にJR山手線の巣鴨駅がある。 それを横目に見ながら進むと 真性寺(しんしょうじ)があり、境内に江戸六地蔵の一つである大きな地蔵像が祀られて いる。 
線香の煙の立ちこめる境内に 「  しら露も こぼさぬ萩の  うねり哉  」 の 芭蕉の句碑が建っている。 

* 説明板 「鋼造地蔵菩薩坐像」  
「 像の大きさは二・六十八メートル、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸中から多くの 賛同者を得て、江戸六地蔵の第四番目(巡拝の順番は三番目)として、正徳四年(1714) 頃に建立されたものである。 製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀。  大正十二年(1923)の震災により破損したが、修理されている。 
なお、江戸六地蔵は次の通りである。 品川寺(品川区南品川三丁目)、太宗寺(新宿区 新宿二丁目)、東禅寺(台東区東浅草二丁目)、霊巌寺(江東区白河一丁目)、 永代寺(江東区消滅) 
(以下省略) 平成六年三月三十一日  東京都教育委員会  」  

駒込土物店跡
     六義園      真性寺地蔵座像
駒込土物店跡
六義園
真性寺地蔵座像


賑やかな地蔵通り商店街を行くとすぐ右側に「とげ抜き地蔵」の高岩寺がある。 
この寺は、明治二十四年(1891)に下谷から移ってきた寺で古い寺ではないが、線香の煙が絶え ない。 地蔵通りの名も本尊の延命地蔵尊に由来していて、本尊の御影の護符を 身体の痛む部分に貼るか、水に溶かして飲むと、痛みが棘(トゲ)を抜くよう に引くといわれる。 

* とげぬき地蔵尊の名で親しまれる萬頂山高岩寺は 曹洞宗の寺である。 約四百年前の慶長元年(1596)、江戸湯島に開基されたが、 六十年後に下谷屏風坂に移り、明治二十四年(1891)、現在地の巣鴨に移った。  本尊は延命地蔵尊(秘仏)で、本尊の御影(おみかげ)の護符を身体の痛むところに 貼るか、水に溶かしてのむと痛みがトゲを抜くように引くといわれるようになり、 とげぬき地蔵として人気が出た。 護符はタテ四センチ、ヨコ一・五センチの和紙 の中央に高さ二・三センチの尊像が描かれている。 毎月四日、十四日、二十四 日が縁日で、商店街は特別サービスをするほか、参詣路に二百もの露店が並び、 昔ながらの門前町の風情が楽しめる。 

その先の右側にあるのは庚申塚で、その先に都電荒川線が走っている。 

* 都電荒川線は都内で唯一残った路面電車で、三ノ輪と早稲田間 を走っている。 
地名の由来になった庚申塚は踏切の手前にあり、小さな石段を登ると赤い服を着た 猿の石像がある。  庚申の使いは猿といわれ、三猿も下に彫られている。  祠の中には明暦三年(1657)と刻まれた猿田彦庚申塔が祀られている。 文亀二年 (1502)に造られた塔が壊れたので、丈を縮めて造り替えたもので、壊れたところは 下に埋めたと、傍らの説明板にあるから、巣鴨庚申塚がいかに古く由緒あるかが分る 。 

なお、庚申塚のあたりは、江戸時代には中山道の立場(たてば)として賑わったところ である。 

* 江戸名所図会には茶屋に人が休み、人足の奪い合いをしている 旅人もいて、賑わっている様子が描かれている。 立場には団子を売る茶店ができて、 藤の花が美しく咲くと評判になったが、小林一茶も  「 ふじだなに 寝て見てもまた お江戸かな 」 という句を残っている。 

地蔵通り商店街
     高岩寺      庚申塚
巣鴨地蔵通り商店街
高岩寺
庚申塚






(1)板橋宿

都営荒川線庚申塚駅を右手に見て進み、堀切交叉点で左右は明治通り、それを 越えると北区に変る。 滝野川六丁目で、滝野川銀座の右側に「亀の子束子西尾 商店がある。 亀子たわしは棕櫚製で、創業者が発明し、登録商標になっている。 
さらに歩いて行くとJR山手線と交叉する。  日本橋から二番目の平尾の一里塚は板橋宿の入口、JR山手線を越えたあたりに あったようだが、表示も説明板もない。 

* 慶応六年(1868)、新撰組隊長近藤勇が平尾宿脇本陣で二十日 留置された後、板橋宿入口にあった平尾の一里塚近くの馬捨場(現在の北区滝野川) で斬首された。 

JRの線路の手前九十メートルにある交叉点を左折すると、板橋駅のロータリー に出る。 左側の奥に近藤勇の墓所がある。 

* 「新選組隊長近藤勇の墓所」   
慶応四年(1868)四月二十五日、近藤勇は平尾一里塚付近の刑場で、官軍により斬首 処刑され、首級は京都に送られたが、胴体は少し離れたこの場所に埋葬された。 
石柱に囲まれた境内にある大きな石柱の正面に近藤勇¥ケと函館五稜郭で戦死した 土方歳蔵の名が刻まれ、右側面戦死者四十名、左側面病死者、切腹、変死、隊規違反 で処刑された人六十四名の名前が書かれている。 これは近藤勇と新選組 隊士供養塔と呼ばれるもので、明治九年(1876)、元隊士の長(永)倉新八が 建立したものである。 
塔の左には無縁仏があり、右隣には慶応四年に作られた近藤勇の墓、そして塔の 建立者の永倉新八の墓と永倉新八の肖像が刻まれた石碑がある。 また、土方歳蔵の 供養碑がある。 

JRを越えると江戸時代は板橋宿の平尾宿(下宿)である。 板橋宿はお江戸日本橋 を出発し最初の宿場町で、平尾、仲宿(中宿)、上宿の三宿からなっていた。 当初は 仲宿が主体だったが、上宿に伸び、更に平尾宿に拡張していった。 

* 板橋宿は江戸四宿の一つで、東海道の品川、甲州街道の内藤新宿、 奥州街道の千住とともに有名であった。 日本橋から二里半(約10キロ)の距離で、 次の蕨宿までは二里十町である。 天保十四年(1843)の中山道宿村大概帳には、 宿内人口2448人、家数573軒、本陣1、脇本陣3、旅籠54軒と記されている。   

中山道に旅立つ人はわざわざ日本橋にまで行く人もいないので、板橋から出発し、 見送る人もここまでが普通であった。 従って、酒楼や茶屋もあり、遊女(飯盛り女) もいて賑わいは中山道第一の宿場であった。 即ち、板橋宿は宿場の機能だけでなく 歓楽街として繁昌していた町である。 
板橋宿の平尾宿(下宿)は板橋本町商店街のあたりで、左右に小さなマンションと 近代的な店舗が並んでいる。 
板橋一丁目交叉点を過ぎると、国道17号と交叉する。 交叉点を渡った左側の りそな銀行板橋支店辺りが中山道と川越街道との追分である。 
道右側のガストの手前、小路を入ると東光寺がある。  門内の左側にある説明板の両脇に石仏と石碑が並んで立っている。 

*  説明板 「東光寺」  
「 御本尊阿弥陀如来、宗派浄土宗、丹船山薬王樹院、
創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳三年(1491)に入寂した天誉和尚が開山 したといわれています。 当初は船山(現板橋三−四二)あたりにありましたが、 延宝七年(1679)加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って、現在の場所に移りました。  移転当時は旧中山道に面した参道に沿って町家が並び、賑やかであったようです。  しかし、明治の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による 火災と度重なる火災や区画整理のため、現在では往時の姿をうかがうことはでき ません。 なお、山号の丹船山は地名の船山に由来しています。 (以下略)  
   平成九年三月  板橋区教育委員会   」   

境内には貫文二年(1661)の庚申塔と石造地蔵菩薩と宇喜多秀家の墓などがある。 

*  左から二つ目にあるのは青面金剛像を刻んだ庚申塔で、東光寺 の僧と宿場の旅籠の主人達が寛文二年(1661)に建立した高さが二メートル近くある 大きな石塔である。 塔には日像、月像、二童子、四夜叉、一猿一鶏、ニ鬼の すべてが刻まれている。
境内にある全高三メートルの六道利生の地蔵尊(通称、平尾追分地蔵)は享保四年 (1719)に建立されたもので、礎石部分の寄進者の名前には板橋宿や加賀下屋敷関係者 の名が見られる。 もとは平尾追分に安置されていたが、明治に入りここに移された。 
宇喜多秀家の供養塔は慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島に流された秀家 の子孫が建立したものである。 

西尾商店
     近藤勇の墓所      庚申塔
亀の子束子西尾商店
新選組隊長近藤勇の墓所
(中央)青面金剛庚申塔


このあたりは板橋宿不動通り商店街で、右側に観明寺があり、門柱の左奥に 屋根と板囲いで保護された庚申塔がある。 

*  説明板 「観明寺と寛文の庚申塔」  
「 当寺は真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。  御本尊は観世音菩薩である。 創建年代は暦応元年(1381)と伝えられていますが、 不明です。 「新編武蔵風土記稿」には延宝六年(1677)十月に入寂した慶浄和尚が開山 とあります。 江戸時代、板橋宿の寺として多くの信仰を集めました。  明治六年、当時の住職、照秀和尚が町の繁栄祈願のために千葉成田山新勝寺から 不動尊の分身を勧請しました。 現在も出世不動と呼ばれて親しまれています。  不動通りの名称はこの不動様に由来します。 境内に鎮座する稲荷神社はもと加賀 藩下屋敷に祀られていた三つの稲荷神社内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が 建設された際に当寺に遷座されました。  また、参道入口にある庚申塔は寛文元年(1661)八月にに建立されたもので、 青面金剛像が彫られた庚申塔としては都内最古です。 昭和五十八年度に板橋区の して文化財になりました。  」  

右側にある花の湯は屋根の形が面白い。 戦災に遭っているはずなので、戦後に 建てられたものだが、現役で活躍しているのがうれしかった。 
花の湯の次の道を入ってすぐ、マンション前に「板橋宿平尾脇本陣跡」の石柱が 建っている。 平尾宿の庄屋を勤めた豊田市右衛門が遍照寺の先で、脇本陣を 営んでいたとあるので、その跡なのだろう。 
その先の旧中山道仲宿交叉点の左右の道は王子新道で、右折すると金沢橋南を経て 王子神社に達する道である。 江戸時代、宿場の中心は仲宿で、ここには問屋、 本陣、脇本陣1軒、荷物貫目改所などがあった。 
中宿商店街に入ってすぐ、右側にある「弘法大師旧跡」の石柱を入ると遍照寺が あり、参道左側に馬頭観音が祀られている。 

*  説明板 「遍照寺と馬頭観音」  
「 遍照寺は天台宗の寺であったが明治四年に廃寺になった。  その後、成田山新栄講の道場になり、現在は成田山新勝寺の末寺になっている。  板橋宿の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬や公文書伝達用の立馬そして 通継立馬などが繋がれていたところである。 明治維新で板橋宿が無くなった後も、 明治中頃まではここで馬市が開かれていた。 」 
境内は狭く、寺院らしくないが、寛政十年(1798)建立の馬頭観音や三猿を彫った 庚申塔などが多く残っている。 

庚申塔
     花の湯      遍照寺馬頭観音
観明寺庚申塔
花の湯
遍照寺馬頭観音など


少し行くと右側にスーパーライフがあり、右隣の飯田不動産の前に「板橋宿 本陣跡 板橋区教育委員会」の石柱がある。 
道の反対側に仲宿の名主を務める飯田宇兵衛の脇本陣があり、皇女和宮が泊まられた はずであるが、どこにあったのか分からなかった。 
スーパーライフの前の石神医院の入口に「高野長英ゆかりの地(旧水沼広洞宅)」の説明 板があるが、幕末蘭学者の高野長英が幕府から探索を避け、隠れていた所である 。 

*  板橋宿は本陣が仲宿に、脇本陣は平尾宿(下宿)、仲宿、上宿に 一つずつあった。 本陣は飯田新左衛門(仲宿名主の分家)が勤めていて、かってはこの スーパーと隣の飯田家を含む敷地であった。 問屋は本陣の近くにあり、本陣と 脇本陣の四人が交代で、その役を務めた。 

スーパーライフの先を右に入ると、左側に文殊院という寺がある。 

*   本陣の飯田家の菩提寺として、延命地蔵尊のあった境内を広げて、寛永十二年(1625) に文殊菩薩を本尊として建立された寺だが、天保六年に全焼し、安政以降は住職を 置かなかった。  山門の左に延命地蔵堂、境内には閻魔堂や本堂があるが、東京 大空襲後に建てられたものだろう。 

街道を進むと現在の板橋に着く。 板橋宿の名前はここに由来する。  橋から先が上宿で、ここには江戸の入口にあたる城門のような大木戸があり、 「入り鉄砲に出女」は厳しく警戒された。 江戸時代にはここまでが江戸の内と いわれたようである。 
なお、橋本酒屋のあたりに庄屋を勤めた板橋左衛門の上宿脇本陣が あったとされる。 

*  説明板 「板橋」  
「 この橋は板橋と称し、板橋の地名はこの橋に由来するといわれています。 板橋の 名称は鎌倉から室町時代にかけて書かれた古書の中に見えますが、江戸時代に なると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。  そして昭和7年東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。 
板橋宿は前野村境(北)から滝野川村境(南)までの二十町九間(約2.2km)の長さがあり、 この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して 板橋宿と呼びました。 板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠が軒を並べる中宿でしたが、 江戸の地誌「江戸名所図会」の挿絵からこの橋周辺も賑やかだったことが うかがえます。 
江戸時代の板橋は太鼓状の木製の橋で、長さは九間(16.2m)、幅三間(5.4m)あり ました。 少なくとも寛政十年(1798)と天保年間の二度改修が行われたことは 分かっています。 近代に入ると、大正九年に新しい橋に架け替えられましたが、 自動車の普及に対応するため、昭和七年に早くもコンクリート橋に架け替えられ ました。 現在の橋は昭和四十七年に石神井川の改修工事の際、新しく架け替え られたものです。 」  

石神井川に架けられた現在の橋はコンクリート製ながら欄干に木目模様を施し、 宿場の雰囲気に合わせている。 
橋のたもとに橋の経緯を記した案内板と日本橋から距離を書いた大きな木柱が 立っている。  日本橋までは二里二十五町とあるので、10、6キロの距離である。  このあたりに高札場が置かれていたようである。  また、石神井川の東北東にある帝京大病院周囲が加賀前田家下屋敷跡である。 

橋を渡ると右側に交番があり、その裏の「にぎわい広場」に櫓が建っていて、 正面に「江戸名所絵図の「板橋宿駅」と「乗蓮寺」のレリーフが貼られている。  石柱には「中山道板橋宿ここは上宿」左側面には「これより北約330mまで板橋宿」 右側面には「これより南830m平尾宿」「これより南230m中宿」と書かれている。 

*  石神井川に架かる板橋から環状七号線あたりまでが上宿で、 平成十四年(2002)に中山道伝馬制度四百年を記念して石碑などが立てられた。 

少し行くと右側に小公園と小さな祠があり、数本の榎が植えられている。 ここは 江戸時代板橋宿名所の「縁切り榎」である。 現在の木は三代目、その下には 「榎大六天神」と染め抜いた幟が風にはためいている。 榎大六天神とあるので、 菅原道真公を祀っているのだろうが、祠は大変小さなものである。 

*  江戸時代には中山道を覆うように樹齢数百年という榎が立って いた。 いつのころか、離縁を望む者がこの木に触れるか、樹皮を砕いて相手に 飲ませると離婚の希望がかなえられるという信仰が生まれ、縁切り榎と呼ばれる ようになった。 このため、徳川家に降嫁した五十宮、楽宮の行列はここを避け て通り、孝明天皇の妹和宮が徳川家茂に降嫁のときは榎にこもを被せたと伝えら れている。 

文殊院
     板橋      縁切り榎
文殊院
現在の板橋
縁切り榎と祠


板橋宿の入口は環状七号線あたりとあるが、諸説ある。 城門のような大きな 木戸が設けられ、中山道から江戸に出入りする旅人の「 入り鉄砲に出女 」を厳重に 警戒していて、時間になると開き、時間になると閉まる門の脇には貫目改所という 役所が置かれていたといわれるが、場所などは分からない。 
環状七号線を越えて進むと国道に合流し、その先には都営地下鉄三田線の本蓮沼駅が ある。 日本橋から途中の名所を見ながらの旅はここで終わる。 


(所要時間) 
日本橋→(1時間)→東大赤門→(1時間30分)→高岩寺→(1時間30分)→板橋宿→(40分)
→志村の一里塚→(1時間30分)→戸田橋→(1時間40分)→蕨宿 


日本橋  東京都中央区日本橋。  地下鉄銀座線日本橋駅、三越前駅、東西線日本橋駅、都営浅草線日本橋駅から。 
板橋宿  東京都板橋区板橋・仲宿・本町 JR埼京線板橋駅から徒歩10分。 都営三田線板橋本町駅から徒歩5分。 




(2)蕨宿・浦和宿                                   旅の目次に戻る



かうんたぁ。