北原白秋の故郷・柳川は、町内巡らした川(運河)に運行する乗りあい船が有名である。
戦国武将・立花宗茂は、関ヶ原の戦いで、柳川城主を追われたが、
見事にカムバックした話で有名で、その末裔が当時の建物で、ホテルを経営されている。
柳川の歴史をみると、平安時代の終わりに、
平家の落武者が、柳川市沖の端に定住したとある。
鎌倉時代に地頭職になった蒲池氏は、室町時代になると、筑後地方を支配し、
蒲池城の支城として、この地が柳川城を築いた。 これが柳川城の始まりである。
「 柳川は、福岡県の南部にあるが、熊本県と接する大牟田と、
他の県となる佐賀は同じ距離で、車なら30分位で行ける。
明治初期には、現在の佐賀県と筑紫地区とが短い期間であったが、
一つの県を形成されていたという程、関係深い。
戦国時代から江戸時代の柳川は、北に福岡城、南に熊本城、
西に佐賀城、東に大分府内城があり、
この筑後地方はその中心地にあり、九州の大名にとって、極めて重要な要衝だったのである。
そうしたことから、九州を制覇した豊臣秀吉は、
九州征伐に貢献した立花宗茂に当地を与え、
徳川家康は三成の首を取った田中吉政に筑紫一国を与え、外様大名の監視をさせた。
西軍に組した立花宗茂を改易したのに、笠間藩の大名にし、田中氏が無嗣改易後、
この地を与え、十万石もの厚遇を与えたのは立花宗茂という武将が九州の押さえとして
如何に重要であったことを物語っている。 」
柳川へは福岡天神から出る西鉄大牟田線に乗る。
本数が少なく訪れた時間帯は1時間に2本で急行、帰りの18時には特急が2本。
時間も急行で1時間、特急でも50分かかる。
駅から少しとところから、川下りの舟が出ている。
「
柳川名物の川下りは、城のお堀を利用したもので、
駅近くから御花畠近くまでの1時間10分のコースである。
貸切と乗りあいがあり、乗合船は30分毎に出ていて、時間になれば出発する。 」
川下りは堀の中を通行するので、右折したり、左折したりして、進む。
柳川市役所の南を過ぎると、右側に日吉神社がある。
道路側に、「柳川総鎮守 日吉神社」 の赤い幟と 「日吉神社 長谷健文学碑木村緑平句碑 →」 「↑ 柳川城址福厳寺柳川市民体育館」と書かれた 石の道標がある。
その先に鳥居があり、鳥居の脇に説明板がある。
説明板「日吉神社」
「 日吉神社は、正応3年(1290)に、近江国の日吉大社を勧進したことに始まるとされ、
その後は、この地に初めて、柳川城を築いた蒲池家をはじめ、
立花家、田中家など、歴代柳川城主の庇護を受けてきた由緒ある神社です。
この日吉神社の本殿及び幣殿、拝殿は18世紀前半の建物と考えられ、
市内で最も古い神社建築の一つです。
境内の太郎稲荷神社は、もともと柳川城内にあったものが移されました。
この太郎稲荷は、「疱瘡の神様」 として有名であり、
特に江戸の立花家下屋敷に祀られていた太郎稲荷は、
江戸時代には数回にわたって爆発的に信仰されました。
境内には、長谷健文学碑や木村緑平句碑等の文学碑、うなぎ供養碑があり、
毎年顕彰祭や供養祭が行われています。 」
鳥居をくぐると右側に社務所があり、御朱印をいただいた。
石橋を渡り参道を進むと、拝殿があり、お参りした。
「 拝殿は向拝が3間、前面の1間通りは床上ではあるが、
吹き放しを形成している。
本殿は、奥行きの深い3間1面前室付きの平面で、この上に入母屋造りの屋根が乗っていて、
その前方に、3間の向拝が付き、屋根はそのまま葺き降ろしになっている。
幣殿は、本殿と拝殿を繋ぎ、正面側の柱間は両側の建物と合っていないが、
角柱の面取り幅は、拝殿と同様に大きいことから、古い様式で建てられている、という。
これらの建物は、18世紀の前半に建てられたと推定されている。 」
左手は柳城公園になっていて、 堀(運河)は川下りのコースになっていて、
川下りの舟乗り場がある。
ここに、「日吉神社の由来」 の石碑があり、前述の説明板より詳しく書かれていた。
日吉神社由来碑
「 柳川地方に古くより、「山王さん」の名で親しまれている日吉神社は、
伏見天皇の 正応三年(1290) に、
近江国坂本に鎮座の日吉神社の御分霊を現在地にお祀りしたのが、
始まりと伝えられ、山王宮又は山王大権現とも呼ばれています。
御祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ) で、地主の神として、
古来より魔除、厄除の御神徳あり。
万福招来、繁昌、満足を授けると言われています。
その後、数百年を経て、柳川城主・蒲池治久公 ー 立花宗茂公 ー 田中吉政公、
立花藩代々の城主の信仰厚く、柳川城鬼門の守護神として、
また、郷土の總氏神として、藩民挙って崇敬し奉ったのであります。
社殿は、元禄九年、立花鑑虎公祈願成就によって再建され、
当地方最古の建築と称されております。
その後、昭和五十年鎮座七百年を記念し、 神殿、拝殿の一部を修復しましたが、
近年、神殿の老化頓に進み、このたび、神殿銅板總葺替、諸社の大修復を行いました。
(以下省略)
昭和六十一年十月吉日 柳川總鎮守 日吉神社 」
川下りの場合は次の端をくぐる前に、 歩きの場合は日吉神社から掘沿いの柳並木の先の 右側に、 「筑後国主 田中吉政公之像」 と書かれた銅像が建っている。
説明板「田中吉政公」
「 田中吉政は、天文17年(1548) 近江国(滋賀県) に生まれました。
その後、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康に仕え、
天文18年(1590)、5万7千石余の岡崎城主となり、のちに加増され、10万石の大名になりました。
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、敵将石田三成を捕らえた功績により、
筑後一円の国主となり、柳川城を居城としました。
田中吉政は、天守閣の築造など、柳川城の整備や各支城の強化、筑後川・矢部川の治水事業、
本土居の築堤をはじめとする干拓事業、道路の新設・整備などの土木事業に業績を残しましたが、
慶長14年(1609) 2月18日、江戸参勤の途中、伏見で客死しました。
亨年62歳で、 京都の黒谷に葬られたとされています。 」
その先で車道に出るが、弥兵衛門橋の手前の左側に、北原白秋歌碑が建っている。
「 水のべは柳しだるる橋いくつ 舟くぐらせて涼しもよ子ら 」
川下りの終点は、城陽町の豊後橋あたりである。
川下りの舟が停泊しているのは、柳川城の外堀跡である。
この近くにあるのは御花・松濤園である。
「 御花は、元禄十年(1697)に、柳川藩四代藩主・立花鑑虎により、
別荘として建てられた。
城の南西のこの地を当時 「花畠」 と呼んでいたことから、
柳川城の二の丸の機能を移したこの屋敷は、柳川の人々から、 「御花」 の愛称で呼ばれ、
親しまれた。
庭園は、面積3300u、仙台松島の佳景を模して築造された。
明治に入ると、立花家は伯爵家となり、十四代当主が松濤園・西洋館・大広間など、
現在も残る施設を造った。
庭園は、明治四十一年〜四十三年に大改修を行い、
約二百八十本のクロマツ(大部分は二百年以上の古木)と庭石約千五百個、石灯籠十四基、
大広間前の沓脱石の巨石は、旧天守閣の台石を移したと伝えられる。
西洋館は、迎賓館として明治四十三年に建てられたもので、当時自費で自家発電所を設け、
輸入品のシャンデリアや電気器具を使っていた、という。
大広間は、迎賓館の間として造られたもので、全て木曽桧を用い、中の間・三の間の床は
畳を取り除くと能舞台となる。
現在は、御花の殿様や奥方達の居室であった部屋を使用した料亭 「集景亭」、
松濤館はホテルとして、立花氏の末裔が経営されている。 」
御役間は見学受付入口で、見学できるが、時間時間を過ぎていたため、入館できなかった。
御花を出て、道なりに進むと、左側は柳川城外掘跡で、堀に向うに立花家の建物が連なっていた。
橋を渡り、堀に沿って西に進むと、川のほとりに神社の鳥居があり、
沖端天満宮祭の説明板がある。
説明板「沖端水天宮祭」
「 沖端水天宮祭は、毎年5月3日〜5日までの3日間行われます。
この祭の特徴は、神社横の掘割に、
「三神丸」 と呼ばれる川舟6隻をつないだ大きな船を浮かべ、
その上に舟舞台をつくり、囃子や芝居が奉納されることです。
囃子には、三味線、笛、締太鼓、つり太鼓が使用され、
囃子の調子は、京風の上品な古典的なものに、異国情緒豊かなオランダ風の調子が交じりあい、
別名 「オランダ囃子」 ともいわれています。
曲の構成は 「留まり」 「上り」 「下り」 の3つの大楽章からなっており、
舟の動くに合わせて使い分けられています。
この祭には、掘割の両岸に露店が立ち並び、水難事故から子供たちを守る願いをこめて、
子供づれの参拝客で賑わいます。 」
江戸時代の柳川は、この先は有明湾の端で、 有明湾は潮の満ち引きが激しかった。 田中吉政時代から干拓が行われ、今はかなり先に有明湾がある。
説明板「沖端水天宮由来」
「 文禄三年(1594) 立花宗茂公が、筑紫次郎(筑後川) の浅瀬を狐火に誘導されて、
無事に柳川城に入城されたのは、
狐の加護によるものと、稲荷神社(豊受姫神) を建立された。
其の後、文化年間に、京都彌剣神社(祇園社) の御分霊を合祀され、
当時、祭の際は、各町より小舟を出して、舟舞台を造り、余興や囃子を奉納しました。
明治二年に、久留米水天宮の御分霊を合祀し、水難安産の神として崇敬の宮です。
水天宮合祀と同時に文化文政時代の形式そのままの舟舞台を造り、
其を六そうの舟に乗せ、三神丸と名づけ、歌舞伎を上演し、
舟舞台囃子を奉納しました。
囃子は、古典的の中に異国情緒豊かなオランダ風の調子が交り合って、
別名、オランダ囃子とも呼ばれて、古い歴史を持つ郷土芸能で、
現在は、氏子の小中学生による舟舞台囃子保存会が昭和五十年に結成され、
毎年五月三、四、五日、大祭の時は芝居を上演し、
舟舞台保存会の子供達が囃子を演奏し、町内の若衆が三神丸に竿さし、
水天宮の掘割を上ったり下ったりする様は、全国に類がないものです。
(以下略) 」
その先の橋を渡ると三叉路で、
三叉路を左折し、その先で右折して行く。
左側にあるのは北原白秋の生家である。
白秋生家・記念館
「 北原白秋は、明治十八年一月二十五日、柳川市沖端に生まれました。
白秋の生家は、明治三十四年の大火で焼失したが、昭和四十四年に残っていた家屋を復元。
柳川をこよなく愛した白秋の文学資料、遺品を展示し、公開している。
昭和六十年には、白秋生誕百年記念事業として、敷地内に歴史資料館(白秋記念館)を開館。
柳川の歴史や漁業、民俗から、北原白秋の世界までを展示室毎に構成して資料を公開し、
白秋を深く理解する上でも欠かせない資料館になっている。 」
柳川の名物はうなぎめしである。
観光協会からいただいたうなぎめしマップには二十二軒が掲載され、
「 江戸時代後期にはすでに、柳川ではうなぎ料理がさかんだったのだ。
歴史ある町並みを散策しながら、目指せ全店制覇。 」 と書かれている。
御花から白秋生家があるこの周辺が特に多い。
当日は、コロナの緊急宣言で開店している店はほとんどなく、
白秋生家から少し行った右側の店 「うなぎとお食事処千十」 で、うなぎ定食を食べた。
うなぎめしマップには味グラフとして、
あっさり〜濃厚の度合いが店の紹介とともに記載されている。
この店の紹介には 「 甘いタレとやわらかいふんわりご飯が特徴のせいろ蒸しです。 」
とあった。
食事後、柳川城跡を探して、訪れた。
柳川城跡は本城町の柳城中学校の一角に残っていた。
「 柳川城は、蒲池氏が築いた城で、周囲に山がないので、
水路を縦横に張り巡らせた九州屈指の難攻不落の城とされた。
蒲池氏滅亡後は、竜造寺氏の居城となった。
大友氏の勇将・立花道雪・高橋紹運が数千の兵で攻めたが、落ちなかったという。
天正十四年(1586)、豊臣秀吉の九州平定で、立花道雪の養子・立花宗茂が、筑後国柳川八万石を
与えられ、大友氏から秀吉の直臣となった。
立花宗茂は、関ヶ原の戦いで西軍で戦い、鍋島直茂らにより攻められ、激戦となったが、
黒田如水・加藤清正の取りなしで、降伏し、城は開城となった。
徳川家康による戦後の処置で、改易になり、立花宗茂は浪人になる。
代わりに、田中吉政が岡崎城から柳川城に入り、筑後一国三十二万五千石の大名になり、城地を拡張した。
立花宗茂は、大坂夏の陣で、二代将軍・秀忠の参謀と警固を担当し、元和六年(1620)1、
田中氏が無嗣改易となると、旧領の筑後柳川十万九千二百石が与えられ、
関ヶ原に西軍として参戦し改易された大名で、唯一旧領に復した大名になった。
その後、若い徳川家光の相伴衆の一人になり、家督を養子の忠茂に譲り、
江戸で七十六歳で亡くなっている。
立花氏の御代は明治維新まで続いた。 」
柳川高校と柳城中学校の間の狭い道に入ると、左側に石垣が続く。
右側の柳川高校は、柳川城二の丸跡だが、遺跡は残っていない。
石垣は柳川城があったころの石垣の一部である。
(注) 写真では、右側に石垣がある。 振り返って写したもの。
その先を左折すると、柳川城址の説明板とその上に燈籠が立っている。
説明板は、文字が薄れてしまい、読むことができなかった。
説明板の脇の道を上ると、礎石とも思える石が転がる広場に出た。
ここが本丸跡である。
北側に進むと、柳城中学のグランドが下に見える。
ここに、柳川城址の説明板が建っていた。
説明板「柳川城址」
「 柳川城は、戦国時代末、蒲池鑑盛によって造られたと考えられますが、
当時の縄張りなどを示す史料はありません。
当時の柳川城は、「 二方は海、二方は沼堀縦横 」 (薦野家譜)、
つまり、掘割と海に囲まれた城でした。
天正15年、立花宗茂が入城すると、
天守閣や櫓、橋 (参照・・三柱神社欄干橋の擬宝珠) などの建築を命じました。
慶長5年(1600) の関ヶ原合戦後、改易された立花宗茂に替わって、
柳川城に入った田中吉政が、柳川城と城下町を大規模に改修したと考えられます。
元和6年(1620)、 立花宗茂が筑後柳川に再封され、以後立花家歴代の居城となりますが、
明治5年(1872) 、 失火により、本丸・二ノ丸と天守は焼失。
その後、払い下げられて、本丸・二の丸を囲んだ城濠は埋め立てられて、
現在は、市立柳城中学校内に、柳川城跡の公園として、整備されています (柳川市指定史跡) 」
左側の地面に、「柳川城址」 の石の説明板がある。
説明板「柳川城址」
「 柳川藩主立花氏12万石の本拠となっていた平城跡、
永禄年間 (1558〜1569) 蒲池鑑盛入道宗雪が、支城として築いたのが始まりと伝えられています。
天守の高さは、10丈7尺5寸(約35m)、石垣の高さは4間1尺5寸(約8m)、
天守閣の棟には鯱があり、その目は金色に輝いていたというほどの栄華をきわめた城でしたが、
明治5年に焼失。
現在は、柳城中学校の校庭の一隅に、 小丘と石垣の一部を残すのみになっています。
(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定」」
以上で、柳川の旅は終了である。
旅した日 令和三年(2021)八月二十四日