◎ 大内氏館跡
山口は、大内文化が花開き、西の京といわれたところである。
JR山口線上山口駅の北西に、大内氏館跡がある。
直線にすると400m、曲がりくねっているので、600m程か?
現在は、龍福寺の境内になっていた。
「 大内氏館は、大内氏二十四代当主・
弘世が、周防国と長門国を本拠と定め、山口に移り住んだ時、
大内氏の居館 (守護館に築かれた居館) として建てられたもので、
京都を模した山口の街に相応しく、城郭でなく館として建てられたものである。
最盛期の館は、堀を含めると東西百六十メートル、
南北百七十メートル以上の規模を誇る方形の居館で、
京都の将軍邸を模していたとも言われる。
最初の館は、溝と塀で囲まれた程度のものだったが、
十五世紀中頃には空堀と土塁が築かれ、防御力を備えた城館になった。
その子の大内義弘の頃には手狭になったようで、
館のすぐ北側に、別邸として、築山館(築山御殿) が築かれた。
天文二十年(1551)、大内氏三十一代・大内義隆は、陶隆房の謀反にあい、自害した。
陶隆房により、後継者に擁立された豊後大友氏二十代義鑑の次男・大内義長も、
後援者の陶隆房が、弘治元年(1555)の安芸宮島の戦いで、
毛利軍に敗れ自害したことで、
翌弘治二年(1556)、毛利元就の侵攻により、山口から逃亡したことで、
大内氏館は役目を終えた。
その翌年の弘治三年(1557)、毛利隆元により、
大内義隆の菩提を弔うため、大内氏館跡に龍福寺が建立された。 」
発掘調査が行われる前の大内氏館の遺構は、 龍福寺山門近くに残っていた土塁程度だったという。
「 龍福寺は、明治十四年(1881)の火災により、 ほとんどの建物が焼失したが、 大内氏氏寺の天台宗興隆寺(現山口市大内御殿)から、釈迦堂を移築し、 曹洞宗の龍福寺本堂へ改造した。 改造された龍福寺本堂は、文明十一年(1479)に建造された、と伝えられる、 桁行五間、梁間四間、檜皮葺の入母屋造りの建物で、 正面にしおり戸があり、内部の大虹梁、板蟇股、組物などに、 室町時代の建物の特徴が現れていることから、国の重要文化財に指定されている。 」
薄暗い境内にあったのは宝現霊社である。
「 大内氏の祖・琳聖太子から三十一代の大内義隆に至る、
大内氏歴代の当主の神霊をまつる社殿で、
龍福寺の鎮守として、ここに建立されている。
この社殿は最初大内教弘が築山館に創建したのが始まりで、
敬神崇祖の念の篤い大内氏霊台の当主によって、
その各忌日には祭祀がなされてきた。
江戸時代には毛利氏により祭祀が行われてきたが、
明治に入り、一時多々良神社と称したことがある。
現在の建物は、二百五十年前の江戸中期の建築で、
両側に大内氏の家紋・大内菱が付いている。
(注) 琳聖太子は、百済の聖明王の第3王子で、日本に渡り、
周防国多々良浜に着岸したことから、多々良氏と名乗り、
後に大内村に居住したことから大内を名字にした、といわれる。 」
寺の境内の南東部には大きな池を持った庭園がある。 大内氏館跡に復元された池泉庭園 (2号庭園) である。
「 大内氏館にあった庭園では最大だったようで、中央部にひょうたん池があり、 水は庭園東側の水路から入れている。 池の東側にはソテツが植られて、 国際交流が盛んだった大内文化を感じされるものになっていた。 」
池の畔に、説明板があった。
説明板
「 館跡の南東部には屋敷地の東を区画する溝や堀、
大きな池をもつ庭園がみつかった。
溝や堀は時期の異なるものが複数確認されている。
これは大内氏館が何度か改修されたことを示すもので、
大きな池を持つ庭園は1400年末につくられ、
大内氏が滅亡する1500年代中頃まで使われていたと考える。
池の北には 台所(かまど) や蔵 (せん列建物) があったことから、
池の北は 庭園(ハレ) とは性格の異なるケの空間だったことが分かる。 」
周囲には、庭を鑑賞する建物だったと思われる建物の基盤の標柱があった。
また、石組井戸の説明板があった。
説明板「石組井戸」
「 石を組んで造られた井戸で、
直径は約1.2m、深さ4m、池泉庭園と同時期に作られ、1500年前半に埋め戻された。
井戸から外面に金箔を貼った土師器皿が三枚出土した。 」
池の北側に移動すると、中央に「石組かまど」の標石があり、 奥の隅に「せん列建物」の標石があった。
説明板「石組かまど」
「 東側からまぎなどの燃料をくべるつくりになっている。
U字形に石を組んだ焼燃部が二つあり、
北側のものは南北約0.8m、東西約1.2m、南側のものは南北約1m、
東西約1.3mの大きさである。
かまど周辺からは調理具などの日常雑器が多く見つかったことから、
この場所は台所と考える。 」
その奥に「せん列建物」の説明板が立っている。
説明板「せん列建物」
「 池泉式庭園と同時期につくられた建物で、
地面にはせん(土へんに専の字の漢字だが、焼成した煉瓦のこと)を埋め込んでいる。
この建物には縦約30cm、横30cm、厚さ2cmのせんが使われている。
建物は南北約46m、東西の幅は建物が更に西に広がるため、不明。
中世の遺跡で検出されるせん列建物の多くは蔵であることから、
この建物も大内氏館に作られた蔵の一つと思われる。 」
その右手に、縦に伸びる石積水路が復元されていた。
大内氏館はこれまで数十回にわたる発掘調査が行われ、
多くの遺構が発見されたという。
築山館(築山御殿)跡
龍福寺の境内を出て、県道62号(萩往還)を北に向うと、 上堅小路交叉点の手前の右側にバス停があり、 「史跡大内氏遺跡築山」 の標柱の先に 「築山神社」 の標柱があるので、左に入っていくと築山神社があった。
「 築山神社が鎮座するのは、築山御殿跡である。 大内氏館が手狭になったため、 その北側に大内義弘が別邸として築山館(築山御殿)を築いた。 」
築山神社の隣に、 「箏曲組歌発祥之地」 の石碑が建っている。
「 組歌は、八橋検校が確立した箏曲の根本形式であるが、
数首の歌を組み合わせた歌詞についての所伝が当地にあることから、
この碑が建立されたようである。
天文年間(1532〜1554)のこと、大内義隆は京から迎えた北の方を慰めるため、
都から公郷や楽人を招いて、詩歌管弦の遊びを催したが、
その際に組歌が誕生した、とある。 」
築山神社の右手に八坂神社がある。
「 本殿は国の重要文化財に指定されている。
八坂神社は今から六百年前、
大内弘世が京都の八坂神社から勧請したもので、
素戔鳴尊・手名槌命・足名槌命を祭神としている。
社殿は上竪小路に建立されたが、永正十六年(1519)に大内義興が、
大神宮を高峰山麓に建立した時、その地に移転し、社殿を新築した。
江戸時代末期、毛利氏は社殿をこの地に移したが、
本殿は永正年間に建立したままのものである。
本殿は三間社造り、檜皮葺きで、
本殿の周囲に配された十三個の蟇股は室町時代の特色をあらわしている。 」
瑠璃光寺五重塔
上堅小路交叉点で、国道9号を横断して、県道62号(萩往還)を北に進む。
萩往還は毛利藩の居城・萩城があったところで、
幕末の志士はこの道を通って山口に入ってきたのだろうか?
左右に小川が流れている三叉路を左折する。
一の坂川のほとりに、 「山口ゲンジボタル発生地」 の看板があった。
橋を渡って進んでいくと、右側に五重塔が見えてきた。
正面一帯は、日本の歴史公園100選に選ばれている、香山公園で、
瑠璃光寺五重塔はの一角にある。
「 瑠璃光寺五重塔は、
大内文化の最高傑作として、国宝に指定されている。
室町時代、大内氏二十五代・大内義弘は、
現在地に香積寺を建立したが、応永六年(1399)に、京都で応永の乱を起し、
足利義満に敗れて戦死した。
弟の二十六代・大内盛見は兄を弔うため、五重塔の建築を始めたが、
九州の少弐氏、大友氏との戦いで、永享三年(1431)に戦死した。
五重塔はその後、嘉吉二年(1442)に完成。
五重塔の高さは31.2m、屋根は檜皮葺き、二層のみ回縁がついているのが特徴。
建築様式は和様だが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須彌檀などには、
唐様が取り入れられている。
初重(一階)には円形須彌檀があり、僧形の大内義弘像と阿弥陀如来像が祀られている。
五重塔を過ぎた正面に、瑠璃光寺がある。
「 大内義弘が建立した香積寺は、
江戸時代に萩に転封となった毛利輝元により、萩に移転。
その跡地に移転してきたのは瑠璃光寺で、元禄三年(1691)のことである。
瑠璃光寺は曹洞宗の寺院で、
陶氏七代・陶弘房を夫人が弔うために、
文明三年(1471) に、山口市の保高野に建立した安養寺が前身で、
明応元年(1492) に現在の名に改められた。 」
池の近くに画聖雪舟の銅像があり、説明板が立っている。
説明板「画聖 雪舟」
「 雪舟は応永二十七年(1420)に備中国で生まれ、
京都の相国寺で禅と画技を学び、四十才前後に山口に来て、
天花の雲谷庵に居を定め、画業に親しんだ。
応仁元年(1467)、大内氏の遣明船に乗り、明国に渡り、絵の修行に励み、
文明元年(1469) に帰国し、山口に居住したが、漂白の旅に出て、
文明十八年(1486) 頃、山口に戻り、雲谷庵にて国宝の四季山水図などを描いた。 」
◎ 旧山口藩庁門
香山公園の左手に、洞春寺バス停があり、その前の道を南へ道なりに進むと、 県庁東門バス停があり、東門から中に入ると、山口県庁である。
「 山口県庁は、
幕末に毛利藩の居城となった山口城の跡地に建っている。
幕末の文久三年、藩主の毛利敬親は、萩城から山口の中河原御茶屋に入り、
元治元年(1864)、毛利敬親により、山口城が築かれた。
第一次長州征伐が始まると、毛利敬親・元徳父子は、
完成したばかりの山口城を一部破却して、萩へ退いた。
毛利敬親は、慶応元年に再び山口へ移り、
翌年には修理が終わった新館へ居所を移し、
同年の第二次長州征伐では、防長二州の政治、軍事の拠点として、
山口城は機能した。
この時、北西の山上にある高嶺城は、山口城の詰めの城として使用された。 」
その先には、風格を漂わせた建物の旧県会議事堂と県政資料館(旧県庁の建物)が、
建っていた。 これらの建物は、大正五年に建てられたものである。
また、その南側の掘りに面したところに、旧山口藩庁門があった。
国道側に 「旧山口藩庁門1棟」 の説明板がある。
説明板「旧山口藩庁門」
「 この門は、元治元年(1864)、時の藩主・毛利敬親(もうりたかちか) が、
藩政の本拠地を萩から山口に移すために建設した山口政事堂の表門として、
築造されたものといわれています。
築造当時は幕末の動乱期にあたり、高杉晋作・桂小五郎・
伊東博文等 の 藩士が、足早にこの門を往来したと思われます。
門の構造は切妻造、本瓦葺の薬医門で、主材はけやき、松を用い、木割ではなく、
豪快で、いかにも城門らしい風格を残しています。
明治四年(1871) の廃藩置県までは、藩庁門として使用され、
その後は山口県庁正門として、
新県庁舎 (現県政資料館、国重要文化財) が完成した大正五年(1616)からは
西口の門として使用され、現在にいたっています。 」
県庁前交叉点に出て、国道を南西に向かうと、 右側に、歴史民俗資料館があり、 そこに、続日本100名城に選定されている、高嶺城のスタンプが設置されている。 」
◎ 山口ザビエル記念聖堂
県庁の南一帯は、亀山公園になっていて、
山口博物館や埋蔵文化センターや県立美術館などの建物がある。
その南に山口市役所と市消防本部があり、消防本部の先の三叉路を
上っていくと、山口ザビエル記念聖堂がある。
「 山口ザビエル記念聖堂は フランシスコ・ザビエルが来日四百年を記念して、 昭和二十七年(1952)に建てられたが、平成三年に失火により全焼。 現在の建物は平成十年(1998)に再建されたもので、 イタリヤ人神父・コンスタンチノ・ルッジェリと、 建築家・ルイジ・レオニのデザインによるもので、 高さ五十三メートルの二本の塔とテントを模した屋根が全体を覆う構造になっている。 」
以前の建物とは余りに違う斬新なもので驚いた。
境内にはアジアに平和を祈る、大聖年の鐘と井戸端で説教するザビエル像があった。
「 ザビエルが山口に来たのは、天文十九年(1550)十一月上旬で、
無許可で宣教を行った。
大内義隆に謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが大内氏の怒りを買い、
同年十二月には山口を離れ、堺から京都に入るが、
室町幕府の全国布教の許可が得られれず、山口を経由し、平戸に戻った。
天文二十年(1551)、みたび、山口を訪れ、
貢物やゴア総督の親書を提出したことにより、
大内義隆による布教の許可を得て、大道寺をザビエルの住居兼教会として与えられた。
山口に約二月の滞在後、山口での布教をトーレスに託し、豊後に赴った。
ザビエルは修道士、ショアン・フェルナンデスと毎日二回、
山口の大殿小路の井戸端で、集まってくる人々に向い、要理の書を読んだり、
説明したりして、布教した。 あらゆる階層の人々が集まってきたが、
その数は大変なものだった、という。 」
教会の中にはステンドガラスで、その様子が描かれている。
◎ 湯田温泉
山口市役所前バス停から、バスに乗り、今夜の宿泊先の湯田温泉へ向かう。
バスを降りると中原中也記念館があったので、訪問した。
「 中原中也は明治四十年(1907)にここで生まれた。 小学校高学年から短歌を制作して、雑誌や新聞に投稿、ますます文学に熱中して、 山口中学三年で落第。 京都の立命館中学へ転校し、高橋新吉や富永太郎の影響を受けて、詩人の道に進む。 大正十四年(1925)、 十八歳の時、上京し、小林秀雄、河上徹太郎、大岡昇平らを知り、 昭和四年(1929)、河上らと同人誌「白痴群」を創刊、 昭和九年(1934)には第一詩集「山羊の歌」を出版し、詩壇に認められるようになった。 また、フランス詩の翻訳も手がけ、訳詩集「ランボオ詩集」を刊行する。 昭和十二年(1937)、山口への帰郷を願いつつ、鎌倉の地で三十歳の短い生涯を閉じた。 」
中原中也記念館は平成六年(1994)に生誕地に開館した施設である。
「 中原中也の生家は、 湯田温泉に近い広い敷地をもつ大きな病院だったが、 昭和四十七年(1972)の火事で茶室と蔵を残して焼失。 記念館は、その生家跡の一部に建てられていて、 火事の際に遺族により運び出された中也の遺稿や遺品を中心に、 貴重な資料を公開している。 」
その前には湯田温泉観光回遊拠点施設「狐の足あと」が建っていた。
ここはカフェや展示スペース、足湯を備え、
湯田温泉の食や文化、観光スポットを紹介する施設である。
泊まったホテルはユーベルホテル松政である。
ホテルで、温泉につかり、疲れをほぐした。
湯田温泉は、千二百年前からあるという温泉地、七つの源泉を持ち、
組合が集中管理をして、旅館に供給しているため、どの旅館・ホテルに泊まっても
同じお湯である。
湯量は一日2000トンといい、泉温は70℃を越える。
アルカリ性単純泉なので、肌によくなじむやわらかな泉質である。
訪問日 令和元年(2019)九月三日