熊野本宮大社は、
和歌山県田辺市本宮にある神社で、熊野三山の一つである。
熊野三山の中心をなす神社で、全国に四百七十以上ある、熊野神社の総本宮である。
国道42号の新宮市橋本交叉点で、国道168号に入る。
国道168号は熊野川に沿って続いていて、北西に進み、右手が中洲になっているところにくると、左手に熊野本宮大社がある。
新宮市から33キロ、約40分のドライブである。
「熊野本宮大社」の石柱があり、「熊野大権現」の額がある鳥居が建っている。
鳥をくぐると、参道の両側に、「奉納 熊野大権現」 と書かれた幟がびっしりと建っている。
その先に、急な石段があった。
熊野本宮大社の創建には不明の部分があるが、
神社の由来書によると、
「 古代より、熊野巫大神が鎮座するお宮が熊野巫神社(くまのにいますじんじゃ)と号し、
熊野の神といえば、この宮を表していたと、推測される。
創建時期ははっきりしないが、神武東征以前には鎮座していたと、いわれる。
社殿は崇神天皇65年(紀元前33年)に創建されたと、
「皇年代記」や「神社縁起」に、記されている。
平安時代には法皇・上皇・女院による熊野行幸が、数百回に及んだ。
これと前後して、神仏習合により、「熊野大権現」と称すようになり、
神々に仏名を記すようになり、御主神を阿弥陀如来と名付けた。
熊野本宮大社には、上・中・下の三社から、成るため、熊野三社権現と呼ばれる。
また、十二の神を祀ることから、熊野十二神と呼ぶようにもなった。
南北朝から、室町時代にかけては、皇族や貴族に代わり、武士や庶民の間に、
熊の信仰が広がった。
全国から熊野の深山高谷に押しかけ、「 蟻の熊野詣 」 と 形容されるほど賑わった。
「 伊勢に七度、熊野へ三度、どちらが欠けても参り 」 とうたわれた。 」
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石段を上ると、神門がある。
神門の左奥には授与所があり、門をくぐると、三つの社殿があり、四神が祀られている。
右側にあるのが、東御前(若宮 弟四殿)で、天照大神を祀っている。
中央にあるのが証誠殿(本殿 弟三殿)で、主神の家津美御大神、すなわち、素戔嗚尊
を祀っている。
この神は、樹木を支配される神で、紀の国(木の国)の語源もここ から起きている。
左側にあるのは、結宮で、中御前(弟二殿) には、速玉大神、
西御前(弟一殿) には、夫須美大神 が祀られている。
熊野本宮大社は、
第十代崇神天皇の御代に、熊野連がこの地に社殿を建立して、祀ったのが始めとと伝えられる。
現在の建物は、享保弐年(1718)、徳川家斉の命により、紀州藩主・徳川治宝が、
建立したものである。
元宮の大斎原に建っていたが、明治の大水の後に、修復され、ここに移設された。
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お参りを済ませ、御朱印を受け取る。
元宮跡を求めて、石段を下りた。
「
創建時の本宮大社は、熊野川、音無川、岩田川の三つの川の合流点である、
大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる場所にあった。
明治二十二年(1889)の大出水により、上四社(本殿 証誠殿)のみを残し、
その他の建物は消えた。
現在の本宮大社は大水を避けるために移転したものである。 」
道路を横ぎり、左に入る細い道を行くと、両側が田畑で、その中に一本の狭い道が続いている。
彼岸花が咲いていたので、それをカメラに収めながら 歩く。
その先に、平成二なって建てられた、日本一といわれる大鳥居が建っている。
鳥居をくぐり、樹木の下を歩いていくと、ぽっかり空いた空き地に出た。
「
ここが音無里の大斎原で、明治二十二年(1889)の大出水までは、
本宮大社は、川に囲まれた、中洲のこの地にあった。
一万坪以上の土地に、楼門や 五棟十二社の社殿や摂社の建物、神楽殿や能舞台、宝蔵、社務所などが立ち並び、現在の八倍もの規模を誇っていた。 」
現在、この広い土地にあるのは、 二つの小さな石祠だけである。
「 明治の大水で残ったのは上四社だけで、
現在の場所に、熊野本宮大社が遷座された時、上四社は修復され、移築された。
流失した中四社と下四社と摂社は再建されず、旧社地に二基の石祠が建てられた、
残りの神々は、二つの小さな石祠に、押し込まれて祀られているような気がして、
痛々しい気がした。
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所在地 和歌山県田辺市本宮町本宮1110
JR新宮駅から、奈良交通・熊野御坊バスで1時間20分。
JR紀伊田辺駅から、明光バスで、1時間35分。