熊野速玉大社は、
和歌山県新宮市新宮にある神社で、熊野三山の一つである。
江戸時代にはお伊勢を終了後、熊野街道を歩き、最初にお参りするのは、
熊野速玉大社であった。
現在は国道42号を走り、速玉大社前交叉点から西に向かうと、
千穂ヶ峰の北東麓に、速玉大社がある。
太鼓橋の神橋を渡ると、
、「熊野権現」と記された、朱塗りの鳥居がある。
鳥居をくぐると、八からす神社と手力男神社の社がある。
その先の右手に神宝館があり、参道を挟んだ反対に、御神木の梛(なぎ)の大樹がある。
枝を大きく広げていた。
「
平安末期に、熊野三山 造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植え、と伝えられるもので、樹齢千年と推測される。
梛としては日本最大ということで、国の天然記念物に指定 されている。 」
その先の右手に、手水場、その奥に熊野稲荷神社が祀られている。
その先は駐車場になっている。
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参道を直進すると、正面に朱色の塀で囲まれた神門がある。
神門の左奥には授与所があり、門の先に見えるのは拝殿である。。
速玉大社の由緒によると、
「 最初は、熊野三所権現が降臨された千穂ヶ峰の東南端の神倉山に祀られていたが、
景行天皇五十八年の御世に、神倉山の宮 からこの地に遷宮された、とある。
このことから、神倉神社の旧宮に対して、新宮と号した 、と古書にある。
日本書紀には、「 六月(水無月) の 乙未(きのとひつじ) の 朔(ついたち)
丁巳(ひのとみのひ) に、軍 (みいくさ)、名草邑(なくさのむら) に至る。
則ち、名草戸畔といふ者を誅す。
遂に狭野(さの)を越えて、熊野の 神邑(みわのむら) に到り、
且ち 天磐盾(あまのいはたて)に登る。 」 とあり、
名草邑(紀伊三井寺のある名草山のある集落) を経て、狭野(新宮市佐野)を越えて、熊野 の神邑 (現在の新宮市付近)に至り、天磐盾(神倉山)に 上った、としている。 」
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拝殿の奥に、右から八社殿・上三殿・速玉殿・結宮の建物が建ち、 上三殿と速玉殿 の間には、小さな奥御殿 三神殿が祀られている。
「 最初は二つの神殿に、熊野速玉大神と熊野夫須美大神を祀っていたが、
平安時代には、現在のような十二の社殿が建てられ、神仏習合も進んで、
熊野十二権現と呼ばれ、式内社に列せられた。
社殿は、明治十六年に打ち上げ花火が原因で焼失し、現在の建物は昭和四十二年の再建である。
」
写真は右から上三殿。速玉殿・結宮の順に、社殿が並んでいる。
「 結宮には、熊野夫須美大神、速玉殿には熊野速玉大神、」 上三殿には、弟三殿祭神 家津美御子大神、国常立尊、弟四殿若宮祭神 天照大神、 弟四殿神倉宮祭神 高倉下命 を祀っている。 」
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拝殿の左奥に、「結霊宮」「速霊宮」の額が掲げられていて、その奥に参拝所があった。
速玉大社は、太古から信仰されてきた神倉山の磐座に祀られてきた 自然神に、
大和朝廷の信仰する伊邪那岐神・伊邪那美神などの神を加えて、新宮としてところに、
大和王朝の力がここまで及んできたことを感じさせる。
熊野信仰を広めたのは、山伏や熊野比丘尼の存在で、彼らを各地に送り、
熊野権現の神徳を説いたが、その際に、配ばられたのが、
八た烏の印が押された 熊野牛王符である。
この過程で、全国に五千以上の熊野神社の子社が誕生した。
新宮は古い土地で、秦の始皇帝の命を受け、永遠の命の果物を求めて、
中国より渡来したと言われる 徐福の墓がある。
国道から見えるところには、「神武天皇東征上陸の地」の看板が小山にある。
以上で、熊野速玉大社のお参りは終了した。
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