長府は、高杉晋作が回天義挙を行った地 である。 毛利氏が長防二ヶ国に減封になったことに伴い、萩城を本拠としたが、 東の備えに岩国城、西の備えに、長府に櫛崎城が築かれたが、 一国一城令により、両方との破却された。 長府藩は、毛利秀元が五万石で立藩し、幕末の尊王攘夷の時代には長州藩と連携して活躍した。
JR長府駅に降りると、
「 おいでませ 毛利五万石城下町 長府へ 」 の看板に、迎えられた。
下関市に属する長府は、歴史があるところである。
「 日本書紀によると、仲哀天皇が長府に穴門豊浦宮を設置されたとあり、 七世紀には長門国の国府になったところである。 」
駅の南方の長府宮崎町に行くと、「櫛崎城趾」の石碑と「櫛崎城石垣」の説明碑が立っている。
説明碑「櫛崎城石垣」
「 当時の城郭図巻によると、松崎口、浜之坂口、三軒茶屋口に、櫓建てがあり、
現在、櫛崎城趾の石碑が建てられているあたりが松崎口で、
大手門二重櫓の跡と見られる。
櫛崎城(串崎とも書く) は、遠く天慶三年(940)、
西海に勢力をふるった藤原純友の配下・稲村平六景定が、
この地に拠ったとも伝えられるが、
確かな記録はなく、一応、大内氏の重臣・内藤左衛門太夫隆春が築城したとされている。
輝元の養子の毛利秀元は、長門一国と周防吉敷郡など、十七万石を与えられ、
毛利氏の支藩として、山口に居を構えていた。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦において、
豊臣秀頼に加担した毛利氏は、防長二州に減封され、これに伴い、
毛利秀元は、長門国豊浦郡と厚狭郡六万石を分知され、長府藩五万石の長府藩主となり、
東の岩国藩に封じられた吉川広家と並び、西の守りを任された。
櫛崎城に移り、これを再築し入城し、雄山城と称した。
元和元年(1615)、徳川幕府の定めた一国一城令により取り壊され、
隣接する県立豊浦高校の敷地に居館をおいた。 」
櫛崎城は関門海峡を望む要衝として、 周防灘に突き出した半島の高台に築かれた城で、 現在は関見台公園として整備されている。
「
当時の城域は、公園よりさらに北側の豊功神社に至るまでであった、と考えられる。
串崎の名は鎌倉時代の元寇で討ちとった敵兵の首をこの海岸に埋めたことから、
首崎が転化したものだといわれている。
このあたりの石垣は、当時の石垣が現存するものだが、
関見台公園内には復元した石垣や天守台がある。 」
「櫛崎城跡」の石碑の先に見える鳥居は、豊功神社(とよことじんじゃ) の鳥居である。
「 応神(おうじん)天皇の串崎八幡大神、文武両道の神として、 武内宿禰(すくね)の豊功大明神、医薬縁結びの神として大国主大神、 その他、穂田元清と毛利秀元以下歴代の長府藩主を祭神としている神社である。 大正六年 (1917)、長府藩初代藩主毛利秀元以下を祀った豊功社を忌宮神社境内から移して、 これまであった櫛崎、松崎、宮崎の各神社を合祀して豊功神社となった。 本殿は昭和四十四年に焼失したが、平成十三年に再建された。 」
ここから見る満珠、干珠島の風景は素晴らしく、
初日の出には多くの人々が訪れるという。
境内には明治維新で奇兵隊らと共に活躍した 「長府藩報國隊顕彰之碑」 がある。
「長州報国隊都督 野々村勘九郎旧邸」 の石碑が建っている。
「 野々村勘九郎は、文久三年、 長府藩の青年武士達を集めて、精兵隊を結成し、 文久元年、京都を追われた三条実美ら七卿を護衛する。 慶応元年に、報国隊を創設し都督となるが、同隊の軍監で保守派の熊野九郎と対立。 保守派要人の暗殺をくわだてたとして、切腹を命じられた。 」
長府黒門東町に行くと、敷地面積が約三万一千平米と広大な 長府庭園 がある。
「 長府庭園は、 長府毛利藩の家老格だった西運長の屋敷跡を整備した廻遊式日本庭園である。 芝生広場の先に、八畳と十五畳の和室のある書院があり、池に面している。 その先は自然を活かした庭園で、小滝、菖蒲池、竹林などがあり、 四季折々の庭園美が楽しめる。 池のそばに建っている一の蔵と一の蔵と二の蔵は、 売店や作家による展示販売の場所になっていた。 この先には茶室もあった。 」
長府惣社町に行くと、
「長府毛利邸」 の幟が建っていて、石垣と白壁に囲まれた城郭的な屋敷がある。
これが、長府毛利邸である。
「 長府藩は、毛利元就の四男・穂井田元清の子で、
毛利輝元の養子となった毛利秀元を藩祖とする。
政治的、経済的要所であった下関を領地とし、
歴代藩主の中で、三代・綱元の子、毛利吉元と、八代藩主の匡敬(重就)が、
宗藩の長州藩主を継いでいて、岩国藩の吉川家とは違い、宗藩との関係が深い。
幕末に、宗藩の長州藩が下関を直轄領としようとしたために対立したが、
後に和解し、幕末の攘夷戦や四境戦争で、宗藩の長州藩と行動を共にしている。
なお、清末藩は、第四代長府藩主・毛利綱元が、
叔父の毛利元知に、一万石の分知を与えて立藩した支藩で、
長州藩から見れば孫藩に当たる。 」
石垣の前には 「総社跡」 の石碑がある。
「 大化の改新後の律令制度のもとで、 中央から赴任した国司は、管内の神社を巡拝することが義務だった。 平安中期以降になると、管内の神社を便宜的に集めて一社を建てて、 総社 とし、 管内官社の巡拝に替えるようになった。 長府国府のあった長府では、国府に近いこの地に、総社が建立された。 惣社町は、惣社は総社と同意義語で、総社の名残を残す町名である。 」
「 長府毛利邸は、長府藩の最後の藩主で、 元豊浦藩知事だった毛利元敏が、明治三十一年(1898)に着工、 明治三十六年(1903)に完成したもので、 完成直前の明治三十五年(1902)、熊本で行われた陸軍の演習の視察の際には、 明治天皇の行在所(仮の御所) となり、往路の十一月九日と、 復路の十一月十五日に宿泊された。 大正八年(1919)まで、長府毛利氏の本邸として利用された。 昭和二十三年(948) 、 長府毛利氏が東京に移る際、土地と邸宅を下関市へ寄付、 その後、改装され、平成十年(1998)から一般公開されている。 」
大手門を入ると、書院造の母屋が現れる。
「 約一万平米の敷地は石垣と白壁に囲まれている。
表門(大手門)から入った区画より、武家屋敷造の母屋がある区画が、
一段高く配されるなど、城郭的な構造をしているのが特色である。
」
玄関脇には、「毛利氏邸紀念碑」 がある。
明治天皇御宿泊の間は、当時のまま保存されている。
庭は、書院庭園、池泉回遊式庭園、枯山水庭園の三つの庭があり、
紅葉の名所である。
平成十六年(2004)、 築後百十年以上の茶室・淵黙庵(えんもくあん)が移築され、
有料で利用できる。
長府侍町は、毛利の支藩五万石の城下町として、 江戸時代には家老職、御馬廻役などの藩の重臣、側近が屋敷を構えていた町筋である。 侍町と壇具川が交わる地点には木戸が設けられ、傍には藩の御用所も置かれた。
移築された長府藩武家長屋が建っている。
「 長府藩武家長屋は、長府藩家老職の 「西家」
の分家 ( 長府藩御馬廻り役二百二十石 ) の本門に附属していた建物である。
元は、五百メートル程南の壇具川沿いに建っていたが、保存のためここに移築した。
建築時期は不詳だが、建築規模や格子窓の形態から江戸後期の建築物と推測される。
一見、長屋風であるが、構造は桁行八間、梁間二間、単層、入母屋造り、
桟瓦葺き、屋根は化粧垂木と野垂木を使い、軒下勾配がゆるく、
屋根面に反りをつけた、社寺建設の技法が見られる。
四畳と八畳の間や玄関は原形を留め、構造の重厚さ、
特に仲間部屋格子窓の造り等は、江戸期の上級武家屋敷の遺構を残している。 」
侍町の背後の小高い丘陵は、土肥山 と呼ばれる。
「 寿永四年(1185)三月に繰り広げられた源平壇の浦合戦の後、追捕使として 源氏方の勇将・土肥次郎実平が、この山に居城したことにちなんで、その名が付いた。 」
壇具川は清流に錦鯉が泳ぎ、夏にはホタルが飛び交う。
流れに沿い、山手に進むと壇具橋、宮路橋、川中橋、川上橋、両山橋へと至る。
「 川の名称は、神功皇后が三韓鎮治の際、この豊浦の地(長府) で祭壇を築き、 天神地祇を祭り、 その祭壇に用いた道具を川に流した川ということから名がついたといわれる。 」
橋の左手に笑山寺、右手には功山寺があり、これらは毛利家の菩提寺である。
長府川端町にある、功山寺(こうざんじ)は曹洞宗の寺で、
中国三十三観音霊場第十九番札所である。
「 嘉暦二年(1327)に、開基は北条時仲、 開山は虚庵玄寂として、創建された寺で、当初は臨済宗で金山長福寺と称し、 足利氏、大内氏など、武門の崇敬厚く隆盛を誇ったが、 弘治三年(1557)、周防大内氏最後の当主・大内義長がここで自刀、 この戦乱によって、一時堂宇は荒廃した。 その後、慶長七年(1602)、長府藩祖・毛利秀元が修営し旧観に復し、曹洞宗に転宗した。 長府藩二代目藩主・毛利光広が、秀元の霊位をこの寺に安置し、 長府毛利家の菩提寺となり、 秀元の法号・智門寺殿功山玄誉大居士 にちなんで、功山寺に改称した。 」
山門は、安永二年(1773) 長府毛利藩第十代・毛利匡芳の命により、再建されたもので、 禅宗に見られる三間三戸の二重門である。
「 土間に自然石の礎石を並べ、本柱十二本、 控柱八本で支えられた重厚な門である。 入母屋造、本瓦葺きの屋根は見事な反りを見せる。 櫓を支える太い十二本の柱は全て円柱で、柱の上部をわずかに円く削り込み、 その下部先端は急に細めた粽型になっている。 櫓の中には、二十八部衆立像が国宝の仏堂より移され、安置されている。 」
山門をくぐると正 面に仏殿、右側に書院と庫裏がある。
「 仏殿の建立は、寺の創建年より早い元応二年(1320)である。
入母屋造、檜皮葺きで、一重裳階(もこし)付き、
方三間の身舎の周囲に裳階をめぐらした形状で、
堂内には本尊の千手観音坐像を安置している。
仏殿は、善福院釈迦堂とともに、鎌倉時代の禅宗様建築を代表するものとして、
国宝に指定されている。、 」
法堂の裏手にある毛利家の墓地の近くに、 「大内義長主従の墓」 といわれる三基の宝きょう塔がある。
「
陶晴賢により、大内氏の後継として擁立された、大内義長 (大友宗麟の弟、晴美) は、
弘治三年(1557)、毛利軍に追われ、長福寺(現在の功山寺)まで敗走、
客殿において自害した。
辞世の歌 「 さそうにも 何かうらみん 時来ては 嵐の外に 花もこそ散れ 」
ここに名族大内氏の名は歴史上から消えていった。 」
書院と庫裏の所に、「七落潜居跡」 の説明板がある。
「 文久三年(1863)八月の政変によって、 朝議は公武合体の方針をとり、尊攘派の長州は皇居の護衛の任を解かれたために 三条実美ら尊王派の七卿を奉じて山口に帰った。 翌元治元年(1864) 第一回長州征伐の恭順講和の条件として、 当時五卿になっていた三条実美らを大宰府に移すことになった。 その十一月十七日はやむなく諸隊に護られ、一旦長府に移り、 功山寺書院に二ヶ月滞在して、大宰府に移った。 十二月十五日夜、 高杉晋作は、五卿を前に潜居の間に決意を述べ、 義兵をこの門前に挙げた。 」
俗にいう高杉晋作の回天義挙で、 昭和四十七年の建立された、「高杉晋作回天義挙銅像」 が建っている。
「 幕末には、攘夷のために櫛崎城跡も砲台とされ、 東側から海峡に入って来る外国船を一番早く発見する役割を果した。 真鍮砲三門と木砲四門が配備されていたが、 四国艦隊下関砲撃事件の休戦協定が結ばれた翌日の元治元年(1864)八月九日、 戦利品として持ち去られた。 下関市立長府博物館には、櫛崎城破却時に取り外された大鬼瓦が展示されている。 」
櫛崎城跡へはJR山陽本線下関駅からバスで21分、松原下車、徒歩7分
訪問日 平成二十年(2008)八月三十日