津和野は、島根県の南西に位置する街で、
山間の小さな盆地に広がる街並みは小京都の代表格と知られ、
重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
江戸時代、津和野藩亀井氏の城下町であった。
明治初期、長崎の浦上から送られてきた、キリシタンを大量虐殺を行った 「浦上四番崩れ」
の殉教地として知られる。
文豪・森鴎外の父は津和野藩の藩医で、彼は津和野で出生した。
◎ 殿町通り
JR津和野駅東口を出て、県道226号を南に進むと、県道13号へ合流する。
津和野郵便局があり、その先に殿町バス停、稲成下バス停があり、津和野川に突き当たるが、
この間が殿町通りである。 津和野駅から徒歩十分程。
この通りが津和野のメインストリートで、白壁の古い街並みが並んでいた。
ここは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
和洋折衷の建物で、ひときわ存在感があるのが、津和野カトリック教会である。
説明板「 国登録有形文化財 津和野カトリック教会/神父館」
「 明治元年(1868)から明治6年(1873)まで、
長崎の「浦上四番崩れ」で捕えられたキリスト教徒 計153人が、
現在の乙女峠にあった光琳寺に幽閉され、「食責め」 「水責め」 など、といった
拷問により、37人の殉教者を出すこととなった。
このような悲しい歴史を経て、昭和3年(1828) シェファー神父は、
旧津和野藩町年寄であった堀家から、用地と建物を購入し、
幼花園と教会としたが、昭和5年(1930) 火災により、焼失。
昭和6年(1931) 幼花園と教会と神父館は再建された。
キリシタン弾圧による殉教者を讃えるために建てられた建物は、
津和野の歴史を物語るうえで、貴重な建造物である。
教会は、木造平屋建て、鉄板葺きで、シンプルな図柄のステンドグラスを有する、
単塔式のゴジック様式である。
神父館は、木造総二階建寄棟造で、外壁を下見板張とした、擬洋風なデザインとなっている。
玄関前には、堀九郎兵衛宅の和風庭園が、そのまま保存されている。
水路の石垣は、堀家の屋敷跡のもので、明治の雰囲気を今も残している。
津和野町郷土館には、拷問の際に使用されたという、「三尺牢」が再現され。
キリシタン弾圧に関する資料なども、展示されている。 」
隣接する 「乙女峠展示室」には、殉教の歴史を伝える資料が展示されている。
通りにはいちょう並木があり、訪れた時は、コロナビールスで規制があった時なので、 観光客の姿もなく、閑散としていた。
石畳が続く通り沿いには、掘割 と呼ばれる、水路がある。
覗いた場所では確認できなかったが、色とりどりの鯉が泳いでいるようである。
◎ 津和野城址
津和野城は、尾根沿いにある出城の中荒城と併せて、国の史跡に指定されている。
「 津和野城は、標高367メートルの霊亀山の上に建てられた山城である。
鎌倉幕府は、能登の豪族・吉見頼行を地頭に任命し、頼行は、永仁三年(1295)、
この山に築城を開始した。
以後、吉見氏は十四代300年間、増強補修を行い、城山の随所に曲輪・堀切・竪掘・横堀など
を構築し、堅固な中世山城を築いた。
吉見氏の城は、三本松城と呼ばれていた。
吉見氏の
後任となった坂崎直盛は、大手門の位置を、吉見氏時代の搦手側に改め、
出丸や天守を追加、
現在の本城と織部丸の位置に、高石垣の近世山城を築いた。 この城を津和野城と呼ぶ。
元和二年(1616)、直盛に代って、 亀井政矩が四万三千石で入城、以来、十一代、明治維新まで、 亀井氏が城主を務めた。
亀井氏の時代に、麓に居館(津和野藩邸)と外堀が築かれた。
明治四年(1871)に廃城、明治七年(1874)山上の城は解体された。 」
津和野川の西側の小高い山上に、津和野城が築かれたが、
江戸時代、亀井氏により、麓に、藩主の居館(津和野藩邸) が築かれた。
県立津和野高校の対面に、 嘉楽園があり、説明板が建っているが、
これが 津和野藩邸跡 である。
説明板「津和野城跡(嘉楽園)」
「 この地は、旧津和野藩主亀井家の藩邸があった場所で、
当時の藩邸は南北三百メートル、東西百四十メートルにわたり、
北側に建物、南側に庭園が築かれていました。
明治の廃藩とともに、建物は解体され、北側は津和野高校の敷地(グランド)になり、
この庭園跡がわずかに往時の面影を偲ばせています。
庭園は、藩校養老館初代学頭の山口剛斎により、 嘉楽園 と命名され、
池泉、築山やあずま屋等があり、周囲の景色と調和した名園であった、と伝えられています。
庭園内には、最後の藩主 亀井茲監頌徳碑をはじめ、大国隆正、福羽美靜、山辺丈夫など、
郷土が輩出した先哲をたたえる碑が建立されています。
また、白壁の建物は、藩主が、祭礼等の催し物を献物した、 御物見櫓で、
別の地にあったものを、保存のため、現在の場所へ移築したものです。
津和野町教育委員会 」
園内にある白壁の建物は、
弥栄神社で行われる祭礼等の催し物を藩主が見物した物見櫓で、
ここに移築し保存されている。
また、津和野高校の一角に、津和野城の馬場先櫓が残っている。
津和野城の残る遺産はこれらの建物と、山上に残る石垣だけである。
山頂の城跡へ向かう。
嘉楽園の先の三叉路で、右に入り登って行くと、
太鼓谷稲成神社がある。
「 安永二年(1772) 、京都伏見稲荷より勧請して、 太鼓櫓が建つ城内の一角。太鼓谷の峯に、太鼓谷稲成神社を建立した。 」
津和野城には、太鼓谷稲成神社へ行く途中にある、津和野城跡観光リフト(9時〜16時30分)で登る。
駐車場の上に、乗り場があり、リフトに乗ると、数分で、津和野城の出丸跡にある終点に
到着する。
降りたところから砂利道を歩くと、小山がある。
小山を左に回る人工の架設通路があり、歩いて行くと、
「中世吉見氏時代 堀切」 の矢印があり、説明板がある。
「 掘割とは、山城や丘城に、尾根の方向に尾根続きを 直交に遮断して、敵方の侵入や攻撃を防止することを目的として、 掘削した構造をいう。 中世の山城ではよく用いられた手法で、二重、三重の堀切も多く、 また、両端を竪堀にすることも良く見られる。 」
架設道が終わって、回ってきた小山を振りかえると、
小山の上に石垣のようなものが見える。
入口には、 「出丸」 の説明板がある。
「 出丸は、坂崎出羽守直盛の弟・浮田織部が指揮して、 戦略上必要な北の防塁として整備された。 門の両側は、二層の隅櫓を配置し、高塀とともに多くの鉄砲狭間が設けられた。 鉄砲線に備えた堅牢なつくりになっていた。 」
出丸は、織戸丸 とも呼ばれる出城で、 本城の北側、本丸東門から尾根沿いに約二百四十四メートル離れたところに位置し、 石垣や塀、櫓が築かれ、出丸門の右側に番所があったようである。
「本丸まで250m」 の道標がある。 ここは、出丸と本丸を結ぶ大手道である。
左側に架設通路があるので、この道を進む。
大手道の先には、「津和野城」 の説明板が建っていた。
説明板「津和野城」
「 津和野城は、標高362mの霊亀山上にあり、山麓からの比高は、
約200mの典型的な山城である。
築城は、吉見頼行、頼直が、永仁三年(1295)から正中元年(1324)にかけて行われた、
と伝えられる。
吉見氏が築城した中世山城は、関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)に、
3万石の大名で入城した坂崎直盛によって、高石垣を有する近世城郭へと大改修された。
天和三年(1617)に、因幡国鹿野城より、亀井政矩が、4万3千石の大名として、
入城後は、亀井氏11代の居城として、明治維新まで続いた。
津和野城は、 本城の他、 出丸(別名織部丸) がある、 一城別郭 の城であり、
その間に大手道を設けるなど、 極めて実践的な山城であった。
かっては、本丸、二の丸に三重天守と櫓があったが、 貞亨三年(1686)の雷火で消失した後は、再建されなかった。
明治七〜八年(1874〜75)に、城の建物の大半は解体されたが、
現在も、山上には段状に連なる壮大な石垣が残っており、
人力で行われた大土木工事の跡を見ることができる。
なお、津和野藩の藩庁は、城山の北東側の山麓にあった。 」
「 この先5分本丸城跡 → 」 の道標に従い、
階段を上っていくと、左側の草叢の上に、石垣が現れた。
これは腰曲輪の下の石垣である。
その先の右側の小高いところに、「東門跡」 の説明板がある。
説明板「東門跡」
「 ここは東門、坂崎氏以後、亀井氏の代には大手門となっていたところである。
ここを入って右手に見る石垣は三段になっているが、これは三段櫓跡。
この三段櫓跡と右に見て上がった所が西門跡。
その右手を上がって、馬立跡、台所跡、海老郭跡と続く。
また、ここを入って、左に廻って行くとところが腰曲輪で、これを行くと隠門に出る。
左手の上が天守台で、かっては三層の天守閣があった。
天守台を右に見て上がった所が太鼓丸跡、
その上を世間台といい、ここから城下が一望できる。
昭和四十六年九月 津和野町教育委員会 」
霊亀山の北から続く尾根から本城への出入口にあるのが、大手門の東門で、
東門を見下ろす三段の石垣は、三段櫓が設けられ、厳重に守られていた。
現在は、東門跡の説明板の左側に、架設橋が架かっていて、
東門から西門方面には行けなくなっている。
江戸時代の東門は、枡形虎口で、 右側に現在金網が掛けられている石垣が、三段櫓の石垣である。
江戸時代には枡形の東門を通り、西櫓、西門に出ていたが、閉鎖になっているので、 架設の通路を渡る。
「 霊亀山の山頂に築かれた津和野城は、横に細長く曲輪が広がっていて、 曲輪はすべて石垣で囲まれていた。 」
架設橋の正面に見える高い位置の石垣は天守台で、 その下は二の丸、
橋から出たところは腰曲輪で、反対には行けないようになっていた。
その先に、三本松城 の説明板がある。
説明板「三本松城」
「 三本松城は、高石垣、瓦葺、天守閣を備えた典型的な近世の山城であった。
左側の石垣は、天守閣を支えた石垣だったが、貞亨三年(1686)、雷に打たれて焼失した。
その後、天守は再建されることはなく、幕末を迎えた。
図には東門が描かれ、その門をくぐって、右側に二層の楼門が続く。
本瓦葺きにしゃちをのせた堂々たる櫓である。
石垣が高くそびえ、眼下の城下町の一望は絶景である。 」
その先で、東門から続く道にでるが、右手を上がると、 「馬立跡 台所跡→」
の道標があるので、内部に入っていく。
左側に礎石があるのが、馬立の跡 である。
右奥に、「津和野城跡(馬立、台所跡、海老櫓」 の説明板がある。
説明板「津和野城跡(馬立、台所跡、海老櫓」
「 ここは本丸西、当城の三の丸にあたる。
階段を上って、左は 馬立 といわれ、 乗馬をつなぎとめておく所、
右は三段櫓の最上部の建物へつなげる。
馬立の奥には 台所 があり、石列による排水機能が見てとれる。
さらに奥には 海老櫓 といわれる建物があり、搦手(喜時雨側) に直面する望楼であった。
周囲は塀で囲まれ、支柱を支えるための控え石が、おおむね一間(一・八メートル)おきに、
置かれている。 」
天守台から西と南に張り出した形状をしているのが、三の丸で、 ここは西の張出し部で、 馬立、 その奥に台所が配置され、 右側の石列は排水機構と思われた。
台所の奥(西側)の石垣を降りると、一段低いところにあったのが海老櫓で、 ここから搦手を見張っていたのである。
馬立跡まで戻る。
三の丸から正面に見える三十間台の高石垣は、整然とした算木積で、築かれている。
三の丸の西側(馬立)を挟んで反対にあるのは西門である。
江戸時代には、立派な建物の西門櫓が築かれていた。
西門の左、二の丸高石垣の下を進むと、道標があり、それに沿って進むと、 城の南張出し部分に出る。
その先に長方形に長い広い空間があり、「三の丸跡」 の標柱が建っている。
江戸時代には、曲輪内に番所などがあったとされる。
先端まで歩いて行くと、「中国自然歩道」 の道標と、
「南楼門跡」 の標柱が建っていた。
「中国自然歩道」 の道標には、鷲原八幡宮方面の添書もあったが、
南門櫓が築かれた南門からは、尾根を南に下がって中荒城と続いている。
ここからの下りは急で、降りていくのはあきらめたが、
石垣の石が大きく無骨な感じがした。
「
中荒城は、本城の西南に位置し、石積みの防塁跡が残っているという。
山城の津和野城には、数多くの堀切、竪堀、横掘りが造られ、
中荒城の周囲には多数の連続竪掘が存在するようである。
また、中荒城の南麓(鷲原八幡宮の裏手)には、南出丸があった。 」
南楼門跡からふりかえると、「三の丸跡」 の標柱の先に、 人質櫓と三十間台の壮大な高石垣が目に入った。
この後、天守台に向って道を引き返した。
二の丸に上ると、「天守台」 の標柱が建っていた。
その奥にある石垣が天守台で、築城当時は三重天守が建っていた。
「 天守を建てたのは、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで勝利し、
津和野城主になった坂崎直盛である。
貞亨三年(1686)に、城に落雷があり、火災が発生し、天守は焼失、その後、
再建されなかった。 」
天守台を右に見て、崩れかけたところを上ったところには、
「三十間台」 の標柱が建っている。
ここが本丸の三十間台で、世間台ともいう。
ここは、津和野の城下町を一望できる場所だった。
その左手には、門の石垣が残っているが、 そこをくぐると 「太鼓丸」 の標柱が建っていた。
太鼓丸の門跡の右側を下ると、天守台の標柱がある二の丸跡まで戻ってきた。
この下の二の丸石垣が一段低いところに細長く続く腰曲輪があり、
太鼓丸の石垣下に位置する隠門まで続いているのだが、現在は閉鎖されていた。
以上で、城跡の散策は終了したので、リフトで駐車場まで戻り、下に降りて行く。
津和野城へはJR山口線津和野駅から徒歩20分でリフト登り口、リフトを降りると徒歩約15分で本丸。
訪問日 令和元年(2019)九月四日(水)