名所訪問

「 村上海賊出身の久留島氏の陣屋があった 角牟礼(つのむれ) 」  


かうんたぁ。


 

JR久大本線の豊後森駅は、大分駅から西方にある。 
車では、東九州道を北上し、日出JCTで大分道に入り、 湯布院を遠目に見ながら走り、玖珠ICで降りる。 
最初に訪れたのは、わらべ館である。 
わらべの館内に、豊後森藩資料館がある。 
そこから見えるのは、標高五百七十六メートルの角埋山(つのむれやま)である。 

「  玖珠町は大岩扇山などのメサと呼ばれる地形が多くみられる。 
この地形は平坦な山頂部を切り立った崖が取囲んでいるため、山城に適している。 」

わらべ館の先は広場になっているが、 江戸時代には、豊後森藩久留島の陣屋が建っていたところである。 

「 久留島氏は、瀬戸内の村上海軍の一つ・来島村上氏の出で、 来島長親は、関ヶ原の合戦で、西軍に属したため、流浪の身になったが、 本多正信の仲介などにより、玖珠・日田・速見の三郡の内に、一万四千石を与えられて、 来島から久留島に名を改め、森藩の藩主になり、久留島氏は明治維新まで当地を治めた。  江戸時代の城持大名は石高三万石となっていたので、 久留島(来島氏)は、城主の格式に該当しないため、 山頂の角牟礼城は廃城になり、山麓のこの場所に陣屋が置かれた。 」  

久留島氏は、末広山の斜面と裾部を利用して、 御殿に接する「藩主御殿庭園」 を築いた。 

角埋山      森藩陣屋跡      藩主御殿庭園
角埋山(つのむれやま)
森藩陣屋跡
藩主御殿庭園


久留島氏は、上記の「藩主御殿庭園」の他、 末広山の南端の栖鳳楼周辺に造られた 「栖鳳楼庭園」と、 末広山西側の清水門前の堀の一部を庭園化した 「清水御門前庭」と、三つの庭園を造っている。  これらは国の指定名勝になっている。 

「 栖鳳楼(せいほうろう)は、森藩の記録には、 紅葉の御茶屋 と記させていて、 天保十一年(1821)に完成。 真言宗の高僧・不退堂によって、栖鳳楼 と名付けられた。  ニ階からの眺望がよく、お城の天守閣の趣きをなしている。  一階は御茶屋風となっていて、 栖鳳楼庭園は、久重連山や城下町の遠景を取り入れたもので、豪華な飛石が配置されている。 」  

御長坂の石畳を上がる。
神社の周囲の石垣は穴太積みで、城のような立派な石垣である。 

石畳を上がると、左手に栖鳳楼、右手に末広神社の社殿がある。 

「 末広神社は、豊後森藩初代藩主・久留島康親が、藩の守護神として、慶長六年(1601)、 出身の愛媛県の大三島より、三島宮を勧請鎮祭したものである。  その後の文化文政の頃、第八代藩主・通嘉が、境内を整備し、御神殿・拝殿などの建物を建てた。  御神殿は、総欅(けやき)造で精巧、優美だが、三十六坪の鞘堂の中に収められている。  明治に入り、妙見宮と合祀され、現在の名前になった。 」  

城を持つことが出来なかった久留島氏は、神社と栖鳳楼を城と見立てて、 石垣を築いたともいわれていて、久留島氏の無念さを感じることができた。 

栖鳳楼
     御長坂      末広神社
栖鳳楼
御長坂
末広神社



末広神社の境内に「鎮西八郎射ぬきの石」の説明板がある。 

説明板「鎮西八郎射ぬきの石」  
「 豊後国志巻之七 角埋山 の項に、  「久寿年間(1154〜56)に源為朝が城を角埋山に築き、これに拠る」 とある。  為朝は十三才の時、父に追われ九州に勢力を張り、朝廷の召喚にも応じなかった。  為朝は強弓の名手として名高く、向いの岩扇山から射た矢がこの石を貫いたといわれている。 」  

久留島氏は城持ち大名でなかったので、壊された角牟礼城は、ここから徒歩で一時間の 山頂にある。 

「 角牟礼城は、大分県玖珠郡玖珠町の角埋山に、 弘安年間(1278〜1288) 、森朝通により築かれたとされる山城である。 
メサの崩壊が始まったビュートという地形で、崩壊が進んでいる南側以外は、 三方を切り立った崖が囲む天然の要害で、 豊後国から豊前国に抜ける交通の要衝にあった。 
森氏は、この天然の要害を利用して縄張を行い、 傾斜のゆるい南側から南西側に畝状の竪掘を張り巡らし、 山頂の主郭から南に向って曲輪を築いた。  城内の崖の裂け目から水が湧き出ているところがあり、籠城に適していたことがうかがえる。 
文禄三年(1594)から慶長五年(1600)にかけ、 日田から転封になった毛利高政により、石垣が築かれ、 近世風の城郭に整備された。 」 

先程の御長坂を途中から右に入り、牛の首峠で、石仏のある石段を上り、 つづれ道を上っていくと、三の丸に至る。 
小生は時間と体力の両面から、無理と判断し、三の丸まで車で行くことを選択した。  

「 資料館でいただいたパンプレットに従い、城下町の入口まで戻り、 すみ本商店の前を通り、その先に右折する。 
この道は中津、日田に至る道で、 峠に 「角牟礼城入口」 の表示があるので、進んでいくと三の丸の駐車場に到着した。 」 

三の丸は岩盤を取り込んだ石垣で、城郭を囲んでいる城最大の曲輪である。 
確認しなかったが、南斜面と西斜面に、竪堀が多く設置されていたようである。 

鎮西八郎射ぬきの石           三の丸石垣
鎮西八郎射ぬきの石
三の丸石垣



三の丸駐車場は、三の丸曲輪跡である。 
「三の丸跡」の表示板の傍らに玖珠町文化財案内板が建っていた。 

「玖珠町文化財案内板」  
「 角牟礼城は標高五百七十七メートルで、古くから石垣のある山城として知られている。  天然の要害と呼ばれるにふさわしく、三方を切り立った険しい岩盤に囲まれている。  角牟礼城の名が史料に初めて登場するのは文明七年(1475)の志賀親家文書である。  その後、天文二年(1532)や翌年三年には大友義鑑が森氏、 平井氏宛てた角牟礼城の城番をねぎらう「角牟礼勤番在城」や 城に新堀を築かせ、城域を拡充し強化を図る「角牟礼新堀之事」の書状が出てくるが、 角牟礼城は古く平安時代から豊前側からの侵入を防ぐ豊後の境目の城として、 玖珠郡衆によって守られてきた城である。  天正十四年〜十五年(1586〜87)の島津義弘による豊後侵攻の折には、 玖珠郡衆が籠城したが、 島津軍の攻撃にも落城することはなく、難攻不落の城として名を高めた。 文禄二年(1593)、文禄の役で失態をおかした大友義統が改易され、 翌三年(1594)に玖珠郡に毛利高政が入部、 慶長元年(1596)から毛利高政が日田郡、玖珠郡二万石を支配し、 その拠点として角牟礼城を整備した。 」 

上記の案内板で、石垣は毛利氏により、築かれたものであることが分かった。 
駐車場から本丸に向う道の石垣に、「穴太積み」 の表示があった。  

「 穴積み(あのうづみ)は、自然の石を巧みに組み合わせて石垣をつくる、 石垣職人 「穴太衆」 が造る石組である。  織田信長の安土城の技術を豊臣秀吉が引き継き、全国に広まったと考えられる。  玖珠地方に近世城郭が築かれたのは、文禄三年(1594)、 秀吉の配下、毛利高政が入部してからという説が有力である。 」  

坂を上っていくと、石垣が現れ、「二の丸跡」 の説明板があった。  

説明板「二の丸跡」
「 二の丸は南側と西側に外枡形の虎口があり、同規模の櫓門と思える礎石が見つかった。  特に、南側虎口は全長百メートルの石垣があり、穴太積みと呼ばれる初期野面積みがよく残っている。 」  

三の丸曲輪跡(三の丸駐車場)
     穴太積み石垣      二の丸南側石垣
三の丸曲輪跡 (三の丸駐車場)
穴太積み石垣
二の丸南側石垣


右側の石垣に沿って上に登ると、 右側に 「角埋神社 山頂」 の道標が載っている岩がある。 
岩を越えると、右側には空地が少しあり、「大手門跡」 の標柱があった。 

「 大手門は、間口九・四メートル、奥行四・四メートルの変則的な外枡形虎口で、 南側は、先程の高さ七メートル、長さ百メートルの二の丸南側石垣と連なっていた。  その先には横に延びる石垣があるが、これは二の丸西曲輪である。 」 

道標が載っている岩
     大手門跡      二の丸西曲輪跡
道標が載っている岩
大手門跡
二の丸西曲輪跡


石垣の上に行くと、「二の丸西曲輪」 の説明板があった。

説明板「二の丸西曲輪」
「 西門跡の南側にある曲輪。  南側に礎石建物跡が見つかり、西側縁辺部に土塁が確認できる。  曲輪周囲に石垣があるが、崩落が進んでいる。  南側虎口の石よりも小さな石が使われている。 」  

曲輪の奥の最南部に、三間X五間の礎石建造物跡があり、 その近くに 「礎石建物跡」 の説明板があった。  

説明板「礎石建物跡」
「 二の丸西曲輪の眺めのよい南端部に建てられている。  当時は、玖珠盆地が望めたと思われる。  瓦が見つかっていないことから、板葺き等の屋根材が考えられる。 」 

二の丸西曲輪跡の北側に、かっては、 間口九・四メートル、奥行四・四メートルの西門があり、外枡形虎口を形成していた。

説明板「西門跡」
「 大手門跡と同規模の櫓門と考えられる。  礎石とかんぬき金具が見付かる。 周囲から瓦片が見つかる。  門から外に向う通路の一部には、石垣の石材と思われる石が散乱している。 
礎石の配置が左右対称だったため、両側に間口九尺分の部屋部分を取り、 中央が通路となる門であることが分かった。 
瓦が出土していることから、瓦葺きだったと考える。 」

二の丸西曲輪跡
     礎石建物跡      西門跡
二の丸西曲輪跡
礎石建物跡
西門跡


二の丸西曲輪の東に、「本丸跡」 への道標があり、 その上に迷わないように、布の切れ端が枝に結び付けられている。 
それを目印に崩れた土面を上ると、「虎口(出入口)」 の標木が立っていた。

「 本丸は、東西四十三メートル、南北五十三メートルの曲輪で、 土塁で築かれていたようである。 
南側の土塁の端の幅約四メートルの石段が、本丸への虎口だったというが、 見た限り、石段はここにはなかった。 」

本丸跡は空地になっていて、 中央部に 「本丸跡(標高576m)」 の標板と、「角埋山(576米)」 の標柱があり、 その裏には 「本丸跡(伝)」 の木札が置かれていた。

「 角牟礼城は、角埋山の頂上から、本丸・二ノ丸・三ノ丸の順に配置され、 平安時代から戦国時代に、穴太積み と呼ばれる、野面積みの石垣が築かれる、近世の山城に変わった。 
江戸時代に、城持ちの資格を持たない久留島氏の入部したため、角牟礼城は廃城になった。 」

北側石垣の隅に、「隅櫓跡」 の標木がある。

「 隅櫓は、標高五百七十七メートル、比高差二百四十メートルのこの場所で、 日田方面から来る敵を監視するために築かれた。 」

パンフレットには、「 本丸には隅櫓を除くと礎石建物はなく、 柱穴などは中世の掘立柱建物のものと考えられる。 」 とあった。 
隅櫓跡の標木の右手には、「土塁」 の標木があったが、 土塁と確認できる程ではなく、時の過ぎて行く過程を見るような気がした。
本丸跡に立つと、その時代で時間が停まっている感がした。 
そのような感想を持ち、角牟礼城の探勝を終えた。

本丸虎口(出入口)跡
     本丸跡      隅櫓跡
本丸虎口(出入口)跡
本丸跡
隅櫓跡


角牟礼城へはJR久大本線豊後森駅から徒歩約1時間30分で三の丸駐車場、そこから本丸まで約15分  

訪問日    令和元年(2019)五月二十三日



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