富山城は戦国時代の創建で、神保長職や佐々成政の居城になり、
加賀藩二代藩主・前田利長の隠居城になった。
寛永十六年(1639)、加賀藩第三代藩主・前田利常は、 次男利次に、十万石を与えて分家させ、
富山藩を誕生させた。
富山藩初代藩主・前田利次は、加賀藩から富山城を譲り受けて居城とし、
万治四年(1661)、幕府の許しを得て、富山城を本格的に修復し、また城下町を整えた。
平成二十九年四月、続日本100名城の第134番に選定された。
下記の富山城新旧図を見ると分かるが、 現在富山県庁や市役所があるあたりに当時は神通川が流れていた。
「 神通川の南岸に築かれたのが富山城で、
神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見えることから、
浮城の別名を持つ。
縄張りは、ほぼ方形の本丸の南面に二の丸、東出丸と西之丸の出丸を置き、
本丸をそれら三つの郭で囲み、
さらにそれを南の三の丸で凹状に囲む形のものだった。
本丸搦手を守る東出丸は、ほかの郭のように三の丸に内包されておらず、独立していて、
また、神通川の土手沿いに直接城外に通じているなど、
反撃の基点となる大型の馬出しの性格を持つ郭であった反面、
防御面では弱点であることから、更に、その東側に、三の丸東北端に接する形で、小郭が設けられていて、
この郭には幕末の嘉永八年(1849)には千歳御殿が建てられた。 」
JR富山駅で、路面電車に乗り、大手町駅で降りる。
大手町交叉点や国際会館の周囲が二の丸跡で、その南部が三の丸である。
大手町駅から、 堀と城石と、その奥に天守閣が見えてくる。
「 富山藩初代藩主・前田利次は、万治四年(1661)の修築計画で、
天守台を石垣で築いた天守、櫓三基、櫓門三門を備えることで幕府の許可を得た。
本丸南東隅に、天守の土台になる、土居の跡があり、工事は進められたが、富山藩の財政逼迫により、
天守建設は断念したようである。
天守のなかった富山城跡に、鉄筋コンクリート構造による、模擬天守があるのは、
当時全国的な城建設ブームが湧きおこっていて、
昭和二十九年(1954)に開催された、富山産業大博覧会の記念として、建築されたのである。 」
大手町交叉点から、北が城址公園で、 天守の横には野面積みの石垣がある。
説明板「富山城の石垣」
「 平成十八年からの富山城石垣改修工事に合わせて、石垣の調査が行われた。
その際、富山市民プラザ脇で三の丸大手門の石垣が見つかり、
古絵図上に示されていた富山城の正門である大手門の位置や、遺構の存在が初めて確認され、
本丸石垣の特徴との類似から、富山藩初期の築造と推定されたという。
野面積みは、自然石を石垣とした積み方で、
富山城は河川の玉石の丸い面を残しているのが特徴である。
石と石との隙間は小石や割石などで詰められていて、
排水や積石の安定をはかっている。 」
鉄門(くろがねもん) の 内枡形では、方形に加工した石材を、水平に積む、布積みの部分が見られ、 巨石の雄大さを演出している。
「
石垣の内部は、外側から 積石・栗石・土塁 の三重構造となっている。
鉄門内桝形の鏡石は、 慶長期の整備の際に据えられ、 寛文期の改修の際、
現状のような配置したと考えられる。 」
富山城の 「石垣」 の説明板もあった。
「 富山城の石垣は、富山城を隠居城とした加賀藩二代藩主・
前田利長が、慶長十年(1615)以降、整備した石垣が始まりとされる。
その後、江戸時代前期の寛文元年(1661)、富山藩初代藩主・前田利次が改修し、
現在に見られる石垣となった。
富山城は、土塁主体の城郭であり、石垣は、城内中枢部を守る鉄門・搦手門・
二階櫓門の三ヶ所だけに、築かれた。
現存する石垣は、県内の早見川や、常願寺川産の玉石などを割って、使用(布積み)したり、
そのままの形で、野面積みの技法で積まれている。 」
富山城は、主要な門の周囲のみが石垣で、他の大部分は土塁の城だったのだが、
訪れたら、堀を囲む全てが石垣になっている。
鉄門石垣の通路面以外は、 明治初め頃、大きく積み直されたことによる。
また、城の周囲を巡る水堀は、本丸と西の丸の南側部分を除き、
昭和三十七年(1962)までに、順次埋め立てられた。
その際に、現在のような姿になり、また、模擬天守東側に、石垣が新造されたことで、
往時の姿とはかなり異なったものになっている。
枡形をくぐると、広い芝生広場に出る。
「 江戸時代後期の富山城の敷地は、東西 約六百八十メートル、
南北 約六百十メートルだった。
安政五年(1858)の飛越地震により、 本丸や二の丸・三の丸が破損したほか、
石垣が崩れるなど大きな被害を出した。
明治四年(1871)の廃藩置県により、富山城は廃城となり、
本丸御殿は県庁舎、 二の丸二階櫓御門は小学校に使用されたが、
その他の建物は解体された。
本丸御殿も、二の丸二階櫓御門も、その後、壊されたので、当時の建物は残っていない。
現在残っているのは 本丸と、西の丸(その間の水堀は埋め立てられ、繋がっている)部分の土地 と、
南面の水堀、 そして、二の丸の一部(東西約二百九十五メートル、南北約二百四十メートル)
のみで、面積で六分の一である。 」
「鉄門跡」 の枡形石垣の右側に建っているのは、 「富山城」 と、称する、富山市立郷土博物館である。
「 富山市郷土博物館では富山城の歴史の紹介、
四階の天守展望台からは、江戸時代の富山城の範囲を実感することができる。
また、前田利長が使用したといわれる、高さが百四十センチの兜を展示されている。 」
公園にその他にあるものは、前田正甫像と、その右側の和風庭園と、佐藤記念美術館である。
本丸右端には石垣が組まれ、千歳御殿の門が建っている。
「 富山城の縄張りは藩政期を通して大きな変化は見られなかったが、
嘉永二年(1849)、十代藩主・前田利保の隠居所として、千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建てられた。
その形状は、周囲に水濠を設けた独立郭だった。 」
千歳御殿の門は、明治時代に売却され、豪農の赤祖父家に移築されたが、 平成十九年(2007)に、現在地に移築、建設された。
以上で、富山城の見学は終了である。
帰京する前に、森記念秋水美術館(076-425-5700)に、立ち寄った。
「
開館一周年記念特別展として、 日本刀物語 という、重要美術品の刀を六十振り展示しているとして、
刀剣ギャルの娘が立ち寄りたいとの希望にかなえたものである。
展示は明日で終了というので、賑わっていた。 娘の名古屋の友人は四時間以上をかけて訪れ、
娘との偶然の再会に喜びあっていた。 」
(ご参考) 富山城の歴史
「 富山は、北陸街道と飛騨街道が交わる越中国の中央の要衝にある。
富山城は、天文十二年(1543)頃、神保長職により築かれたのが最初である。
その後、 越後の上杉謙信に備え、織田信長により、配置された佐々成政が大規模な改修を行った。
しかし、佐々成政は、天正十三年(1585)八月、豊臣秀吉の十万の兵に城を包囲され降伏し、
富山城は破却された。
徳川家康から、前田氏に越中一国が与えられると、加賀藩第二代藩主・前田利長は、
隠居城として大改修を行い、金沢城から移り住んだ。
慶長十四年(1609)に火災で建物の主要部が焼失したため、
前田利長は高岡城を築いて移り、 富山城には家臣の津田義忠が城代として入れた。
寛永十六年(1639)、加賀藩第三代藩主・前田利常は、 次男利次に十万石を与えて分家させ、
富山藩を誕生させた。
富山藩は、越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領域としたが、 加賀藩が良地を手渡さなかったので、
藩の財政は悪く、新田の開発や製薬や鉄鋼などの産業振興に務めた。
富山藩初代藩主・前田利次は、他地に、居城の計画を進めたが、 財政上の理由から断念し、
加賀藩から借りていた富山城を譲り受けて居城とした。
万治四年(1661)、幕府の許しを得て、富山城を本格的に修復し、また城下町を整えた。
嘉永二年(1849)、十代藩主・前田利保の隠居所として、千歳御殿が東出丸の外側(東側)に建てられた。
安政五年(1858)の飛越地震により、 本丸や二の丸・三の丸が破損したほか、
石垣が崩れるなど、大きな被害を出した。
明治四年(1871)の廃藩置県により、富山城は廃城となり、
本丸御殿は県庁舎、 二の丸二階櫓御門は小学校に使用されたが、
その他の建物は解体された。 」
富山城へはJR北陸新幹線・北陸本線富山駅から徒歩約10分
富山駅から富山鉄道市内軌道線で丸の内下車、すぐ
訪問日 平成二十九年(2017)九月二十三日