米子城は石垣や礎石などは城郭の形態をよくとどめていることや 米子城に関する文献・絵図資料なども数多く残っていることから、 平成十八年に、国史跡に指定された。
「 米子城は、文明年間(1467〜1487)に、
山名宗之により、飯山に砦が築かれたのが始まり、とされる。
天正十九年 (1591)、西伯耆の領主となった吉川広家(きっかわひろいえ)が、
米子港の南東にある湊山に、築城を開始したが、
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いに敗れたため、
城を完成を待たず、岩国に国替えになった。
代わりに来た、伯耆国十八万石の領主・中村一忠(なかむらかずただ)より、
慶長七年(1602)に、城が完成したとされる。
米子城は、標高九十米の湊山に、天守を置き、
東側は、山名宗之により砦として築かれた飯山、
北側には丸山、 さらに南西は中海という天然の要衝を備え、
その城山を内堀で囲み、その外に武家屋敷を配し、外堀を巡らせた、という
広範囲な平山城であった。 」
米子城は、JR米子駅から、北西に直線で、千五百メートル程の所にある。
二十分位歩いて、湊山公園へ行く。
「 湊山公園は、当時は中海で、埋め立てられた跡につくられたものである。
米子城と隣接していて、複数の駐車場がある。 」
その内の一つ・とりで山(出山)近くの駐車場付近から、米子城跡を目指し、
上っていく。
けっこう急勾配で、少し行くと、「←内膳丸跡 頂上→」 と、
「←内膳丸 二の丸、本丸→」 の標識がある。
標識を左折し、上っていくと、石段が見えてきて、その先に低い石垣があり、 その上に、長方形の空地があったが、これが、 内膳丸跡である。
「 城の北側、標高五十二米の丸山に、 本丸の守りを強化する目的で、
中村一忠の家老・横田内膳正村詮が、築いたことから、 内膳丸 と呼ばれ、
二段に配置された、一の段郭と二の段郭で構成され、
二の段郭には角櫓、蔵が置かれていた。
二重櫓が数棟と、武器庫が設置されたというが、
空地の一部に敷石が露出するのが、その痕跡だろう。
この郭から本丸へ向けて、石垣を設け、西の防衛線が築かれていたというが、
本丸へ向けた石垣は、崩落埋没し、入口で見た石垣のみが残っているのみである。 」
先程の 「←内膳丸 二の丸、本丸→」 の標識まで戻り、 先に進むと左側に、 「←二の丸本丸→」 の標識がある。
「 左側に下ったところに、湊山テニスコートがあるが、
この一帯が二の丸跡である。
二の丸入口は、東西二十五米余、南北二十二米余で桝形になっていた。
二の丸には、城主の御殿や台所、藩の役所が置かれていた。
小原家の表門長屋が移築されているようだが、降りて確認には行かなかった。 」
南方にある本丸に向って上っていくと、数段重なった石垣群である。
一番上の右側にあるのが天守で、左側が副天守である。
「 天守郭は、東側に二段、 北側に一段控え積み郭を持ち、 五重の天守閣台・四重櫓台を配し、 天守・四重櫓・鉄門櫓・多聞櫓・番所・冠木門が造られ、土塀が巡らしていたという。 」
石段に到着すると、左側に、「番所郭跡」の標柱が建っている。
「 天守郭の東下段にある番所郭には、番所と蔵が配置されていた。 」
左右に高石垣を見ながら上ると、「鉄門跡」 の標木がある。
「 御天守の入口を固める鉄張りの堅固な門が造られた。
間口十二・七十二米、奥行四・五米の二階建てである。 」
頂上はコの字形をした天守台である。
「 中村一忠が建てた天守閣は、独立式望楼型四重五階の天守で、
左側に吉川広家が建てた四重櫓の小天守が連なっていたという。
江戸時代に発布された一国一城令の下、例外として存続を許された支城のなかで、
天守をそなえた城は全国でも稀で、その偉容を誇っていたが、
明治維新で、城の全ての建物が壊され、
天守台の今は広い平地になっていて、一部に礎石があり、
城があったことを示していた。 」
天守台からは、西伯耆から出雲の平野部や、 日本海・中海・島根半島・中国山地が一望できた。
「 下に見える鳥取大学医学部付属病院や米子市営湊山球場の敷地は
三の丸跡である。
三の丸には、作事小屋・厩舎・資材小屋・米蔵・番人詰所などか建ち並び、
外周に内堀を廻らせ、大手門・搦手門・鈴の門で守られていた。 」
北側には、二つの石垣の先に、虎口があり、「御水手門跡」 の標木が建っていた。
「
水手郭には多聞櫓・続二重櫓・水手門があり、門外にも二つの外郭があったようである。
また、遠見郭は、天守郭の北下段にあり、遠見櫓、二重櫓を配していた。 」
しばらく、風景を眺めた後、城を後にした。
天守跡 |
米子城へはJR山陰本線米子駅から徒歩20分
訪問日 平成二十八年(2016)十月二十八日