◎ 勝瑞城跡 (見性寺)
JR勝瑞駅から歩いて十分程のところの交叉点の左前方、 道路脇に 「臨済宗妙心寺派 龍音山見性寺」 の石柱、 反対側の右側には、「西国守護 三好長治公御菩提寺」 の石柱がある。
「 見性寺は勝瑞城跡地に建つとされ、 勝瑞城跡地は、東西約八十メートル、南北約六十メートルの方形で、 水濠の幅は十四メートルである。 」
中に入ると、左側は墓地、その奥に寺院がある。
そのまま進むと広場で、
左折して進むと一番奥に 「国指定史跡 勝瑞城館跡」 の説明板の石板がある。
説明板「国指定史跡 勝瑞城館跡」
「 勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及びその後三好氏が本拠とした城で、
県内に残る中世城郭の中では、珍しい平城である。
十五世紀中頃に、細川氏が、守護所を土成町の秋月から、
勝瑞(しょうずい) に移したとされ、その後、
勝瑞城を中心として形成された守護町 勝瑞は、阿波の政治、文化の中心として栄えた。
勝瑞城は、京都の管領館屋形に対して、阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。
応仁の乱では、東軍の後方拠点となった。
天文二十二年(1553)、家臣の三好義賢 (後に実休と号する) が守護細川持隆を殺害し、
その実権を奪った。
この頃、三好長慶らは、度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
勝瑞城は、吉野川の本支流に囲まれ、水運に恵まれた土地に
畿内で活躍した細川、三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、
畿内に直結した文化都市としても全盛を誇った。
そのことは、発掘調査で出土した建物からもうかがえる。
また、城下には多くの寺院が建ち並び、市が賑わい、
かなりの城下町を形成されていた。
天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親は、十河存保が守る勝瑞城を大挙して押し寄せた。
八月二十八日、 存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に籠城したが、
九月二十一日、 讃岐に退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすことになった。
(以下略) 」
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勝瑞は、旧吉野川(四国三郎) の南岸の自然堤防上に位置し、
東側には今切川、 南側には湿地帯に接している。
現在は、吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、
当時は湿地帯が多く、 川幅も広く攻めにくい地形だったようである。
「 海岸線も、現在より内陸部にあり、水上交通も便利で、
紀伊水道を隔てて、京畿にも便利の地だったので、
勝瑞城は、平地の要塞というより、 守護の居館、 政庁としての性格の強い城で、
城の構えは広大だった。
勝瑞城の周囲は、 幅十四メートルの水濠が巡り、 土塁で囲まれていた。 」
土塁の説明プレートがあり、今も一部残るとあるが、 見た感じではどれが土塁か分らない。
説明板「 土塁」
「 土塁の現在は、この部分だけが確認できるが、
当時は、周囲に巡っていたことが発掘調査で確認できた。
土塁は、濠を掘った際の土を盛り上げて突き固めることで構築している。
平成九年に土塁から濠にかけて、発掘調査を実施。
当時土塁は最底部巾十二メートル、高さ二・五メートル、
濠は十四メートルの大規模なものだった。 その濠からは多くの瓦が出土した。 」
見性寺の城跡は、細川氏の守護所、三好氏の居館跡と思われていたが、
近年に行われた発掘調査により、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、
最後の砦として築かれた可能性が高いことが分かった。
広場の中央部に、「勝瑞義家碑」 と書かれた石碑が、屋根のある下にある。
石碑「勝瑞義家碑」は、
「 四国正学 」 と、いわれた徳島藩儒官・那波魯堂の撰、
戦国大名三好家の盛衰と戦没者の慰霊を記した歴史的な記録で、
すぐれた筆蹟は注目される。
「 勝瑞は、中世地方都市としては類例をみないほど城下町が繁栄し、 細川氏九代、三好氏三代の約二百四十年の根拠地として歴史の舞台となったが、 天正十三年(1585)の蜂須賀氏の阿波国入部により、 城下の寺院の多くは徳島城下に移転させられて、 町は衰退した。 」
見性寺は当時、城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地に移転。
境内には、三好氏の之長、元長、義賢、長治らの墓が並んで祀られていた。
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◎ 細川氏の守護所・三好氏の居館跡 (勝瑞城館跡)
「 当初、見性寺一帯が、 細川氏の守護所、 三好氏の居館跡(勝瑞城)としていたが、 地名の再検討、伝承の検討、明治時代初頭の地籍図などの調査結果から、 勝瑞城跡の南約百五十メートルの工場の場所に、 守護館や三好氏の居館があったと推定された。 」
見性寺を出ると、道の反対側のコンビニの先の道には、
「←勝瑞城館跡」 の標示がある。
、
進んでいくと、右側に工事現場のようなむき出しになった土地の一角に、
「史跡勝瑞城館跡」 の石柱が建っている。
「 平成九年から十二年に確認調査により、
幅約十二メートルの濠に囲まれた、 東西約百二十メートル、
南北約百五十メートルの方形区画が、 その成立・廃絶時期や規模・構造・
出土遺物の質・量から、
十六世紀後半に阿波支配の実権を握った三好義賢の居館跡ではないかという結論になり、
町教委と県教委は、 方形区画を勝瑞館跡とし、
勝瑞城跡とあわせて、勝瑞城館跡と呼ぶことにした。
平成十二年から十三年度の調査で、館跡の東側から、大規模な礎石建物跡がみつかり、
平成十三年、勝瑞城跡と勝瑞館跡は国史跡に指定された。
平成十六年、十七年度の現地調査により、
館内を分断して、西へのびる幅十一メートルの東西の濠、
発掘庭園としては、国内最大級の池泉庭園や枯山水庭園が発掘され、
永禄七年と記された卒塔婆なども出土した。 」
勝瑞城館は、大規模な濠に区画された、 複数の郭からなる、珍しい複郭式の館だったのだろうと推定されている。
訪問当日はどしゃぶりの雨で、 発掘現場は土が流れ出るような状態で、
歩いて見て回れなかった。
右手中央に、現地事務所と展示館があったので、その展示で満足することにした。
展示場には、発掘の経緯や出土された陶器などが展示されていた。
出土された陶器は全国各地からのもので、文化レベルが高かったことが分かった。
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勝瑞城へはJR高徳線勝瑞駅から徒歩約10分
訪問日 平成三十年(2018)三月八日