徳島城は、標高六十一メートルの城山と、北を吉野川から分流する助任川、
南を寺島川(現在のJR徳島駅と牟岐線の線路) に囲まれ、
東には 堀(堀川)を設けた、 自然の地形を巧く利用した縄張りの城だった。
徳島城の構造は、山上の本丸・東二の丸・西二の丸・
西三の丸・南麓の御殿(一部は現徳島城博物館)、
西麓には隠居藩主の住んだ西の丸からなる平山城である。
徳島城は、
豊臣秀吉から阿波一国十八万六千石を与えられた、蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が、
吉野川河口の標高六十二メートルの渭山に築いた平山城である。
蜂須賀家政は、天正十三年(1585)に、 徳島市西部の一宮城に入城したが、
すぐに徳島城の築城を開始し、豊臣秀吉より、伊予の小早川秀秋や土佐の長曾我部元親、
比叡山の僧侶に、協力の命令が下された。
一年半のスピードで完成させ、天正十四年(1586)には移転し、入城した。
以後、明治維新まで徳島藩蜂須賀氏二十五万石の居城となった。
JR徳島駅を降りると、徳島城跡は駅の反対側で、
その間に列車基地があるので、遠回りを強いられる。
鷲之門から入ろうと、駅から 左(東南) に線路に沿った道を進むと、
左側に城跡に入る陸橋がある。
その下部に、野口雨情の歌碑 がある。
「 むかしを忍んで徳島城の 松に松風絶へやせぬ 雨情 」
昭和十一年二月二十一日、この地を訪れた際に詠まれた歌である。
道をそのまま進むと交叉点に出るので、左折して少し進むと、
左側に門が見えてくる。
「鷲の門」の石碑が建っていて、これは徳島城の正門 ・ 鷲の門である。
「鷲の門」の石碑の文面
「 徳島城の巽(南東の方向) に位置する、表口見付の門で、
その造りは、脇戸付き薬医門であった。
幕府に鷲を飼うからと申し立てて建造したことから、門の名があると伝えられる。
明治八年(1875)の城解体後も唯一残った建物だったが、
昭和二十年(1945)の戦災で焼失。 その後、平成元年に再建された。 」
江戸時代には、鷲の門前の広場から、旧文化センターにかけて、三木郭が建っていた、。
「 三木郭は、五代藩主・蜂須賀光隆が、 三木という人物に命じて作らせたと言われるが、確かではない。 」
鷲の門をくぐると、「国史跡 徳島城跡」 の石碑があり、 右手正面に、逆L字状の堀が見える。
「
内掘の堀川は、麓の御屋敷と呼ばれた本丸御殿を守るため、 南・東・北に、
コの字状に囲んでいた。
内掘の右側は逆L字状に曲がっているが、その角には月見櫓が建っていた、という。 」
堀に架かるのは下乗橋で、下乗橋(小見付橋) の説明板がある。
説明板「下乗橋(小見付橋)」
「 城内の堀に架けられた木製の太鼓橋で、
殿様の住む御殿の正面出入口にあたる。
下乗橋の名前は、橋の前で駕籠などの乗物から降りて、
歩いて渡ったことから由来している。
明治二年(1869)、花崗岩製になり、
さらに明治四十一年(1905)に現在のように水平な橋に改造された。 」
江戸時代には、この橋を渡ると、高麗門が建ち、
黒御門(多聞櫓) で囲まれた枡形虎口により、 厳重に守られていた。
黒門は、鷲の門が出来るまでは、徳島城の大手門だったという。
「 門を支える石垣は打込みはぎで、立派なものだったことが、
残っている石垣から感じることができる。
多聞櫓から続く石垣の右端には、 月見櫓が建ち、
多聞櫓の左側には、太鼓櫓が江戸時代には建っていた。
太鼓櫓は三重櫓で、最上部に廻り縁と高欄がある天守風の外観をしていたという。 」
石段を上ると、時計台があり、その左の長方形が太鼓櫓跡である。
その先の広いところが、本丸御殿がおかれた御屋敷と、称されたところである。
「
御殿は、藩主の居間や藩主が、家臣たちと引見する広間(百二十一・五畳)や、
大書院(百十・五畳)のほか、
重臣たちの詰めた部屋のあった 表 と、
側室や子供とその身の回りの世話した女中たちが住む 奥 に分れていた。
それらの建物は、明治八年(1875)に解体され、現在は表御殿の庭園を残すのみで、
県立徳島城博物館は、裏御殿跡に建っている。 」
博物館の右手にある表御殿庭園に入る。
「 表御殿庭園は、
表御殿の書院と藩主が普段暮らす中奥に面して築かれたものである。
庭園作りを手がけたと伝えられる上田宗箇は、
織豊時代から江戸初期にかけての武将で、
利休七哲に数えられる茶人、作庭の名手など、
様々な顔を持つ当時第一級の文化人だった。
庭園は、水を使わず自然風景を表現する、枯山水庭と、
池や築山を備えた泉水庭が組み合わされたもので、
見方によって異なる趣を楽しめる工夫が凝らされている。
庭園には、阿波特産の青石(緑泥片岩) が数多く使用され、
中でも枯山水に悠然と横たわる、
初代藩主・蜂須賀至鎮が踏み割ったという伝説が残る巨大な石橋は、
圧倒的な存在感を誇っている。
また、庭園最奥部にある観音山を源流とする渓谷と、それが注き込む心字池は、
無数の青石を用いた石組によって、
鮮やかに彩られた力強い壮麗さをたたえるものである。
青石 という地方的な特色を見事に取り入れた本庭園は、
桃山様式を伝える数多くの庭園の中でも、
傑出したものといえるのではないか。 」
御殿部分の後方は城山である。
「 城山は吉野川がつくった徳島平野の沖積地に孤立する小さい分離丘陵で、斜面は急で傾度の平均は三十五・九度である。 」
どりゃぶりの雨の中、急な石段を上る。
石段の右側に、「東二の丸跡」 の石柱があり、
空地の中央に、 「天守跡」 の石柱が建っている。
「 創建当時の天守は、元和年間(1615〜162) に取り壊されたといわれる。
その後、城山の中腹のこの場所 (東二の丸) に、 天守の代用として、
御三階櫓が建てられた。
御三階櫓は、三重三階建て、櫓台はなく初重平面形は正方形である。
一階は七間四方、二階は五間 四方、三階は三間四方と、
一定の逓減率がある層塔型だが、
外観は望楼型という、復古型などと呼ばれる形式のものである。
外観意匠は、 全面下見板張で、 破風は三重目の入母屋破風のほか、
一重目に、向唐破風と大入母屋破風が付けられていた。
なぜ、二の丸に建てられたのかは定かではなく、
景観バランスを整えるためであるとか、
城の防備上の都合によるものなどが考えられるという。
この建物は、明治六年(1873) の廃城令により、明治八年(1875)に撤去されたので、
今はない。 」
野面積みの石垣は、 阿波特産の青みかかった石 (緑泥片岩) や、 赤みかかった石 (紅簾片岩) で積まれていた。
本丸への石段は後世に整備されたものといわれる。
その石段には、本丸に降った雨が滝のような流れ、靴の中にも入ってくるので、
これには参った。
やっとの思いで、本丸に到着した。 やれやれ!!
本丸は、水甕のようすであった。
「 本丸は、城山の頂上に置かれた曲輪で、山城部分では最も面積が広く、築城当時は天守が置かれた重要な曲輪だった。
中央に、御座敷や御城定番が詰めた御留守番所があり、
弓櫓、左右の馬具櫓、武具櫓、火縄櫓が築かれていた。
藩主は、山麓の御殿に住んだので、城山に登ることは稀だったが、
御座敷には、藩主専用の部屋があり、台所も設けられていた。
又、本丸東部に置かれた鐘は、城下町の火事の際、打ち鳴らされ、
町人たちの危急を救いました。
本丸の出入口には、東西の門が使われたが、
北口には、御座敷の建物で隠された 脱出口(埋め門) があり、
大名の非常時に対する備えがうかがえる。 」
本丸の西側から下っていくと、「西二の丸跡」 の石柱が建っていた。
西二の丸には、鉄砲櫓や 帳(とばり)櫓 が建てられていたという。
西側の石段を降りるところに、「帳櫓跡」 の石柱があり、
正方形の空地に、櫓が建っていたと思われる。
帳櫓は、約十メートルの石垣の上に建てられていた。
石段を降りると、「材木櫓跡」 の石柱がある。
ここは西三の丸に建つ櫓跡である。
その先の右側に、「西三の丸跡」 の石柱があり、
その奥は、水道配水池が設置されていて、
中には入れなかった。
なお、西三の丸には材木櫓の他、平櫓があったという。
その先、右に曲がる石垣の上には西三の丸門があったと思われる。
更に下ったところは本丸の西坂口で、現在はJRの線路が続いているところである。
西坂口は、山城(本丸)と、
その西にある御屋敷(西の丸屋敷・お花畑屋敷)とを分ける地点にあり、
その南には江戸時代には寺西川が流れ、城を守っていた。
西の丸屋敷のあたりは、徳島市民庭球場西の丸コートや内町小学校に変わり、
御花畠(おはなばたけ)屋敷には、武道館、市立体育館が、今は建っている。
西の丸や御花畑屋敷は市街化いて、城の面影は残っていないようすなので、 探訪はここで終わった。
徳島城へはJR徳島線・牟岐線徳島駅から徒歩約10分
旅をした日 平成三十年(2018)三月八日