名所訪問

「 下関 (壇ノ浦・巌流島) 」  


かうんたぁ。


下関は、古くから、関門海峡に面する港湾都市として栄えた。 
下関港付近は、古くは赤間関と呼ばれ、壇ノ浦は、源平の最後の戦いになったところである。 
下関港から行ける巌流島は、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘で、有名な島である。 


 

◎ 壇ノ浦

下関駅よりバスでみすそ川バス停で降りると丸尾公園がある。 
頭上には、高速道路の関門橋が架かっていて、下関と門司を結んでいる。 
壇ノ浦は、関門海峡の中で一番せまく、約七百メートルしかないため、 潮の流れが速いことで知られる。 
公園の一角に、「壇の浦古戦場跡」 の記念碑と、 「安徳帝御入水之処」 の石碑がある。 

記念碑「壇の浦古戦場跡」
「 西に東に一日四回その流れを変える関門海峡。  寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と源義経ひきいる源氏が、 この壇の浦を舞台に合戦をした。  当初は平家が優勢であったが、潮の流れが西向きに変わり始めると、 源氏が勢いを盛り返し、平家は敗退。  最後を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、 二位の局は、八才の安徳天皇を抱いて入水。  知盛も、後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。  この時を期に、日本の政治は公家から幕府の武家政治へ移行していった。 」 

「安徳帝御水之処」 石碑には、 二位の尼の辞世の句として
 「 今ぞ知る みもすそ川の 御(おん)ながれ 波の下にも みやこありとは 」
 と書かれている。 

源義経の八艘跳び の銅像と、平知盛入水 の銅像が向い合うように建っている。 
その先には長州砲があった。
現在ここに置かれている青銅砲はパリの軍事博物館にあるものを複製したものである。

「 関門海峡は、 幕末に長州藩兵と英、仏、蘭、米四ケ国連合艦隊との交戦が、 くり広げられた舞台である。 
文久三年(1863)五月〜六月にかけて長州藩は、 関門海峡を通る外国船を五回に渡り砲撃した。  翌年八月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四国連合艦隊十七隻が、 報復のため下関に来た。  海峡のもっとも狭い所に築かれた壇之浦砲台は、前田砲台と共に重要な役割を果たしたが、 長州軍は大敗し、すべての砲台が占領、破壊された。  外国の進んだ軍備にめざめた長州は、開国倒幕に転換し、明治維新実現への原動力になった。 
長州藩の主力となったカノン砲は、 天保十五年(1844)に、萩藩の鉄砲家郡司嘉平治の手によるものである。 
青銅製の大砲で、球状の弾丸を発射し、目標を打ち抜いて損害を与えるものだが、 連合軍の新しい大砲は距離、威力ともはるかに優れていた。  元和元年(1864)八月、長州軍の敗退により、 下関海岸の砲台に装備された青銅砲はすべて戦利品として外国に運び去られた。 」 

壇の浦古戦場跡
     義経像と知盛像      青銅砲
壇の浦古戦場跡
義経像と知盛像
青銅砲


バスに乗り、赤間神宮前バス停で下車すると、正面に竜宮城のような赤い楼門がある。 
これは赤間神宮の楼門で、「水天宮」 の幣額がある。 

由来書「赤間神宮」
「 壇の浦戦いで崩御した安徳天皇を赤間関紅石山麓の阿弥陀寺境内に奉葬した。  建久二年、 朝廷は長門国に勅し、御陵の上に御影堂を建立し、 建礼門院の御乳母の女 少将の局・命阿尼を奉侍し、朝廷の勅願寺とした。  明治維新の廃仏棄却により、阿弥陀寺は廃寺となったが、 御影堂を天皇社と称することになり 明治八年に官幣中社に指定し、 地名をとり、社号を赤間宮とし、社殿を造営した。 」   

赤い楼門は水天門という。

「  明治九年に昭憲皇太后が奉献された
 「 いまも猶 袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこの  みゆき思へば 」
 という御歌にちなみ、昭和三十三年に竜宮造に造営されたものである。 」

門の脇をくぐると階段の上に外拝殿などの建物が見える。 

「  これは、第二次世界大戦の空襲により焼失したものを昭和四十年に再建したものである。 
赤間神宮の御祭神は第八十一代安徳天皇で、 御祭祀は安徳天皇と一緒に沈んだという八咫鏡である。 」

境内には耳ない芳一堂があり、その先に平家一門の墓がある。 
隣にある安徳天皇阿弥陀寺陵は非公開である。 

赤い楼門
     外拝殿      平家一門の墓
赤い楼門
赤間神宮外拝殿
平家一門の墓


赤間神宮へはJR山陽本線下関駅からバスで10分、赤間神宮前下車、すぐ 


◎ 巌流島と下関

下関グランドホテルの裏から、巌流島行きの船が出ている。 

「 巌流島は下関市彦島から約四百メートルの関門海峡内にある小島で、 島全体が平らな地形で、標高は海抜十メートルに満たない。  慶長十七年(1612)に佐々木小次郎と宮本武蔵との決闘が行われたことで有名である。  決闘が行われた当時は豊前小倉藩領の船島だったが、小次郎が「巖流」を名乗ったことから巖流島と呼ばれるようになった。  かつてはすぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。  豊臣秀吉も名護屋から大坂への帰路の途中でここで乗船が座礁転覆し毛利水軍によって助けられたといわれている。  岩礁は大正年間、航行する船舶の増加と大型化の障害となるため爆破されたが、 この部分もあわせて三菱重工業によって埋め立てられ、現在の巌流島の一部となった。  第二次世界大戦の前には周辺が日本軍の要塞地帯となったが、 戦後、島に移住者があり一時は三十世帯に達していたが、今は無人島になっている。 」 

到着すると、 宮本武蔵が渡ってきたとされる浜に一艘の舟が置かれている。 
島には、「巌流島 決闘の地」 「佐々木小次郎と宮本武蔵との決闘」  の経緯が書かれた碑があるだけである。 
あっという間に見学は終わった。 

舟で唐戸市場のある船着き場に戻る。 
下関は戦前、韓国への渡航として賑わい、下関市唐戸には古い建物が数軒残っている。 
その中の一つ、旧下関英国領事館は、 領事館用途で建設された日本における現存最古の建築である。 

「  駐日英国大使アーネスト・サトウの本国への具申により、 明治三十四年(1901)、下関市赤間町26番地に英国領事館が開設された。  その五年後の明治三十九年(1906)、 英国工務局上海事務所技師長ウィリアム・コーワンの設計により、 唐戸町に新築されたのがこの建物で、 昭和十六年(1941)の日本の真珠湾攻撃による開戦まで英国領事館だった。  昭和二十九年(1954)に下関市の所有となり、下関警察署唐戸派出所、下関市考古館、 現在は記念館・市民ギャラリー等、公共の施設として利用されている。  平成十一年(1999)に国の重要文化財に指定された。 」 

巌流島
     「巌流島 決闘の地」      旧下関英国領事館
巌流島
「巌流島 決闘の地」案内板
旧下関英国領事館



上新地町に嚴島神社がある。
神社と高杉晋作とが縁があるというので訪れた。 

「嚴島神社記録帳」 によると、  「 治承寿永の乱(いわゆる源平合戦)の時、 平家の守護神として安芸国嚴島神社の御分霊を安徳天皇の御座船に祀っていたが、 壇ノ浦の戦いの後、磯辺に放棄されていたという。  その後、「 吾は嚴島姫の神也、早く祭るべし、かしこの磐之上にあり 」  との神託が里人にあり、、 ふしぎに思ってそこに行って見ると、磯辺に御鏡太刀様の物を見附けた。  文治元年(1185)に里人たちが社殿を建立し、 更に安芸国厳島神社より御分霊をあらためて勧請し、今日に至る。 」 とある。 

社殿は平成四年(1992)に放火により全焼したが、 平成十三年(2001) 以降に本殿、拝殿、瑞垣、翼舎が再建された。 
神社の境内に直径百十センチ、重量三百九十キログラムの大太鼓を納めた櫓がある。 
この太鼓は、かって小倉城内北側の櫓で、城下に時を告げていたものである。 

「  慶応元年(1865)四月、徳川幕府は第二次長州征伐令を発し、 翌慶応二年(1866)六月、大島口、芸州口、石州口、小倉口の四境で戦いの火ぶたが切られた。  俗にいう四境戦争であるが、この戦争の長州軍の勝利が倒幕の重要な契機となった。  中でも高杉晋作が指揮する小倉口の戦闘は最大の激戦となったが、 高杉晋作はこの戦い挑むに当たり、本神社において戦勝祈願を行ったといわれる。  長州軍は奇兵隊、報国隊の二隊を先鋒とし戦い、 遂に慶応二年(1866)八月一日、幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、 小倉藩は自ら城に火を放って敗走した。  攻め入った長州軍は余燼の中からこの太鼓を持ち帰り、 高杉晋作が嚴島神社に、戦勝御礼として奉納したものである。 」 

上新地町3−8に、「高杉東行終焉之地」 の碑が建っている。 

「 高杉晋作は四境戦争時すでに結核を患っていて、 慶応三年(1867) 四月十四日、新地の庄屋・林算九郎邸の離屋があったこの地で没した。  二十七才と八月という短い生涯だった。  遺骸は奇兵隊陣屋の近くの吉田清水山に埋葬された。 」

明治維新を自分の目で見られなかったのは残念だっただろう。 
また、彼が生きていたら、明治の政治府も変わっていたかもしれないと思った。 

嚴島神社
     大太鼓      高杉東行終焉之地
嚴島神社
戦勝御礼大太鼓
高杉晋作(東行)終焉之地


巌流島へはJR下関駅からサンデン交通バス「長府方面」行きのバスで8分、 唐戸バス停下車、唐戸桟橋から関門汽船で10分、巌流島下船。



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