江戸時代、京都から北九州に向かう街道としては西国街道があったが、
阪神の港から出航するの船便は大量に物資が運べることから物流に利用されたばかりでなく、
一般旅行者も(風待ちや潮待ちで欠航はあったものの)歩かないで移動できるので、
多くの利用があった。
そういう意味では、瀬戸内の道は海上にあったといえよう。
◎ 尾道
小生は、広島県尾道市の小学校に短い期間であったが、在籍した。
終戦後だったので、
食糧事情が悪かったが、朝夕の向島の連絡船の賑わい、浜の匂い、
そして、商店街の魚売りに活気を感じて、楽しい思い出が残っている。
久しぶりに訪れ、家族と一緒にしまなみ海道を旅した。
尾道に多くの神社仏閣があるのは、 港の繁栄で富を得た豪商達の寄進による造営である。
「
尾道は、平安時代の嘉応元年(1169)、備後大田荘(後、高野山領)公認の船津倉敷地、
荘園米の積み出し港となって以来、
対明貿易船や北前船、内海航行船の寄港地として、大いに賑わい、
豪商を生んだ地である。
平安時代に入ると、荘園制の発達で、公租の運搬や荘園年貢の輸送が必要になり、
大量輸送が出来る海運が利用された。
平清盛は、久安二(1146)、安芸守に就任し、
瀬戸内海の制海権を手にいれ、宋貿易により莫大な利益をあげた。
清盛は瀬戸内航路を整備し、
音戸の瀬戸の開削や牛窓港と敷名の泊の整備などを行っている。
江戸時代に入ると、江戸に通じる五街道を中心に街道の整備が行われた。
東海道の延長となる山陽道が開設され、四十二の宿場が設けられた。
また、大名の参勤交代の制度も始まり、西国大名の利用があった。
しかし、一般の旅人や物資運搬は海運が主役であった。 」
尾道は物資の集散地で、尾道港には東西二つの荷揚げ地があった。
港には物資の上げ下しをする多くの沖仕達がいた。
「
彼等は石をさし上げて力比べを行った。
力比べに用いられたのが力石で、持ち上げた人名が刻まれている。
力石は市内二ヶ所、観光案内所と西国寺で見ることができる。 」
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◎ 生口島
しまなみ海道は尾道市から愛媛県の今治市までの島々を橋で結んでいる。
車で走った場合、橋の上には駐車できないため、景色を見ることもなく、
ひたすら走ることになる。 また、島へは一旦、下に降りていくことになり、
また、島から海を見る絶好ポイントが車だと見つけられず、思わってしまう、
ということになる。 景色を楽しむには、自転車がよいと思った。
尾道市の島は向島で、連絡船が多発しているので、島の実感を持たないまま、通過。
次は因島である。 ここには日立造船があり、小生の現役時代
海運に関わる仕事をしていて新船の進水式に招かれ、訪問している。
次は生口島、かっては瀬戸田町であったが、今は尾道市瀬戸田町である。
生口島北ICで島内に入り、島内北西部へ行くと、沢交差点の近くに耕三寺がある。
「 耕三寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、大坂の実業家・金本耕三が、母の菩提を弔うため、昭和十一年に伽藍の建設が始まり、 日本各地の古建造物を模して建てられた堂宇が建ち並び、西の日光と呼ばれる。 また、金本が集めた仏像・書画・茶道具などの文化財を多数所蔵し、 寺全体が登録博物館になっている。 建物の特殊性が評価され、15棟が登録有形文化材に指定されている。 」
山門は、京都御所紫宸殿を模したもので、御所の門が素木造に対して、
こちらは鉄鋼13トンを用いた極彩色の門である。 登録有形文化財。
五重塔は、鼓堂・鐘楼から階段を上って一段高いところに建つ。
室生寺五重塔を模したもので、心柱は鉄鋼製で、昭和三十年(1955)に完成した。
五重塔の右側にあるのは法宝蔵。 大坂の四天王寺金堂を模したもの。
近代美術展示館になっている。 登録有形文化財。
孝養門は五重塔から更に階段を上った敷地に建つ。
十年の歳月をかけて、昭和三十八年(1963)に完成。
日光の陽明門を模したものであるが、陽明門より色が鮮やか。
五重塔と孝養門は第二次世界大戦後の完成のため、登録有形文化財にはなっていない。
生口島は、ここで生まれて育った平山郁夫の美術館がある。
日本画家で、シルクロードを旅し、描いた壁画が奈良の薬師寺にある。
こちらの美術館には、彼の絵画の他、幼少期のスケッチ画や学生時代の写真等がある。
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◎ 大三島
耕三寺を見学して、次の島・大三島(おおみしま)に入る。
ここから愛媛県で、旧上浦町と旧大三島町で構成され、
現在は今治市大三島町である。
大三島ICで降りれて2分の所に、多々羅温泉 しまなみの湯 があった。
泉 質は含弱放射能(ラドン)塩化物冷鉱泉で、室内大浴場・サウナ。談話室(休憩所)・トレーニング室がある。
風呂に入り、休憩した。
(注) この施設は、2018年7月の西日本豪雨により、
源泉タンクや変電設備が土砂に埋まるなどの大きな被害に遭い、営業を断念し、
閉鎖となった。
「 旧上浦町は、芸予諸島のひとつ大三島の東部一帯を占め、愛 媛県の最北端に位置するところで、温州みかん、伊予柑等の柑橘栽培が盛んなところである。 平成17年1月16日今治市に併合された。 」
旧大三島町には大山祇神社がある。
多々羅温泉から西部中央部にある大山祇神社へ向かった。
「
大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)は、
古来から武神、海上守護神(三島水軍守護神)として崇敬され、
河野氏の庇護を受けて栄えた。
祭神は大山積大神一座で、天照大神の兄に当る。
またの名を吾田国主事勝国勝長狭命と称する。
わが国建国の神であると同時に、
和多志大神と称される地神の海神兼備の霊神である。
娘の吾田津姫(木花開邪姫命)は、
天照大神の孫の瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の妻だったと云われる。
伊予国一の宮に定められ、官幣大社に列せられた、四国唯一の大社である。
古来から、日本総鎮守・三島大明神、大三島宮と称し、
歴代朝廷の尊崇、国民一般の崇敬篤く、
奈良時代までに全国津々浦々に分社ができた程隆盛を極めた。 」
駐車場に車を置き、鳥居をくぐる。
「斎田」の説明板が建っていた。
説明板「斎田」
「 大山祇神社伝統の神事 御田植祭(旧暦5月5日)と抜穂祭(旧暦9月9日)は、
この神田に於いて行われます。 この時、愛媛県無形民俗文化材 一人相撲 が、
奉仕されます。 」
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その先に「御桟敷殿」の説明板が建っている。
説明板「御桟敷殿(おさじきでん)」
「 この建物は、御田植祭(旧暦5月5日) 抜穂祭(旧暦9月9日)の両度、
御神輿の渡御を申し上げ、神田斎場祭を奉仕する御殿です。
昭和五十五年十月復元竣工 」
大山祇神社は、日本最古の原始林林叢の楠群に覆われた境内に鎮座している。
大山祇神社の神域の中央にある能因法師の雨乞の楠は天然記念物に指定されている。
説明板「能因法師 雨乞の楠」
「 日本最古の楠(樹齢3000年で、後冷泉天皇の御代(900年前) 、
伊予国守護藤原範国は、能因法師を使者として、祈雨の為、参拝させた。
其の時、
「 天の川 苗代水にせきくだせ 天降りします 神ならば神 」
と詠じ、幣帛に書き付け、祈請したところ、
伊予国中に三日三夜、雨が降った(金葉和歌集)、と伝えられている。 」
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乎知命御手植の楠は、祭神の大山積神を当地に勧請された乎知が植えたと伝えられるもので、神武天皇東征前のこととといわれる。 天然記念物に指定されている。
説明板 「乎知命(おちのみこと)御手植の楠」
「 御島(大三島) に、祖神 大山祇大神を祭った乎知命の御手植楠(樹齢2600年)
と伝えられ、古来御神木として崇められている。 」
県の重要文化財になっている、室町時代に建てられた十七神社がある。
説明板 「十七神社」
「 長棟造りで、平安様式が残されており、
当大山祇神社は伊予国一の宮でありますので、ここに国中の神々を祀った建物です。 特に内陣には、木彫の御神像(いずれも重要文化財指定) が安置されています。 」
神門をくぐると、大山祇神社の拝殿があり、お参りを済ました。
「 拝殿は、切妻造りで、慶長七年(1602)の造営である。
本殿は三間社流造り、屋根は檜皮葺き、外部は丹塗の社殿で、
天授四年(1378) に再建されたとあるが、はっきりしたことはわからない。
本殿と拝殿は国の重要文化財に指定されている。 」
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境内に宝きょう印塔が三基あった。
説明板 「重要文化財 宝きょう印塔 鎌倉時代」
「 時宗の開祖・一遍上人は、河野通広の子として、
松山宝巌寺で生まれ、三島水軍河野通信の孫に当り、
一遍上人絵伝に知られる通り、大三島宮の参拝の折、奉納したものです。 」
大山祇神社宝物館を訪れる。
今回の神社参拝は、刀剣好きと娘のたってのお願いということで、
実現したものである。
「 宝物館には、国宝の源義経奉納の赤絲威鎧大袖付や斉明天皇の禽獣葡萄鏡、 河野通信の紺絲威鎧兜大袖付など、多くの刀剣・甲冑が展示されている。
大山積大神は、武神として、古来より信仰を集め、 河野氏を始め、源氏やその他の武将に篤く信奉され、 多くの甲冑が奉納されてきた。
「
全国で国宝、重要文化財の指定を受けた武具類の八割が、
この大三島に保存されているとあるから、驚き。
刀剣好きの娘はこれが見たくて旅行に参加したので丹念に見て回っていたが、
小生には刀の種類や価値が分からないので、奉納した人物の名前を目で追っていた。
護良親王、木曽義仲、平重盛、鎮西八郎為朝、武蔵坊弁慶、和田小太郎義盛、
河野道時、河野道有、・・・・・・ 」
日本最古の大鎧は、藤原純友の乱を鎮めた越智押領使好方の奉納である。
このように多くの刀剣があるのは武将や兵士が、
出陣に際しての戦勝祈願や勝利の謝恩に、この神社に詣でて、
武具を寄進したからと、娘から教わった。
河野通信は三島神紋流旗を奉納しているが、これも重要文化財である。
娘も満足したようなので、出発。
大三島ICで自動車道に乗ると、すぐ、伯方島で、4q程で、
伯方島と大島を結ぶ伯方大橋を走る。
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◎ 大 島
渡り切ると、愛媛県で一番大きな島の大島である。
大島北ICで降り、村上海賊ミュージアムへ行った。
村上海賊ミュージアムは、2004年に開館した、村上水軍の一族。 能島村上氏の資料や関連した書物を所蔵し、 水軍の戦い方などを分かりやすく説明している。 」
村上景親像があった。
「 村上景親は、能島村上氏の当主・村上武吉の次男で、 小早川氏の元で6千石を与えられ、萩に移った毛利氏の元では、 屋代島千五百石を与えられ、父武吉と共に移住し、 毛利家御船手組の組頭になった。 」
館内展示に、能島村上氏が着用していた、赤い陣羽織があった。
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来島村上氏は河野氏と、因島村上氏は毛利氏と 組んだのに対し、村上景親の父・村上武吉は、大名の誰とも組まず、 独立を維持に、海の大名と呼ばれた。
「 能島村上氏の根拠とした能島は、大島の東に位置する小さな島である。 大島と能島との間は狭く、岩が海面に沈んでいる場所で、
潮の流れが早く、ベテランの船員でも操船が難しかった。
能島村上氏は御金をもらい、操船をして、安全な所まで連れていく。
操船を断ると、小早船という小さな舟が多数で取り囲み、
船に乗り込んで、積み荷を略奪する。 」
館内から能島を見ると、海上は霧で覆われ、その中に小さく、
背の低い島がかろうじて見えた。
能島の当時の様子を再現した模型があったので、その形状は確認できた。
また、戦いの時使用した武器も展示されていた。
船団のかたちを表示していて、
大きな安宅船の廻りを小さな船(関船と小早船)が囲んで、
防御、また、戦いに向う様子が分かる。
いろいらなパターンがあったことがわかった。
展示に工夫があってよいと思った。
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(御参考) 村上水軍(海賊)の歴史
「 中世になると、瀬戸内海の船の往来が激しくなり、
積荷の略奪を狙った海賊が登場した。
史実に残る形で登場するのは、天平二年(730)というが、
それ以前からいたように思われる。
漁業や農耕で生活していた人の中から、付近を航行する船を襲い、
積み荷を強奪したり、金品をゆすったりする人が現れた。
やがて、徒党を組むようになり、御互いに同族意識を持ち、
瀬戸や早瀬に面した島を根拠地にして通行する船を襲った。
彼等は、潮の流れが速いところを本拠にしていたが、
来島海峡はその中でも最も潮の変化が激しかった。
海賊衆の村上氏が根拠地にしていたのは、しまなみ海道である芸予諸島であった。
これらの島は尾道(広島)と今治(愛媛)とを結ぶ線上に連なり、
瀬戸内を航行する船は、どこかの海峡で、彼等の目に触れることになる。
十四世紀の南北朝の争いの時、南朝方に味方した村上義弘が、戦国時代に入ると、
その強力な海の武力を背景に、瀬戸内の広い海域を支配し、
国内の軍事や政治を左右する存在になった。 俗に、三島村上氏と呼ばれる。
村上氏は、三家に分かれ、来島、能島、因島を本拠地としたが、
互いに強い同族意識をもっていた。
しかし、戦国時代になると、三家はそれぞれ違う動きをする。
来島海峡にある来島城を本拠にした来島村上氏は、守護大名の河野氏と結びつく。 因島村上氏は、大内氏、のちの毛利氏の有力な水軍となった。
宮窪に本拠を置く能島村上氏は独立性が高く、特に村上武吉は大に従わず、
独自の姿勢を貫き通した。
海賊は村上氏だけではない。 大内氏には宇賀島海賊がいるし、九州にもいた。
能島村上氏の一族・村上義有は上関に城を築したが、
ここはもともと大内氏の宇賀島海海賊の勢力範囲だった。
天文二十年(1551)、大内義長が、室町幕府に納める米二千石を船に積んで、
大内側の宇賀島海賊に護衛させて上関を通過した。
もちろん帆別銭も払わず、上関を攻撃して行った。
村上義有はすぐ能島にある村上本陣へ知らせた。
蒲刈瀬戸で待ちうけた能島村上軍は、船もろとも米を奪ってしまった。
瀬戸内海の覇権をめぐり宇賀島海賊と村上海賊が勢力争いを演じた。
弘治元年(1555)、毛利元就と陶晴賢の厳島合戦の時、村上武吉は宇賀島をはじめ、
周防海賊衆を壊滅させようと、毛利方水軍の総大将として、僅か二十三歳で出陣し、
大勝した。
この結果、能島村上氏は、西は九州東は塩飽諸島と瀬戸内西部を完全に押さえ、
海上交通を掌握し、地方の有力大名に肩を並べる、海の大名として勢力を張った。
この頃が村上水軍の絶頂期である。
豊臣秀吉が全国統一を果たすと、太閤検地と刀刈りを実施。
大名並の力を持つ村上海賊は邪魔の存在なので、海賊禁止令(1588年)が出された。
慶長五年(1600)、関ヶ原の戦で敗退した毛利輝元は、
周防と長門二ヶ国に減封されたので、
能島海賊の村上武吉も輝元に従って周防国に下り、
大島和田の地で三年後に没した。
その後の村上氏は、毛利藩の船奉行として明治を迎えている。 」
村上水軍博物館には当時活躍した、実物大の小早船が展示されていた。
「 水軍は、母艦に相当する安宅船(大型船)と、 関船(中型)と小早船(小型)から構成されていて、 小早船は敵船に攻め入る駆逐艦のような役割をもっていた。 」
「海賊たちの関ヶ原合戦」 という、ボードがあった。
「 慶長五年(1600)五月、全国の大名が西軍と東軍に分かれて、
関ヶ原で激突した時、もう一つの合戦が伊予を舞台にくり広げられました。
能島の村上武吉と長男・元吉は豊臣秀吉の四国統一後、自由な立場を失い、
毛利氏の家臣となっていました。 彼らは西軍方として、三津浜(現松山市)、
そして、松崎城(現在松前町)を守る東軍方の加藤嘉明の留守部隊と激しく戦いました。 」
江戸時代の海運
「
寛文十二年(1672)、河村瑞賢により、西廻り航路を開発された。
これは北海道や津軽から、
日本海側の佐渡小木、能登福浦、但馬柴山、石見温泉津を経由し、
瀬戸内海側の下関、大坂、更に太平洋に面した志摩畔乗(安乗)、
伊勢方座、紀伊大島等を寄港地としたもので、
尾道港も物流の基地と風待ち港として繁栄した。
さらに、江戸中期には大坂と蝦夷を結ぶ北前船が登場する。
それ以降、沿岸の港に立ち寄らず、瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路と、
瀬戸内だけを運行する地乗り航路に分かれ、役割分担を図っていった。 」
館内には、沖乗り航路の能島を経由するパネルがあった。
「
地乗り航路は、鞆から弓削島、岩城島、木ノ江、
御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、
津和地、上関で合流するルートをとるものである。
それに対し、沖乗り航路は瀬戸内海の中央部にある、能島を経由するもので、
上級の航海技術が求められた。 」
大島南ICから有料道路に乗ると、来島海峡大橋がある。
橋の下には武志島た小さな小志島・中渡島、少し大きい馬島がある。
運転していたので、その風景はみることが」できなかった。
有料道路のしまなみ海道は、四国本島の糸山公園(今治市)の南を通り、
今治北ICで、国道161号、今治ICで国道196号と合流して、終了となった。
今治には江戸時代、今治城があり、また、来島海賊が本拠地にした来島は、 多くの造船所がある波止浜港の北にある2直径200m程のだ円形の島である。
河野通信は、来島村上氏を配下にして、戸内を把握した。 。
「
源義経を勝利を導いたのは河野通信が潮の変化を進言したことによるとされ、
戦功の恩賞として所領を安堵され、
さらに伊予国守護職に準ずる伊予惣領職が与えられ、
河野水軍として瀬戸内を把握した。
河野氏の出目は、松山の北部の北条市(現在は松山市)。
その後、道後の地に湯築城を築き、伊予の国を統治した。
しかし、河野氏は、氏族間のごたごたなどで、戦国大名にはなれず、
秀吉の四国征伐で滅ぼされた。 」
最後に、来島海峡に架かる来島海峡大橋を眺めて、旅は終了した。
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訪問日 平成十七年(2005)三月十日