三井寺は通称で、正式名は長等山園城寺である。
三井寺は、七世紀、壬申の乱で敗れ自害した大友皇子の霊を祀るため、その子の大友与多王が創建したのが始まりである。
九世紀に、留学僧の円珍(智証大師)により再興され、現在、天台宗門宗の総本山になっている。
その後、延暦寺内の勢力争いにより、延暦寺から分かれたことから、
度々比叡山の宗徒によって焼き討ちされた。
文禄四年(1595) には、豊臣秀吉により、寺領の没収(欠所)を命じられ、
三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、堂宇も移築させられた。
慶長三年(1598)、秀吉は三井寺の再興を許したが、既に金堂は比叡山に移されており、
現在も延暦寺転法輪堂(釈迦堂)とし て、残っている。
現在の古い建物は、金堂や閼伽井屋などがあるが、慶長四年(1599)以降に建てられたものである。
三井寺の中央部に、金堂があり、本尊の弥勒菩薩が祀られている。
「 金堂は、慶長四年(1599)、秀吉の正室・北政所によって再建されたもので、
国宝に指定されている。
正面七間、側面七間の入母屋造、桧皮葺である。 」
その近くに、三井の晩鐘の鐘楼がある。
説明板 重要文化財 建造物「園城寺鐘楼」
「 三井の晩鐘として有名な梵鐘のかけられている鐘楼で、
桁行二間、梁間一間、切妻造、桧皮葺の建物です。
建造年代は、梵鐘の 「慶長七歳云々) とある刻銘文や、建築様式などから、
桃山時代と認められ、金堂再建に近い頃に建造されたものと考えられています。
破風の懸魚などに、その時代の特色がでています。
また、一般の鐘楼のように、四本柱、或いは袴腰付きのものではなくて、
やや異なった様式を持っています。
昭和四十二年六月に、国の指定重要文化財になっています。
昭和六十二年三月 大津市教育委員会 」
鐘楼に架かる鐘は、近江八景の三井の晩鐘として、親しまれてきた。
また、環境庁による 残したい日本の 音風景100選 にも選ばれている。
説明板 「近江八景 三井の晩鐘」
「 近江八景のひとつ、三井の晩鐘で有名なこの鐘は、
音の三井寺として、日本三銘鐘のひとつにも数えられ、また、
平成八年七月には環境庁により、 日本の音風景100選にも認定されている。
この鐘は、慶長七年(1602)、、古鐘・弁慶の引摺り鐘の跡継として、鋳造されたもので、
鐘楼(国の重要文化財)と共に、県の文化財に指定されている。
目方は六百貫(2250キログラム)、、除夜の鐘の百八煩悩に因んで、
鐘の上部には乳といわれる、百八箇の突起がある。 」
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弁慶の引き摺り鐘は、金堂裏の霊鐘堂の中にある。
説明板 「弁慶の引摺鐘」
「 奈良時代全木の鋳造で、むかし、俵藤太秀郷が百足退治のお礼に、龍神より貰い、
当寺に寄進されたと伝えられる有名な鐘である。
弁慶が引摺った疵跡が残っている。
弁慶の汁鍋
むかし、武蔵坊弁慶はじめ、多くの僧兵が汁を造って飲んだと、伝えられる汁鍋である。 」
このお堂には、この鐘の他、弁慶の汁鍋も所蔵していた。
弁慶の 引き摺り鐘は、奈良時代前期の古い無銘の鐘であるが、
俵藤太秀郷が、百足退治のお礼に竜神から貰い、当寺に寄進された、と 伝えられる。
また、比叡山と三井寺の争いの際、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、
鐘が「イノー (帰りたいよう)」 と鳴ったので、弁慶が谷底へ捨てた、という。
鐘の表面に見られる擦り傷やひびは 弁慶が引き摺り上げた時できた、と伝えられる。
むかし、武蔵坊弁慶をはじめ、多くの僧兵が、汁を作り、飲んだ と伝えられる汁鍋は、
極めて大きいものだった。
慶長五年(1600)に 建てられた
金堂の西側奥に建物に接して建つのは、閼伽井屋である。
説明板 重要文化財建造物 「園城寺閼伽井屋」
「 閼伽井(あかい)とは、仏前に供養する水を汲む井のことで、
閼伽井屋はその覆屋として建てられたものです。
建物は、桁行三間、梁間二間、向唐破風造、 桧皮葺の建物で、慶長五年(1600)に、
金堂に引き続いて再建されました。
金堂の西側軒下に接して建つ閼伽井屋は、向唐破風の形式や附属する彫刻、蟇股などが美しく、
桃山時代の特徴をもっています。
内部には、天智・ 天武・持統の三天皇の産水となり、三井寺の名の起こりとなった湧水が、
石組の間から湧き出ています。
明治三十九年(1906)四月に、国の重要文化財になりました。
平成六年(1994)三月三十一日 大津市教育委員会 」
内部を覗くと、岩がいくつかあり、下から水が湧き出しているのが分かる。
建物の壁をよく見ると、 彩色や壁画がわずかに残っていた。
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霊鐘堂の右側にある六角形の建物は、一切経を安置するためのお堂で、一切経蔵である。
説明板 重要文化財建造物 「園城寺一切経蔵」
「 一切経蔵は、仏教のすべての経典、つまり、一切経(大蔵経ともいう)を納める施設のことで、この経蔵には版木の一切経が収められています。
この経蔵は、桁行一間、梁間一間、一重。宝形造、桧皮葺の禅宗形式をもった建物ですが、
裳階をつけているため、柱間が三間、三間、屋根が二重に見えます。
内部には一切経を納めた八角形の輪蔵(回転書架)を据えています。
全体におだやかな感じをもち、禅宗様経蔵の古い例として、貴重なもので、
室町時代中期を降らぬ建物とされます。
なお、この経蔵は、もと山口県の国清寺にあったものを 、
毛利輝元によって、慶長七年(1602)に移されたものといわれています。
明治三十九年(1906)四月に、国の重要文化財になりました。
平成六年(1994)三月三十一日 大津市教育委員会 」
その先に、三重塔が建っている。
なお、一重目の須弥壇には、木造の釈迦三尊像が安置されている。
説明板 重要文化財建造物 「園城寺塔婆(三重塔)」
「 この三重塔は、もと、大和国(奈良県) の比曽寺(現在の世尊寺)にあった東塔を、
慶長六年(1601)に移したもので、大和地方における中世の塔の風格をもっており、
鎌倉時代和様の様式を伝える、持つ南北朝時代頃の建築とされています。
塔は三間三重の塔婆の形式で、本瓦敷きの屋根を持ち、各重の落ちも大きく、
初重に縁(えん)を付けています。
また、二重目、三重目に菱格子を用いているのは珍しものです。
明治三十九年(1906)四月に、国の重要文化財になっています。
昭和六十二年三月 大津市教育委員会 」
その先には潅頂堂がある。
潅頂堂の内部は、 前室と後室に分けられ、伝法潅頂を行う設備である。
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隣にあるのが、長日護摩堂である。
説明板 滋賀県指定文化財 「園城寺長日護摩堂」
「 この護摩堂は、桁行三間、梁間三間、一重宝形造、本瓦葺の小堂で、
潅頂堂と渡廊下によってつながっています。
全体として、簡素な建物で、正面は桟唐戸、両脇を連子窓、
両側面の正面よりを、舞良戸、他は背面を含めて、横羽目板壁としています。
建立年代については、明確な史料はありませんが、寺伝によると、
後水尾天皇(1611〜1629) の祈願により、建てられたものと、いわれています。
大師堂、潅頂堂より、少し遅れて建てられたものと考えられています。
昭和三十五年(1960)一月に、滋賀県の有形文化財になりました。
平成六年(1994)三月三十一日 大津市教育委員会 」
なお、護摩堂と潅頂堂を併せて、唐院と呼んでいるようだった。
この二つの建物の奥に大師堂がある。
四脚門を出ると、階段の下に、常夜燈がずーらと並んでいた。
説明板 重要文化財建造物 「園城寺唐院 四脚門」
「 唐院は、智証大師円珍が、入唐して天安二年(868)、に請來した経典・法具類を、
貞観十年(868)に納め、伝法道場としたことに、はじまります。
四脚門は、唐院の表門で、奥へ 潅頂堂、唐門、大師堂と、一直線に並ぶ、
最前列の位置にあります。
この門は、もともと、棟門形式として建立したが、建立後まもなく、
四脚門に変更されたものと、考えられています。
屋根は切妻造、檜皮葺で、数回葺きかえがおこなわれています。
昭和四十八年の修理工事によって、寛永元年(1624)に建立されたことがわかりました。
平成二年三月 大津市教育委員会 」
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参道に出て右折すると、右側には勧学院の美しい石垣が 続いている。
手前の中央部に 小さな橋「村雲橋」が架かっている。
説明板 「村雲橋」
「 開祖・智証大師がこの橋をお渡りになっている時、中国の青竜寺が焼けていることを
おきどりになった(感じた)。
閼伽井の水を以っておまきになると、橋の下から村雲が湧き起り、中国に向って飛び去ったが、
翌年、青竜寺からは鎮火の礼の使者が来たという。 」
村雲橋の脇の石垣の先に、勧学院客殿がある。
非公開なので門の外から覗き込むだけで終わった。
説明板 国宝 建造物 「園城寺勧学院客殿」
「 勧学院客殿は、桁行七間、梁間七間、一重入母屋造、妻入で、東正面に軒唐破風を付け、
また、桁行一間、梁間一間、一重切妻造の中門を設けた総柿葺の建物で、
光浄院客殿と外観はほとんど同じですが、規模はやや大きく、
内部は光浄院が二列からなるのに対して、三列の九室からなっています。
この客殿は、慶長五年(1600)に建てられたもので、主室の一の間には、
正面に大きな床をとり、その北隣の室に床と附書院を設けています。
内部の壁や襖は華やかな障壁画によって彩られています。
また、長押や扉に打たれた金具もよく、時代的な特徴をもつなど、桃山時代の書院造として、
貴重なものです。
昭和二十七年十一月に、国宝に指定されました。
昭和五十二年十月 大津市教育委員会 」
道が突き当ったところに、園城寺別所の一つ・微妙寺(びみょうじ)がある。
お堂に上がる階段前に、 「 重要文化財 十一面観世音菩薩 本日は特別に 御開扉します 」 という看板があった。
説明板 「園城寺別所 微妙寺」
「 微妙寺の開基は、慶祚大阿じゃりで、正暦五年(994)である。
本尊は、 十一面観世音菩薩(国の重要文化財)で、本堂は安永五年(1776)の再建である。
微妙寺は、園城寺(三井寺)五別所の一つ。
別所とは、平安期以降、広く衆生を救済するため、本境内の周辺に設けられた、
園城寺の別院で、当寺のほかに、水観寺・近松寺・尾蔵寺。常在寺があり、
総称して、園城寺五別所という。
当寺の本尊は、十一面観音(重文)で、除病・除難・減罪を祈願とする仏として、
特にその霊験あらたかなことで、有名である。
往時には、境内に参詣者の群れをなし、
そのため、かぶっている笠が破れ脱ける程であったと伝え、
俗に 「はずれ笠の観音」 「笠ぬげ観音」 として親しまれ、
また、道俗の帰依をあつめている。 」
江戸時代の 「東海道名所図会」 には、
「 (微妙寺は) 関山の北、尾蔵寺の西にあり。 三井五別所・・。
むかしは九十六房あり。 今わずかに五房存す。 本尊寿一面観音。 また薬師仏を安ず。
(尾蔵寺は) 近松寺の北にあり。 三井五別所・・。 いにしえは尾蔵寺に 八十坊あり。
今わずかに五房存す。 本尊十一面観音を安ず。 」
とあり、江戸時代、 微妙寺 などのあった南坊は、
現在の長等公園あたりにあったようである。
特別公開の十一面観音は、湖国十一面観音霊場第一番札所のご本尊となっている。
「 十一面観音は、平安時代(九世紀)の作で、ヒノキの 一木造。
像の高さは像高三尺にも満たない小さな像であるが、
全体はふっくらした肉付けが豊かな観音様である。
微妙寺の建物は安永五年(1776)の建設とあったが、尾蔵寺の本尊であった、
この観音がいつからこの寺に安置されているのかは書いてなかった。 」
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その近くに、 衆宝観音石像が祀られている。
説明板 「衆宝観音」
「 三十三観音の一つ。 衆宝とは、衆生が求めてやまない財宝のことで、
右手を岩に置き、左手を立て、膝の上に置く、特異な観音様です。
三個の蓮華のうち、未開の蓮華は未だこの世に姿を現さない我々の状態を、
半開の蓮華は現世に生きる私達を、全開の蓮華は完成された人格が表現されています。
この観音様を信仰すれば、財宝が貯まり、福徳を授けられ、出世が叶うといわれる、
有難い観音様です。 」
その先の右手に、赤い建物の毘沙門堂が建っている。
「
尾蔵寺の南勝坊境内に、元和二年(1616)に建立され、明治以降、三尾神社の下に、
移築されていたが、 戦後の修理の後、現在地に移転した。
正面一間、側面二間の宝形造、桧皮葺で、国の重要文化財に指定されている。 」
その隣に、十八明神が祀られている。
説明板 「十八明神社」
「 当山内の土地、伽藍を守護する神々祀る。
別名、「ねずみの宮」 という。
太平記によれば、当寺は戒壇道場の建立の勅許を得たが、比叡山の強訴により、取り消され、
これを怒った頼豪阿蘭梨が、二十一日間の護摩を焚き、壇上の煙と果てました。
この強念が八万四千匹のねずみとなり、比叡山へ押し寄せ、堂塔や経器を喰い荒らした、
と伝えられる。
現在の建物は、天保七年(1836)に再建されたものである。 」
その先の石段 を上っていくと、左手に二つの建物がある。
左側は「観月舞台」で、隣は、「百体堂」である。
観月舞台は、古より観月の名所として知られてきた三井寺に、嘉永三年(1849)に建設された。
説明板 謡曲「三井寺」と観月舞台
「 駿河の国清見が関の女が、京の清水観音に参籠し、行方知れずになった我が子・
千満丸との再会を祈るうちに、霊夢を得て、近江の三井寺に来た。
折しも、中秋名月の夜、鐘の音にひかれて、夢中で鐘楼にのぼり、鐘をつきながら、
鐘の功徳をうたい、月に浮かれてたわむれつつ、子を求めて、心乱れる母親を、
はからずも、寺僧に伴われて月見に来ていた我が子に見出され、共に郷里に帰ることが出来た、
という物語が、謡曲「三井寺」 である。
観音の加護による仏法の尊さを、湖水を渡る鐘の音に、
月を配して創られた詩情豊かな曲として名高い。
観音舞台は、月見の絶好の場所で、謡曲「三井寺」を謡いながら、
その脳裏に様々な場面を描くことであろう。
謡曲史跡保存会 」
百体堂は、百体の観音像を安置する宝形造の建物である。
「
正面 一間、側間一間の入母屋造、桧皮葺の建物で、眼下に大津の町並みが広がり、
琵琶湖の景観を望むことができる。
堂内の正面部分に、如意輪観音と西国礼所三十三観音を、 右側に坂東三十三ヶ所、
左には秩父三十四ヶ所の観音像を安置していて、
これをお参りすれば、三つの礼所を巡礼した御利益がある、といわれる。
宝暦三年(1753)の建築である」。
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道の反対に、 三十三ヶ所観音霊場の第十四番礼所として、篤く信仰されている、 観音堂がある。
「
観音堂は、南院伽藍の中心的建物で、後二条天皇の病気平癒を祈願して、
承久四年(1072)に創建された。
その後、移転や焼失があり、現在の建物は、元禄二年(1689)に再建されたものである。
観音堂は、本尊の如意輪観音坐像(国の重要文化財)を祀る。
本尊を祀る正堂と、外陣に相当する礼堂を合い間でつなぐ、本瓦葺の建物である。
礼堂は、桁行九間、梁間五間、入母屋造、向拝三間、本瓦葺、
合い間は、正面14.3m、奥行5.9m、正堂は、桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、桟瓦葺である。 」
お参りの後、さっき上った石段を下り、微妙寺から 来た道の合流点を直進し下ると、 左手に水観寺があった。
説明板 「園城寺別院 水観寺」
「
水観寺は、長久元年(1028)に、園城寺長史・明尊大僧正によって創建された、
水観寺は、
園城寺(三井寺)の五別所の一つで、
本尊薬師如来は、一切衆生を病苦・炎難から救済する仏として、多くの人々の尊崇をあつめている。
現在の本堂は、豊臣秀吉による、園城寺決けつ所の後、再建されたもので、
民衆との交流を目的とする五別所の本堂のうちで、最も古く、また、背面軒廻りなどに優れた、
近世的な手法をもつことから、園城寺別所の信仰の形態を知る上で、
貴重なものである。
なお、当本堂は、昭和六十三年からの保存修理の際に、現在の地に移されたものである。 」
(注) 水観寺は、長久元年(1040)の創建だが、
現在の本堂は、明暦元年(1655)の再建されたもので、昭和六十三年(1988)に現在地 に移築された。
この寺も南院から移転されたもので、西国薬師霊場第四十八番の札所である。
以上の他に、駐車場に、仁王門と釈迦堂がある。
「 仁王門は、三井寺(園城寺)の表門で、
屋根が茶色の檜皮葺の二階建ての楼門である。
もとは天台宗の常楽寺(滋賀県湖南市石部)にあったものである。
建てられたのは、室町時代の宝徳四年(1452)で、その後、
豊臣秀吉により、伏見城へ移築され、慶長六年(1600)に
徳川家康により寄進され、ここに移築された。
国の重要文化財に指定されている。 」
以上で、三井寺の参詣は終った。
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訪問日 令和二年(2020)一月十八日
所在地 滋賀県大津市園城寺町246
京阪石山坂本線三井寺駅より、徒歩約10分
JR琵琶湖線大津駅・JR湖西線大津京駅より、バスで5分、「三井寺」下車、徒歩すぐ