源義経は、鞍馬寺を脱出後、奥州に向うが、その途中、
滋賀県蒲生郡竜王町大字鏡で、元服したとされる。
とういうとこだろうか、と訪れた。
国道8号(旧中山道)の鏡口交叉点から西に、鏡集落がある。
中山道の旧道はこの交叉点で国道8号に合流するが、
合流点には愛宕山常夜燈・愛宕大神碑、と、「↑鏡神社 義経元服池 0.7km」
の案内標識が立っている。
鏡口交差点を横断すると右側の民家の塀に、「江戸時代 鏡の里(中山道)旅篭 吉田屋跡」と書かれた標板が建っている。
「 平安時代には鏡の里があった。
江戸時代、徳川幕府が制定した中山道の宿場にはなれなかったが、
守山宿と武佐宿の間が三里半と長かったので、 間(あい)の宿として 、
立場茶屋が置かれた。
鏡宿には旅籠などの建物は残っていないが、元旅籠などを表示した標板が立てられている。 」
次いで、右側に天台真盛宗の月鏡山真照寺がある。
「 真照寺には、額田王(ぬかたのおおきみ)の父・鏡王の墓がある。
鏡王は鏡神社の神官で、万葉集女流歌人額田王を育てた。
壬申の乱で天武天皇側につき戦死し、この寺に葬られた。 」
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その向かいの「鏡口」バス停の脇に、吉野家跡、その先右側の空地に、桝屋跡。
桝屋跡のすぐ先左側に大願寺があり、
寺の標柱の後ろに、「徳化学校跡」 の説明板が建っている。
説明板「徳化学校跡」
「 学校制度ができた 明治八年十一月二十二日、大願寺徳化学校が開かれ 、
鏡村・横関村の子供が教育を受けられるようになったのち、
明治十一年、鏡神社の東隣に専用の校舎を新築し移転した。
平成二十年十二月 鏡の里保存会 」
徳化学校跡の向かい側に、「鏡郵便局取扱所跡」の説明板が建っている。
説明板 「鏡郵便局取扱所跡」
「 明治七年(1874)に設立され、同十九年(1866) 鏡郵便局と改称され、
同四十三年(1910)に廃止されました。 」
少し進むと右側の広場奥に、「源義経宿泊の館跡」の石碑がある。
説明板 「義経宿泊の館」
「 沢弥伝と称し、駅長(うまやのおさ)を勤め、屋号を白木屋と呼んでいた。
承安四年(1174) 鞍馬寺を脱出した、牛若丸(源義経)は、この白木屋に投宿した。
義経元服の際使用した盥は代々秘蔵して居たが、
現在では鏡神社宮司林氏が保存している。
西隣は所謂本陣で 元祖を林惣右衛門則之と称し、新羅三郎義光の後裔である。
その前方国道を隔てて、脇本陣白井弥惣兵衛である。
鏡景勝会建立 」
(注) 林惣右衛門則之が勤めた本陣は、紀伊徳川家の定宿で、
皇女和宮も休息している。
本来、宿場以外の宿泊施設は御法度でしたが、
間の宿の鏡は、堂々と旅人を宿泊させたため、
守山宿や武佐宿から道中奉行へ異議の申立が行われていた。
先の右側に、「旅篭加賀屋跡」 の標板がある。
右側の公園に「徳化学校跡」標石がある。
「 前述の大願寺に開かれた徳化学校が 明治十一年(1878)ここに移転し、後に、鏡小学校 となりました。」
道は上り坂で、坂の頂上近くの右側に、「鏡神社」の石柱があり、石段を上ると、
鏡神社の参道が続いている。
「鏡神社」の石柱の、参道の左側には、屋根の下に、死ね縄が巻かれた、
大きな切り株がある。
これは、源義経が元服したとき帽子をかけた、といわれる烏帽子掛松である。
「 烏帽子掛松は、明治六年の台風で倒れたため、 株上二.七メートルを残し、その上に、仮屋根をつけて保存した。 」
謡曲に、源義経にまつわる、烏帽子折(えぼしおり) がある。
説明板 「烏帽子掛松」
「 承安四年(1174) 三月三日 、鏡の宿で元服した牛若丸は、
この松に烏帽子を掛け、鏡神社へ参拝し、「源九郎義経」 と名乗りをあげ、
源氏の再興と武運長久を祈願しました。
この松は、明治六年(1873) 十月三日の台風により折損したため、
幹の部分を残して保存されています。 」
石段を上ると朱塗りの鳥居がある。
扁額の上に、唐破風の屋根を持つ珍しい造りで、さらに笠木は瓦葺きになっている。
現在の本殿は、室町時代に再建された三間社流造りで、
屋根はこけら葺きの貴重な建築様式は国の重要文化財である。
「 鏡神社は、陶芸や金工を業とする、天日槍の従人の末裔が、
天日槍を祖神として祀ったことに始まり、その後、この地を支配した近江源氏
の佐々木氏一族の鏡氏が護持した、と伝えられる神社である。
神社の主祭神は天日槍で、相殿神は天津彦根命と天目一箇神である。 」
「鏡神社由緒」
「 当神社の創始年代は不詳であるが、主祭神の天日槍尊は。
日本書紀による新羅國の王子にして、
垂仁天皇三年の御世(BC31)に来朝し、多くの技術集団(陶物師・医師・
薬師・弓削師・鏡作師・鋳物師など) を供に近江の国へ入り、集落を成し、
吾国を育み、文化を広めた祖神を祀る古社である。
天日槍は持ち来る、神宝の日鏡をこの地に納めたことから、「鏡」 の地名が生まれ、
書記にも 「 近江鏡の谷の陶人は即天日槍の従人なり 」 と記されている。
鏡山の麓は渡来集団に関わる地名も多く、須恵器を焼いた古窯址群も広く現存する。
延喜の御世には大誉会に鏡餅を献上した火鑽の里であり、
鏡路は鏡山と共に万葉の歌枕として、百五十余首 詠まれ、
宮廷巫女の歌人・額田王や鏡王女に所縁の地である。
現社殿は室町時代に再建された三間社流れ造りにして、
屋根は「こけら葺き」の貴重な建築様式は国の重要文化財である。
承安四年(1174) 牛若丸こと、源氏の遮那王は、京都鞍馬から奥州への旅路、
この鏡の宿に泊り、境内宮山の岩清水を盥(たらい)に汲み、
自ら烏帽子をつけ元服した。
鏡神社へ参拝した十六歳の若者は、 「 吾こそは源九郎義経なり 」 と名乗りをあげ、
源氏の再興と武運長久を祈願した、武将元服の地である。
以後、岩清水は源義経元服池と称し、現在も清水を湛えている。
義経公を偲ぶ 「とがらい祭り」 は、十一月二の午夕刻に、男児を主役に斎行される。
大正六年、当地宮城一帯における特別大演習を大正天皇御統監のみぎり、
鏡神社宮山に行幸あそばされ、御親拝の栄に浴す。
以後、宮山を御幸山と称し、自然公園として管理される。
飛地境内の鏡山は山頂に近江の総社龍王宮を祀り、七月十日を例祭とする。 」
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国道に戻り、坂を上ると、坂の上の左手に、「道の駅・竜王かがみの里」 がある。
ここは、一服するにはよい場所である。
鏡山は別名、竜王山という、標高三百八十四メートルの山で、
古来から都の貴人に名をはせ、多くの歌が詠われている。
「東関紀行」の作者は、
「 鏡の宿に至りぬれば、昔なゝの翁のよりあひつゝ、老をいとひて詠みける歌の中に 、
「 鏡山 いざ立ちよりて みてゆかむ 年経ぬる身は 老いやしぬると 」と、いへるは、
この山の事にやとおぼえて、 宿もからまほしくおぼえけれども、
猶おくざまにとふべき所ありてうちすぎぬ。 」
と記し、 「 立ちよらで けふはすぎなむ 鏡山 しらぬ翁の かげは見ずとも 」 と詠んでいる。
(注) 東関紀行作者が挙げた歌は古今集にある句で、大伴黒主の作といわれる。
道の駅の向かいに、「平安時代 東山道 源義経 元服池」 の標板があり、
小さな池がある。
池の奥には、「九郎判官源義経元服之池」の石碑が建っている。
この池は、裏山の湧き水がしみ出してきているもので、
水道が普及するまでは地元の飲料水として使用された池で、旅人もここで立ち
止まり喉を潤していっただろう。
「 鞍馬寺を脱け出した牛若丸は、鏡宿の沢弥伝館に投宿しました。
すると、平氏の追手が稚児姿の牛若丸を捜していると聞き、ならばと、元服を決意しました。
そこで、鏡宿の烏帽子屋五郎大夫に、源氏の左折れの烏帽子を仕立てさせ、
鏡池の石清水を使って前髪を落とし、己の姿を池の水に映したといいます。
鏡神社は義経が元服に使用した源義経元服の盥(たらい)を所蔵しています。 」
説明板「義経元服の池」
「 父は尾張の露と消え 母は平家に捕へられ 兄は伊豆に流されて
おのれ一人は鞍馬山と歌へれし不遇の児 牛若丸は、
遮那王と称して、鞍馬山に仏道修業していたが
十一歳の時、母の訓戒により、祖先の系図に感じ、平家を滅ぼし父の遺志
を達せんと、堅い決意を抱いた。
それより後は昼は書を読み文を習ひ夜は僧正谷にて一心に武術に励み
時の来るのを待っていた。
京都の天満宮に日参して、源氏の再興を祈ったのも、この頃の事であった。
時に、奥州と京都を往還する金売商人吉次に語ひ、
承安四年三月三日の暁 (昭和四十一年より七百九十二年前) 、
住み慣れた鞍馬山に別れを告げ、機を見て兄頼朝に謁せんと、憂き旅の東下りの途につき、
吉次、下総の深栖陵助頼重等と共に、その夜、鏡の宿につき、
吉次の常宿・白木屋に投宿することになった。
牛若丸つらつら考へるに、道中安全を期するには元服し、東男に粧ふに若くはないと、
吉次、陵助と語り、元服に際して、
烏帽子親として五郎太夫三番の左折りにして、烏帽子を進めた。
其の夜、この池の清淨水を汲み取り、前髪を落飾し、源九郎義経と名乗った。
時に年十六歳 これが元服池の由来である。
かくて、烏帽子を戴き、源氏の武運長久を鏡神社に祈った。
当地こそ武人としての義経出生の地である。
鏡神社勝会建立 」
近くには西光寺跡があり、ここには国の重要文化財指定の宝きょう印塔や石灯籠 が残っている。
「 西光寺は、西暦818年 伝教大師(最澄)が、夢のお告げで
建立した寺である。
嵯峨天皇の勅願寺で、僧房三百といわれ、源頼朝も往還の時、たびたび宿泊している。
また、足利尊氏が後醍醐天皇に帰順を表明した場所でもある。
しかし、信長の兵火により廃寺になってしまった。 」
元服池の向いに、「旅篭桃花屋跡」の標板がある。
ここが、鏡宿の西外れである。
坂を下り始めるとすぐ左側に狭い道があるので、それに入る。
これが中山道の出町旧道の東口で、蒲生郡竜王町から野洲市になる。
ここには道祖神が祀られ、この道祖神は村口にあって、悪霊の侵入を見張っている。
左側の奥民家のある中に小公園があり、公爵近衛文麿書の明治天皇聖蹟碑が建っている。
明治十一年(1878)、明治天皇が北陸巡幸の帰途、ここで休息された。
左側に愛宕大神碑があり、更に進むと左側の祠内に道祖神が祀られている。
旧出町村の西口である。
旧道が国道8号に合流する所のGS跡を過ぎると、(株)キョウエイ手前に
「 平宗盛胴塚 → 」 の道標が建っている。
ここから左に細い草道を百メートル進むと、 「平宗盛卿終焉之地」 と刻まれた石碑があり、、二躰の石仏の後ろに、小さな塚がある。
これが宗盛塚である。
「 源義経は、平家最後の総大将・平宗盛(たいらのむねもり 平清盛の三男)を壇ノ浦で破り、宗盛と息子の清宗を捕虜として鎌倉に向かった。
兄の頼朝は勝手に朝廷から官位を受けた義経に、鎌倉の地を踏ませず、腰越で追い返した。
平宗盛父子は、頼朝の引見後、再び、京に護送される途中、
頼朝の命により、ここで斬首され、父子の首だけを京都に運び、
京の六条河原に晒された。
義経は、父子の情を想い、二人の胴を一緒に、この地に埋葬しました。
ゆえに、ここは平家終焉の地といわれます。
宗盛は享年三十九歳、清宗十七歳でした。 」
以上で、鏡の里の探索は終った。
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◎ 道の駅・竜王かがみの里 滋賀県蒲生郡竜王町鏡1231-2
名神竜王ICより、車で10分
JR近江八幡駅から、バスで20分、野洲駅からバスで20分。
R近江八幡駅から、近江鉄道バス八幡村田線で、13分、道の駅竜王かがみの里で下車。