草津市は京阪神のベットタウンとして人口が増え続けている他、工場も多く、滋賀県では一番変貌を遂げたところである。
江戸時代には草津宿があり、賑わったところである。
草津本陣は当時の姿で残っていて、江戸時代の雰囲気を味わうことができる。
中山道と東海道が合流する草津宿は、大変賑わったという。
草津宿の面影を辿って歩いてみたい。
出発駅をJR栗東駅にし、栗東駅西口から栗東駅西口交差点に出て、
南下する。
中の井川を百々川橋で渡り、花園交差点で琵琶湖に通じる
浜街道(県道31号)を横断する。
花園交差点 を過ぎると、左側にJRの高架が大きく弧を描くようにして近寄ってきた。
JR草津線である。 葉山川を渡ると、草津市に入った。
葉山川橋交差点の先は東海道本線と草津線の敷設により、中山道は分断されて
いるので、線路に沿って進む。
車道はやがて高架になるが、そちらには上がらず、左側を歩く。
左側の線路をくぐるトンネル(渋川隧道)を探して、入って行く。
二つ目のトンネルは極端に低い。
この隧道で、JR東海道本線及びJR草津線をくぐり抜ける。
線路の反対側に出るとすぐ右折する。
JR草津線に沿ったグレーチング敷きの細い側道を進む。
これが旧中山道で、以降、JR線に沿って進む。
線路沿いの細道を進むと、旧渋川村に入る。
往時はこの辺りに梅木和中散を商う出店があり、賑わったというが、
今はその痕跡はない。
県道2号を高架でくぐると、左側に伊砂砂(いささ)神社がある。
「 平安の昔に疫病平癒の為に大将軍を祭り、渋川大将軍社
と称し、渋川村の産土神であった。
明治の神仏分離後の明治二年(1869)に
祭神五神の内、石長比売命(いわながひめ)、寒川比古命(さむかわひこ)、
寒川比売命(さむかわひめ)の頭文字を取っていささ(伊砂砂)神社と改称された。 」
本殿は応仁二年(1468)の建立で、一間社流造檜皮葺きで、国の重要文化財 に指定されている。 当社には伝統芸能古式花踊りが伝わっている。
「 応仁三年(1469) 旱魃のため、村人が雨乞いの祈願を
行ったところ、御神助により雨が降り、幸い豊作にななった。
このため神前に
御礼の踊りを奉納して祝ったのが始まりという。 」
街道に沿う伊砂砂神社の平積石垣は、自然石の珍しい平積みで、
錬倉時代の作と伝えられる。
伊佐々川を伊佐々川橋で渡る。
この川は伊砂砂神社の参拝者が体を清め、
手を洗い、口をそそいだ御手洗川(みたらしがわ)であった。
信号交差点を越えると、右側に明応二年(1493)開基の真宗大谷派秀月山行圓寺がある。
並びの奥に、真宗興正派大放山光明寺がある。
「 貞永元年(1232) 天台宗の道場として創建されたが、
蓮如上人の教化により浄土真宗に改宗しました。
その先の左側の家屋内に
地蔵大菩薩を安置した祠が祀られている。 」
大路交差点を越すと正面にきたなかアーケードが現れる。
手前の交差点左側の中央分離帯に手作りの一里塚跡標識がある。
「
草津の一里塚跡で、大路井の一里塚とも呼ばれた。
塚木はエノキで、
江戸より百二十九里目の一里塚で、そして中山道最後の一里塚である。 」
北中町商店街には八百屋、酒屋、洋品店などの店があった。
きたなかアーケードを進み、途中を左折すると左側に、
浄土宗三光山覚善寺がある。
寺の前の道は、明治に造られた東海道の新道である。
門前には、明治十九年(1886)に建てられた 「 右東海道 」、「 左中山道 」 と、
刻まれた大きな石柱の道標がある。
「 新東海道は明治になり、草津川(砂川)の下にトンネルが 掘られ出来たもので、それ以降、東海道は新道に変わり、新追分もできたので ある。 」
更に進むと、左側に貞観五年(863)創建の女体権現・小汐井(おしおい)神社
(水天宮)がある。
中山道第一の宮として、旅人からも篤い信仰を受けました。
近隣の氏子からは安産の神として今も篤く信仰されている。
アーケード道に戻って進むと正面に草津川隧道が口を開けていますが、 くぐりません。
「
草津川は往時から天井川で、通行の人々は土手を上り、草津川を越えました。
緩い上り坂の右側に草津川の川越しの安全を見守ってきた地蔵尊が祀られている。 」
その先のY字路を左に進み、上り坂は土手道に出る。
ここに架かる橋は渡らず、土手道をUターンする。
土手道を進み途中から右の砂利道を下って河川敷の中央に進む。
「 天井川の草津川は平成十四年(2002)に廃川となりました。
河川敷は現在草津川跡地公園になっている。
江戸時代の草津川は通常、水量が少ない為、仮橋が架けられていた。
広重は草津追分として、この仮橋を画面の手前に描いている。
廃川になった草津川の中央にこの仮橋が復元されている。 」
仮橋を渡り、対岸の砂利の上り坂を進み、土手道に合流する。
途中に「草津川渡し」説明板があり、「通常水なしで、徒歩渡し。 水嵩により、
三〜三十二文の橋銭を払っていた。 当時は少し東側で渡っていた。」 と記
されている。
土手道をわずかに進み、右手の階段を下りる。
階段を下り切ると突当りが
草津追分で、左側が草津川隧道の西口である。
ここが中山道の終点である。
追分の突当りに、文化十三年(1816)の建立火袋付石造道標があり、
「右 東海道いせ
みち」 「左 中仙道美のぢ」と刻まれている。
また、手前の左側には延命地蔵尊
(追分地蔵尊)があり、並びに縮小版の高札場が復元されている。
草津川の堤防が決壊する恐れがある場合には、
高札場は立木神社に移動したという。
草津宿は江戸方の横町道標から始まり、草津追分を経て京方の立木神社の南、
二百メートルにある黒門までといわれた。
橋を渡ると土手の右側に地蔵堂、下に降りる道の左側に、常夜燈が建っている。
ここは草津宿の江戸方入口で、以前は道の北側にあったが、河川の改修時に
この位置に移されたようである。
左側にある常夜燈は、「横町道標」 と呼ばれ、道標を兼ねていた。
常夜燈には、 「 左 東海道いせ道 」 「 右 金勝寺志がらき道 」 という刻印があり、高さは火袋を含めて四メートルもある常夜燈である。
日野の豪商中井氏の寄進により、文化十三年(1816)に建てられたこの石造道標は草津宿に出入りする人を明るく照らし、旅人の道先案内に大きな役割を果たしていた。
土手を下って行くと、両脇に民家が建ち並んでごちゃごちゃしている。
一部に古い家と思われる漆喰壁の家もあり、
宿場の雰囲気はわずかながら残っている。
突き当ったT字路の右側に草津川をくぐるトンネルがある。
* ・説明板「草津川ずい道(トンネル)の由来
「 草津川トンネルは草津川が天井川であったことから、出水に悩み、
また、通行も不便をきたしていたことから、従来の堤防を登り、
川越のルートから、
草津川にずい道を掘って、人馬・通行の便を図ろうと計画。
時の大路村戸長・長谷庄五郎は、明治十七年(1884)八月二十四日付で、
草津川ずい道開削新築事業起工の儀願書を県令(知事) 中井弘あてに提出した。
これが容れられて、明治十八年十二月四日総工事費7368円14銭9厘を以って、着工された。
翌明治十九年三月二十日の突貫工事で完成した。
構造はアーチ式煉瓦両側石積みで、長さ43,6米、幅4、5米のずい道が造られた。
同年三月二十二日より、旅人通行の事、東は三月二十五日より、
場所荷車は四月五日より、
従来左方斜めに堤防をのぼって、川を渡り大路井村側で右方へ下った。
中仙道の川越は廃止され、車馬の通行はきわめて容易になった。
(以下省略) 」
突きあたりには高札場が復元されていて、三枚の高札が掲示されていた。
その手前の小高い所に、「 右東海道いせみち 」 「 左中仙道みのぢ 」
と刻まれた、石造の常夜燈が建っていて、石製の説明板があった。
ここは「草津追分」で、江戸時代の中山道は、ここで東海道に合流していたので、
ここから京三条大橋までは同じ道を歩くことになる。
説明板「市文化財 道標」昭和四十四年十月十五日指定
「 ここはかっての日本五街道の最幹線で、東海道と中仙道との分岐点である。
トンネルのできるまでは、この上の川を越せば中仙道へ、
右に曲れば東海道伊勢路に行けた。
しかし、この地は草津宿のほぼ中心地で、この付近は追分とも言われ、
高札場もあって、旅人にとっては大切な目安でもあった。
多くの旅人が道に迷わぬよう、また旅の安全を祈って、
文化十三年(1816) 江戸大阪をはじめ
、全国の問屋筋の人々の寄進によって建立されたもので、
高さは一丈四尺(四・四五メートル)で、火袋以上は銅製の立派な大燈籠であり、
火袋以上はたびたびの風害によって、
取り替えられたが、宿場の名残りの少ない中にあって、
常夜燈だけは今もかっての草津宿の名残りをとどめている。
草津市教育委員会 」
このあたりは草津二丁目で、道角の草津公民館は、 脇本陣大黒屋弥助 だったところである。
「 草津宿は東海道と中山道が合流する宿場だったので、 それだけに規模も大きく、十一町五十三間半(約1.3km)の長さに、 家数が五百八十六軒、宿内人口は二千三百五十一名、本陣が二軒、脇本陣二軒、 旅籠は七十二軒 (最盛期はもっと多くあった) もあり、大変な賑わいを見せていた。 」
追分からすぐのところに、本陣の一つ、 「田中七左衛門本陣」が、当時の姿をほぼとどめたまま公開されている。
説明板「国指定史跡 草津宿本陣」
「 草津宿本陣は、寛永十二年(1635)に定まった、江戸幕府による参勤交代の制度を背景にして、東海道・中山道を上下する諸大名・役人・公家・門跡等の休泊所として、草津に設置された施設で、明治三年(1870)宿駅制度の廃止までの二百数十年間、
その機能を果たしてきました。
史跡草津宿本陣は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、延四千七百二十六平方メートルにのぼる敷地内には、
かっての本陣の姿を彷彿とさせる数々の建築物が残され、関札、大福帳、調度品ほか、貴重な資料も数多く保管されているなど、
近世交通史上、極めて重要な文化遺産であります。
この本陣遺構はこれまで、享保三年(1718)に草津の宿場を襲った大火事により焼失し、急遽、膳所藩より瓦ヶ浜御殿と呼ばれる建物を移築し、
建て直されたものであると伝えられてきました。
しかしながら、現存する本陣の平面形態が、
本陣に残される複数の屋敷絵図に描かれている平面形態と合致したことなどから、
現存する本陣遺構はこの絵図類が描かれた、
弘化三年から文久三年頃(1846〜1863)の旧状を良く残す遺構であることが明らかになりました。
敷地内には、正面、向かって左手に、表門、式台、主客の宿泊に当てられた上段の間、
家臣用の座敷広間、御膳所、湯殿等を配し、通り土間を境にして、
右手側には本陣職にあたった、田中七左衛門家の居間と台所を設けています。
また、これらの主要建築物の背後には、別名「木屋本陣」と呼ばれるように、
兼務であった材木商の業務に使った物入れや土蔵、避難口として使った御除ヶ門などの建築物
が今なお残され、敷地周囲は高塀、藪、堀により区画されています。 」
草津宿本陣の敷地は千三百坪もある広大なもので、
建坪は四百六十八坪、部屋数は三十余もあり、現存する本陣の中では最大級である。
田中家が個人でこの古い由緒ある建物を守ってきたが、草津宿本陣として一般公開している。
立派な構えの門をくぐると、現存する本陣としては最大級といわれるだけあって、 内部は広く、上段の間や湯殿、各種の広間など、一通り見るだけでもかなりの時間を要する。
玄関広間には関札が並べられていた。
「関札」とは、大名、公卿、幕府役人が本陣などに泊まる際、持参した札で、
使用目的により、宿(自身賄い)、泊(賄い付き)、休(昼飯休)を関札で示した。
玄関の先に座敷広間、台子の間、そして殿様の上段の間があった。
その奥に庭園があり、お殿様用の湯殿は離れになっていた。
上段の間の反対に(向き合って)、向上段の間があり、 玄関に向かって、上段相の間、東の間、配膳所、台所土間と続いていた。
真ん中は畳敷きの通路であるが、
人数が多いときにはそこに泊まるとあったのはおもしろかった。
本陣職を務めた田中家の住宅部分は六畳以下が大部分とはいえ、
九部屋以上もあり驚いた。
裏には厩もあり、本陣はすごい施設と思った。
展示されている宿帳には、 「 慶応元年五月九日、土方歳三、斉藤一、伊藤甲子太郎、など三十二名が宿泊した 」 と記載されていた。
ここからの通りは商店街となり、当時の面影は感じられない。
江戸時代には、その先の左側に、
脇本陣の「藤屋与左衛門」と「仙台屋茂八」があった。
仙台屋茂八脇本陣は、白い建物の 「脇本陣」 という名の草津市観光物産館に
変身し、草津宿のお土産屋兼レストランになっていた。
中に入ると
いろいろなおみやげがある中で、小さな奇妙な形をした御菓子を見付けた。
姥が餅(うばがもち) という乳房をかたどった小さなあんころ餅で、
当宿の名物だったようである。
「 織田信長に滅ぼされた佐々木義賢の忘れ形見の幼子(曾孫)を乳母が、 あんころ餅を売って育てた、という故事のある菓子である。 」
中神病院は、三度飛脚取次所跡である。
そのさきの民家前には、柱に 「柏谷十右衛門脇本陣跡」 の看板があった。
看板の記載文書
「 脇本陣跡 柏谷十右衛門家
宝暦年間(1704〜1711)ころから本陣代わりに使用された旅籠屋 」
その先はアーケードのある本西商店街で、左側に街道交流館がある。
右側の常善寺は、承平七年(735)、良弁上人の開基の寺院である。
本尊の阿弥陀如来像は鎌倉期のもので、国の重要文化財に指定されている。
田中九蔵本陣は十軒位に分割されたといわれ、その先の食事処がその一軒のようである。
アーケードの終わりに「太田酒造」がある。
「 太田酒造は、
戦国時代の関東の英傑・太田道灌の末裔が、江戸時代から営む造り酒屋である。
草津宿の問屋場職を兼ね、草津政所と呼ばれていた旧家である。
「道灌」という酒樽が店の前に置かれていた。 」
道の反対側の道の前に、「問屋場 貫目改所」 の看板があった。
*看板の文字
「 問屋場 貫目改所
問屋場は草津宿の政務を司る役所、享和三年(1803)当時、
24人の宿役人が交替で詰め、
平時は8人の体制で勤務していた。
貫目改所は、全国で五ヶ所設置されたもので、
草津宿ではこの問屋場に併設されていた。
安政五年(1858)には、この向かいにも、問屋が記されている。 」
少し先の 「旅館 野村屋」 の看板を掲げた家は、 幕末から営業している元旅籠である。
草津3丁目交差点の先にある伯母川(志津川)には、
江戸時代、「宮川土橋」 が架かっていたという。
橋を渡った右側の 「立木神社」 は、旧草津宿と旧矢倉村の氏神だった。
神社に鎮座するのは狛犬が普通だが、
ここでは獅子の狛犬の他、神鹿が祀られていた。
「 立木神社の創建は、神景雲護景雲元年(767)と伝えられる古社である。
その名前は、常陸鹿島明神から、この地に一本の柿の木を植えたことに由来する。
延宝八年(1680)十一月の草津宿最古の追分道標がここに移築されている。 」
草津宿の京側の入口は立木神社の先に黒門があったとされるが、その跡は確認できなかった。
JR栗東駅から、中山道を辿って、旧草津宿を探訪する旅は、 ここで終了とした。
訪問日 平成十六年(2004)六月十三日