豊臣秀吉は、織田信長の築いた安土城を廃城にして、
甥の秀次の為に、標高二百八十三メートルの八幡山(正式名称 鶴翼山)に、
八幡山城を築いた。
山頂部が山城、麓に居館と家臣屋敷がある中世風の城郭である。
続日本100名城の第157番に選定されている。
八幡山城は、JR近江八幡駅より北西へ二.五キロ程にある八幡山に築かれた城で、麓に日牟禮八幡宮がある。
「日牟禮八幡宮神社の由来」
「 日牟禮八幡宮の創建は極めて古く、応神天皇の時代には祠が建てられ、
日群之社八幡宮と呼ばれていた。
正暦二年(991)には、一条天皇の勅願により、八幡山山上に社を建て、
宇佐八幡宮を勧請して八幡宮を祀った。
その後、寛弘二年(1005)に遥拝社を山麓に建立し、山上の社は上の社、
山麓の社を下の社と名付けた。
天正十八年(1590)、豊臣秀次が八幡山に城を築くことになり、
上の八幡宮を下の社に合祀した。
徳川家康は関ヶ原の戦い後、武運長久の祈願を込め参詣し、
御供領として五十石を与えた。
入母屋造の拝殿は鎌倉時代初期の文治三年(1188)に、
源頼朝が近江守護職の佐々木六角に命じて、
建立されたもので、元文、文化の改築、明治以降、数回の屋根のふき替えを経て、
現在に至る。
金網に入れられていた狛犬は、木彫りで、珍しいと思った。 」
日牟禮八幡宮の先に、八幡山山頂に登るロープウエイーがあるので、
それを利用すると五分で山頂駅に着いた。
下を眺めると、市街地と森が見えて、想像以上に急峻だったことが分かった。
「 豊臣秀吉は、天正十三年(1585)、四国平定の戦いの功で、甥の秀次に近江国四十三万石(本人分二十万石、宿老分二十三万石)を与え、
安土城に近い近江八幡に城を築くことを命じた。
秀吉の築城の狙いは、秀次の宿老に田中吉政を配し、水口岡山城に中村一氏、
長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、
近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにあった。
築城の指揮は秀吉がとり、八幡山の山頂の尾根に、三層の天守閣・本丸・二の丸・北の丸・西の丸・出丸を、Y字形に延びる放射状に配置し、
居住部分の館は、麓に配する、二つに分れた城造りで、中世の城の特徴を持っていた。 」
山頂駅を出ると、目の前に崩れかけた石垣が現れた。
これは当時の山城部分で、山頂の郭(曲輪)は総石垣造りで、
それぞれ高石垣で造られた。
山頂駅から直進する道は周回道で、歩いていくと 「出丸跡」、「西の丸跡」、「北の丸跡」と、表示板が立っている。
これにより、八幡山城は本丸を取り巻くように、帯曲輪が造られていたことが分かる。
周回道は、本丸を通らず各曲輪を往来できるバイパスの機能も兼ねていた。
「西の丸址」の表示板が建つところは広場になっている。
ここからの琵琶湖展望が、 ロープウエイー会社の売りの一つで、
多くの人が集まって眺めていた。
「北の丸址」 の表示板がある所は空地は少なく、樹木が生えていた。
北の丸跡の地表面には、建物礎石跡が露出しており、この曲輪には建物が建っていたと思われれる。
「北の丸跡」から南に下ると、「村雲御所」 の看板のある山門がある。
門前に、 「本丸跡」 の表示板が建っている。
「 豊臣秀次は十八歳で八幡山城に入城したが、天正十八年(1590)に尾張国清洲城に転封となり、
代わりに、京極高次が二万八千石で入城し、城郭の整備・拡張に努めた。
しかし、文禄四年(1595)、秀吉と甥の秀次の関係悪化により、
秀次の切腹と、縁故者の粛清が行われ、聚楽第と八幡山城は破壊が命じられた。
八幡山城は親族の京極高次が城主だったが、高次は大津城主に転じ、
八幡山城は築城から十年で廃城になった。 」
現在、本丸跡地に建つのは、村雲門跡 瑞龍寺 である。
「 文禄五年(1596)、豊臣秀次の生母(秀吉の姉)の日秀尼は、
秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から、瑞龍寺の寺号と、京都の村雲の地を賜り、 創建したのが村雲門跡瑞龍寺で、日蓮宗唯一の門跡寺院である。
昭和三十八年(1963)、瑞龍寺は、京都から八幡山城の本丸跡に移転した。 」
山門はその際、京都より移築されたものである。
設置されている場所が、八幡山城の本丸虎口あったところである。
「 本丸の虎口は、方形の空間を設け、右に折れる、
内枡形となっていた。
本丸虎口より九十度曲がり、そこから下ると本丸があり、
さらに九十度に曲がると二ノ丸と平虎口に到る。
本丸と二の丸が接する西北隅に、十五メートル四方の天守台があり天守がそびえていたと、推定されている。 」
「二の丸跡」 の表示板が設置されているところは、展望館である。
右に進むとロープウエイーの山頂駅に至る。
「 八幡山城は、廃城にした安土城の資材を使い、
山上の南部に、本丸などの城の防御施設が造られた。
しかし、聚楽第同様に破壊され、他の城の用材に使用された。 」
登城しての感想 :
秀吉により、城が破壊されたので、遺跡はあまり期待していなかったが、
曲輪の跡が空地で残っているし、石垣も台風で崩れたりしても補強しているようで、保存状況はよく、地元が大事にしているという印象を持った。
なお、曲輪の石垣の隅部分は算木積みで組まれていて、加工された石材が使われているが、隅部分の石垣以外は粗割石か自然石が積まれていた。
また、本丸の石垣は、比較的大きめの石材を使用していた。
ロープウエイーで降りて、市立図書館に行くと、その裏に八幡公園がある。
このあたりから奥にかけてが、八幡山城の居館跡である。
「 八幡山城は、安土城と違い、急峻な山のため、
山の斜面を充分活用できず、山頂の城郭部分と、山麓の居館部分に分け、
麓に居住する館を建てて対応した。
日常の生活は居館部分で行われたので、
城主と家来はここで生活していた。
居館は八幡山の南麓の谷地形の中央部分に、雛壇状に曲輪が配されていて、
最上部に秀次の居館があったといわれる。
発掘調査ではここから多数の桐紋の金箔瓦が出土しているという。 」
訪問時は、発掘調査が行われていて、その先は進入できないので、 公園の入口で引き返した。
近江八幡は、今の風景は変わっているが、 築城した時代には東西に琵琶湖の内海があり、 南の平野部に城下町を配した構造は安土城と類似している。
「 秀吉は、安土の町民を移転させ、町づくりを始め、
近隣の町村からも移住を促した。
城下町は、横に四つの通り、縦に十二の通りを碁盤の目のようにする配置で、
京都の街筋のような分りやすい町割にした。
東からニ筋は、大工町、鍛冶屋町、畳屋町、鉄砲町などの職人の居住区にして、
三筋目から西へ十筋を仲屋町筋、為心町筋、魚屋町筋、新町筋、小幡町などの商人町にした。
それと同時に、十三条からなる八幡楽市楽座令を発して、
安土城下同様、楽市楽座として、商人が自由に商売できるようにした。
後年、この地及び周囲より近江商人が出て、全国に発展することになったのは、
楽市楽座の誕生に負うことが大きい。 」
八幡堀は、琶湖の水を引いて作られた堀である。
八幡町の外側に巡らし、
八幡山の麓を八幡堀と土塁で囲み、その中に羽柴秀次居館や武家屋敷を配し、
戦闘の用だけでなく、運河の役割も果たしていた。
「 琵琶湖から直接舟が入れるようにし、
羽柴秀次時代には、往来する舟は八幡に立ち寄らなければならない決まりを出した。
堀の幅は十一メートル〜十八メートル、深さは一メートル四十センチである。
長さは六キロに及ぶ八幡掘の八幡浦は、琵琶湖で回船業を営むことができる親浦三つの内の一つである。
廃城後も明治時代、大正時代まで商工業の動脈として役割を果たしていたという。
しかし、北前船の開設により急速に減退していき、
鉄道や車の登場で終止符を打たれた。
現在は観光用に、舟が運行し、風物詩になっている。 」
城下町の一部は、日牟禮八幡宮境内地・八幡堀と共に、 「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」 の名称で、 国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
八幡山城へはJR琵琶湖線近江八幡駅からバスで7分、大杉町下車、徒歩約5分、
近江鉄道八幡山ロープウエイで5分で八幡山山頂へ着く
八幡山城のスタンプはロープウエイ山頂駅の窓口前にある
訪問日 平成二十年(2008)九月十三日