朝鮮人街道は、中山道の野洲宿と鳥居本宿の間に、 琵琶湖に沿って開設された脇街道である。
徳川家康が、関ヶ原合戦後の上洛の際、利用した下街道であるが、
朝鮮通信使が使用した道なので、この名が付けられた。
朝鮮通信使は京都を出発すると、最初の宿泊地は守山だった。
そして、翌日の昼食を近江八幡で取った。
近江八幡では、本願寺八幡別院や正栄寺などの寺院がその接待場所に選ばれた。
今回、朝鮮人街道の足跡辿りながら、近江八幡を歩いてみたい。
日野川に架かる仁保橋が、近江八幡市と野洲市の境である。
橋には歩行者専用の端があり、てすりに朝鮮通信使行列絵図の模写画と、琵琶湖図という山水画もある、
説明板 「仁保橋と朝鮮人街道」
「 仁保橋は一級河川日野川に架かる県道大津能登川長浜線の橋です。
昔の橋は今より下流にあり、朝鮮通信使も通行した橋でした。
朝鮮通信使は慶長12年(西暦1607年)から両国の親善のため明和元年(西暦1764年)までの間、10回にわたり江戸城まで往還しました。
その途中、中野洲から中山道と分かれて近江八幡を通り、彦根で再び中山道に合流する区間を朝鮮人街道と呼ばれるようになりました。
当時の仁保橋は板橋の上を渡り、対岸の堤防を登る簡単な橋だったようですが、
朝鮮通信使等が通行する時は、川元町(江頭村、十王村)と仁保川橋掛組合と呼ばれる小南村を始めとする11ヶ村が協力して土橋に架け替わって楽に通行ができるようにしていました。 」
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橋を渡り終えると、県道2号は直進であるが、朝鮮人街道は堤防を左に下りて行く。
堤防の下に、正林寺が見えた。
「 正林寺は、 守川山 と号し、 宝暦十三年(1763)の朝鮮通信使来朝の際に、 仁保川(日野川)の仮土橋設置に携わった、とされる寺院である。 」
川の下に降りると、右側に、地蔵尊を祀っていると思える祠と石仏群があった.
そのまま進むと、右側に正林寺があり、左側には正覚寺がある。
白漆喰の家もあり、ここはなんとなく宿場町の雰囲気がする通りである。
十王町西交叉点には 「 朝鮮通信使の通った仁保の町 」 と書かれた石碑がある。
朝鮮通信使を迎えて四百年を記念して最近建てられたもののようだった。
その先には石仏が祀られたり、 むべ地蔵 を祀った祠もあった。
中川百貨店の反対側には、平成十八年に建立された
「朝鮮人街道」 の道標があった。
愛宕大神碑には、御札を治める箱が付けられていた。
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江頭町に入ると、近江八幡江頭郵便局前には、 御菓子司まんすて という、
珍しい名の店があった。
十王町から江頭町の両脇には、昔ながらの商店が残っているし、
土壁の建物が残る街道らしい風情が残っていたので、のんびりと歩けた。
右に少しカーブすると、左側に、志賀盛の今宿酒造店があった。
ここからは田中江町である。
田中江のバス停の先に大橋があり、といっても名前のような大きな橋でなく、
小さな橋である。
それを渡ると道は狭くなり、左側に愛宕山常夜燈が建っていた。
その先の川村酒店あたりは道が広くなったが、それもつかの間、
道は極端に狭くなる。
車はその手前で右折して、県道2号方面に出ていった。
加茂西バスがある交叉点では、右から県道から分かれた道が横断する。
少し行くと 、
「 いにしえの競馬神事 足伏走馬 5月1日午後3時〜 賀茂神社馬場 」 の立て看板がある。
ここを北西に行くと、加茂神社がある。
「 この地は平安時代、 山城国の加茂別雷社の賀茂祭の競馬料領だったことから、 足駄の走馬儀式が始められたといわれ、今も行われている。 」
三叉路には 「加茂町西出」 の標柱と、左側に、愛宕大神の碑、
右側には、正面に「 牧村妙見宮コレヨリ八町 」 、
側面に 「 永楽講中 」 の指差し道標が建っている。
この奥には、国の重要文化財に指定されている阿弥陀如来を祀る生蓮寺がある。
近江路では、火除けのお守りとして愛宕さん信仰は強く、 この先でも愛宕碑は多く見られた。
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蔵と屋敷門のある家を見ながら進むと、右側に西光寺がある。
左前方に見える八幡山がだんだん大きくなってきた。
その先で再び県道2号線に合流した。
合流した地点には 「 緑とぬくもりのかおる 加茂町 」
の大きな看板が建っていた。
ここは近江八幡市と合併しなかった町かと思ったが、調べるとやはり近江八幡市である。
なぜ馬鹿でかい町名表示を集落の入口に掲げたのだろうか?
県道の歩道は左側のみしかないので、左側を歩いていく。
左側に石碑がひっそり祀られていた。
JA岡山カントリーエレベーターの先は、ローソンのコンビニのある小船木町交叉点である。
県道326号と交叉していて、左折すると長命寺に行ける。
交叉点を越えて五百メートル歩くと、小船木橋がある。
左側に、「小船木橋側橋」 という。歩行者用の橋がある。
橋の手前の橋名表示の上に、白鳥川に人を運ぶ小舟が浮かんでいる写真がはめ込まれていた。
もう一枚の写真には白い蔵が川辺にある様子が撮影されていた。
「 昔は琵琶湖に通じる白鳥川に船木湊があり、
船着場から米や用材を積み出し、船運が繁栄していたようである。
しかし、現在の白鳥川は川幅の三分の一しか水がない上、
岸辺の様子も変わってしまい、当時の面影を想像することは難しかった。 」
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橋を渡ると、小船木橋交叉点がある。
朝鮮人街道は、ここで県道2号と別れて、左に下り、その先で右に入る細い道を行く。
朝鮮人街道は、今も道幅五メートルと狭いが、約五百メートル続く道である。
近江八幡の西の入口に位置したため、かっての商店街は、
かなりの賑わいだったようであるが、県道が近江八幡市街を避けて東に抜けた結果、今や寂しい町並みになっていた。
そのまま街道を進めばよかったが、
左に入ると西運寺があり、その西南には諏訪神社があった。
西運寺の脇を北東に向かうと、木立が茂った小山がある。
それを廻るように進むと、鍵解地蔵尊が祀られているお堂がある。
傍らの説明板
「 この地蔵は、かぎときじぞう と呼ばれ、
ご本体は高さ三尺五寸の石造りです。
鍵解地蔵は鍵を解くことからいろいろな問題の解決の糸口をあたえてくれると云いつたえられています。
問屋浦といわれたこの地の柴問屋の小屋に祀られていたのを明治十四年に此の地に遷座されました。 」
道なりに進むと、朝鮮街道に出た。
左折していくと 「 ようこそ京街道門前通りへ 願成就寺へ徒歩1分 」 の大きな看板と
電柱の下に 「 左長命寺一り 」 「 右京みち 」 と書かれた道標がある、
三叉路に出た。
京みち(京街道)とは、朝鮮人街道のことだが、
近江八幡の人達は京に向かう街道なので、 京みち とか、 京街道 と呼んだようである。
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願成就寺に寄るため参道を歩くと、説明板がある。
説明板
「 願成就寺(がんじょうじゅうじ) 号 日杉山普門院願成就寺 」<br>
「 推古天皇二十七年正月に聖徳太子が勅を賜り、近江国内四十八ヶ寺を建立、
終りに至り、当寺が開基された。
故に願いが成就されたとして、願成就寺と号された。
当初は日牟礼山(八幡山)西南に設けられたが、
天正年間秀次の築城により鷹飼に移され、その後、
日牟礼山(八幡山)=通称観音山に移され、現在に至る。」
正面には急な石段と境内の地図などの看板がある。
右側のゆるやかな石段を上って行った。
坂を上り切ると右手に大師堂があり、その奥に本堂があった。
「
本堂の御本尊は、十一面観音立像(重文)で、聖徳太子の作と伝えられ、
かやの一木造である。
地蔵堂に祀られている本尊の木の中地蔵尊は、国の重要文化財である。 」
境内には芭蕉句碑が三基ある。
これらは芭蕉の没後百年ごとに建てられたものである。
「
百年忌句碑は 明王像と椿稲荷の間にあり、 「 一声の 江に横たふや ほととぎす 」 とある。
二百年忌句碑は 急な石段を上ったところにあり、 「 比良三上 雪さしわたせ 鷺の橋 」 という句である。
三百年忌は 「 五月雨に 鳰の浮巣を 見にゆかん 」 という句で、句碑は祇園神社の小さな祠と地蔵堂との間にあった。 」
この後、「京みち」 の道標のところに戻ったが、ここまでが船木町で、 この先は昔の近江八幡町の領域になる。
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願成就寺から朝鮮人街道に戻ると、
電柱に 「 京街道筋 → 」 の表示があるので、
その方向に向かうと商店街のポールには 「 西京街道商店街 西元町 」
とあった。
交叉点の右手に白漆喰の築地塀で囲まれた本願寺八幡別院がある。
なお、裏門は天明二年(1782)の建立である。
「 この寺には、家康が上洛して際に、宿泊したと伝えられている。
守山宿を出た朝鮮通信使の一行は、近江八幡で昼食をとる際、
正使・副使・従事官らの上級官がこの寺で、
残りの随行者は近くの正栄寺や商家で食事をとったとされる。
」
交叉点を越えると北元町だが、江戸時代には寺内町と云われた。
池田町四丁目の交叉点を右折すると、「池田町」 の由来を示す説明板が建っている。
説明板「池田町の由来」、
「 安土町の池田町を移したもの。
元々安土でのその名前は、織田信長の家臣の名前によるものといわれています。
一筋西の寺内町と合せて、遊女茶屋が八軒が建て並んでいた。 」
北の八幡山から南北に通りがあり、池田町の説明板があるこの通りは、
池田町通りで、北から一丁目、二丁目というようになっている。
池田町通りを南に少し行くと、右側にコロニアル調のウォーターハウス記念館がある。
「 この建物は、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが、
元早稲田大学の教師ウォーターハウス氏のため、大正二年(1913)に建てた住宅で、
隣にはヴォーリズの自宅があった。
その後、近江兄弟社の所有になり、近江勤労女学校、
近江兄弟社女学校などの施設やゲストハウスとして活用された。
なお、ヴォーリズ邸は解体されて残っていない。 」
その先に行くと目地の太いレンガ塀で囲っている洋風の家があったが、中を覗くことはできない。
この家も、メレル・ヴォーリズの建築である。
塀の説明板 「吉田悦蔵宅 」
「
この建物は明治40年(1907年)メレル・ヴォーリズと近江ミッション(キリスト教伝道団)を創め、伝道しつつ、ヴォーリズ建築事務所、サナトリウム、メンソレータム、学校、社会事業等、近江兄弟社を興した吉田悦蔵が大正二年年(1913)に建てた家です。 」
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池田町四丁目の交叉点に戻り、その先を行くと左側に正栄寺がある。
「 朝鮮通信使の一行は、多い時には五百人を越えたといわれ、 守山宿から出た一行の昼食を供する場所としては本願寺八幡別院の他、 当寺など、街道の沿線の施設が使用されたのである。 」
次の交叉点を越えた角に 「 京街道 本町 」 の標柱があり、 板塀には中村四郎兵衛邸の説明板がある。
説明板「中村四郎兵衛邸」
「 中村四郎兵衛は、享保5年に扇四呉服店として開店し、
三代目は京都・大阪に出店、五代目は初代八幡町の収入役に就任、
現在は9代目 」
その先の信号交叉点の左右は小幡町通りで、通りの先には滋賀銀行がある。
道の反対側の建物の塀には、小幡町を紹介する
説明板と、その前には 「朝鮮人街道」 の道標が建っている。
道の反対には、「正神町「」 の町名の由来を記した説明板があった。
説明板
「 八幡城下町形成時に、神崎郡小幡村の商人がこの地に移り住んで成立した町と伝えられます。
この地の有力者であった西谷家も小幡出身です。
この通りは五個荘の小幡商人が移り住んで、商売をしたところである。 」
次の交叉点の左右の通りは、新町通りである。
右折したところにある建物は、旧伴庄右衛門家本家の建物で、
市立資料館になっている。
「 伴庄右衛門は、江戸初期に活躍した八幡商人で、屋号を扇屋といい、
江戸日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商った。
この建物は、七代目の伴庄右衛門能尹が文政十年(1827)から天保十一年(1840)の十数年をかけて建築したもので、
明治に入り、八幡町に譲渡されて、小学校・役場・女学校・近江兄弟社図書館
・近江八幡市立図書館を経て、
平成十六年より市立資料館の一部として公開されている。 」
ここから八幡山の日牟礼神社までの新町通りは、八幡観光の中心地である。
今日はゴールデンウイークの最中なので、混雑するのは当然。
入場はあきらめた。
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交叉点の左側の角には、「 左京街道 右町なみ 新町通り 」 と、
彫られた道標がある。
その奥に見える建物は市立郷土資料館である。
「 郷土資料館は、西村太郎右衛門の宅地跡で、
この建物はかって近江八幡警察署だった。
西村家は屋号を綿屋と称し、蚊帳や木綿を取り扱っていた。
太郎右衛門は二代目嘉右衛門の次男として、慶長八年(1603)にこの地で生まれ、
二十歳の時に角倉了以の御朱印船で長崎から安南(ベトナム)へ渡り、
二十五年後帰国のため長崎まで帰ってくるが、
鎖国により上陸が許されず、やむを得ず引返し、
安南の地で没したという人である。
彼が故郷への思いを託し、絵師 (菱川孫兵衛) に描かせた絵馬
「 安南渡海船額 」 は日牟礼八幡宮に奉納されている。 」
また、 「近江商人のふるさと」 と題した説明板がある。
説明板「近江商人のふるさと」
「 遠隔地の独占的通商権を得て活躍してきた近江商人は、
信長の楽市楽座設創設以降、 交易拠点を基礎にして、活動するようになった。
天正十三年(1583)、豊臣秀次が八幡城を築き、信長の安土に倣って、
城下に楽市楽座を設けてから、多くの商人が八幡へ移ってきた。
新町通りは、八幡商人の拠点だったところで、
江戸時代、この新町通りには、八幡商人の本宅が並んでいた。
近江商人は、主人が江戸や大坂などの大店に滞在する一方で、
その妻は本宅で留守を預かり、地元で採用した丁稚の教育も本宅で行ったといわれる。 」
朝鮮人街道と別れ、八幡堀の方へ向かう道は、新町通りである。
板塀に見越しの松を配し、端正な出格子の商家が建ち並んでいる。
新町通りは、国の町並み保存地区に指定されている。
新町の中ほどに質素な木戸を構えているのは西川利右衛門家旧宅である。
築後約三百年経っている建物で、国の重要文化財に指定されている。
「 西川家は、屋号を大文字屋と称して、蚊帳や畳表を商い、
江戸、大坂、京都に店を構えた。
この家は、三代目により、宝永三年(1706)に建築されたものだが、
西川家は昭和五年に途絶え、建物は市立郷土資料館として公開されている。 」
その対面にある家は、森五郎兵衛邸である。
「 森家は伴傳兵衛家に勤め、別家を許され、
煙草や麻布を商ったが、江戸日本橋や大阪本町に進出し、店を構えて呉服、
太物などを扱った。
昭和六年(1931)森五商店の東京支店として、
昭和を代表する建築家、村瀬藤吾に依頼して、
日本橋室町に七階建てのビルを建てた。
その後、森五商店は倒産したが、ビルは近三ビルと名を変えて現在も残っている。
なお、歴史民俗資料館は森家の控宅だったところである。 」
新町通りの先には八幡堀があった。
八幡城を守るために造られた掘割だが、
琵琶湖水運に活用されて近江八幡町の発展を支えてきた。
土蔵の白壁が深緑の水面に映り、両側の石垣から柳が垂れ、
屋形船がのんびりと通り過ぎる。
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白雲橋を渡ると日牟礼八幡宮の神門がある。
「 日牟礼神社は、131年に、第十三代・成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、この地に大嶋大神を祀ったのが創祀とされる、
古い歴史を持つ神社である。
正暦二年(991)、第六十六代一條天皇の勅願により、
八幡山に宇佐八幡宮を勧請して八幡宮となった。
現在の社殿は寛弘二年(1005)に遥拝の社として八幡山の麓に造営されたもので、
下の社といわれた。
八幡山には上の社が祀られていたが、豊臣秀次が八幡城を築いた時、
上の社は現在の社に合祀された。 」
本殿には、譽田別尊・息長足姫尊と比賣神の三神が祀られている。
朝鮮人街道に戻り、旅を再開すると、魚屋町(うわいちょう)通り ・
為心町(いしんちょう)通りがある。
為心町には 「 恵美須屋松前屋 岡田弥三右衛門宅址 」 の石柱と、説明板が民家の前に建っていた。
説明板
「 岡田家は北海道で事業を行い、成功を収めた家で、
初代は慶長十九年(1614)に二十四才で北海道松前に渡り、
呉服太物などを商い、後に漁業にも手を出し、
五代目の頃には最大二十三の漁場を請け負った。
その他、炭坑の発掘など多方面に活躍した。 (以下省略)」
その先は旧八幡町の中心である仲屋町(すわいちょう)通りである。
街道はこの交差点を右折する。
その角に、近江肉西川 という店があり、
最低一人五千円はするという肉を提供するのだが、
あふれるばかりの客がいた。
その前の喫茶店風の店も肉を提供するが、そちらも一杯であった。
とりあえずと小さないなり寿司を食べた腹は食べたいといっているが、いたしかたはない。
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仲屋町通りを南下すると、左側に旧八幡郵便局の建物がある。
そこを過ぎると、仲屋町の由来を記した説明板があった。
説明板
「 八幡城下形成時に仲買商人の町として成立した町で、
町名は商売の仲買を意味するすあいに因みますが、
後には他の商人町と変わるところはありませんでした。
また、市助(いちすけ)町 とも呼ばれましたが、
これは豊臣秀吉奉行衆の一人だった、一柳一助直末が、
居住していたことに由来するといわれています。
近江八幡観光物産協会 」
その先左側の駐車場の前には 「 住吉屋中一家 西川伝右衛門邸址 」 の石碑と説明板がある。
説明板
「 初代が、寛文年間(1661〜1673)に松前城下に店を出し、
松前藩の御用商人になり、全財産を北海道の事業に投入したこと。
その遺言通り三百年近い間北海道の開発に情熱を傾けた。
(以下略) 」
この後、朝鮮人街道は仲屋町上にある山岸鶏肉店の交叉点で左折して、
上筋通りに入る。
次の通りは、永原町通りで、交叉点の左側に 「 旧朝鮮人街道 左 永原町通り 」 の道標が建っていた。
その先左側の家は、昭和五年に建築された京風数寄屋造りの町屋で、
ボーダレス・アートギャラリーNO-MA である。
「 ボーダレス・アートギャラリーNO-MAは、
滋賀県社会福祉事業団が運営するミュージアムで、
伝統的建造物群保存地区にある昭和初期の町屋を、
和室や蔵などを活かして改築し、公開している。
この建物は 「 角大 」 近江屋久右衛門と称して、
茨城県結城で醸造業を営んで財をなし、 結城御三家といわれた近江商人・野間清六の分家の建物である。
なお、本家の建物は道の反対にあり、
しみんふくし滋賀野間清六邸 とある建物である。 」
通りを更に進むと、博労町通り、慈恩寺町通りとなる。
その先が鍵之手町で、「鍵之手町」の説明板がある。
「 朝通信使が通った道・朝鮮人街道が、
ここで鍵のように曲がっていることによったと考えられます。
八幡城下の東の入口あたりになり、
高札場があった関係で、旅籠屋が設けられていました。
慶安年間(1648〜1652)には幕府代官により旅籠屋仲間を作ることを許されました。 近江八幡観光物産協会 」
その先のやや広い交差点を右折して、縄手町通りを南下する。
縄手町中交叉点の右側には、日限地蔵尊の祠がある。
音羽町を左斜めに抜けると、県道2号線の音羽町南交叉点に出た。
その先には、 万治元年(1864)に万人講により建てられた大きな常夜燈と、
途中で折れた 「 くやんおんみ→ち (観音道) 」 「 長命寺みち 」 と書かれた道標がある 。
このあたりが八幡城下の東口で、木戸が設けられていたところではないだろうか?
朝鮮人街道を辿って、近江八幡を歩く旅はここで終了である。
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訪問日 平成二十三年(2011)五月四日